伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

竹内敏晴

「ことばの名人」・谷川俊太郎さんとの対談〜第29回全国公立学校難聴・言語障害教育研究協議会の全国大会山形大会での記念対談〜

 僕は、これまで、吃音ショートコースという2泊3日のワークショップで、いろいろな分野の方と、対談をしてきました。それぞれその分野での第一人者の方でした。
谷川さんとの対談 舞台 今日、紹介するのは、僕の主催する吃音ショートコースではなく、第29回全国公立学校難聴・言語障害教育研究協議会の全国大会山形大会での記念対談です。対談の相手は、詩人の谷川俊太郎さんでした。谷川さんとは、その2年前に、竹内敏晴さんと共に吃音ショートコースにゲストとしてきていただいており、お話したことはありました。それでも、山形大会では、600人の聴衆の前での公開対談ということで、今から思っても、よく引き受けたものだと思います。「ことばの名人」である谷川さんと、「ことばの迷人」の僕との対談について書いている「スタタリング・ナウ」2000.9.15 NO.73の巻頭言を紹介します。


ことばの迷人
   日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「谷川さんは、俊太郎という名前はお好きですか?」この最初の切り口を考えた以外どう展開していくのか、見当がつかないまま対談が始まった。
 第29回全国公立学校難聴・言語障害教育研究協議会の全国大会が山形で開かれ、「内なることば・外なることば」をテーマに、詩人の谷川俊太郎さんと対談をした。大会事務局からこの話をいただいたとき、谷川さんの気さくな人柄を知っているので、気楽に引き受けたものの、日が近づくにつれてだんだんと不安になってきた。
 詩集だけでなく、対談集、散文、ことばについての著作など改めて読み直し、どんな話が展開できるか、準備を始めた。読めば読むほどに自分が谷川さんとの対談相手としては、あまりにも役不足であることが感じられ、安易に引き受けたことを悔いた。しかし、もう後へは引けない。聴覚言語障害児教育に携わる、ことばについて日頃実践している教師、600人ほどの前での公開対談だ。びびらない方がおかしいのだと開き直った。
 谷川さんがことばの名人なら、私はことばの迷人だ。ことばに迷いに迷い生きてきた。ことばの迷い人として向き合えばいいのだ。そう考えたとき、私の中の気負いが消えた。
 大きなホールの600人以上の聴衆をほとんど意識することなく、谷川さんとの対談を楽しめた。
谷川さんとの対談 ふたり 『ことばの迷人』とは何か。
 谷川さんは、私たちに「内的などもり」という洞察に満ちた文章を寄せて下さっている。
 ―自分の気持ちの中では、しょっちゅうどもっています。それは生理的なものではないので、吃音とは違うものですが、考えや感じは、内的などもりなしでは言葉にならないと私は思っています。言葉にならない意識下のもやもやは、行ったり来たりしながら、ゴツゴツと現実にぶつかりながら、少しずつ言葉になって行くものではないでしょうか―
 このようなことは、カウンセリングの訓練の中のひとつである、自分自身がクライエントになっての面接場面のテープを聞くと、誠によく分かる。普段話しているのとは全く違い、まさにゴツゴツと行ったり来たりしている。内的にも、外的にもひどくどもっている自分にびっくりする。
 どもる人の言葉には滑らかに流暢に話す人にはないリアリティがあると、どもりを肯定的にとらえて下さる人は多い。どもりは個性だと言い切って下さる人もいる。
 どもりを忌み嫌い、人前では絶対にどもりたくない思いばかりが強かった21歳までの私は、人と話す時、いかにどもりがばれないようにということばかりに腐心した。向き合う相手のことなど少しも考えていない。このことばはどもるか、どもらないか。自分の気持ちを探り、自分の中の言葉を探るのではなく、どもらない言葉だけを探っていた。例えば、本当は『悔しい』と言いたかったのに『く』がどもると思うと、とっさに『さみしい』とか『悲しい』などと言ってしまう。言った後で、常に不全感が残った。自分の気持ちや、ことばを大切にせず、どもらない音だけを散らせた。私の、このことばにリアリティが出るはずもない。これを、「ことばの迷人」と言わずになんと表現しようか。まさに、ことばの迷い人が、当時の僕にはぴったりとするのだった。
 どもる人のことばを個性と言うには、大きなポイントがある。それは吃音を受容しているかどうかだ。完全に受け入れているとまではいかなくても、肯定的に考える。少なくとも、吃音を忌み嫌い、強く否定していないことが、決め手だろう。
 「どもってもいい」と、吃音を自分自身が受け入れると、いかにどもっても自分の気持ち、思いを表現しようとする。話すことは苦手でも、文章なら大丈夫だと書くことにも目が向いてくる。どもりを強く否定していた時は、どもりを治そう、少しでも軽くしようとの選択肢しか思い浮かばなかったが、どもりを受け入れたとき、選択肢は人生、趣味などとも関連して、広がっていく。
 吃音の経験があり、その人なりの人生を生きた人は、一時は吃音を否定していたとしても、吃音否定のままでいたわけではない。
谷川さんとの対談 垂れ幕 谷川俊太郎さんの父君、著名な哲学者の谷川徹三さんも、自分の名前が言えずに悩み、1か月、伊沢修二の楽石社で矯正を受けた。しかしその後は吃音を受け入れ、個性として生きたからこそ、今日の谷川さんの吃音への思いにつながったのではないか。ことばの迷い人にならないために、まず、どもってもいいが基本なのだ。(「スタタリング・ナウ」2000.9.15 NO.73)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/03/26

こころに響く「ことば」

 この頃の「スタタリング・ナウ」には、竹内敏晴さんがよく登場しています。改めて、深く、そして親しく、おつき合いをさせていただいていたのだなあと感謝しています。
 今回、紹介する、NHK総合テレビ『ホリデーインタビュー』の収録の日のこともよく覚えています。聞き手である斎藤季夫さんも、僕たちの大阪での定例レッスンに参加されました。レッスン修了後、レッスン会場がインタビュー会場に変わり、竹内さんのインタビューが始まったのでした。

   
こころに響く「ことば」
                         演出家・竹内敏晴


 ―演出家、竹内敏晴さん、75歳。竹内さんはいきいきとしたことばを取り戻すレッスンを主宰しています。レッスンの第一歩は人に自分のよびかけが届くかどうかです。―

 5月3日(祝)朝6時30分、NHK総合テレビ『ホリデーインタビュー』は、こんなナレーターのことばから始まりました。
 番組の収録は、4月の大阪でのレッスンの時、行われました。レッスン風景もおりまぜながらのインタビュー番組です。聞き手の斎藤季夫さんも2日間のレッスンを体験されて、レッスン終了後にインタビューは始まりました。

斎藤:私自身も、レッスンに参加させていただいた。あれはレッスンと言いますけども、むしろ拝見してると、教えるというよりも、いろいろなことを気づかせようとなさってますね。

竹内:自分自身のからだが、非常に生活に追いまくられていて、自分ではいろいろコンディションを整えたりしてるけれども、自分の気づかないところまで、こわばって、緊張して、固まってる。からだが固まってるというよりも、身構えてる。人様にどう見られるか、人様にどう答えようかと身構えている。その身構えに気づくというのが、一番わかりやすい言い方でしょうか。

斎藤:今、レッスンをずうっと続けていらっしゃって、参加する人の姿から今の世の中、からだを固くするような様子が多いように見えますか。

竹内:はい。とにかく、疲れてるというか、いろんなことで、閉じこめられていて、くたびれてるからだが非常に多い。まず休みたい、やすらぎたい。二日続きのレッスンで、一日目ではほっとするけど、よく分からない。『あー、そうか。自分はこんなに疲れてたのか』とか『こういう時に、こんなに固まってたのか』と、本当に気がつくのは、二日目のお昼過ぎくらいで、しみじみと分かってくるわけです。その時、初めて自分がはっきりしてきて、それから、息が深くなって、歌やことばで、まっすぐに、自分を表現していくという方へ一歩一歩上がっていくという風になってくる。レッスンというのは、自分のからだの中から、動いてくるものが、湧き上がってくるようなものがあって、丁度、お祭りみたいなんです。中からいきいきとしたもの、自分の手応えみたいなものがあります。

斎藤:からだの緊張に自分自身、気づいていない。ところが、こういう所に来て、やすらぐ。それがことばと結びついてるんですか。

竹内:うまく声が出ない、話しかけが十分でない。人付き合いがどうもうまくいかないというような人の場合には、横になってからだをゆすってもらっても、人に自分のからだを、自分の重さを預けることが初め、なかなか出来ない。人に自分のからだを預けるということ自体、抵抗があるわけです。だから、私は初めに、触れ合ったり、実際にからだに手をかけて、とやってみる。『あー、そうか。こうやってると安心できるんだ』ということがわかってくるということがあります。そうすると、自分のからだがふあっとしてくることを感じると、どんなに今まで自分が固めて、周りに向かって身構えてたかというのが、わかってくるようになる。そうすると、息がふおーっとしてくる。息がふおーっとしてくるということは、要するに、声が出てくるということです、私に言わせると。
 しゃべれるっていうことは、一番最初に息が出るということです。息が出なきゃ、声が出ないわけです。ところが、息を吐くということを、ほとんど考えずにしゃべりたがる。しゃべろうということだけで一所懸命になっているから、人の顔なんか見ていない。自分の中で一所懸命、声を作ろう、ことばを作ろう、ということばかりで、相手の人に、自分が話しかけるっていうことを忘れている。というか、人がもう、見えてなくなってる。

斎藤:竹内さんご自身が小さい頃、音を失っていらっしゃった時代があるわけです。そういう体験が生きてる、土台にある、ということでしょうか。

竹内:この頃になって、つくづく思うけれども、それ一つから歩いてきたという気がします。耳が聞こえるようになったからといって、人のことばがわかるわけじゃないです。いきなりいろんな音が一度に入ってくるわけで、その中からことばというものが聞き分けられるというプロセスがありますし、その次に自分が今度は、そういうことばを発してくというプロセスがもっとずっと大変なわけです。僕が「斎藤さん」て言うと、斎藤さんがこう目をぱちぱちさせる。すると、僕の声が斎藤さんにすうっと届いてるってことが自分でわかるわけです。そうすると、頷かれる。自分の声が届いた。斎藤さんから、また声が出てくると、それが僕のからだに浸みてくる。自分の発したことばが相手に届いて、相手からその答えが戻ってきて、自分のからだに浸みてきて、またこれで話ができる。この喜びというのがすごくあったんです。
 ところが、そうやってるうちに、あれっ、変だなと思うことがあります。僕は自分がうまくしゃべれないから、よくしゃべれる人はAがBにしゃべって、BがAにしゃべって、ことばのキャッチボールみたいなことがすっーと出来てるんだとばかり思ってたんです。ところが、しゃべってるのを聞いてみると、なんか様子が違うわけです。こっちの人はこっちの人で自分の勝手なことを言ってる、こっちの人はこっちの人で勝手なことを言ってる。会話してるっていうより、各自が勝手なことを言ってるばかりで、全然相手に、自分のことばが届いてないじゃないかっていうのが突然見えてきたときに、ものすごく慌てたんです。

斎藤:それは他人同士のことばのやりとりですね。

竹内:それから自分のことで言えば、自分が一所懸命話してるのに、ことばが届いてることはわかるわけですよ、向こうの反応で。ところが、相手から返ってくることばっていうのは、決して僕に触れようとしてるんじゃなくて、なんか、触れないために、こういう風に壁を作ってる。ことばっていうのは、コミュニケーションの道具という言い方がよくありますが、いやー、コミュニケートしないための道具なんじゃないかなっていう風に、一時期はとっても強く思いました。

斎藤:そこで、発せられてることばはコミュニケートしないとしたら、何なんですか。ただ、単なる音なんですか。

竹内:いやあ、そうばっかりは言えないと思いますよ。自分を守るために、音やことばで防壁を作ってるっていう作用があるように思います。逆にこちら側もそれを知って、それならば仕方がないから距離を置いたまんまにしておくとか、或いは、その防壁を、もっと破って、或いは、その中にしみ込んでくるように話しかけるとか、という風なことは出来なければだめなんだなあと思うんです。相手に何かが伝わるってことは、さっき、いくっかレッスンをしましたけれども、本当に、ことばそのものが相手に伝わるっていう、直にことばが、相手のからだに触れてゆくことですよね。

斎藤:ことばがですね。

竹内:ことばと言った方がいいですね。声も含めて。ことばっていう、まるごとの、或いは、わたしという人間そのものと言ってもいい。それが触れていくっていうことであって。だって、ことばっていうのは、聞いてる相手のからだの所で、成り立たたなければ意味がないわけでしょ。私がいくら一所懸命しゃべったって、これは、自分が一所懸命しゃべってるだけの話でね。相手のからだで、はっと、『そうか』っていう風に納得する様に成り立った時に、初めてことばとして成り立つのであって、こちらでいくら一所懸命しゃべっても、それはことばとは言えない。ただ、音声を発してるだけです。そう意味ではさっき、あなたがおっしゃってたことのお答えが今、やっと出来上がった。音声にすぎない。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/03/10

『新・吃音者宣言』の本をめぐって〜応援のメッセージ〜

 芳賀書店から発行された『新・吃音者宣言』の本をめぐって、小中学校の同級生からのFAXの話、芹沢俊介さんの書評、本に寄せられた竹内敏晴さんの寄稿文、と紹介してきました。いつも、僕の周りには応援してくださる方がいるということを実感します。
 今日は、このときの「スタタリング・ナウ」の最終ページに寄せられた安藤百枝さんからの応援メッセージを紹介します。安藤さんとは大阪教育大学からのつきあいで、長く横浜の相談会の企画運営をしてくれていました。仲間の中で一番若くて元気だったのに、残念ながら70歳で亡くなりました。安藤さんの年をはるかに越えてしまったことにも感慨を覚えます。本当にいい仲間でした。
 昨夜、今年の吃音親子サマーキャンプの芝居の事前レッスンの日程について、芝居を担当してくれる、東京学芸大学の渡辺貴裕さんから連絡がありました。
 心強い仲間たちと、2023年度も楽しく活動できそうです。
新・吃音者宣言 表紙
《読者の広場》
  私も仲間のひとりに
              小平市立障害者福祉センター 言語聴覚士 安藤百枝

 立春、今日の東京はポカポカ陽気です。
 2冊の本、売れゆきは如何ですか。この本は何としても自分の目でみつけたい、店員にも尋ねないで自分で、という変なこだわり(?)をもって、昨年暮れから本屋の前を通るたびに立ち寄ってさがしていました。昨年は紀伊国屋にも見当たらず、八重洲ブックセンターに行こうかな、と思っていたのですが、1月中旬、たまたま立ち寄った家の近くの本屋の教育・福祉のコーナーに2冊が肩を並べているのをみつけ、宝物でもさがし当てたように、思わず「あった!!」と声を出してしまいました。1週間後、紀伊国屋で別の本をさがしていたら2冊並んで「オレ達ここにいるよ」と呼んでいるように目にとびこんできて、また買ってしまいました。しばらく本屋に行かない方がよいかもしれませんね。本の方から呼びかけられて、見つけるたびに買ってしまいそうだから…。
 『吃音と上手につきあうための吃音相談室』(芳賀書店)は、ガイドブックより、特にお母さんへの章がさらに読みやすくなっていました。『新・吃音者宣言』(芳賀書店)は『スタタリング・ナウ』の一面の巻頭言を集めたものですが、そのエッセイは毎月心待ちにしていて、帰宅するなり玄関に座りこんで読み、夜もう一度読み、して一字一句心にきざんでいたはずなのに、こうして本になって読み返してみるととても新鮮に感じます。
 新たな感動です。座右の書になりそうです。
 竹内敏晴さんの、伊藤伸二さんと仲間たちの(5)の最初の部分の本の紹介は、すごいですね。私はうなってしまいました。こんなにぴったりと的を得ていて、人をドキドキさせ、ジーンとさせることば、表現!! 何度読み返しても「ウーン」うなるしかない。この、今の気持ちを表現できることばが見つからないのがくやしい。願わくば、私も仲間のひとりに入れていただいて、伊藤伸二に、竹内敏晴に聴き入りたい。見つめていきたい。
(「スタタリング・ナウ」2000年4月 NO.68)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/03/06

伊藤伸二さんと仲間たち 2

 昨日、運転免許更新のため、高齢者講習の一貫の運転技能検査を受けてきました。実車による指導ではなく、運転技能検査を受けることになったのは、ここ3年で一度交通違反をしたためです。常に劣等生だった僕は、試験を受けていて何も分からなくて焦りまくっている夢をよくみます。夢からさめて、「夢だったのか、よかった」と思うことがよくあるのです。いくつになっても、試験というものは好きになれません。
 昨日の検査は、指示制限速度で走る、一時停止、信号停止、段差のあるところでのアクセルとブレーキ、この4つの観点での検査でした。普段どおりにすれば何も問題ないとわかっていても、普段乗っている車ではないし、隣に試験官が同乗しているので、緊張するし、いい気分ではありませんでした。ひとつありがたかったのは、「マスクをする必要はありますか?」と尋ねて、「どちらでもいいです」と言われたことです。普段、強制される所以外はマスクをしない生活をしているので、短い時間でも苦しいのです。マスクをしないで技能検査を受けられたのはラッキーでした。そのせいか、無事、100点満点で合格しました。検査係の講評と雑談の中で、僕が、「長い間ずっと、無事故、無違反で、ゴールド免許だった」と話したとき、「どういうことに気をつけていますか」と尋ねられました。「車間をかなりとること」と答えました。僕の違反はスピード違反だけですが、おそらく、警察が捕まえようと見張っている場所で、ついスピードが出たとき、たまたま僕の前に車がいなかったという状況で、防ぎようがありません。しかし、それもこれからは気をつけようと思います。技能検査が無事に終わったので、今度は認知機能の検査と講習を受けて、免許交付です。こうして、否応なしに、自分の年齢を意識させられますが、後しばらくは、車での旅は続けます。
 さて本題です。竹内敏晴さんによる「伊藤伸二さんと仲間たち」の文章を今、改めて読み返してみて、竹内さんの晩年に、とても豊かな濃い時間をともに過ごさせていただいたなあと思います。大学のあづまやでのせりふの練習も、仲間との「夕鶴」の芝居も、名古屋と東京での「ほらんばか」の舞台も、鮮やかに思い出されます。
 竹内さんが亡くなったのは、84歳。僕は79歳、だんだんと竹内さんの年に近づいていくのが、とても不思議な感覚です。一日一日を大切に生きていきたいと思います。

伊藤伸二さんと仲間たち
      演出家・竹内敏晴

   (3)
 札幌における、全国規模のどもる人々の集まり―山の中腹のコティジに泊まり込んでの―がわたしにとって忘れ難い。
 その半年くらい前だったろうか。戯曲「夕鶴」の「つう」のモノローグをことばのレッスンの材料に取り上げたことがきっかけになって、対話のレッスンもしてみたいということになり、いくつかのシーンを男と女に割りふって読んでみていた。それをつなげて―全幕ではないが―上演してみたいという希望はだれから出たのだったか。伊藤さんも「与ひょう」の一人として夢中になって稽古していた。
 どもる人たちがシバイをやる、ということだけでかなり衝撃的だったと後で聞いたが、出演した人たちは緊張し切っていた。が、それを上回ったのが熱意、と言うよりも悲願のような凄まじい集中だった。ひっかかればひっかかったで、ずうっと息が続いてせりふがひろがって行けば行ったで、客席を埋めた、やはりどもりの人々は、息を詰め、ほうっとにこにこし、拍手し、時に野次さえ飛び、場内は一つに揺れて息づいていた。特に、最後、衰え果てた「つう」が布を抱いて現れて、とぎれとぎれに別れを告げるシーンが私の胸に刻まれている。
 数年たった昨年秋、大阪でどもる人のための公開レッスンと上演の会を行った時、メンバーは真っ先に、も一度「夕鶴」をと言った。これはある意味で「表現のことば」のレッスンの一つの里程標になるのかもしれない。

   (4)
 伊藤さんとわたしは斜面に立つ小さなあづまやに座っていた。まわりに繁っている樹との間から初夏の空が見え、もうヤブ蚊が稔っていた。
 伊藤さんは小さな台本をひろげて、熱のこもった声で朗々とせりふを読み上げた。ずいぶん稽古してきたな、とわかる調子だった。ほとんどどもらない。まっすぐにすらすらとことばは進む。しかし、聞いていたわたしはだんだん気持ちが落ち込んで来て、なにも言えなくなった。汗ばんで真っ赤な顔が、実にいきいきと躍るように声張り上げているのに。
 この日のわたしの手帳には「ほとんど絶望的になる」とある。つきあって数年、とびとびには違いないが、かなりレッスンもして来、ことばに対する考えは共通しているつもりでいたのだが、からだにはなにも滲みていなかったということだろうか。「説得セツメイ的口調の明確さによる言い急ぎを、一音一拍の呼気による表現のための声にかえてゆくこと」
 伊藤さんはこの年の4月からわたしの、大学での講義に出席するために大阪から名古屋まで毎週通って来ていたのだった。その講義の前の1時間ばかりを、かれは、夏にやる公開レッスンでのかれの持役の稽古にあてたいと言うのだった。その第一回のことである。
 この時まだわたしは伊藤伸二の決意をさだかには知っていなかった。かれはこの夏、いかにしても舞台に立って、一つの役―これは短いが、ことばが力強くリズムの美しい劇で、わたしはかれをその情念のほとばしる主役に指名したのだった―しかも主役を「やり切る」こと、にいわば自分を賭けていたのだということを。
 この本を読まれたら分かることだが、かれの、どもりへの苦しいこだわりは、小学校2年生の時、学芸会のせりふのある役から外されたことから顕在化する。かれにとって、この夏の舞台はそれ以来40年の苦悶に決着をつけ、次のステップへ越え出るための闘いにほかならなかったことを、わたしは後になってしかと知ることになる。
 だが、かれの語り口の、明晰で丁寧で説得的な口調は容易に崩れなかった。たぶん、ここに現代の吃音の背負っている重荷が凝縮しているのだろう。運動のリーダーとしてのかれには殊更それがかかっていることもあるのだろうが、ほかの人にとっても自分の情念なりイメージなりを豊かに外にあらわしてゆく、息づかいの深さ強さや、声音の高低の自在や、リズムの激しい動きなどは、より無自覚に、抑圧されているに相違ない。その日わたしは、伊藤さんの熱意と向かい合うために改めて身を正した。
 上演は凄まじい気迫だった。東京の劇団にいる青年が幕が下りた後訪ねて来て、これほど感動した芝居はなかった、と息をはずませて言った。

   (5)
 この本に集められている文章を読んでいると、あちこちから、遠くから、ざわめきながら波頭が寄せて来て、あちらの岩を沈ませ、こちらの砂州を流し去り、崖に打ち寄せ、気づいてみると、一面の潮騒が目の続く限り海岸を浸してゆくのを見るような気がして来る。
 伊藤さんは、どもると聞けばどんなところへでも出かけてゆき、話に聞き入り、メールを送り、他者とのコミュニケーションを広げる道を探るためには、ありとあらゆるセラピーだのメソッドだのへ学びにゆき、多くのセルフヘルプグループとのつながりと学び合いを求める。そのパースペクティブの広さと人間でありうることの根底にしかと根ざそうとするエネルギーのたくましさに、わたしは脱帽する。
 人間にとって「ことば」とはなにか、「表現する」とはなにか、そして人と人とがかかわり合い出会うとはどういうことか、について、わたしは伊藤伸二に聴き入り、問いかけ続けてゆくだろう。仲間のひとりとして。
  『新・吃音者宣言』(発行:芳賀書店)
    この本に寄せて竹内敏晴298ページ「伊藤伸二さんと仲間たち」より転載


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/03/03

伊藤伸二さんと仲間たち

 教育評論家の芹沢俊介さんが書評を書いてくださった『新・吃音者宣言』。その本に寄稿してくださった竹内敏晴さんの文章を紹介します。
 耳が聞こえず、しゃべれなかった人間だからと、竹内さんは、僕たちのことを仲間だと見てくれていました。そこを原点とするお話にいつも励まされ、勇気づけられました。竹内さんの文章を2回に分けて、紹介します。

伊藤伸二さんと仲間たち
      演出家・竹内敏晴


   (1)
 せんだっての夜伊藤さんに電話した。なかなか出て来ない。やっと声がしたと思ったら、いつものあけっぴろげでエネルギッシュな伊藤さんと打って変わって、ひどくむっつりして口が重い。
 からだの具合でも悪いのかと気づかいながら用件を述べていると、突然口調ががらりと変わった。「どうも、ハラが立つというかナサケナイというかムシャクシャしてたので」と、とたんに堰を切ったようにしゃべり出した。
 かれはある会合から帰って来たところだった。その会合でかれは、どもりに苦しんだ自分の少年時代、どもりを治そうと必死になってさまざまな療法に取り組んだ青年時代の悩みについて語って、その努力は遂に報われなかったこと、どもりが治った後の人生を夢みてあせりまくるよりも、今、どもっている自分を受け入れ、どもりながら自分を表現しつつ、人生を充実させることを目指そう、と志すようになった転換について述べた、らしい。つまり、かれの編集した本の名で言えば「どもりと上手につきあう方法」を主張したわけだろう。
 ところが、ある研究者が猛然とこれに反撥して、どもってもいいという前提に立って発言するのは困る、ナオルという前提に立ってこそ研究も実践も意味がある、と、かれの話を否定しようとした、と言う。では実際にナオセルのですか、というかれの体験による反論がさらに激しい反撥を招く、といった有り様だったらしい。
 どもったっていい、ってことは、アタリマエだと思うんですけどねえ、と言うかれの溜め息は、ひっくり返せば、どもってはイケナイ! と指さされ続けたら、息がつけない、生きちゃいけないよ、という主張だろう。

   (2)
 初めて大阪のどもる人たちの集まりに呼ばれたのは十年以上前になる。当時わたしにはどもりについて無自覚なイメージがあったらしい。わたし自身難聴言語障害児で、いくらか耳が聞こえるようになり、やっとこせっとこ発話を試みつつあった20歳代の頃は、ひっかかりひっかかり、後退りしながらのようにしゃべっていた。どもってる友だちのひとりは、後に国立劇場の照明課長になったが、若い頃は呼ばれてもすぐに返事ができないので、仕事の仲間から「ポー」とか「ポーちゃん」とか半ばケイベツ半ば親しみを込めて呼ばれていたが、このような友だちに共通のことは、「す、す、す…す、」とからだをよじらせるように力をこめているのが、一たん「すきだ!」と爆発するか、振り出すように声が噴き出して来ると、そのことばは、びしっとこちらのからだを打つ。そのことばのリアリティは、なまなかペラペラしゃべってる連中など吹けば飛ぶような存在になってしまう。
 その迫力のイメージがからだの底にあったから、わたしはその会の人々がしゃべるのを聞いてあっけにとられた。たしかにことばの始まりはつっかかる人もあるけれども、大かたの人は一たんしゃべり始めたら一瀉千里のようにスラスラとことばが続いてゆく。えっちらおっちらことばを紡ぎ出すみたいにつなげてゆく苦労ばかりを経験して来たわたしは茫然とした。こんなにしゃべることができる人たちに、いったいなにをレッスンすることがあるのだろう、というのが正直な感想だった。
 それでも少しばかりレッスンをし、座りこんで話をし合ったりしているうちに、いやこれはたぶんなん回かの集まりの後にだろうと思うが、わたしのからだを取り巻いてしみ入って来るように、見えて来たことがあった。
 この人たちは、凄まじい勢いで「ことば」に追いまくられている、とわたしは感じた。とにかく、一刻も早く、単語を並べて文章にして一行を言い切らなくてはならない、ただそれだけにのめりこんで息を詰めている、と。
 これは自分の感じていることをことばにして他者に手渡していこうとする、表現の苦闘とは関係がない。自分のことばではなく、規格化された情報の文章を、いかに正確に、しかも敏速に伝達するか、という現代技術社会の要請に、圧し潰されかかっているからだたちが、必死になってもがいている姿であり息づかいなのだ。
 これが現代のおおかたの吃音だとすれば、かって武満徹が書いた吃音のリアリティなどは別世界のことである。わたしは覚悟しなくてはならなかった。わたしが目の前に見、そして立ち向かわなくてはならないのは、―かれらからの要請とすれば、ひっかかりを矯正して、なめらかにしゃべることができるための技術だろうが―実は、もしそれができたとすれば、その時目の前の人々は、単なるワープロの音声化ロボットと化しているだろう、ということだ。
 問題の核心は、しゃべろうとしているのが「自分のことば」ではない、ということだ。わたしがレッスンをすることに、もし意味があるとすれば、それは、ただ、他人のための情報伝達の素早さではなく、ひっかかろうがなめらかだろうが、まず自分のことばを語ること、だろう。それが目の前の人々にとって無用の、反撥を買うことであったら、それも止むを得ない、と。
 わたしは、ことばとはなんだろうか、を話し合うことと、ことばに不自由なものに共通する課題として、息の深さと音のつながりの目覚めから始めることにし、呼びかけのレッスンを試みた。レッスンは、からだの緊張を弛めることへと遡ったり、劇のせりふを怒鳴ってみる、と先へ飛んだりしつつ、笑ったり口論したり涙ぐんだりしての十年間だった。 伊藤さんは、たぶん賛成のことも首を傾げることもあったろうが、とにかく終始その場に身を置き、真っ先に動き、仲間を励まし、落ち込みかかるのを支え続けていた。私のレッスンは、かれの努力の地盤の上にわずかに芽吹いた草花に過ぎない。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/03/02

ライオンと魔女

 早くも2月に入りました。学校現場では学年末に向け、しめくくりの時期でしょうか。
 明日は節分、そして立春。まだまだ寒いですが、春の到来を待ちわびながら、2022年度を振り返り、2023年度を展望しています。
 過去の「スタタリング・ナウ」を紹介していますが、今日は、第10回吃音親子サマーキャンプの報告特集号の巻頭言です。タイトルは、そのときの劇のタイトルからとりました。
 「スタタリング・ナウ」NO.62(1999年10月)より、紹介します。

ライオンと魔女
              日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「ここは私の支配する国ナルニアじゃ。皆の者、雪を降らせよ!」
 何人ものかわいい魔女が入れ替わり立ち代わり登場する。男の子まで楽しそうに魔女を演じている。歌あり、乱闘ありの今年の吃音親子サマーキャンプの演劇は、これまでになく盛り上がった。子どもたちは楽しそうに役を演じていた。
 小学校2年生の秋の学芸会で、どもるからとセリフのある役から外されたことで、私は吃音に対して強い劣等感をもつようになった。そして、朗読も発表もできない人間になってしまった。私と同じようにキャンプに参加する子どもたちも、人前で話したり、演劇をすることを苦手とする。役割を決めるとき多くの子が、できるだけセリフの少ない役を選ぼうとする。また、演劇があるからとキャンプへの参加を渋る子がいる。
 苦手なことをいつも逃げていては自信は育たない。どもってもいいという環境の中で、精一杯苦手なことに取り組んでほしい。そして、思いきり声を出すことの喜びを、楽しさを、味わってほしい。表現する喜びを、私にもできるということを、体験してほしい。キャンプでの演劇はその祈りが込められている。
 吃音親子サマーキャンプが始まった頃、私たちは竹内敏晴さんのからだとことばのレッスンに取り組み始めた。吃音を治すためにと取り組んだ、かつての言語訓練とは全く違い、私たちは楽しく声を出し、表現する楽しさ、喜びを感じていた。
 このからだとことばのレッスンを子どもにも体験してほしい。竹内敏晴さんから学んだレッスンを子どもと共に経験するには、劇の練習と上演は欠かせない。竹内さんもこのキャンプを大切に考えていて下さり、宮沢賢治の作品や民話を子どもたち用に脚本を書き下ろし、演出・指導してくださるようになった。そして、今年のC・S・ルイスのナルニア国ものがたりの『ライオンと魔女』だ。竹内さんの頭の中にあるストーリーを、子どもたちのために一気にシナリオ化して下さったものだ。
 スタッフがまず合宿で竹内さんから演出指導を受ける。その合宿で、劇が少しずつ形として現れてくるのがおもしろく、私たちがまず楽しんで稽古に励んだ。そしてキャンプでは、子どもたちが稽古に入る前に、見本としてスタッフが劇を演じるのだが、スタッフが楽しく取り組むのが子どもに移っていくのだろう。見本を見ながら、魔女をしたいと言う子どもたちが何人かいた。
 配役を決めるときには、子どもたちと何度も話し合い、押しつけにならないように心掛けるのだが、その子に課題を突破してもらいたくて、つい、役を薦めることがある。セリフの少ない役を選んだ子に、違う役をしてもらいたいと提案すると、こんな答えが返ってきた。
 「去年、私はあまりしたくない役を薦められてしてしまった。今年のキャンプは絶対自分のしたい役をするんだと、キャンプに来る前に決めていたんだ。私はセリフは少ないけれど、この役がしたいのだ」
 子どもたちは、セリフの多い少ないだけで役を決めているのではなく、何の役をしたいのかで決めていたのだった。セリフの多い少ないで役を選ぶのではないかと思い込んでいたのは、私たちだったのだ。その一方で、魔女役を薦められたが渋っていた女の子が土壇場になってスタッフの提案を受け、決めていた役に代わって魔女役をし、見事な魔女を演じた。あまりの見事さに、その子どもの時には大きな拍手が思わず沸き上がった。大きな自信になったことだろう。後押しすることも時に必要なのだ。
 吃音についてじっくり話すことをとても楽しみにし、もっと話したいという子がいる。演劇をとても楽しみにしている子どもがいる。その役を決めるプロセスの中でも、話し合い、提案を拒否し、自分を主張する。そして、苦手なことにも仲間に支えられながら取り組んでいく。吃音親子サマーキャンプは10年の経験を積み重ねて、随分と成熟してきたものだと思う。
 昨年から、親も表現活動に取り組むようになった。谷川俊太郎さんの『生きる』と私たちの『どもる』を二手に別れて読んだ。親も真剣に稽古をし、子どもたちの前座を立派に務めた。親の真剣な姿に子どもたちも何かを感じてくれたことだろう。誰ひとりお客さんのいない、参加者全員が水平の関係で、それぞれが楽しむ。しかし、一番楽しんでいるのは、子どもの頃、このようなキャンプがあればよかったと思う、どもるスタッフなのだ。
「スタタリング・ナウ」NO.62(1999年10月)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/02/02

芝居『12人のおかしな大阪人 2023』

 昨日、大阪市内の松下IMPホールで、『12人のおかしな大阪人』の芝居を観てきました。東京にいるときに偶然みつけたこの芝居、タイトルに惹かれました。
 ヘンリーフォンダ主演の映画『12人の怒れる男たち』から来ているに違いないと思いました。この芝居は、僕にとって竹内敏晴さんとの思い出のひとつです。

 『12人の怒れる男たち』を大阪弁でやってみたら、おもしろいんじゃないかと、竹内敏晴さんの演出で、應典院で上演したのです。
 竹内さんが亡くなるまで、約10年間、竹内敏晴さんの定例レッスンとして、「からだとことばのレッスン」の大阪事務局をしていたのですが、毎年3月に、一年間のまとめとして、公開レッスンをしていました。公開レッスンは、1年間、レッスンに通ってきていた人たちが、レッスンの成果を披露し、新たな課題をみつけるために、観客を巻き込んでの芝居の上演と観客とともに行うレッスンで構成されていました。取り上げた芝居は、たくさんあり、『12人の怒れる男たち』は、そのひとつでした。
 陪審員たちが、ある事件の話をする会議室での出来事で、場面展開のない、せりふだけで芝居が進んでいくこの芝居、はじめ、竹内さんは公開レッスンで取り上げることに難色を示されました。でも、みんなの「やってみたい」という希望が強く、上演することになりました。ある殺人事件の被告人の有罪・無罪の評決を決めるのですが、僕は、最後まで「有罪」と主張する役でした。ところが、本番で僕は、「無罪」と叫んでしまったのです。その瞬間、舞台上は静まりかえりました。舞台に出ていた出演者に、臨機応変にそこを切り抜ける余裕を持った人はいなくて、そのまま芝居は流れていきました。「なんでやねん、違うやろ。ずっと有罪と言ってたんとちゃうん?」というつっこみが欲しかった場面でした。
 こんな思い出のある芝居ですが、今回、みつけた芝居も大阪人とあるので、独特の大阪弁や関西人らしいやりとりを期待していました。

12人のおかしな大阪人 パンフレット_0001 今回の芝居のチラシには、こう書いてあります。

「12人の大阪人が、とある場所に集められた。
 性別、年齢、職業、環境…全てがばらばらな12人が集められた理由は、ある一人の男性が亡くなった事件。被告人はなくなった男性とつきあっていた女性だった。
 陪審員として集められた12人は、彼女が有罪か無罪かをめぐり、激しい議論を繰り広げる!
 …はずが、大阪人のノリ全開の話し合いは、ボケとつっこみが飛び交い、マシンガントークが停まらない! 個性の強い陪審員たちは勝手に話し始め、話は脱線しまくり、脇道に逸れ続ける。
 笑いっぱなしで時には涙あり?な12人の大阪人による審議は、果たして評決を導き出せるのだろうか…!?
 2021年、26年ぶりに再演された異色作が、リクエストにお応えして三度目の上演。
 さらに今回は28年ぶりに東京でも上演いたします!! お見逃しなく!!」

 見終わった感想は、「おもしろかった」です。役者さんの誰ひとり知りませんが、スピーディーにリズムよく展開していくのがおもしろく、よく笑いました。日常で使う大阪弁も随所にあって、あっという間の110分でした。
12人のおかしな大阪人 パンフレット_0002 僕たちが「親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会」の実行委員会などで、集まって話しているときの会話も、こんな感じで、「突っ込み」が飛び交い、いつも笑いながらの話し合いです。僕たちにとってはごく日常なのですが、もしそれを聞いている周りの人がいたとしたら、今回の芝居のようにおもしろいと思うだろうなあと思いました。大阪人は、みんな漫才師かと言われることがあるようですが、それと似ています。
 僕は冗談を言うのが大好きです。第1回世界大会の実行委員会のときも、笑いが常にあふれていました。それが高じて、カウンセリングの場でも、許されそうだったら笑いをとっていました。長く、ベーシック・エンカウンターグループのファシリテーターをしていましたが、そのときも、九州大学の村山正治先生と僕が組んだグループでは、いつも大笑いする場面がありました。懐かしい思い出です。
 観る一方だった芝居ですが、竹内敏晴さんのおかげで、大きな芝居の主役をさせてもらったこともあり、舞台に立つことも好きになりました。チームを組んで何かひとつのことを達成するという過程が好きだし、表現することも好きです。小学2年生の秋の学芸会での出来事を帳消しにしておつりがたっぷりあるくらい、芝居は大好きなものになりました。 残念ながら、もう舞台に立つ機会はありませんが、有名な舞台だけでなく、このような舞台もできるだけ観にいこうと思わせてくれる、とてもおもしろい舞台でした。
 残念ながら、『12人のおかしな大阪人』、今日が最終日です。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/01/22

対談―表現としてのことば― 4

 「ことばの人」の谷川俊太郎さんと、「からだの人」の竹内敏晴さんの対談のさわりを紹介してきましたが、その最後です。
 僕はこの時の司会以外に、谷川さんと対談をしています。2000年、山形市で開かれた全国難聴・言語障害教育研究協議会での記念対談でした。谷川さんは、ひとりで話を展開していくのは好まない、誰かが尋ねてくれれば、それについて思ったり考えたりしたことを話すことはできるけれど、とおっしゃったそうです。何人かの候補を事務局は挙げたのですが、対談相手に、谷川さんは僕を指名したと、大会の関係者から聞かされました。1998年のこの吃音ショートコースでの出会いの2年後のことでした。そのときの対談はとても楽しく、谷川さんもおもしろかったと言ってくださいました。その対談はまた紹介します。
 質問されるといろいろと喋ることがあると、話は展開していきます。僕も、質問を受けて、話すのが大好きです。それまで全く考えていなかったことが生まれてきて、自分でもびっくりすることがあります。谷川さんと、竹内さんの対談の続きです。

ことばが出てくるということ

谷川 自分でも疑問ですよね。(笑い)
 普段から考えてることを、喋ってることもありますね。対談などで質問されれば、その質問に関しては、自分はこう考えてるんだから、それを全部喋る。でも、普段考えてることじゃないことが、何か一種の条件反射みたいに、瞬間的にことばになって出てきて、出てきたあとで「あっ、そうだ、俺はこう考えていたんだ」って思うことがあるんですよ。

竹内 思うことがある、というよりも年中そうじゃないですか? 僕から見ていると、そういう気がするけれども。
 そんなことはないんですか?

谷川 年中っていうのはちょっとオーバーだけれども、僕一人で何か頭の中でずうっと考えていくことに、すごく限度があるような気がするんです。むしろ人と喋っている、キャッチボールしているときの方が、自分の考えが発展していく。それは別に音声言語で喋ってなくても、書かれたものを読むんでもいいんです。書かれたものを読むことは、自分には考えるきっかけとしてありがたいということがありますね。

竹内 僕は、話し合ってる間に発展することはたまにはありますが、僕に、谷川さんのおっしゃることに近いことが起こるのは、レッスンをしてるときなんです。からだが動いているときに飛び出してくることばは、あとで思い出しても自分で、「そうか! そう言えばいいんだ」と嬉しくなることがある。しかし、意識がないってほどじゃないんですが、あとで「あのときあんなこと言われて、おもしろかった」と言われても、全然覚えがないこともある。
 だから言語として、それによって先へ思考がうまく発展したというふうになるかどうかは、はなはだあやしいんだけれども、からだが動いているときには、からだの動きがことばになるということがある。会話でなるというのはものすごく難しい。

谷川 それはでも、会話で何か刺激を受けて自分に新しい考えが出てくるってことは、そんなにあとで書き残すとか、はっきり覚えていて何か発展したとか、そんなシステマティックなものではなくて、その場で自分で思ってもいないことを相手のおかげで言えたみたいなことであるに過ぎないんですけどね。

竹内 そのときには、そのことばっていうのは、さっきのことばが信用できないとおっしゃったことから言えば、本当か嘘かみたいなことで言うと、どのへんになるんですか?

谷川 現実にそういうふうに会話してるときに出てくることばは、ほとんど本当だろうと思ってます。少なくとも、それが本当か嘘かをはっきり検証するような場面ではないところの話ですね。つまり、今こうして話しているときは、公的な人間関係ですね。だから、そこでは、非常に矛盾した感情は、ほとんど持たないで済んでいる。もっと突き詰めていくと、例えば竹内さんに関して、僕が何か愛と共に憎しみを持ってるということがあるかも知れない。(笑い)ですけども、普通こうやって話している場合には、一種ニュートラルな感情で話していると思うんです。少なくとも僕の場合には。だけど、例えばもっと身内と僕が話すとなると、もう絶対にそういう感情には最初からないわけだから、そこに混沌とした矛盾に満ちた感情みたいなもののやりとりになる。そうしたら、全然話は違ってくる。

竹内 話に割り込んで悪いんだけど、混沌とした、谷川さんの言う感情のやりとりでも、ちゃんとことばになるわけでしょ? (笑い)

谷川 そこがすごい問題なんですよ。

竹内 僕はそういう場合、全然ことばにならなくなっちゃうから、甚だ具合が悪い。

谷川 僕は少なくとも、ものすごくことばにしようと努力する方で、しかもそれが、僕の経験からいうと2年後にやっとことばになったとか、そういうことはあるんですよ。でもそれだと、夫婦げんかに間に合わないんですよね。(笑い)

竹内 なるほどねえ。いや、そういう気持ちはよくわかる。僕は夫婦げんかじゃなくても、年中そういうことをやっているからね。僕は2年後かどうかは、分からないけど。
「スタタリング・ナウ」(NO.54 1999.2.20)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/12/23

対談―表現としてのことば― 3

 昨日の続きです。「ことばの人」と言われる谷川俊太郎さん、よどみなく次から次へと発言が続きます。「からだの人」の竹内敏晴さんは、谷川さんのようにはいかないとおっしゃっていましたが、このときの対談は、竹内さんご自身が「珍しくたくさん話した」とおっしゃったくらい、話が途切れず続きました。お互いが刺激し合って、活性化されている様子がよく分かりました。竹内さんの発言を読み返して、このような内容の話は、竹内さんの他の著作には出てこないもので、貴重なものだと思います。たくさんの贈り物を竹内さんからいただき、改めてありがたいことだと、感謝の気持ちがわいてきます。

恨みや不信をもつ余裕すらない

竹内 谷川さんはペラペラ喋る、伊藤さんはことばに恨みがあるという。僕はどうなんだろうなあって考えてみると、子どものころ僕は、ともかく聞こえないでしょう。だから、ことばに恨みがなんていうところまで、行かないわけですよ。人のことばを理解できないということで、全然切れちゃってるわけですから。やっと聞こえるようになってからは、今度は、自分の中に動いているものをどうやって人様に伝えたらいいのかに必死でしたから、恨みつらみをもつ余裕なんてなかったなあ。
 谷川さんと私はあべこべに歩いてるなあという感じがしたのは、自分が何か喋ろうとすると、自分の中で動いているものを一所懸命ことばにするんだけど、相手はきょとんとして何を言ってるのか全然分からないという顔をする。こっちは伝えたつもりでも、相手には全然見当の違う何かがあるらしいというのが一番最初の発語体験ですね。
 文章はまあ読んでいるから、文章としての言語は知ってるけど、言いたいことを文章に当てはめてみても、どうも違うらしいんです。今から思えば、発音がはっきりしてないから、相手に分からなかったという部分が非常に大きいと思う。けれども、その当時はそう思っていないから、こういう言い方をしたら、単語をこう組み合わせたら相手に伝わるだろうと必死になって考えている時期があった。まあ、この時期は今でも続いていると言ってもいいですけどね。
 芝居にするため、ヘレン・ケラーのことをだいぶ調べたんですが、彼女は81歳くらいだったかで亡くなるんですが、毎朝起きると30分くらい、たぶん私と同じような感じで、自分の中でことばを組み合わせて表現することを考えていたようです。この場合は、情報伝達と言うか、表現と言っていいのか分かりませんが。そういうものを見つけようとしているときには、ことばが信用できないなんていうものが入ってくる余地がない。ことばが信用できないものだと気づいたのは随分後からですね。
 「情報伝達のことば」で急に思い出したんだけど、私が宮城教育大学にいたときに、事故で障害を持って、何年もかかってリハビリしてやっと喋れるようになった青年が推薦入学で受験したいって言ってきた。彼が大学での課業に耐えられるか、テストをしたが、1年目はだめで、2年目に学生部長の発達心理学の教授とスクラムを組んで引き受けた。彼は僕の研究室に入ったので、関西から来た3年生に「相談相手になってやってくれ」と頼んだのです。2ケ月ほどしてその3年生が「どうしたらいいか、分からない。彼はやっぱり、大学は無理なんじゃないか」と私の所に相談に来ました。
 大学で講義を受講するには受講カードを出さなきゃいけないが、期日がきても彼は出さない。出さなきゃダメだと教えてやるとどうしたらいいかと聞く。履修要項で説明すると、「うーん」と聞いているが、やっぱり彼は出さない。こう書けばいいと教えてもやっぱり出さない。と言うより書けないのです。それで先輩も訳が分からなくなった。その話を聞いたとき、言語障害をもつその青年の気持ちが、僕にはものすごくよく分かった。
 なぜかと言うと、僕も同じような経験をしているからなんです。私は芝居をやってましたので、50代の半ばまで勤めたということがなく、大学教授が初めての勤めなんですが、そのとき同じような経験をしたわけです。
 芝居をしていた頃、アルバイトなんてあまりなかった時代だから、どうやって食ってたか、今だってよく分からないんです。とにかく、芝居をしたい女の人は飲み屋に行けばいいんだが、男にはアルバイトってのが全然ない時代なんです。
 御茶ノ水から東大前のYMCAの学生会館の稽古場に通っていた。ある日稽古が終わって帰り道、御茶ノ水から電車賃が10円の代々木で降りて、ポケットを探ったら10円玉ひとつしかない。それで飯を食うかパンを買うかすると、明日稽古場に行けない。仕方がないから何も食べずに、アパートに帰ってお湯を飲んで寝る。次の日に代々木から10円玉で電車に乗って、御茶ノ水から歩いて、稽古場に着く。すぐに「おーい、だれかパン買ってくるから、お金貸してくれ」。私だけじゃなくて、芝居をする人間ははみんなお金がなかった。
 長年そんな生活を続けてきて、とにかく大学教授が生まれて初めての職だ。何年も宮城教育大学の林竹二先生に誘われていたのをずっとお断りしていたんだが、林先生が学長を辞められた後で、「やっぱり、おいでなさい」と電話があり、「じゃあ、行きます。お世話になります」と言ったのは、ボーナスってものをもらってみたいと思ったからなんだな。その時、初めての就職なわけで、いろんな手続きがあるんです。その手続きの書類を読むのが苦痛でしょうがない。芝居のせりふを読むと、その人はどんな表情で、どんな風に動くだろうかなんかはすぐ出てくるけど、あの手続きの書面は全然からだに入ってこない。仕方がないから、頭の中でスイッチを切り替える。向こうから入ってこないから、こっちから出ていくしかない。「これはこうでこうなって」と、積木を重ねるみたいに思考を組み立ててやっと処理する。これはすごくくたびれることでした。
 そういう経験があるものだから、障害のある彼が今、そういうことができる手前にいるんだってことが分かった。書類を読んだって文章が入ってこないだろうし、説明されれば意味は分かるが、それによって自分が触発されることにならないから、彼は行動が起こらない。
 そのときによく分かったのは、非常に単純なんだけど、彼があるいは障害を持った子どもが回復していくのは、何とか日常生活でことばを交わすことができるようになってくるということなんです。彼にとってみると情報伝達などというものではなく、人間関係が回復してきたということなんです。
 こんなこともありました。共同作業をしたり、作品をつくるときなんかは周りが彼を手伝う。実験なんかも、手伝ってもらってやっとできる。ところが彼は礼を言わない。それが気になったある教授が、「みんながあれだけ手伝ってくれたんだから、ありがとうって言ったらどうか」と言ったら、彼が嫌ーな顔をした。その後も、彼はやっぱり「ありがとう」を言わない。それで、「彼はやっぱり人間的に欠陥があるんじゃないか」と言う人があったのです。
 私はそのときのことも、ものすごくよく分かるわけです。つまりね、手伝ってもらうのは、仲間として一緒に取り組むのだから、善意でやってくれてるその人本人も楽しんでるわけですよ。一緒に取り組んだことが終わったから「できた。良かったねー」でおしまいだ。それを、手伝ってもらったことに「ありがとう」と言ったら、これは他人行儀の関係になってしまい、冷たい関係に戻ってしまう。「ありがとう」を言うような関係にしたくないのです。これは彼に会って確かめたことですが。
 そういう彼に、事務的な手続きがワッと来たって、どうにもならないんです。私が大学を辞めて、彼は残ったんですが、私と組んで彼を支えていた先生が亡くなり、結局彼は、卒業できず、中退という形になりました。
 今振り返ってみると、彼にとって、「表現としてのことば」と言うべきかどうかは分かりませんが、つながりとしての人間関係の発語みたいなものが回復してきたのであって、「情報伝達のことば」が身についてくるには、まだまだものすごい距離があったわけです。
 伊藤さんの話で、どもる人たちが、「情報伝達のことば」を求めて、「表現のことば」がなかなか戻ってこないということを聞いて、どういうふうに考えればいいかを考えながら、さっきまでの話を聞いていました。
 僕なんかは、相手から何か言われると一所懸命考えてやっとことばをみつけるんですが、ものすごい時間がかかる。ところが谷川さんを見てて、僕は驚嘆しているわけですが、さっと来たらパッと鏡みたいに反射する。ことばが出てくるってことが、谷川さんが考えてるってことなのかなあ? あれは何だろうなあと僕は考えてしまう。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/12/21

対談―表現としてのことば―

 1998年9月12〜14日、奈良県・桜井市で吃音ショートコースが開かれました。テーマは、《表現としてのことば》でした。特別ゲストは、詩人の谷川俊太郎さんと、演出家の竹内敏晴さんのお二人。最終日の午前中、僕が進行をし、対談が行われました。〈ことばの人〉と言われる谷川さんと〈からだの人〉と言われる竹内さんの話は尽きることなく深いものになりました。そのほんのさわりを紹介します。3時間の完全採録は、1998年度の年報『表現としてのことば』に掲載しましたが、現在は、絶版となっています。


対談  谷川俊太郎・竹内敏晴
司会  伊藤伸二

 
はじめに

伊藤 この対談を何故企画したのか、出始めだけを少し話させていただいて、後は谷川さんと竹内さんにお任せします。
 3年前でしたか、名古屋で行われた「すすむ&すすむフォーラム」で、谷川俊太郎さんのお話の中で出てきた、谷川さんが小学4年の時に、ケンカした相手の名前は「伊藤君」ではなかったでしょうか? その伊藤君とけんかをして、「運動場へ出ろ! 体で勝負だ!」と言われたときに、谷川さんは「体でやるんじゃなくて、ことばで自分は勝負するんだ」と。今、再び谷川対伊藤の対決を・・
谷川 そうきましたか、よく覚えておられますね。でも、そうは言いませんでしたけどね。要するに、けんかの仕方を知らないから、運動場へ出て取っ組み合いなんかは嫌だから、「俺はここを動かない」と言って椅子から立ち上がらなかったわけ。伊藤君も公平で、むりやり僕をひきずり出すということをしなかったんです。
伊藤 そうでしたか。僕は谷川さんのお話を、「ことばで勝負だ!」と受け取ったものですから、僕たちとはずいぶん違うと思いました。僕は、ことばではケンカができなかった。けんかになり、いくら僕が正しくて、また体力的に勝っていても、「何や伊藤! どもりのくせに!」と言われたら、それでけんかは一瞬にして終わります。体もそんなに大きくはなかったけれど、まあ体なら、自分の体を張ってでもけんかをするんですが、言い合いになると全く太刀打ちできない。また「どもりのくせに」という、一番の弱点をつかれると戦意を喪失してしまう。そういう経験をしてきたので、「ああ、僕とずいぶん違うな」と思ったんです。
 僕は喋れなかったために、けんかができなかった。ことばでは勝負できなかった。どもることばを嫌悪し、ことばに恨みを持ち続けた人間です。僕と似たような体験を、どもりに悩んだ人がしているとしたら、今この会場にはそのような人が半分近くいます。
 谷川さんは、いろんなところでお話になってこられたでしょうが、今回は吃音ショートコースに来ていただいていますので、ことばに障害のある人たちの表現ということを少し視野に入れながら、表現としてのことばについて、お話いただければと思います。
 竹内さんは、「表現としてのことば」と「情報伝達としてのことば」を説明されて、どもる人はもっと「表現としてのことば」を大事にした方がいいのではないかと提言して下さっています。そのような提言を受けて、私たちが自らの表現について点検していきますと、私たちはこれまでの長い間、うまく現代社会に適応したいという思いにかられて、駆り立てられるように、「情報伝達のことば」を獲得しようとしてきたように思います。まず、「表現としてのことば」と、「伝達としてのことば」の区別さえ考えなかった。全てことばが話せないとしてひとまとめにして処理をしてきたように思います。流暢に喋りたいとばかり考え、その結果、「表現としてのことば」をおろそかにしてきたように思います。そして、そのことにも気づかなかったのでした。
 今、「表現としてのことば」を育てたいと、話しことばだけでなく、自分の思いや気持ちを例えば詩のような形にして書く、散文にして書くなどで、表現を大切にして来ています。『ことば文学賞』を制定したのもその現れなのです。
 その一方で、「情報伝達のことば」を何とかうまくこなしたい、という思いがなかなか捨て切れないのも事実です。やはりどもりに悩む多くの人が日常の生活で困っているのは、勤めている自分の会社や自分の名前が言えない。業務上の報告や伝達などがうまくできないなどの情報伝達のことばについてです。周りが、なんなく情報の交換をスピーディーにしている中で、自分の名前が言えない、電話ができないなどの辛さは、経験者以外には、なかなか理解されにくいのではないでしょうか。やはり、てきぱきと情報交換しなければならないときに、ことばが出ないのは悩みの種なのです。
 そこで、「表現としてのことば」と「情報伝達としてのことば」とをどう折り合いをつけながら、僕らがどうことばに向き合っていけばいいのか。探っていきたいと考え、おふたりに吃音ショートコースに来ていただきました。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/12/19
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