イーハトーブ花の郷を訪ねた翌々日、女川町に向かいました。嘉糠さんの他にもう一人、お会いしたいとずっと思っていた人がいました。嘉糠さんと同じように、阿部さんの家族の行方を捜していたとき、これまた偶然に出会った人でした。
 今野順夫 ひと 朝日新聞その方は、今野順夫さんで、福島大学学長をされていた方でした。阿部容子さんのお母さんのきょうだいで、今野さんは弟さんでした。莉菜さん、お母さんの容子さん、妹のひろかさんのこともよくご存知でした。今野さんとは、11年前だけでなく、その後、2015年9月21日付け朝日新聞の「ひと」欄に「ふくしま復興支援フォーラム」開催100回のことが掲載されたのを見て連絡したり、莉菜さんが生きていれば成人式を迎えたはずのときに連絡をしたりしていましたが、お会いするのは、初めてです。
 ネットで検索してみると、8月31日に、「ふくしま復興支援フォーラム」を開催されるとありました。200回を超える集まりを継続して開催しておられました。そのプロジェクトの代表でもありました。突然連絡してご迷惑ではないだろうか、やはりそう思ってしまいましたが、思い切って、メールしました。すぐに返信があり、福島に住んでおられる今野さんが女川まで来ていただけることになりました。僕たちのホテルからも女川は車で2時間のところです。
 フォーラムの前日の30日、お忙しい中、時間を作っていただきました。ゆっくり話ができるようにと予約してくださった「小さな珈琲店 GEN」に着くと、ちょうど今野さんも到着。店の奥の用意された一室でお話しました。今野さんは1944年5月2日生まれで、4月28日生まれの僕は、4日だけ年上でした。
 阿部さん一家の話、復興フォーラムの話、原発のこと、憲法九条の話、この年齢特有の病気の話など、話題は途切れることなく続きました。不思議なことに、初めてお会いしているという感じが全くせず、昔からの旧友に久しぶりに会ったという感覚でした。
今野順夫 2 慰霊碑今野順夫 1 今野さんの案内で、女川駅そばにある震災で亡くなられた方の名前が刻んであるメモリアルと、阿部莉菜さん、お母さんの容子さんが眠っているお墓へも行きました。そして、最後に、女川で図書館の取り組みをされていた容子さんたちの意思が形となった「女川つながる図書館」へ行きました。吃音に関する検索をすると、僕の本がありません。これはいけないと、寄贈する約束をしました。今野さんは、以前お送りした「どもる子どもとの対話〜ナラティヴ・アプローチがひきだす物語る力」(金子書房)を持ってきておられました。今野さんは、「ここに、女川町に住んでいた、親戚の阿部莉菜さんのことが書いてあるんだ」とページを広げて指し示しておられました。
今野順夫 3 つながる図書館今野順夫 4 図書館の中
今野さんと別れてから、震災2年後に来たときに訪れた高台の病院に行ってみました。女川病院という名前だったと思うのですが、今は、地域医療センターになっていました。ここから見下ろした女川の町は、当時は更地でした。建物がひっくり返ったままひとつだけ残されていました。山の斜面に「I love 女川」と書かれていたのが印象的でした。
今野順夫 6 墓碑今野順夫 5 墓 名前

 直後にはみつからなかった莉菜さんですが、後で、遺体がみつかり、DNA鑑定で、莉菜さんだと分かったそうです。お母さんはまだみつかっていません。

 亡くなった人は帰ってきませんし、生き残った人もそれぞれ大変な中を精一杯生きています。震災の前も、震災の後も、時間はとまることなく流れています。お墓に行き、手を合わせたことで、僕の中では、ひとつの区切りがついたような気はしましたが、生きたかったけれど生きられなかった彼女の無念さを共に感じながら、僕は、これからも、出会う人々に、彼女が残してくれた作文「どもってもだいじょうぶ!」を紹介し続けるつもりです。その旅に、終わりはありません。
今野順夫 7 女川病院
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/09/12