喜田清さんの紹介と、喜田さんの講演について書かれた文章を紹介しました。今日は、喜田さんが活動されていたユーテ・サークルのニュースレターに掲載されていた「映画に描かれた吃音」を転載します。
 吃音に悩み、苦しんでいた頃、僕の唯一の救いは、映画と本でした。映画館にいるときだけが心安らぐ場所でした。たくさんの映画を観て、僕は、人にはいろいろな人生があることを知りました。つらいことがあっても、人は自分の人生を生きていくものだと教えられました。映画のもつ力を信じています。喜田さんは僕以上に映画を観ていた人かもしれません。喜田さんから観たどもる人が出てきた映画の紹介です。

  
映画に描かれた吃音
                               喜田清(高松市)

 ユーテサークルの初期に「僕の吃音を治して!!」と、大勢が訪ねて来ました。どっちを向いても錆びた鉄ばかりの世界で30年働いただけの私が、かりそめにも人様の吃音を治しますと言えば、『無資格者の不法医療行為』です。ただ私も激しい吃音症状に苦しんだ一人ですから、ユーテを頼ってきたひとりひとりに、今の困難な状況から、一歩でも抜け出す方法を一緒に考えて来ました。
 しかし皆様の要望に対して、私はあまりにも無力でした。あるいは時代や国境を隔てていても、映画に描かれた多くの吃音者の人生の中に、苦しい吃音から脱出する手がかりが、たとえ砂一粒でも見つけられないでしょうか。


『清水港』 1939年 監督:マキノ正博
 どんなに激しい吃音者であっても、歌う時は、どもりません。
 私の鉄工所の経験から言っても、吃音でない人だって重たい鉄を持ち上げて顔を真っ赤にしていれば、激しくどもっています。
 『清水港』では沢村国太郎の演じるやくざが、吃音です。彼がどもれば観客は爆笑しますが、吃音やくざには、生きるも死ぬも一緒だと言う親友がいます。彼が、どもってどもって、どうしても言葉が言えない時に、片岡千恵藏の演じる親友が、吃音やくざの肩をトントンと叩いて言います。
 「シャン、シャンだよ」
 「よし!!わかった!!」
と言うような表情で吃音やくざの言葉が浪曲調になります。もうどもりません。後述する映画『炎上』でも、吃音の僧侶が、お経をあげる時にはどもりません。
 いずれにしても、吃音であろうと無かろうと、親友とは良いものです。


『心の旅路』 1942年 監督:マーヴィン・ルロイ
 映画の始まりから吃音者が登場します。
 『お…お…お父…さん』『お』の一言を発音するのに、聞く側は長く待たされます。
 英国の地方都市メルブリッチの精神病院です。彼は、ドイツ軍との激しい白兵戦で、瀕死の重傷を負って倒れました。気がついた時には今までの記憶をすっかり失くしてしまいました。
 自分の名前も分かりません。仮の名前をスミティと呼びます。
 精神病院には、戦争で行方不明になった我が子を探している親が、萬一を期待して病院に来て、記憶喪失(きおくそうしつ)患者と対面してくれます。スミティは、今度こそ面会に来た人が実のお父さんであって欲しいと願っています。
 『お…お…お父…さん』そう言っているのは、表情と身ぶりだけです。相手も失望の表情だけで部屋を去ります。
 ドイツが降伏した夜は、霧が深いメルブリッチでも戦勝祝いで賑やかです。浮かれた病院の守衛は、門に鍵をかけるのも忘れて、戦勝祝いの町に飛び込んで行きました。スミティも、開いていた門から戦勝祝いの夜霧の町に入って行きました。
 「僕は精神病じゃないんだ」独り言なら全くどもらず話せるスミティなのに、煙草屋へ入って「何を差し上げましょうか」と店の婦人に聞かれたら、もう駄目です。
 「煙草…」と一語を言うのに、口は歪み手はワナワナ震えます。吃音者の随伴運動です。「どの煙草ですか」またスミティは激しい随伴運動ばかり繰り返して、もう一語も言えません。
 この煙草屋で出会った踊り子ポーラが、深くスミティを愛してくれて、スミティの吃音症状は、ずいぶん軽くなりました。
 彼の吃音が完全に消えたのは、彼が交通事故に遭って、再び瀕死の重傷を負い気を失って倒れて、気がついた時です。記憶を喪失する前の自分もチャールス・レーニャと分かり、今までとは、まるで違った大雄弁家です。その代わり、精神病院の記憶も踊り子ポーラの献身的な愛の思い出も、すっかり喪失しました。そうした精神医学の領域になれば、私には、よく分かりません。ただ言えるのは、吃音者は独り言なら全くどもらず、煙草屋へ入って人と会話になれば、とたんに口は貝のように固くなります。私も全く同じです。


『炎上』 1958年 監督:市川崑
 太平洋戦争の日本敗北直後、修業中の青年僧が金閣寺に放火して炎上・壊滅させてしまいました。
 国賊だと罵られた犯人は吃音です。空襲警報が鳴り響いても、防空壕に逃げないで、ひたすら金閣・寺の床を磨いていた修業僧が、空襲警報のサイレンが鳴らなくなった戦後になって、金閣寺に放火しました。吃音修業僧の気持ちが痛ましいです。
 父親に死なれて無一文になった彼ですが、亡父の遺徳で金閣寺の僧侶が学資を無償援助してくれて佛教大学に行き、一途道を求めていました。でも友人が居ないのです。
 同じように道を求める学生が佛教大学に溢れるほど居るのに、誰も吃音の彼と話しかけようとしません。吃音の彼も大学の学生に人間関係を開拓しようともしません。
 ただ一人、足の不自由な学生だけ、彼は友人になって貰おうと、どもりながら一生懸命に話しかけました。『授業で分からなかった所を教えてほしい』とは嘘で、友人がほしいのです。
 吃音者にとって足の不自由な学生だから話し易かったのです。
 残念なのは、友人を求めるためにどもりながら人に話しかける努力を、足の不自由な学生一人で止めてしまった事です。どもりながら人に話しかける努力を、もっと多くの学生の中に実践して行ったならば、新しい光明の世界が広がったのではなかったでしょうか。

『裸の大将』 1958年 監督:堀川弘通
 山下清も吃音で、数学が全く出来ません。汽車の窓越しに駅弁を渡したお客さんが札を見せてくれると、いつまでも計算しています。とうとうお客さんが駅弁と札を持ったまま、汽車は出て行ってしまいます。山下清の無名時代は太平洋戦争の最中でした。戦争の役に立たない山下清は、何の仕事も出来ない無能人間と言われた山下清は、あてもない放浪の旅に出ました。着のみ着のままの服がだんだん破れて、裸同然になりました。こんな裸の旅の中から、山下清は絵の豊かな才能を花のように咲かせていきました。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/10/30