感動は自分の中にある

 先日、散歩をしていてある会館の前で、この映画のポスターを見つけました。
 主人公が吃音の青年だということは、何かで知っていて、見に行こうと思っていたのに、見そびれていました。めったに通らない道でみつけただけに、運命を感じました。その会館で会場を聞いたら、招待券を下さいました。

 いい映画でした。何度も涙が流れました。
 映画をみてから、それが、さだまさしの原作であること、若手の人気のある俳優だと知りました。
 帰ってからネットで検索すると、感想など、たくさんの記事が出てきました。
 そして、驚きました。評判があまりよくないのです。
 「感動できると思ったのに、だめだった」。
 「泣きたいと思って見たのに、全然感情移入ができず、泣けなかった」など、監督への批判も多くありました。
 
 私は、「感動」ということばが嫌いです。
 スポーツマン、特にオリンピックの選手が「感動を与えるようなプレーをしたい」と発言するのには、寒気がしてすぐテレビを消してしまいます。感動の押し売りはごめんです。
 「感動を与える」、なんと傲慢なことでしょう。「感動させてもらった」、なんと情けないことでしょう。
 感動は、与えたり、もらったりできると考えていることが不思議です。映画を、「感動したくて見る」人がいるのが、とても不思議な感じがしました。
 私にとって感動とは、他人と一緒に何かに一所懸命取り組んで、自分にも周りにも貢献できたと感じて、じわっと喜びがわいてくる、そういうものです。自分が関わるものであって、他人がすることを見て感動する、とは考えたこともありません。

 監督も制作者も映画が好きで、自分がつくりたいからつくっているのであって、それに感動するかしないか、知ったことではないと思うのです。もし、感動を与えたいと制作者が強く思うような映画は、私は見たいとは思いません。もし、感動ということがあったとしても、それはあくまで結果であって、求めるものではありません。

 私は、たくさんの映画をみてきました。だけど、「感動しました」と表現するような感想をもったことが一度もありません。「感動」とは何か。不思議な思いで、ネット上の感想を見ました。

 わたしにとってはいい、映画でした。「感動」とは表現しませんが。
 「生きている意味」を持てずにいる若い二人。「ちゃんと生きたい」と願う二人。
 過去に、ある意味での「死」を経験し、深く傷ついた二人が、「遺品整理」の仕事を通して出会います。
 内容は違っても深く傷ついた二人が近づいていく。かけがえのない人になっていく。そのプロセスが私の胸を打ちます。こんなに深くわかり合えるようになるなら、深く傷つく体験は、なんと意味あることだろう。深く傷ついた経験のない人には、絶対に味わえない世界がそこにはあります。

 「英国王のスピーチ」がアカデミー賞・作品賞をとった時、中継をしていた二人のコメンテイターの映画評論家が、「ソーシャルネットワーク」が作品賞になるべきだ。あの映画は見終わってからたくさん話し合うことがあったが、「英国王のスピーチ」の時は、それがまったくなかった。あれは「大衆賞」だとぼろくそでした。

 吃音に深く悩んできたから、吃音をしっかりと見つめてきたから、私にとっては、「英国王のスピーチ」は胸を打つ素晴らしい映画でした。
 深く傷ついた経験があるから、死と直面した経験があるから、無縁社会に対する強い思いがあるから、「アントキノイノチ」は私にとって心を打つ映画になりました。

 「映画を見て感動しなかった」は作り手の責任ではありません。また、「感動した」は、作り手の功績でもありません。見るほうの側のセンサーがいいか悪いかです。その人の経験、想像力、感受性の問題なのです。
 長くなってしまいました。吃音との関係は次回。

日本吃音臨床研究会。会長 伊藤伸二 2012年3月22日