どもることばは、素敵だ


 宮本亜門演出の「金閣寺」の森田剛さんの身体表現のすばらしさについて、以前書きました。
 今回の岡田将生さんも素晴らしい演技でした。吃音の悩みの深さを、他人との断絶としてとらえたのが、「金閣寺」でした。今回は親友の自殺との関わりに深く悩む高校生が、たまたま吃音だという設定で、吃音の悩みがクローズアップされているわけではありません。
 それなのに、見事に二人とも身体で表現しています。吃音やからだにしみる深い悩みは、「からだ」と深く結びついていると、表現者は感じ取るのでしょうか。岡田さんも、森田さんと同じように肘をかためています。さらに歩き方、走り方からも不安、緊張が伝わってきます。
 モノローグは「金閣寺」の場合も今回も、どもりません。どもる人が独り言や、こころの中で語ることばではどもらないのだから当然のことですが、大切な心の叫びのときも、どもりません。これは岡田さんの表現者としての考えがあったようです。

 親友が目の前で死んで、それに関わったもうひとりの親友も殺そうとした自分が「生きていてもいいのか」。深く悩む青年に、どもることばこそがふさわしい。どもることばが、とても自然に感じられます。ことさらに、どもるまねをして演じているのではない。繊細なこころの動き、人への優しさ。事柄はちがっても、同じように死ぬほどに深く傷つき、遺品整理の仕事の中で自分をとりもどそうとして「生きる」女性、栄倉奈々を気遣い、理解したいと関わる姿に、どもることばが、しっくりとくるのです。

 どもるか、どもらないか、他人の目ばかりを気にして生きてきた私は、結局は目の前の相手への関心よりも、自分のどもりへの関心が中心でした。目の前の相手だけを見て、相手に関わろうとするとき、どもる、どもらないは全く関係がなくなります。どもりたくないと思い、どもらないようにして「どもることば」と、相手のことに関心をもって、話すことばがただどもっている「どもることば」は、全然違います。相手を思い、話しかける「どもることば」は、とても素敵なのです。
 こんなに素敵な「どもることば」を、吃音に深く悩んでいた高校生の時代の私は、みにくいものとしか見ることができなかったのです。高校生時代の伊藤伸二が、うらやましそうに、岡田将生さんのどもりかたをみつめていることを感じました。
 
 吃音をテーマにした映画ではなく、ひとりの悩む青年がたまたま吃音だった。映画や、舞台や小説に、吃音がどんどんと出てきて欲しいと思います。大上段に吃音を扱うのではなく、たとえば主人公の友だちがどもっている。コンビニに買い物に行ったときの店員さんが、「あああり・・がとうございました」と自然に言う。
 日常の生活の中に、どもる人がいて、自然に受け入れられている。そんなシーンをもっと見たいと思いました。

 日本吃音臨床研究会・会長 伊藤伸二 2012年3月24日