昨日のつづきです。第14回ことば文学賞受賞作品を紹介します。
吃音を治したいと思って、やっとの思いで大阪吃音教室に参加したけれど、そこには、どもりながら楽しく生きている人がいた、吃音を治そうとしていない、吃音は治らないとも言っている、そんな所は私の行く場所ではない、そう思って、参加しなくなる人は少なからずいます。 でも、そういう人に限って、何年か先に、やっぱりここだと、大阪吃音教室に戻ってきてくれます。そうして、巡り巡って戻ってきた人は、今度は、その後長く参加を続ける人がほとんどです。人には、出会うタイミングというものがあるということでしょう。だから、僕たちは、同じ場所で、同じ時間に、ミーティングを開き続けるのです。それが、セルフヘルプグループです。(「スタタリング・ナウ」2011.12.20 NO.208)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/06/06
吃音を治したいと思って、やっとの思いで大阪吃音教室に参加したけれど、そこには、どもりながら楽しく生きている人がいた、吃音を治そうとしていない、吃音は治らないとも言っている、そんな所は私の行く場所ではない、そう思って、参加しなくなる人は少なからずいます。 でも、そういう人に限って、何年か先に、やっぱりここだと、大阪吃音教室に戻ってきてくれます。そうして、巡り巡って戻ってきた人は、今度は、その後長く参加を続ける人がほとんどです。人には、出会うタイミングというものがあるということでしょう。だから、僕たちは、同じ場所で、同じ時間に、ミーティングを開き続けるのです。それが、セルフヘルプグループです。(「スタタリング・ナウ」2011.12.20 NO.208)
世界は、変わる
藤岡千恵(兵庫県在住)
「私、吃音のことは、もう誰にも言いたくない。誰にも言わないでお墓まで持っていくつもり。その方がラク。」
これは、2005年11月18日に、私が日記に書いていた言葉である。
日記には、当時の職場で何度かほんのちょっとどもり、内心とても焦っていたことや、当時の恋人にどもりだと気づかれたかどうかハラハラしていたことも綴られていた。その数ヵ月後に、私は大阪吃音教室を訪れることになる。
私と大阪吃音教室の最初の出会いは、1998年だった。
その時の私は保育士をしており、話す事の多い毎日で行き詰まっていた。吃音教室の存在は、かなり前から知っていた。伊藤伸二さんの新聞記事を切り抜いて大切に持っていたからである。最初に吃音教室を訪れた時、これまでの(21年分の)思いがあふれ、自己紹介の時に号泣してしまった。そんな私を、伊藤さんをはじめ、参加していた仲間たちがあたたかく迎えてくれた。しかし、どもりを受け入れたくなかった私は次第に足が遠のき、7年ほどのブランクが空くことになる。
大阪吃音教室に通わなかった7年間、私はどもりをごまかして、なんとか生きてきた。保育士を辞め、デザインの仕事に就き、電話や来客対応、取引先でのお客さんとの会話など、相変わらず話すことからは逃げられなかった。時々、私の不自然な喋り方を指摘されたこともあったが、そのつど必死にごまかしてきた。そして、「私はこの先も、自分の吃音のことを誰にも言わずに死んでいくのだろう」と思っていた。だけど、私はだんだんと苦しくなっていた。どもりと自分は切っても切り離せず、どもりの問題は自分の核心の部分なのだろうと、うすうす感じていた。それでも、心療内科で処方された薬を飲んでいれば気分は楽になるのだと自分に言い聞かせていた。しかし、楽になるどころか、しんどい気持ちは一向に晴れなかった。そして「自分の核心部分に向き合わないままだと、私はこの先もずっとしんどいままで生きていくことになるだろう」と気がついた。その時、7年前に私を迎えてくれた仲間たちを思い出した。
7年のブランクを経て、再び大阪吃音教室を訪れた私は、その時も自己紹介で泣いた。どもりの苦しみを1人で抱えていたことは、やはりとてもつらかったのだと思う。仲間の前で、その思いを吐き出し、「あなたのこと覚えてるよ」「よく来たね」と迎えてもらい、私はどれほど心が救われたかわからない。
そして、本当にゆっくりしたスピードで、行きつ戻りつを繰り返し、私は変わりはじめたのだと思う。
どもる自分を認めたい。だけど人前でどもりたくない。大阪吃音教室にいる人たちのように私も、どもりながら明るく豊かに生きたい。でも、恐くてどもれない。そんなことを繰り返し、私はとても時間がかかった。今のように、日常生活でも仕事の場面でも、当たり前のようにどもり、仲間とともにどもりの話題で涙が出るほど笑えるようになるまでの道のりは決して簡単ではなかった。「自分はどもる人間なんだ」と認めることが必要なのだと、頭ではわかっていても、やはり恐かったのだ。教室を一歩出ると足がすくんでいた。そんな中で行きつ戻りつし、仲間の体験を聞き、吃音教室という温かい空間で、少しずつ私はどもりの症状が表に出るようになった。「どもりでも大丈夫」と頭ではわかっているだけの時は、いざ人前でどもる瞬間の恐さがどうしてもぬぐえなかった。だけど、恐いけれど、自分の世界を変えたくて、ほんの少し勇気を持ち、家族や友人の前、会社などで、どもる。「私のどもりがバレたら、関係が変わってしまうに違いない」と思っていた私は、少しずつ、どもりを小出しにしていく中で、「あれ? 私がどもっても、何にも変わらないんだ」と知り、さらにもう少し、どもる自分を出してみる。私が激しくどもろうが、相手はちゃんと話を聞いてくれる。私を見下すどころか、一生懸命聞いてくれ、むしろこれまで以上に心が通うということを知る。そういう道のりだったと記憶している。
そして今、ふと過去を振り返ると、自分の世界がびっくりするくらい変わっていたことに気がついた。「あなたは、あなたのままでいい」の「あなたのまま」は「どもるあなたのまま」でもあるのだと思う。かっての私がそうであったように、人前でどもること恐さに、どもりを隠して生きている人が、たくさんいると思う。だけど、どもりをコントロールしたり、相手に気づかれたかハラハラし、一分一秒たりとも気が抜けなかった世界から、どもる私のままでのびのびと生きる世界を知った今、私は「どもりを隠して生きていた頃の私には、もう戻れない」と感じている。
どもりを必死にごまかしていた頃の私は、それはそれで精一杯生きていたのだけど、ありのままの自分で生きる喜びを本当のところ知らなかった。ごまかし、取り繕い、そういう姿勢がしみついていたと思う。どもりと関わる姿が、私の生き方そのものだったのではないかと今は思う。
長年かけて体にしみこんだものは、そう簡単に、すぐにはぬぐえない。そのことは、今でも感じている。だけど、私の価値観がゆっくりと大きく変わり始めている。劣等感を強く持ち、社会の中で生きることから逃げ腰だった世界から、困難はいろいろとあるけれど、それでもなんとか生きていけるという世界に変わった。もう、どもる自分をごまかさなくてもいい。自分のことばで、話したいことを話したいように話せることの喜びを、今感じている。
この先も、おそらく平たんではないであろう自分の人生を生き抜いていくのは、正直言って少し恐い。それでも、私はなんとか生きていくのだと思う。どもりとの関わりを通して、私は仲間から"自分の人生を生きる"勇気をもらった。自分自身のどもりが変わるということは、生きる姿勢も少しずつ変わるということなのかもしれない。
私がこうして、どもりのことで仲間と笑ったり熱く語ったりしているなんて、2005年11月18日の私が知ったら驚くに違いない。そんな私はなんて幸せなんだろうと、思う。
【作者受賞の感想】
吃音ショートコースの初日の夜、皆さんとともに「ことば文学賞」のノミネート作品を味わいました。どれもユーモアあふれる作品で、笑いがこみ上げました。
私の作品はユーモアの要素はありませんでしたが、今、自分が感じていることをそのまま書きました。書き始めるとこれまでの思いがこみ上げてきて止まらず、一気に書きました。書きながら、たくさんの人たちの顔が思い浮かびました。
こんなことを書くのはとても恥ずかしいですが、この自分の作品を読むと、今でもうっすら涙が浮かんできます。
大変なことがたくさんあった人生だけど、今の私は幸せだと、しみじみと思います。たくさんの仲間とともに歩んできた時間が、ゆっくりと私の世界を変えてくれました。
こうして文章にして振り返ってみると、「私、意外と、頑張って生きてきたんだ」と少し自分を誇らしく思いました。
優秀賞をいただき、本当に嬉しかったです。ありがとうございました。
【選者コメント】
なんて素直な人なのだろう。こんな人だから、今の競争社会は生きにくいに違いない。しかし、その中で流されることなく、素直なままで生きている作者に静かで力強い声援を送りたいと思う。7年という回り道をしたけれど、作者と大阪吃音教室は、出会うべくして出会ったと言えるだろう。
どもる自分を認めたい。だけど人前でどもりたくない。教室の人たちのように私もどもりながら明るく豊かに生きたい。でも、恐くてどもれない。この揺れや葛藤の中で、作者は静かに目をそらすことなく自分をみつめている。その素直さが、ゆっくりとゆっくりと彼女を変え、彼女の周りへの見方を変えていったのだろう。
変化は突然に訪れる人もいるけれど、じっくりと薄皮がはがれるように少しずつ少しずつ変わっていく方がほんものかもしれない。
書き始めと終わりに、2005年の日記を用いていて、文章の書きぶりにも工夫が見られて読みやすい。やさしく温かい文章に触れることができ、読み手である私たちも幸せな気分にさせてもらえた。(「スタタリング・ナウ」2011.12.20 NO.208)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/06/06