伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

藤沢周平

東日本大震災の被災地と震災遺構を訪ねる旅 6 土門拳記念館と藤沢周平記念館

東日本大震災の被災地と震災遺構を訪ねる旅 6 土門拳記念館と藤沢周平記念館

宿場町セット十三人の刺客セット 宮古から気仙沼に南下し、そこから日本列島横断の旅に出発しました。向かったのは、秋田県庄内羽黒です。羽黒山、月山、湯殿山を合わせて出羽三山と呼ぶそうですが、そのうちのひとつ、羽黒山のスギ並木の石段、随神門、そして五重塔と神秘的な石段を歩きました。その後は、映画好きな僕には興味ある、スタジオセディック庄内オープンエリアへ。たくさんの映画やドラマを撮った所です。僕たちが観た「十三人の刺客」で使われた宿場町のセットがありました。映画のシーンがよみがえってきました。
土門拳・藤沢周平記念館 翌日、以前から行きたかった、土門拳記念館へ行きました。―ヒロシマ・ナガサキ―江成常夫と土門拳 の特別展がありました。土門拳の作品には、よく子どもが登場します。「筑豊のこども」、「江東のこども」などで、子どもの屈託のない表情が印象的でした。今回の―ヒロシマ・ナガサキ―でも、子どもが出てきます。今回の―ヒロシマ・ナガサキ―では、被爆した女性たちのケロイドを、憤怒に震え、泣きながら撮ったそうです。皮膚移植手術の様子は、見るのが怖くなるくらい詳細でした。胎内被爆の子は白血病に苦しんでいましたが、その子のうつろなまなざしに、戦争の不条理と原爆の無慈悲を感じました。彼の、平和への強い願いが表れていました。ヒロシマの原爆記念館に収めて欲しい写真です。
 映像があって、見ましたが、映像の中の土門拳さんは、どもっているようにみえました。土門拳さんがどもるということは聞いたことがあるのですが、映像を見たのは初めてでした。吃音は、51歳の時の脳出血の後遺症だと思っていましたが、そうではなかったようです。
藤沢周平記念館のみ藤沢周平記念館の前で 伸二 その後、藤沢周平記念館に行きました。藤沢周平さんには、大阪教育大学の5日間の集中講義の時、「吃音を治す努力の否定」についてどう思うか、アンケートをお送りしたことがあります。その時、丁寧にお返事をいただきました。記念館には年譜がありましたが、そこにも、ちゃんと、「この頃、吃音に悩む」と書いてありました。
藤沢周平年譜 藤沢周平さんが、「他者を理解できる人に」とのタイトルで、新成人に向けて書いた文章がありました。

      他者を理解できる人に
 一度しかおとずれない青春です。この時期にスポーツ、恋愛、仕事、何でもいいから、自分のやりたいことに思いっきり挑戦してみてください。失敗をおそれる必要はありません。失敗こそ奥行きのある人間をつくるのです。しかし、やりたいことをやるといっても、他人の迷惑を考えない自己中心的なやり方をするのは大人とは言えません。どうか他者の存在を理解できる人になってください。…

 偶然ですが、二人の吃音の先輩の記念館を同時に訪ねたことになります。

 長かった東北への旅もそろそろ終わりに近づきました。大阪へは、日本海沿いを南下しました。日本海東北道から北陸道を走り、金沢で一泊しました。金沢まで来ると、ああ、帰ってきたと思いました。今回は、宮城・岩手が中心だったので、次回は、福島に行きたいと計画しています。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/09/18

藤沢周平さんと吃音 7

 藤沢周平さんが亡くなられたときに特集した「スタタリング・ナウ」を紹介してきました。周平さんからいただいたお返事、著書にみる〈藤沢周平さんと吃音〉、新聞記事など、そのどれもに、周平さんの親しみやすい温かい人柄が感じられます。
 今日は、特集の翌月、「スタタリング・ナウ」を読んで下さった、読売新聞の三木健二さんの「今日のノート」を紹介します。
 三木さんは、それまでにもお付き合いのあった方です。吃音のことをよく理解して下さっていた記者のひとりでした。
 藤沢周平さんと吃音については、今日が最後です。

今日のノート 三木健二 読売新聞 1997.2.23》
      周平さんの答辞
藤沢周平 読売新聞 三木健二 小学校の卒業式で答辞を読む総代の声が出ず、級友が代読する事態になったのは前代未聞のことだろう。吃音のため声が出なかった総代が若き日の藤沢周平さんだ。
 五年生の時、学校で一番こわがられていた、スポーツマンの宮崎先生が担任になったとたん、どもりだしたから感受性のとても鋭い少年だったに違いない。どもりも「ががが…」などと音が重なる連発タイプではなく、しゃべろうとしても声が出ない難発の吃音だった。先生に指名されて立ち、教科書を読もうにも舌は石のように動かないひどい状態だった。
 この屈辱感から、手当たりしだい本を読みあさった。やがて作文の時間が大好きになる。声を出さなくていいし、先生が朱筆で書いてくれる講評でほめられるのがうれしかったから。中学生のころ、吃音は自然に治ったという。
 「宮崎先生とどもりに出会わなかったら、こういう人生がなかった」と藤沢さんが小説家になったきっかけを記しているのを、日本吃音臨床研究会の会報今月号の藤沢さん追悼特集で知った。
 〈治そうとする努力そのものよりも人間として生きる努力を。どもったまま生きよう〉という研究会の「吃音者宣言」に、藤沢さんは自分の体験を重ね、全面的に賛成する手紙を寄せ、吃音者にもあたたかいまなざしを向けた。
 どもりの人には優しくて敏感でまじめな人が多い。だが、吃音から解放されると、反動のようにしゃべりまくるか、尊大な態度に転じる人が中にはいる。「藤沢さんはその正反対。どもっていた時の感性をそのまま持ち続けた人でした」と研究会代表の伊藤伸二さん。人情味あふれる時代小説は悩み続けたころの『感性』とは無縁ではない。吃音から作家のあたたかさとひたむきさがみえてきた。(「スタタリング・ナウ」 1997年3月 NO.31)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/19

藤沢周平さんと吃音 6

藤沢周平さんが亡くなったことの、新聞・週刊誌に見る反響

 1997年1月、藤沢周平さんが亡くなられたとの報道は、全国紙のほとんどが1面で報じていました。3面には、周平さんの業績と人となりが、そしてその後は、夕刊等の文化欄でかなり詳しく解説がなされていました。
 「全作品とも人肌のぬくもりを持ち、それが現代人の徒労感を慰め、癒してくれた。生きることの悲しさ、人間の優しさが胸に迫ってきた」
 このように紹介される記事には、次のタイトルがつけられていました。
  まなざしの深さとあたたかさと
  錬磨の文体、道開く行脚
  ひたむきな生、ひたむきに描き
  「庶民感覚」こだわった職人
  時代小説の「旗手」
  人情味・哀感あふれる時代小説

 また、これらの解説や追悼文の中には、周平さん自身のことばも紹介されていました。

 「僕はキラキラ光っているようなものは嫌いです。あまり目立たないもの、世の片隅でひっそりとつつましく生きているようなものが好きです」
 「私の小説の色彩は、まあ暗いんですが、ある時期から、ありのままの人生を認めるだけの気持ちのゆとりができてきて、人生には暗い面もあれば、明るい面もあると分かってきた」

 反響の大きさが、藤沢周平さんの存在の大きさを表しているようでした。
 その中から、朝日新聞の「天声人語」(1997年1月28日)と週刊「文春」(1997年2月6日号)を紹介します。

《天声人語 朝日新聞 1997年1月28日》 
藤沢周平 天声人語 藤沢周平さんの最後の作品集となった『日暮れ竹河岸』(文藝春秋)の中の一編『飛鳥山』は、たまたま出会った幼女をさらう茶屋つとめの女の話である▼子供を抱いて、女は走る。その子もさびしい境涯にある。しっかりとつかまった女の子が、ささやく。「おっかちゃん」。「おうおう」と答える女の目から涙があふれ出る。生きることの哀しさ、人間の優しさが胸に迫る。人肌のぬくもりが、無性に懐かしくなる▼藤沢文学の愛好者は数多い。なかで、ひときわ熱心な読者は四十歳前後から上の男性の会社員、管理職ではないか、と想像する。競争社会にふと疲れを覚え、人間関係につかの間嫌気がさす。そんなとき、たとえば、少年藩士が成長していく姿をゆったりとした筆遣いで描いた『蝉しぐれ』は、落ち込みかけた心を癒やしてくれる▼集団や組織からはみ出す癖が私にはある、と藤沢さんは何度か書いている。それも〈集団から疎外されるのではなく、自分勝手にはみ出すわけである〉と。小学校の授業がいやだった、運動会も嫌いだった、と指を折る。そして、語る。「成功しない人間にこそ真実があり、物語があります」「いつの世でも、権力というのは油断ならない。信用できるのは、普通の人間です」。こうした視点も読者を引きつけた▼雑木林が好きだ、と繰り返し書いた。元気だったころは、朝の散歩を好んだ。冬の雑木林の明るさに誘われ、林の奥に入り込むこともあった。『冬の散歩道』と題したエッセーの一節。〈……芝生のある道に出て、芝生のむこうに大きな農家と見事なケヤキの大木が見えて来る。冬の木々は、すべての虚飾をはぎ取られて本来思想だけで立っているというおもむきがある〉▼〈もうちょっと歳取るとああなる、覚悟はいいか……〉と文章は続く。藤沢さんは「本来の思想」を貫き、冬、歩み去った。
                  
《週刊『文春』1997年2月6日》
 同じように吃音体験のある作家の井上ひさしさんは、こう振り返る。

 ―現実の藤沢さんは、トツトツとして言葉少なく、それでいて気難しい感じのまったくない人でした。藤沢さんと僕は同じ山形出なもので、あるとき山形新聞が、直木賞の二人に新年のための対談をするよう言ってきました。ところがいざ対談してみると、まったく話が弾まない。
「藤沢さんは山形は鶴岡のご出身ですね」
「はい、鶴岡ですねえ」
「僕は米沢です」
「ああ、米沢でしたねえ」
といった調子で終始してしまいました。藤沢さんにこっちも感化されて、新聞一面の対談ですから三十分ですむところが、三時間半もかかりました。山形新聞始まって以来の暗ア〜い新春対談だったそうです。
 だけど藤沢さんはまるで平気でいる。この人は度胸の据わった人だと思いました。だいたい、よく喋る人って、“素”になるのが怖いから喋っているんですよ。言葉で“素”を補おうとして、つい喋らなくてもいいことまで喋ってしまうことが多い。藤沢さんは、言葉で自分をごまかしたり、人を傷つけたりするよりは、黙っていたほうがいい、“素”になっても構わないんだという覚悟のようなものがあったのではないでしょうか。
 あの訥弁の藤沢さんがペンを持つとあんなんすてきな小説を書く。やはりほんとうの小説家だったのですね。なにしろ文章でしか喋ることができなかったのですからね。―


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/18

藤沢周平さんと吃音 5

 昨日の続きです。
 藤沢周平さんがお亡くなりになった直後に特集した「スタタリング・ナウ」(1997年2月)を紹介します。

 
藤沢周平さんへの哀悼の意を表しつつ、どもる体験をもつ藤沢周平さんの人となりを、新聞記事、著作エッセー『周平独言』(中公文庫)、自伝である『半生の記』(文藝春秋)などを通して、紹介します。

卒業の頃
 六年生の二学期が始まったとき、宮崎先生に召集令状が来て、戦争に駆り出され、ほかの教師や校長に受け持たれたりしながら周平さんは小学校高等科を卒業する。
 卒業するとき、周平さんはクラスのトップになっており、卒業生総代の答辞を読まなければならなかった。どもるために声の出ない周平さんは、級友に代読してもらうことになる。どもりの屈辱は、最後までついてまわったのだという。

 《私がそういう半人前の子どもになったことを、両親はとても心配し、またそのことで落胆もしたようであった。なにしろ、郡賞をもらう生徒が読むしきたりだった卒業生総代の答辞を級友に代読してもらったのは、村の小学校開校以来、おそらく私だけだったろうから。
 だからもし、中学校を受験しろなとど言われても、どもりを抱える私は、多分必死になって断ったにちがいない。〈中略)
 Kさんは、時々下士官養成学校のパンフレットなどをもってきて、ここを受験しないかなどと言って、私をおどろかした。
 私もひそかに東京からパンフレットを取り寄せていたが、それは東京吃音矯正学院といったような名前のどもりを治す学校の説明書で、ほかに将来のことなどは何ひとつ考えていなかったのである。(中略)
 昭和十七年、三月に私は村の高等科を卒業し、四月からは鶴岡印刷株式会社で働きながら、夜は鶴岡中学校の夜間部に通うことになった『半生の記』》

 《ドモリの方は、宮崎先生がよそに転じられた後、いつとはなくなおった。今ならば心理的な抑圧とか何とかで説明がつく現象だろうが、当時の私には不思議なだけだった。
 しかしいま私が小説を書いている根本的なところに、宮崎先生とのめぐり合いがあることは疑いがないのである。そもそも文学と終始つかず離れずかかわり合ってきたこと自体が、宮崎先生との二年間を抜きにしては説明がつかないのである。これは、なぜ時代小説を書くかという疑問よりは、よほどはっきりしていることである『周平独言』》

 《私のどもりは自然になおった。それも宮崎先生の記憶が、やや薄らいだころに。
 私のどもりは明らかに宮崎先生のせいだったが、私はそのことで先生をうらんだことは一度もなかった。それどころか、教師になろうとしたとき、私はあきらかに宮崎先生のことを考えていたのである。そしていま小説を書いていると、宮崎先生とどもりに出会わなかったら、こういう人生がなかったこともよくわかるのである『周平独言』》(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/17

藤沢周平さんと吃音 4

 昨日の続きです。
 藤沢周平さんがお亡くなりになった直後に特集した「スタタリング・ナウ」(1997年2月)を紹介します。

 
藤沢周平さんへの哀悼の意を表しつつ、どもる体験をもつ藤沢周平さんの人となりを、新聞記事、著作エッセー『周平独言』(中公文庫)、自伝である『半生の記』(文藝春秋)などを通して、紹介します。

 何故どもり始めたのか
 《「賢治。オ、オーギ(扇)か」と言う。すると賢治はむきになって、「オ、オーギでなく、た、ただのオ、オーギ」と言った。そんなふうに、私たちは賢治のどもりをからかっていた『周平独言』》

 周平さんの家族は、学校の教室の中で声が出ないのを、大変心配したという。特に母親は、「ンださげ、賢治の真似すんなと言ったのに」と周平さんを叱った。
 周平さんの生まれ育ったのは、山形県の鶴岡だが、その地方には、「橋の上でどもりの真似をするとうつる」という言い伝えがあったのだ。周平さんの家の近くには、青竜寺川が流れており、下の橋と呼ばれる橋がかかっていた。その橋の上も子ども達の遊び場所であり、その言い伝えを知っていた周平さんは、気にはなりつつも、ついつい、賢治さんの真似をしてからかっていたのであろう。賢治さんのどもりは、周平さんのいう典型的などもりだったのだ。母親は、周平さんのどもりがその賢治さんからうつったものと判断した。橋の上でどもる真似をしたからどもりになったのだと信じ、他人にもそう言っていたという。
 周平さん本人も、子どもの頃はそう思っていたようだが、後になって、そうではなく、本当の理由は別にあったと気づく。しかし、それは誰に言っても信じてもらえそうにないから、言わなかった。
 それほど、「橋の上でどもりの真似をするとどもりになる」がこの地方では、信じられていたのであろう。

宮崎先生
 《私がいた小学校に、宮崎東龍という若い先生がいた。白皙長身で、スポーツマンだった。鶴岡中学校時代に、短距離で県の記録保持者だったというし、剣道も段位をもっていたようである。ただし癇癪持ちで、学校で一番こわい先生だと言われていた。小学校の二、三年の頃、私たちは高学年の生徒が運動場に並べられ、宮崎先生にひとりずつ頭を叩かれるのを、後者の窓から覗き見し、ひそかにふるえ上がった。
 先生は一度他校に転任し、また私たちの学校に戻ってきた。そして、五年生、つまり私たちのクラスを受け持つというではないか。それを聞いたときの恐ろしさを、いまも記憶している。五年生になると同時に、私は奇妙などもりになった『周平独言』》

 周平さんは、宮崎先生は万能の、誇るべき担任で、理想的な教師であると認めつつも、大変恐れていた。学校中で、一番こわい先生として知られており、受け持たれている上級生を気の毒に思い、担任でなかった自分たちの幸運を思って、ひそかに胸を撫でおろしていたほどである。
 宮崎先生は、一度転校したあと、今度は周平さんたちの担任として戻ってきた。そのこわさを誰にも、家の者にも話さなかったが、そのかわりにどもるようになったという。
 新しく担任になった宮崎先生は、周平さんのこの奇妙な無言の行が、本を読めないからではなくて、吃音のせいだということにすぐに気づく。
 しかし、指名するのを免除することは無く、時々指名する。指名されれば立って読む姿勢はするのだが、まったく声がでてこない。声がでない周平さんは、そんな姿を同級生の眼にさらしている恥ずかしさに、冷や汗を流しながらだまって立っているだけだった。2,3分もそうして立っていると、宮崎先生は、「やっぱりだめか。出ないか」と落胆したように言い、座っていいと言った。
 それで、周平さん自身もほっとして座るのだったが、毎日の授業が憂鬱だった。音楽と作文と図画の三科目は好きだった。作文も図画も声を出さなくてもいいし、宮崎先生が朱筆で書いてくれる作文の批評が楽しみだった。また、音楽のときは、何の支障もなく声が出たのだった。
 
 《ほかの授業時間では、私はクラスの余計者のようだった。私はいつもひとり。クラスメートが活発に手を挙げて答えたり、本を読んだりする授業のざわめきの外に孤立していた。しかもいつ指されるかと、たえずそのことにおびえていた。指されれば、いつものように立つだけのために立つしかないからである『周平独言』》

 《教室で声が出ないということは、屈辱的なことだった。本を手に、ただ立っているために立ち上がるとき、私の胸は屈辱でいっぱいだったし、三分ぐらいのその時間が、無限に長く感じられた。初めの頃クスクス笑ったクラスメートは、そういう私にしだいに馴れていったが、私はその屈辱にいつまでも馴れることができなかった。
 私がその頃の子ども一般の読書量をはるかに越える本読みになったのは、多分この屈辱感と無縁でない『周平独言』》

 この時期、周平さんの読書量は驚くべきものであった。姉たちのもっていた雑誌、親から買ってもらった本は全て読み、友達からも借りて読み、近所の家に上がり込んでは、読み耽り、鶴岡の図書館にもよく足を運んだ。
 家で読み、学校の休み時間に読み、下校のとき歩きながら読み、授業中にも机の中に頭を突っ込んで読む。級友はそれを「ヒマアレバ、ヒマアレバ」とからかった。ひまさえあれば読んでいるという意味だ。ほとんど活字中毒だという。しかし、その活字中毒を小説好きにし、書くことに興味をもたせたのは、宮崎先生だった。
 午後の一時間を使って、ビクトルユーゴの「レ・ミゼラブル」を読んできかせたり、作文を書かせたりした。そして、一人一人にその作文を返すとき、末尾に、感想と指導の要点を、朱筆で書いてくれたのだった。周平さんは作文の時間が好きだった。声を出して読まずに済み、感想で褒められることが多かったからだ。
 この宮崎先生との出会いでどもるようになったこと。
 クラスで孤立し、屈辱感、孤立感の穴埋めをするために本を読んだこと。
 宮崎先生の国語教育、とくに作文指導の中で、少しずつ書くことに自信がついたことなどで、小説家への道は、宮崎先生によってつけられたのだろう。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/16

藤沢周平さんと吃音 3

 《私の手元に、「吃音者宣言」という一冊の本がある。言友会という吃音者の組織があって、そこから送られてきた本である。私はいまはどもらないが、子どものころ吃音で苦しんだ時期があって、それでこういう本が送られてくるのである》

 藤沢周平さんは、このような書き出しで、『周平独言』の中で、吃音について書いておられます。僕たちは、《吃音を治す努力の否定》の問題提起をし、それが、《吃音者宣言》に結びついていく流れの中で、藤沢周平さんにお手紙を書きました。周平さんが、どもった経験があるということを知っていたからです。そして、丁寧なお返事をいただきました。周平さんが直木賞を受賞された3年後のことでした。
 その後、僕の著書『吃音者宣言』をお送りするなど、交流がありましたが、直接お会いする機会がありませんでした。藤沢さんはその後、時代小説を次から次と発表し、みるみる人気作家になっていかれました。
 いつか、お会いしたいと思っていましたが、その機会をみつけられないままに、時は過ぎ、藤沢周平さんは、1997年1月、お亡くなりになりました。お元気なうちにお会いしておきたかったと、悔やまれます。
 お亡くなりになった直後に、「スタタリング・ナウ」(1997年2月)で、藤沢周平さんの特集を組みました。その中から、紹介します。

 
藤沢周平さんへの哀悼の意を表しつつ、どもる体験をもつ藤沢周平さんの人となりを、新聞記事、著作エッセー『周平独言』(中公文庫)、自伝である『半生の記』(文藝春秋)などを通して、紹介したい。

何故作家になったか
 《私はいま物を書いて暮らしている。そうなった経緯というものはさまざまに入り組んでいて、ひとくちには言えないのだが、その最初のあたりに、子どものころのどもりがあったことは確かである『周平独言』》

 何故、時代小説を書くのかというのは、藤沢さんがよく聞かれる質問だ。
 「歴史の未知の領域に創造力が及ぶと、創作意欲が刺激される」と答えるのが常だったが、要するに、時代小説が好きだった。しかし、それはとりあえずそう答えるということで、すべてではなかったようだ。何故、時代小説なのかという問いには、明確に答えられなかったが、何故文章を読んだり、書いたりすることに興味をもったか?の問いには、明確に答えている。その時期は極めてはっきりしているという。小学校高等科5年、6年の時期だ。この時期、周平さんは吃音に悩んでいた。

周平さんのどもり
 《私のどもりは、どもりながらも話せるあのどもりではなかった。緊張すると声が出なくなる性質のものだった。ことに教室で指されたりするとき、まったく声が出なかった。本を読むように言われて、教科書を手に立つことは立つ。だがそのまま、一言も声を出せずに、座れと言われるまで立っているのである。
 むろんそういう状態は異様な感じをあたえるわけだから、同級生は変な顔をし、中にはくすくす笑う者もいた。その笑い声は私の背を刺した。私は顔面蒼白になり、口を開いたリ、しめたりして何とか本を読もうとするのだが、声は出て来なかった。私は屈辱感にまみれながら、先生が座れというまで立ち続けた『周平独言』》

 藤沢さんはこのどもりを奇妙なドモリだという。
 どもりといえば、一般的には、「どどど…」と音を重ねるいわゆる連発のどもりを想像する。音を重ねながらも喋れるどもりだ。藤沢さんのどもりは、いわゆる難発のどもりだった。喋ろうにも、声が出てこないのだ。どもりはじめのどもりは、「どどど・・」と音を繰り返したり、「どー」と引き伸ばしたりする。それが進展すると、ことばが詰まって出て来ない、いわる難発のどもりに移行する。成人のどもりの多くは、この難発のどもりだ。どもり始めてすぐに、この難発のどもりになったのだから、藤沢さん自身も、周りの人も、随分と驚いたことだろう。奇妙などもりだというのを藤沢さんはこう説明する。

 《教室の中でだけ、私は全く声を出せない子どもになったのである。授業が終わって廊下に出ると、私のこわばった舌はゆるやかに回復し、普通に喋ることができるようになる。
 だが教室の中は地獄だった。音楽と図画の時間は平気だった。図画は喋らなくとも描けるし、音楽のときはちゃんと声が出たのである。一番苦痛だったのは国語の時間だった。指名されて本を手にして立つ。だが舌は石のように動かず、口をパクパクやってみるだけで、額に冷や汗がでる。こういうことが重なると、しまいには私は座れという声がかかるのを待つために立っているだけになった》『周平独言』》(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/15

藤沢周平さんと吃音 2

 「吃音を治す努力の否定」を提起したとき、藤沢周平さんにお手紙を差し上げました。そして、次のような問いかけをしました。そのときいただいたお返事を紹介します。

ゝ媛擦稜困澆箸呂匹里茲Δ覆發里世辰燭
吃音のとらわれから解放され、吃音を克服されたきっかけは何か
8什漾吃音をどう思っているか
ぁ垉媛擦鮗す努力の否定》をどう思うか

藤沢周平さんからのお手紙
〇笋里匹發蠅稜困澆箸
 普通の会話ではどもらないで、教室で指名されて本を読むとき、また講堂、運動場で大勢の前で発言しなければならない、といった状況で、最初の発声(発音)が出てこない、というものでした。期間は小学校5年6年の2年間です。
 指名され、本を持って立ち上がるたびに声が出ないという状態は、子ども心にも大層屈辱的なことで、苦痛でした。ひたすら指名されないうちに授業時間が終わることを祈りました。
 新聞か雑誌で、吃音矯正の本の広告を見て、見本を取り寄せたこともありますが、結局本は買いませんでした。多分、金額が子どもの手に余ったからでしょう。親たちも、私が学校でそういうふうであることを知っていましたが、手の打ちようがないという感じで、心配しているだけでした。
 友達との普通の会話には不便を感じなかったのですが、やはり劣等感があり、友達も限られた2,3人だけで、孤独な状態を好み、本を乱読するようになりました。

△い帖△匹Δ靴銅ったのか
 この記憶が全くありません。推定を言えば、中学の頃に級長になったりして、無理にも発言せざるを得ない立場におかれ、次第に自信をもつようになったかと思われますが、確信はできません。
 いつの間にか治っていた感じです。

今、どもりについてどう思うか
 昨年、生まれた土地で30年ぶりに小学校の同級生に、20年ぶりに中学校で教えた人達に会いました。そのとき印象的だったのは、私を含めて4人いた小学校のどもり仲間が全てどもりが治っていることでした。教え子の中にも一人、大変などもりの子がいて自分の経験から矯正法らしいものを放課後二人でやってみたことがあるのですが、その子も現在はきれいに治っていました。
 こういうことから、今私は吃音はいつか治るものなんだなという感じ、楽観的な感じを強く持っているわけです。
 したがって、吃音観というものも、「そう深刻なものでなく、やがて治るものだ」という楽観論になるわけですが、私には吃音の心理的なあるいは生理的な構造というものが、全然分かっていませんから、こういう見方は、あるいは軽薄なのかもしれません。
 現在吃音に悩む人間にとっては、経験からいってもこの世は地獄みたいな深刻さがあるわけですから。
 なお、私の吃音の時期を考えると、吃音は同調できないものへの拒否のようなものだったと思います。吃音はいつも過度の緊張を伴って現れましたが、この緊張は参加へのためらい、拒否の姿勢だったように考えられます。したがって当時の孤独感というものも、むしろ吃音を構成していたひとつの要素だったかもしれません。

さ媛擦鮗す努力の否定について
 全面的に賛成です。
 吃音がそのように市民権を取り戻すところに、治る契機がひそんでいる気がします。小学校時代のどもり仲間が、現在治っているのも、どもることをあまり気にしなくなったせいかもしれないという気がします。
 ただ、治す努力―テクニックは否定していいと思いますが、治る希望を否定なさらないようにすべきではないでしょうか。治ることは、吃音者にとって依然絶対的な願望だと思いますので。
 あなたがたの努力を「治すために、治す努力を否定する」ものかと想像し、大変興味深く、また敬意をもって受け取りました。(1974年5月)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/14
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