今、島根県に来ています。3年ぶりに対面で、島根スタタリングフォーラムが開催されました。今年で24回目を迎えるフォーラムは、僕が行く、各地で開催されるどもる子どものキャンプの中で、滋賀県での吃音親子サマーキャンプに次ぐ老舗のキャンプです。
そこでの話は、また紹介しますが、今日は、ユーテ・サークルの喜田清さんの続きです。
喜田さんが、高松空襲を記録する会に参加していて講演することになったことを書かれています。
『たとえ、どもってどもってどもりまくったとしても、亡くなった人の思いの千分の一でも、現代の若者たちに伝えることができるならば、私は、この「恥」に堪えよう』
喜田さんの、この伝えたいという強い思いが、どもることへの不安や恥ずかしさを超えているということでしょう。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/10/29
そこでの話は、また紹介しますが、今日は、ユーテ・サークルの喜田清さんの続きです。
喜田さんが、高松空襲を記録する会に参加していて講演することになったことを書かれています。
『たとえ、どもってどもってどもりまくったとしても、亡くなった人の思いの千分の一でも、現代の若者たちに伝えることができるならば、私は、この「恥」に堪えよう』
喜田さんの、この伝えたいという強い思いが、どもることへの不安や恥ずかしさを超えているということでしょう。
初めての講演
喜田清(高松市・ユーテサークル)〈1988年記〉
「オイ! オイ! キタア!」
私がまだ鉄工労働者であった頃、モーターがいくつも喰っている工場では、人は私の耳に噛みつかんばかりに近寄って、大声で話しかける。耳の不自由な私に対する配慮であろうか、「喜田」ではなく、「キタア」であり、特に「ア」は大音声にしてくれる。
「お前! コーエンするんか!」
「や、や、や、やる!」
「どもりのお前が!」
「や、や、やる!」
「どもりのお前が、どんなコーエンするん。そこで、やってみい」
そう言われても、一生懸命に鉄のサビを落としている工場の真ん中でコーエンの真似などできるものではない。愚弄されていることは明らかである。けれども反論しようにも、言葉に詰まって、私の口からは一語も洩れない。まわりから何と言われても、私は黙って鉄のサビを落とし続けた。
もう20年も前の話である。
私の住む高松市内の、あっちこっちに、「反戦集会 喜田清 講演 高松空襲を語る」と書かれたポスターが貼られてあるのを見た同僚が、私をからかうのである。
無理もない。私は、朝、「おはよう」という挨拶ができないから、「オハ」を省略して、「ヨウ」だけで、朝の挨拶としていた。
一人では持ち上げられない重たい鉄材を持ち上げるため、同僚の原君を呼ぼうにも、「ハ」が、私の口から出てくれない。そんな時、私はいつもハンマーで「カーン」と鉄を叩くと同時に、「ハ」の音を口から押し出そうとする。でも、一回の「カーン」では「ハ」が出ない。二回、三回、四回とカーン、カーンを繰り返し、うまく口から「ハ」が出た時にすかさず「ラ」の音を出す。そして、「くん」す、す、すまんが、この、テ、テ、テツいっしょに持ってくれ…と、自分の言いたいことを言う。
そのうち、私がハンマーで「カーン」「カーン」と鉄を叩き出せば、それだけで、私は一語も言わなくても、同僚たちは、私が持ち上げるべき、重量のある鉄材を持ち上げてくれるようになる。
そんな私でも、鉄工所の仕事が終われば、毎日、ノートと鉛筆と、そして補聴器を持って高松の街を歩き、太平洋戦争最末期、アメリカ空軍の高松空襲で死亡した人たちの遺族に逢って話を聞く。
耳の不自由な私は、場合によっては、相手の口もとに補聴器をウンと近づけて話を聞く。話を聞く片っ端からノートに要約筆記のペンを走らせる。…それを家に帰って、第三者が読んでも分かるように、改めて文章を組み立てていく。
そんなことを飽きもせずに繰り返していると、私に講演依頼があった。
「私は絶対に講演はしません!」
どんなに私が辞退しても、相手は承知しない。ポスターは街に貼られる。一体どうなるのだろう。私は一日一日、日が過ぎるのが怖くて、夜も眠れない。
無論、私は夕方など裏山に登って、一人で一時間、二時間、講演の練習はした。
本当に吃音とは不思議なもの。たった一人で語れば、何のことはない。全くどもらない。とうとう、その日がきてしまった。
それは高松空襲の日。7月4日の午後7時、市内の公園であった。2〜3000人の聴衆を前に、司会者が私のことを紹介し始めたら、もう私の胸は爆発するように鼓動が激しくなる。
「では、喜田さん、どうぞ…」
私は、もし、壇上で立ち往生すれば、一語も言わないで土下座だけして壇を降りるつもりであった。
ただ、もし、私に一語でも語ることが許されるならば、それは私の言葉であっても、私の言葉ではない。どんな秀才であっても、あの空襲で亡くなった人は一語も語れないのである。その人の思いを、私が代わりに語るのである。
たとえ、どもってどもってどもりまくったとしても、亡くなった人の思いの千分の一でも、現代の若者たちに伝えることができるならば、私は、この「恥」に堪えよう。
そう思って、私は何とか与えられた1時間は壇上に立って語った。
15歳で死んだ少女の話。
4歳で死んだ男の子の話。
1歳で死んだ嬰児の話…。
私が話し終えれば、ものすごい拍手が壇を降りる私を迎えてくれた。
翌日の私は、相変わらず、鉄のサビ落としとカーン、カーンの繰り返しだった。
以後、私の戦争体験者の聞き書きは20年に及ぶ。鉄工所は倒産して、今は本のセールスで、いろいろな所に行く。
私の場合、戦争体験者の聞き書きを続けて来たことが吃音の症状を軽くしてくれたと思う。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/10/29