やさしいことばで、語りかけるように歌う金子みすゞの童謡を知ったのは、30年くらい前でしょうか。国語の教科書にも載っている有名な「みんなちがって、みんないい」は、特に僕の心に響きました。人はひとりひとりみんな違う、その違いを互いに認め合うことができれば、やさしい世の中になるのになあと、そのとき思いました。不寛容な現代社会において、今、求められている大切なことでしょう。
 「スタタリング・ナウ」1996年9月 NO.25 の巻頭言を紹介します。

みんなちがって、みんないい
            日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

  わたしと小鳥とすずと
わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやく走れない

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように、
たくさんなうたは知らないよ

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。
      (金子みすゞ全集 JULA出版局)

 金子みすゞの童謡は、今年は国語の教科書でもとりあげられるようになったが、それ以前からも小学生にこの童謡は人気があった。
 違っていいということが、みすゞの童謡のように優しく語りかけ、子どもの心に染み込んでいけば、素晴らしいことだ。
 僕はどもるけれど、こんなことができるよ。君はどもらないけれど、こんな辛いこと経験しているじゃないか。互いが互いの違いを本当に認めることができれば、今問題となっているいじめや不登校の問題も、あまり起こらないに違いない。
 この時代に、金子みすゞの童謡に光が当てられるのも、偶然のことではないだろう。
 吃音に悩み、辛い思いをしているどもる子どもやどもる人が、吃音を治したいと願うのは自然なことだ。しかし、本人が、そう思っているからと言って、治せないもの、確実な治療法がないものに、『そのうちに治るから、頑張って治そうね』と励ますことは、現実に、今、どもっているその子どもにどう響くだろうか。
 私たちは好きでどもるようになったわけではない。
 どもり続けるのも自分の責任ではない。自分の責任でないものに、自分のからだの一部になっているものに、『治そうね』と言われるのは、よく考えれば辛いことなのだ。
 同級生との話し方の違いに劣等感をもち、悩み始めた私の小学生時代。吃音が治りにくいものであるならば、「そのうち治るよ」と気休めを言ってくれる人よりも、「努力すれば治るから、頑張ろうね」と励ましてくれる人よりも、「どもってもいいやん、人はみんな違うんだよ」、こう言ってくれる、金子みすゞさんのような人に出会いたかった。人はそれぞれに違うということを、子どもの頃から実感できれば、その後の人生が違ったものになったであろうと思うからだ。
 自分を大事にできなかったら、他人を大事にできないし、違いを受け入れなかったら、自分と違う人を認めることができないだろう。
 誰かからの借り物ではなく、自分の吃音を通して、金子みすゞさんのように、みんな違っていいといえるようになれば素晴らしい。
 この夏も、吃音親子サマーキャンプで多くの子どもたちと出会った。一音一音絞り出すように話す子。ちょっと離れた人にはほとんど聞こえないような声しか出してこなかった子。その子どもたちが、一人も脱落することなく練習に集中し、大勢の前で、どもりながら、『セロ弾きのゴーシュ』を演じた。そして、「楽しかった。来年も来るよ」と言ってくれた。
 来年はもう少し大きな声が出るようになろうねとは言っても、「少しでも治そうね」なんてとても言えない。どもっているそのままでいい、どもってもいいんだよと言い続けたい。
 それが、どもりを嘆き、否定し、自分らしく生きられなかった、どもる先輩としてできる唯一のことだと思うから。
 みんなちがって、みんないい。(1996年9月)

 
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/02/16