昨日のつづきです。改めて読み返してみて、堤野さんの真摯な姿勢に敬意を表します。自分自身のことを、自分の吃音のことを、本当に真剣に考えつくした姿がそこにありました。このような人と対話することができること、僕にとって大きな喜びです。
 軽薄なことばが飛び交うことの多い現在、ことばのもつ重みを感じました。吃音には、それだけの力があるのだと思います。

【当事者研究】
  どもりを豊かさの糧にして 2

     〜堤野瑛一さんの場合〜

日時:2010/9/3
会場:應典院
担当:堤野瑛一・伊藤伸二

伊藤 僕の吃音の悩みの原点には、親との葛藤もありましたが、女性が大きく関わっていました。苦しみの出発点は、高校1年のときの「彼女の前でどもりたくない」というとらわれでした。21歳のときに、とらわれから抜け出せたのは、女性から愛されたという経験でした。
 吃音と女性との関係は、僕にとって切り離せないものです。堤野さんはこれまで、女性との関係はどうですか? 女性とはどんなものでしたか?

堤野 20代に入ってからは、ずいぶん変わってしまったのですが、10代のころの僕にとっては、女性は生きていく上で必要なものでした。それで、強く求めては振られ、苦しみ、また求めては振られ、の繰り返しでした。

伊藤 繰り返しということは、振られてもすぐに別の相手が現れるということですか?

堤野 僕はどちらかというと自分からアプローチする方だったので。
 吃音との関係で言えば、高校2年生のとき、辛い体験をしました。好きだった下級生の女の子がいたのですが、僕の友人が気をきかせて、放課後、僕とその彼女を、教室に二人きりにしました。僕は当時、女性に対してものすごい人見知りだったのですが、彼女も、決して自分から積極的に話すタイプではなく、無口でした。僕は、何か話をしなくてはと必死だったのですが、何か言い出そうとしても、どもって、何も話せませんでした。それから二人とも一言もことばを発しないまま一時間近く経ったところで、ようやく彼女が口を開いたのですが、それが、「もう帰ってもいい?」だったのです。そして彼女は教室を出て行きました。初めてどもりを心底憎んだ経験でした。
 20歳を過ぎてからは、自分のつき合う女性には吃音のことを打ち明けていました。でも、僕がどもることを否定的にとらえる人は、誰もいませんでした。恋愛において吃音は問題にならないと、今は思います。

伊藤 苦い経験がたくさんありながら、女性にアプローチし続けた原動力はなんだったのですか?

堤野 僕は母親との関係がずっと悪く、自覚的には、愛情飢餓でした。結局、愛情がほしかったのだと思います。自分の愛する人が自分を愛してくれることを、強く求めていました。

伊藤 たくさん失恋を経験したということは、結局もてたとことだと思うのですが、堤野さんはどうしてそんなに女性と縁があると思いますか?

堤野 よく分かりませんが、少なくとも昔と今とでは違うと思います。たとえば高校生のときは、芸大受験のために音楽室でよくピアノを練習していると、廊下に下級生の女生徒が群がっていたこともありました。受験に真剣だった僕はそういうことを迷惑に思ったのですが、そのころは、表面的なこと、見栄えとか、ただピアノが弾けるとかで興味を示してくれていたのだと思います。
 大人になれば、そんなことだけで異性に興味を示すことは少ないと思いますし、現在のことは、よく分かりません。

伊藤 自分の魅力がどこにあるか分からない?

堤野 はい。女性からアプローチされると、僕のことをよく知らないからではないのか、何かいいふうに誤解しているのではないかと思ってしまいます。今は昔のように、特別大きな劣等感があるわけではないですが、かといって、自分が特別魅力的だとも思わない。むしろ決してつきあいやすいタイプではないと思うし、趣味趣向にも偏りがあり、面白味に欠けるのではと思います。

伊藤 大きな劣等感が和らぎ、自己肯定感をもてるようになったのは、どうしてですか?

堤野 これまでのいろいろな経験から、自分は大抵のことは一定のレベルでそれなりにこなせる、という自信を得たからです。それはもともと器用であるとか、能力があるということではなく、きちんとそれに向かって適切な努力をして、向上していけるという自信です。何々がしたいと言いながら、大した努力もせずに「できない」という人をたびたび見聞きする中で、僕はちゃんと努力ができるという自信はあります。

伊藤 堤野さんはピアノで大変努力をしたことは知っていますが、それ以外では、たとえばどんなことを努力してきましたか?

堤野 どもりを治そうと努力したことも一つです。この努力は直接的な形では実りませんでしたが、僕にとっては決して無駄な経験ではありません。僕はその努力体験があったから、今、どもる自分を認めることができています。
 あと、「あのころ勉強しておけばよかった」というような後悔はしません。知りたいと思ったら、何でも今から勉強します。恥ずかしながら、学生時代ろくに勉強しなかった僕は、大人になってから中学や高校の英語や数学を勉強し始めました。それに、凡庸ながら少しでも知的に高まりたいと思うので、時間の許す限り本もたくさん読みます。学習会や読書会にも出向きます。
 あとは、漠然としたことですが、なんでも決して鵜呑みにはせず、自分の目で確かめ、自分の頭で考えます。それに、ことばをとても大切にしています。ことばによる精緻な表現を怠らない、対話を怠らない姿勢です。これはどもりで苦しんできたことも影響していると思います。ことばに苦しんできたのだから、僕は決してことばをないがしろにしたくありません。これらは、ある意味強い意志を必要とする努力です。

伊藤 世間の価値観に決して左右されない。その結果、自分はたとえ少数派であってもOKということですね。僕の提起する吃音観も少数派で、共通ですね。
 中島義道さんという哲学者がいます。僕は1999年に『うるさい日本の私』(新潮社)を読んで、常に少数派の僕と、一緒の感性の人がいると、とてもうれしかったことを鮮明に覚えています。その後は熱心な読者ですが、堤野さんも彼の熱心な読者で、彼に手紙も書き、彼の主催する哲学塾にも出向いたと聞いています。堤野さんは中島さんのどんなところに共感したのですか?

堤野 なかなか簡潔には言えず、あまり具体的なことに踏み込むと長くなるので全部は言えませんが、大きくいえば、感受性に自分と重なるところがたくさんあり、しかもそういった感受性が少数派で、生きにくい思いをしてきたということです。物事の好悪や趣味趣向、道徳観が世間一般とずれていて、子どものころから「みんな」に馴染めず、たくさんの惨めな思いをした経験が似ています。
 中島さんは執拗に善人批判をしていますが、大変共感します。たとえば僕も両親には長い間苦しめられましたが、僕の両親は決していわゆる悪人ではなく、いたって常識的な「いい人」です。むしろその善良さゆえに僕は苦しんできたのです。

伊藤 中島さんは最近『善人ほど悪い奴はいない』(角川書店)という本も出しましたね。僕はさっそく読みました。

堤野 世の中で善いとされていることがいかに悪いかと思う感覚に多く共感していて、僕も、人の何気ない会話や行為を見聞きして、誰も腹が立たないところで腹が立つこともたびたびあります。そして人間嫌いになっていく。
 中島さんもどこかに「人間嫌いは人間好き」というようなことを書いていたと思うのですが、「人間嫌い」とは、本来人間が好きすぎる、関心がありすぎる人だと思います。人間に対する期待や理想が高いから、自分も含め、誰もその水準に達することができない現実を前にして、人間嫌いになっていく。それでもなお期待をやめられない、という具合です。しかも、自分はそのことでこんなにも悩むのに、多くの人は平気でいることを疎ましく思う…と。「人間嫌い」とは、決して人間に関心の低い人や、期待をあきらめた人のことではないと思います。

伊藤 ずいぶんとしんどい生き方だと思うのですが、堤野さんは、生きづらい生き方が嫌いではないのでしょうね。

堤野 嫌いではないというか、難なく楽々と生きていけてはならない、という思いがあります。いつも心が軽やかで生きやすいということは、感受性が鈍ってしまっているということで、何かをごまかしている気がします。僕はいつでも自分の感受性を研ぎすましておきたいと思っています。

伊藤 どもりで苦しかったことや嫌な思いをしてきたことは、たくさんあると思いますが、吃音でよかったこと、吃音によって成長できたことはありますか?

堤野 少数派体験、一般に言えることだと思うのですが、自分の傷つき体験を通じて、人は思わぬところで他人を傷つけてしまうものだ、ということに敏感になりました。だからといってことばを控えたり過度に慎重になることは決してないですが、それと無神経であることとは違います。自分がよかれと思ってやったことが相手を傷つけたり不快にさせているようなことは、往々にしてありえますが、そういった可能性に対して敏感になり、視野も広くなりました。

伊藤 堤野さんは、人を傷つけることにそれほど抵抗がないのでは? こんなことを言ったら相手は傷つくだろうと思っても、それを承知の上で発言をすることが、しばしばあるように思いますが。

堤野 たとえ相手が嫌な思いをすることが分かっていても、言わずにはおれないこともあります。でもそれは、決して相手を傷つけることが目的ではありませんし、ある意味相手を尊重し信頼しているからこそ言う、という面があります。

伊藤 「人を傷つけるべきではない」と思いすぎると、何も言えなくなりますね。堤野さんは、比較的そういうことができる人だと思います。

堤野 「誠実」ということをいつも考えます。相手を傷つけないことを最優先するのは、結局は相手に恨まれ自分が傷つくのが怖いという面が大きく、信念を曲げ嘘をつくことにもなります。現実の生活の中では、人は誠実を完徹することなんて出来ないとは思いますが、かといって誠実を放棄していいわけではないと思います。

伊藤 2009年、私たちの吃音ショートコースでアドラー心理学を学びました。その後、堤野さんは、アドラー心理学にも深い関心を示し、今年度、大阪吃音教室でアドラー心理学を担当しますが、どういうところに興味をもちましたか? 吃音で悩んできたこととのつながりは?

堤野 一つは「目的論」。原因ではなく目的に目を向けることですが、「吃音が原因で○○ができない」というのは嘘で、「○○をしないために吃音を理由にもちだす」というほうが真実であることは、往々にしてあります。人の反応が怖いから外に出られないのではなく、外に出ないために人を怖いものと見なすという方が本当であることは、自分がそうでしたから、体験からよく分かります。
 また、人と人はまったく対等であるべき、という根本原理に強く共感します。相手を対等だと見なせない、正確に言えば見なしたくない人はたくさんいます。「優しさ」とか「愛情」とかの美名のもとに、簡単に人の権利を踏みにじる人は多々います。多くの親は子を対等と見なさず、子どもの課題に平気で土足で踏み込み、あげくに「あなたのためを思ってやってあげたのに」と言います。僕は自分の親との関係、体験から、こういった暴力性を身にしみて知っています。これらは、さきほどの、世間で善いとされていることがいかに悪いか、という話にも通じています。そういった親は、一部の悪人などではなく、ごく普通に存在する「いい親」なのです。
 それに、「共同体感覚」。これは簡単には理解し尽くせない哲学的な広がりをもつテーマで興味深く、自分はここにいてもいいと思える自己肯定感や貢献感につながります。

伊藤 吃音のお陰で、さまざまなことに出会え、興味がもてたのだと思います。31歳の現時点でトータル的に見て、どもりでよかったと思いますか?

堤野 「どもりでよかった」とだけ言ってしまうと、何か軽い気がします。どもることには、度合いの差はあれ、今でもしんどさはつきまといますし、昔は、どもりを心底憎み、とことんすさんだ時期もありました。それを思い返すと、たとえば今、どもりの苦悩の真っただ中にいる人に向かって、「どもりはいいものだよ」なんて軽々しくは言えませんが、どもりだからこそ経験できたことが大きいことも確かです。仲間との出会いや、哲学やアドラー心理学などの学び、それらを通じての成長は、かけがえのないものです。吃音体験が、少しでも多くのことを吸収しよう、向上しようとするきっかけになったことは確かです。
 どもりのある人生は豊かな人生になりうると、今は本心から思いますが、放っておいてもそうなるわけではありません。よくあろう、よく生きようとする意志が必要で、そうでなければすさんだ生活にもなりうるし、貧相な人生にもなりえます。
 僕は、どもりを豊かさの糧にできると思っています。少なくとも今、「どもりでさえなければ…」などと考えることはありません。「受け入れる」と言ってしまうと語弊があり、僕は吃音それ自体を手放しに肯定するわけではありませんが、どもることで困り、ときには惨めな思いをすることも含めて、そういう「生」をまるごと受け入れています。困ったって、傷ついたって、どうにか生きていけるし、そういう人生をちゃんと生きようと思っています。ときには辛い問題が起きても、解決不可能な問題は起こりません。それらを糧に成長もしていけます。

伊藤 さて、僕の質問にていねいに、たくさん語っていただきました。ありがとうございました。ほかに言い残したことがあれば話して下さい。

堤野 今日は、ただ聞かれたことに正直に答えようと思って来ました。十分に話せました。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/04/22