昨日の続きです。どもる言葉が飛び交っていたオランダ大会。みんなのどもっている言葉がとても心地よく響いていたことを懐かしく思い出します。今日は、アニタと僕以外の基調講演者の話と、アメリカの心理学雑誌「PsychologyToday」に掲載されたキャサリン・プレストンさんの大会に参加しての感想を紹介します。
 基調講演者のひとり、作家のディビット・ミッチェルさんとの出会いと対話は、心に強く残っています。吃音は、闘うのではなく仲良くするのがいいという話をするとき、僕はよくミッチェルの話を出します。吃音と闘うことは、自分の中での内戦になってしまうと言っていたミッチェルさん。そのとおりだと思います。(スタタリング・ナウ」2013.9.23 NO.229)
                      
  
2013 オランダどもる人の世界大会報告 2
                      進士和恵 日本吃音臨床研究会国際部長

  ◇その他の基調講演者の紹介

デヴィッド・ミッチェル(アイルランド)
 幼い頃より話すことへの苦手意識から本の世界にのめりこみ、ケント大学で英語学の学士号と比較文学の文学修士を取得。24歳のときに日本に行き、広島で8年間を過ごした。そこで英語を教えるかたわら、Ghostwritten(1999)number9dream(2001)を執筆。2004年にアイルランドに移り住んでから出版されたCloud Atlasはブッカー賞にノミネートされ、ミリオンセラーとなる。
2006年のBlack Swan Greenは13歳のどもる少年が主人公である。この半自伝的小説は、イギリスの言語療法の教育課程で広く使われている。
2007年にはタイム誌が選ぶ世界で最も影響力のある100人のひとりに選ばれた。
小説には流暢に話せない人物や、話すことばが誤解されやすい人物が数多く登場する。これは彼自身の吃音に直結したテーマである。

デヴィッド・A・シャピロ(アメリカ)
どもる当事者でもあり、著書の『吃音への介入』(Stuttering Intervention)は国際的な評価を得ている。国際流暢性学会(IFA)や国際吃音連盟(ISA)の主要メンバーで、2012年にはIFA会長を務めた。
「私はこの世でもっとも幸せで幸運な、どもる人間の一人だ」と言うが、人生の最初の20年間はことばを自由に話せなかった。現在、その失われた20年間を取り戻している。音声言語病理学者の治療を受けたがうまくいかなかったため、吃音の悩みから抜け出す方法を模索し、言語病理学を職業として選択した。音声言語病理学者として36年間、世界中のあらゆる年齢層の数え切れないほどのセラピーを行ってきた。
学生の指導にもあたり、様々な現場に音声言語病理の専門家を送り込んだ。専門家になるための訓練や職業体験で誰もがぶつかる問題は、「吃音の意味」の理解だ。「吃音とは何を意味するのか」について、どもる当事者、音声言語病理学者の両方の立場から、学んで得てきたことを講演している。
吃音とは、さまざまな国の人々が集まり共通の目的に向かって共に学び力を合わせることを可能にする普遍的な問題で、吃音とセラピーが伝えるメッセージは、いつか必ず人類の大きなメッセージになるだろうと言う。

マイケル・オシェア(アイルランド)
 「なぜ妹をハリーと呼んだのか」の著者。
 吃音問題の代弁者として国際的にも高く評価されている。数多くの発表やワークショップを四大陸のどもる人のコミュニティーで行う。話し方のコーチや、「アイリッシュ・マクガイア・プログラム」のトレーナー。アイルランド吃音連盟の委員会メンバーで、ワークショップ「吃音について話そう」の創始者。
 4歳の時、修道女に杖ではげしく殴打されたことでどもるようになり、その後40年近く悩む。学童期、教室で質問に答えられなかった時、校長にステッキで殴られた。その後、吃音のコントロールの仕方を覚え、心の痛みも和らげる方法を学んだ。「なぜ妹をハリーと呼んだのか」の執筆のために、600人以上のどもる人にインタビューを行う。
 その後、1,000人以上のどもる人の支援で、彼らが成長し、吃音を受け入れていく姿を目の当たりにすることは大きな喜びとなる。
 吃音のために孤立を強いられた人々が、自由を得るためには、自分が自分の吃音の専門家にならなくてはならない。ことばを操る自分をどう感じ、どうとらえているかは、他の誰もわからない。

キャサリン・プレストン(アメリカ)
 ニューヨーク在住の作家・講演者。
 "Out With It:How Stuttering Helped MeFindMyVoice"(2013年)の著者。この処女作には、彼女の吃音とともに生きた人生と自己受容の旅が記され、100人を超えるスピーチセラピスト、研究者、どもる人との対話の記録が収められている。
彼女の半生は、吃音との孤独な戦いだったが、自己受容の意味や人とは違う声とともに生きる方法を知るストーリーへと広がっていった。アメリカ中を旅しながら彼女が出会った人々のエピソードを軸に、苦難に立ち向かうことで得られるかけがえのないものに焦点を当て、人はみな自分が思っているよりも強いと結論づけている。

マリー・クリスティン・フランケン(オランダ)
 公認言語聴覚士(エラスムス大学付属医療センター、ロッテルダムソフィア小児病院)
 臨床家として幼児の吃音と学童の言語運動障害に関わるとともに、就学前の子どもの吃音ならびに未熟児として生まれた子どもたちの言語障害の治療評価を中心に研究を行っている。
 幼児の吃音・言語障害治療に関する2013年に始めた2年間の研究を基に、何歳ぐらいから治療を開始したらよいのか、個々の子どもに合った治療を行うにはどうすればよいか、誰が治療法を決めるのか、その判断の基準とは何かなど、治療を必要とする子どもの親も対象に疑問に答えている。

  ◇世界大会の基調講演を終えて

あなたの声の尊さ
                 キャサリン・プレストン(作家・講演者)

 オランダで行われた、どもる人の世界大会は、周到な運営の下、吃音のあらゆるテーマを網羅され、私の想像をはるかに超えていた。会場はどもる人たちのことばで溢れ、ブロックや繰り返しが当たり前のように受け入れられている。この時間が永遠に続くかのように思えた。7つの基調講演も6人が吃音の経験者だった。
 大会は、ただ一人のどもらない吃音研究者の基調講演で始まった。続いての基調講演は著名な作家で、一度か二度どもっただけで、率直に自分の心の中を探り、吃音の美しさと難しさを語るなど、それは綿密に練られたスピーチであった。
 その後の一日に二つの基調講演はどもる人だったが、少しはどもるものの、話の流れを乱すほどでもなく、「巧妙な舌先」を妨げるほどでもなかった。どの講演者も率直ですばらしく、熱烈に吃音について語っていた。
 彼らのスピーチを聞いていると、私の膝が震え始めた。私の心は逃げ道を求めてさまよい始めていた。彼らとどう競えるだろうか。彼らのスピーチを真似できないことはわかっていた。吃音の世界大会で、世界中から集まったどもる人たちに話すのであり、どもるからこそ話す機会を与えられ基調講演者なのだ。どもることが当たり前なのに、他の講横者のように流暢であることを望んでいる自分がいた。できるだけ、どもらないように全力をつくすべきだと、頭の中のかたくなな自分が私に告げてくる。
 大会、最終日の最後の基調講演が私だ。ついに演台に立つときがきた。一呼吸おいて、めがねをかけると、これまでに出会ったことのないほどのたくさんの優しい人々の目が私をみつめている。私はこの上ない誇らしさを味わった。
 それまでに何度も原稿を書き直し、何時間もかけてスピーチの練習をしていた。聴衆はほとんどが、私と同じどもる人たちだ。安心と不安の不思議な思いをもちながら、思い切って話を始めた。
 大げさでもなく、ほぼすべての単語に詰まるほどひどくどもった。その日の私の吃音の波の周期は最低にあったようだ。一つの音節を押し出すのに何秒もかかり、原稿をめくる指は、鉄のように固く、ぎこちなかった。その間も聴衆のすべての目は私にくぎづけになっている。“me”の音に詰まったときは、大きな会場に果てしなくその音が響き渡りそうで、罠にはまったような気がして思わず笑ってしまった。また、ジョークを言うたびに、みんなは相好を崩し笑ってくれる、温かい笑いに支えられ、少し余裕がでてきた頃、スピーチが終わりに近づいていた。最後はあっけなく終わった。すると、すさまじい拍手喝さいがホールに鳴り響いた。私はみなぎる幸福感にしばし身をゆだねていた。そして、吃音と折り合いをつけようと続けてきたこれまでの旅を思い出していた。
 吃音の本を書くことと、どもる人間として直接ストーリーを語ることは、まったく別ものだった。吃音とは自分で思うようにはならないものだ。自分のことばと外見をよりよく見せたいと思っても、コントロールできない。
 しかし、スピーチを終えた私は、吃音の持つ驚くほど強いパワーに気がついた。
 吃音の持つダイナミズムをわざわざ失うことはない。それは、人々をお互いに遠ざけるのではなく、結びつけることができるものなのだから。
 私は、なめらかに話す人よりもどもりながら話す人の方に、より熱心に耳を傾けていることがよくある。次に出てくることばをじっと待っていたり、どもる人のことばを通してその人間性に触れることがよくある。ところが、残念なことに、私のように、よくどもる講演者に出会うことはめったにない。これからは、私のようにどもる講演者にもっと会いたいものだと思う。
 有名人や政治家の中に吃音で名を馳せていても、実際にはどもることがほとんどない。あまりどもらない講演者のスピーチを聞いて、どもる人が、自分も吃音をコントロールし、より流暢な話し方に変えようと、それらの人に役割モデルを求めることも悪くはないことかもしれない。
 しかし、私たちが、会話のスタイルを変えようとするなら、吃音にしっかりと耳を傾けることが必要だ。もし私たちが、これまでの吃音の人生のナラティヴを書き換えたいのなら、率直に堂々とどもる人を観察することだ。
 私たちは誰でも、どのような形であれ、話す技術を持っている。私たちは、積極的で意欲満々の、流暢な話し手に合わせる必要はない。自分たちに備わった声で充分伝えることができる。我々のソフトな語り口、絶妙なユーモアのセンス、そして吃音そのものといったユニークな資質を誇ってよい。
 どもる人の世界大会で、普段以上に見事にどもって、多くの人から拍手喝采をあびた経験は、どもらずに話したいと、瞬間でも思った私に、忘れかけていた一番大切なことを教えてくれた。
 私たちの声、私たちのストーリーには、耳を傾ける価値があると信じたい。あなたがこれまでに出会った人たちの中で、もっとも心に残ったユニークな話し手は誰だろうか。(了)
                  (アメリカの心理学雑誌「PsychologyToday」より)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/11/11