チャールズ・ヴァン・ライパーを特集した「スタタリング・ナウ」2010.5.22 NO.189 を紹介しています。今日は、翻訳をしてくれた、僕の長年の友人の五味淵達也さんの、「ヴァン・ライパーに触れて」の文章を紹介します。このとき、五味淵さんは、83歳。今の僕より年上です。五味淵さんの好奇心、向学心に、大いに刺激を受けました。僕も、まだまだこれから、です。

  
ヴァン・ライパーに触れて
                             五味淵達也

まえがき

ヴァンライパーの写真 20% ほんの一部だが、最近、チャールズ・ヴァン・ライパーの著書、「The Treatment of Stuttering(吃音治療法)」(1973年)を読む機会に恵まれた。
ライパーの名は折にふれて聞くことは多かったのだが、実際にどのような考え方なのか、具体的には何も知らずに、アメリカの吃音研究の大御所で、吃音は治るという前提に立って吃音治療を推し進めた方だろうと漠然と思っていた。
 バリー・ギターにみられる傾向や海外のセルフヘルプグループの「治す」考え方の傾向からしても、ライパーはその源流なので、吃音を治そう、治すにはどうしたらよいかに焦点を当てているのだろうと勝手に推測していた。

ライパーの手法

 私の読んだ範囲では、ライパーのセラピーは、どもる人に、どもるだけどもらせて、表面にあらわれた現象の奥に何があるかをどもる人自身に突きとめさせようとする態度だ。セラピストであれどもる人であれ、どもる人が音を繰り返し、ブロック(難発)で話せなくなったり、足踏みし、手を振ったり、「アノ、アノ」と言うことすべてひっくるめて、単に「どもった」というが、ライパーは「どもった」とひとくくりにせず、現象そのものではなく、その奥に何があるかをどもる人自身に探索させようとする。
 セラピストは、どもる人が能動的に自分から自分の吃音に取り組むように仕向ける。どもる人は、通常、大体受動的であり、治してもらおうとの依頼心が強い。私も誰かに治してもらおうと右往左往したものであり、このような傾向は、洋の東西を問わない、どもる人の性向のようだが、ライパーはこれに挑戦しているように思われた。
 自分で自分のどもり方を探索していくことは、まずどもらなければならない。そして、どもっている自分を客観的に見る心の余裕をもつ必要があるというよりも、探求心が出てくると、必然的に「ああ、しまった。またどもってしまった」という後悔の心境から抜け出して、どもることに興味が湧くようになってくるようだ。いわゆるマイナス思考からプラス思考への転換と考えてよいだろう。
 今まで「どもるまい」と考えていたのが、ちょっとどもってどんなどもり方かを見てみようと気分を変えることになる。それも治療室という安全地帯で、セラピストという協力者を得て行う。何の不安もなければ、いらつきもない。精神的な安定状態をつくり出して自分の吃音を自ら研究する。
 ライパーは、どもっている自分を教材としてどもる入自身に吃音を探求させ、吃音を軽くしていこうとの考え方のように見受けられる。そこでは、いろいろな手法を編み出し駆使していると思われるが、その結果として流暢にどもるという考えを導き出したと考えられる。
 ライパーの考え方の背後には、自分が一生どもり続けたように、治るとはどういうことかという問題はさておき、吃音は治らないという、漠然とした確信があったのではないか。治らないならせめてあまり目立たないどもり方をしようと「流暢にどもる」概念が生まれてきたといえるように思う。この手法を身につけるために。セラピストが介在し指導することが必須であると考えているようだ。
 また、ライパーが強調していることは、表面にあらわれた口、舌、唇、顎などの状態ではなく、そのような状態をひき起こしている何ものかを見極めようとする態度であり、それをどもる人自身にさぐらせている。この手法は結果として、二つの意味をもっていると思う。ひとつはどもる人に外見的異常にこだわらせないこと、肉体的な硬直、ふるえなどから注意をそらさせ、また、自分を客観的に見ることで心理的な余裕をもたせる。これは吃音が肉体的な欠陥からではなく、心理的なものであると暗に示しているように思われる。

心理的要因とすると

 ここで思い出されるのが東京正生院(当初東京正聲学院、後に東京正生学院)だ。
 私が知った1943年当時は正生院だったが創立者は梅田薫だ。私は著書『最新・吃音の本態と根本療法』(1940)で自宅で吃音を治そうと努力し、その後直接行き、治療を受けた。
 ちょっと自慢をすれば、梅田院長から演説がうまいとほめられたこともあるが、83歳になっても未だにどもっている。東京正生学院は梅田院長自身が重い吃音を自分が編み出した方法で治した経験に基づいて、吃音は治せるという信念からはじめた吃音矯正所だ。その梅田が、内外の文献を読みあさり、多数のどもる人に接した経験を基にして導き出したどもる理由は次のようなものだ。

 ―どもるということは、次の二つの心理的原因に依るものであることが分かるのである。
 第一は、感情の激越で、特に不快、興奮、緊張の感情の激越を起こした場合
 第二は、発語意慾の不安定、特に急激なる発語意慾の場合で、大抵この二つが同時に生じた場合にどもるが、第二の場合だけでもどもるものである―
                        『最新・吃音の本態と根本療法』
 ここで梅田はどもるのは心理的原因であると、はっきりと言い切っている。これはどもる理由であって、吃音になる原因ではない。どもる人が現在どもっている理由として言い切っていると考えるべきだろう。そして、この考え方を基に治療法を作っており、精神面を鍛えるために、入院当初から、最初は、しゃべれないにしても、街頭演説や車内演説に連れ出す。発音法、朗読法、対話法などしゃべるための基礎的訓練もするが、丹田呼吸法、気合い法、精神統一法、観念法と精神面に重きを置き、対話、演説、討論といった対人鍛錬を行い、場数(ばかず)を踏ませて人前でしゃべることに馴れさせるようにしていた。
 教室での決まり切った人の前だけではなく、街頭や電車の中といった不特定多数の人の前でしゃべることもその一環として行われが、残念ながら成果を挙げたとはいい難いようだ。
 とはいえ、梅田がライパーの著書『The Treatment of Stuttering』の発行30年以上も前のことで、西洋はドイツが主体だったようだが、資料を精力的に探し、読みあさり、1万を超える症例を研究して、1940年当時にはっきりと精神面にどもる理由をもとめ、それに基づいて矯正法を形成したことは特筆されるべきではないかと思う。
 日本の楽石社の伊沢修二を源流とする、他の吃音矯正法や欧米の矯正法には見られないものだったかと思う。梅田もドイツでは中枢神経系障害説と心理的原因説が対立していたと論じ、20世紀初頭には既に学会では、発音器官や呼吸器官の故障と認める者は全然いなくなったと言っている。しかし、それらの学説がほとんど実際の吃音矯正には活かされてはいないとも言っている。
 その傾向は連綿として続いて21世紀に入っているといえるだろう。その証拠といえるかどうかわからないが、2009年秋、NHK教育テレビで放映されたドキュメンタリー番組で、ドイツの最新吃音治療法を紹介していた。それが、横隔膜の動きを調節するといった方法だったことは象徴的だった。20世紀初頭に学者が見捨てた方法がドイツの最新治療法として生きているとは驚きだ。

ライパーと梅田の違い

 ライパーと梅田とは、ほぼ同世代(20世紀初・中期)の研究者、治療の実践者だったが、期せずして同じようにどもる理由は心理的要因が大きいという考えに到達していたのだろうと思う。しかし、この二人の吃音に対してとった態度は対称的だ。ライパーは吃音はどうも治らないようだから「流暢にどもる」ことにしようと言い、梅田は吃音は治るから「しっかり治そう」と提唱する。
 この違いはどこからくるのだろうか。やはり、提唱者本人に起因していると推測するのが妥当だろう。ライパーは多くの人と同様に一生どもり続けたが、梅田は自信をもって自分の吃音を治したと言い、何時問でも平気で講演ができると言う。実際、私の僅かだが見聞きした範囲では、ゆっくりとした話し方ではあるが、どもっていなかったように思う。ただ、吃音が治らない者の繰り言かもしれないが、梅田がものすごい努力家だったとしても、治ったと言うのが、私の東京正生院ではひとりだけだったように、梅田は吃音の治る資質をもっていた稀な存在だったのではと考えたくなる。
 ライパーも梅田も、同じように心理的要因が大きいという考え方をもちながらも、自分の体験をふまえて自分の治療矯正の方法を編み出した結果、「流暢にどもる」と「常人と同じようにしゃべる」という違った指導をすることになったと思われる。
 梅田がはっきりと精神面を要因としてあげているのに対し、ライパーは行間を読み解くと、それを察することができるという違いも、東洋と西洋の違いということもあるかもしれないが、性格や資質の違いも大きいように感じられる。
 ともあれ、どもるのは心理的要因が大きいということは、自分の過去を振り返ってみても納得のいくことであり、「吃音に悩む人は、図太くなろう」と提唱している私の考え方にも合致している。治療方法の違いを越えて、この二人に共鳴し、尊敬の念を禁じ得ないところだ。

脳科学的には

 澤田俊之著『「私」は脳のどこにいるのか』を読むと、近年の脳科学の進歩は目覚ましく、脳の働きが次々と明らかにされる中で、心も脳の働きであるということが明らかにされてきている。
 「心」ある時は「魂」といわれ、「精神」といわれ、「自我」などともいわれるこの個々人を特徴づけるものは脳の中の前頭連合野の働きであるということが定説になってきているようだ。
 ライパーや梅田が考えた心理的要因は、現代脳科学で言えば、この前頭連合野の働きが他の運動野や運動連合野などに働きかけて通常と同じ発音を妨げていることなのかもしれない。脳科学の研究を志す人に、その成果に期待したいと思う。
 とはいえ、いくら解明されても解明イコール治療には結びつかないと思うし、老い先短い私にとってはほとんど関係ないが、発吃初期の段階で自然治癒に導く方策が生まれたら、大きな福音だろう。反面、吃音で悩むことによって人格が陶冶されるというメリットはなくなるのは残念だが。

むすび

 思いつくままにいろいろと書いてきたが、ライパーが吃音は簡単には治らないものであり、精神面にどもる理由を見出しているのではないかと気づいた時にはうれしくなった。
 欧米で発達した科学的手法では経験的、系統的に論証できなければ認められないから、どうしても表面に現れた現象にとらわれることになる。ライパーの見方はちょっと異質なのかもしれない。もちろん、ライパーも現象面に対する研究に力を注いでいるが、それだけでは割り切れないものを感じていたのではないだろうか。
 現象面といえば、それはシーアンの氷山説の水面上のこととなり、現象として表れない水面下のことは科学的思考ではなおざりにされてきたのかもしれない。しかし、ライパーが心理面にどもる理由を求めたとすれば、ライパーは水面下にこそ問題があるといっているに等しいだろう。最近、吃音治療に熱心だった、オーストラリアの、セルフヘルプグループから、「吃音の症状だけに焦点をあてる、セラピストは信用できない。水面下の、吃音から影響をうける、行動や、感情、思考に取り組むセラピストを育てるべきだ」との主張が出始めたと、『スタタリング・ナウ』で紹介されていたが、私の推測が間違っていないとしたら、ライパーに遅れること半世紀、梅田に遅れること1世紀近くでやっとそれに気づいたということだろう。
 しかし、それの解決をセラピストに頼ろうとしているとしたら、それはセルヘルプグループの自殺行為だろう。どもる人が能動的に主体性をもって、必要ならセラピストを利用するという考えこそ大切ではないだろうか。
 ライパーはどもる人が依頼心を捨てて、能動的に行動することを求めていると理解できるので、その意を正確に受け取り、行動したいと思う。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/24