「吃音は遺伝しますか?」の質問を受けることがあります。吃音が遺伝するかどうかについては、昔から、遺伝するとは言えないが、家族性はあるというのが共通見解のようです。大阪吃音教室の参加者に時々家族の中にどもる人がいるか聞くことがありますが、家族にはいない人がほとんどです。僕の父親、祖父はどもりました。でも、僕のきょうだいの、姉、兄、弟はどもりません。いわゆる純正の「遺伝」とはいえないでしょう。
自分がどもっていて、自分の子どもがどもり始めると、受け止め方は、自分のときとは異なるようです。その心情を正直に綴ってくれた、佐々木和子さんのこの体験は、印象に強く残っている体験談です。佐々木さんは、今でも、僕たちと一緒に活動を続けています。
吃音とともに豊かに生きる見本になることができる、そんな体験を「スタタリング・ナウ」2002.2.16 NO.90 から紹介します。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/07/09
自分がどもっていて、自分の子どもがどもり始めると、受け止め方は、自分のときとは異なるようです。その心情を正直に綴ってくれた、佐々木和子さんのこの体験は、印象に強く残っている体験談です。佐々木さんは、今でも、僕たちと一緒に活動を続けています。
吃音とともに豊かに生きる見本になることができる、そんな体験を「スタタリング・ナウ」2002.2.16 NO.90 から紹介します。
今は"ぞうさん"の気持ち…吃音ショートコースに参加して…
島根県立浜田ろう学校教論 佐々木和子
1年半前のある日、息子が突然、“つっかえ”始めました。バスが大好きで、江津に行く途中、車窓から見えるバス停名をいつものように唱えていた時、たまたま「新敬川」のバス停の前で「新ううううやがわ」とつっかえたのです。このつっかえに私は動揺しました。「まさかどもったのではないでしょう」と、襲ってくる不安を押さえて、今までとは何も変わらない、何事もなかったと信じようとしました。しかし、この一言をきっかけにして、息子は話すことば一言ひとことにつっかえるようになりました。「なぜ?」「今まで流暢に話していたのに、どうして話せなくなってしまったの?」と私はその事態を受け入れることができませんでした。
私自身も“どもり”です。今も、自分の意志に反してことばが出ない状態に陥ります。その私が、自分の“どもり”は棚に上げて、息子の“つっかえ”は何とか治そうと、やっきになりました。つっかえようと思ってつっかえている訳ではなく、自分ではどうすることもできないのが“どもり”であることを知り尽くしているはずの私が、幼い息子につっかえる症状を自分でコントロールして流暢に話すことを要求し続けました。息子の気持ちを一番わかってやれるはずの母親である私が、息子の“つっかえ”にこだわり、息子の“つっかえ”を拒否し続けました。息子がつっかえ始めてからは、どんなに楽しいひとときを過ごしていても私の心が晴れることはありませんでした。いつも心の奥に重い気持ちを引きずっていました。
主人からは、「どもったっていいじゃないか。なぜ、自分の“どもり”は認めることができるのに、息子の“つっかえ”を認めることができないのか」と不思議がられました。「どもることイコールマイナスではない」「どもってもいい」と頭ではわかっていても、目の前でつっかえる息子を見ると、心にさざ波が立ち始め、それが大きな波のうねりとなり爆発するのです。「どもらないで!」と。
2002年秋、吃音ショートコースに参加し、私の心に重くのしかかっていたこの大きな問題を解決することができました。キーワードは「諦める」ということばでした。
話し合いの中で『諦めること』とは“明らかに見極めること、こだわらないこと、ほったらかすのではない、物の道理を明らかにすること”であることを学びました。
今、私は、自分の“どもり”で悩み苦しむことからは解放されています。幼い頃から、人一倍“どもり”に嫌悪感を持ち、しゃべることから徹底的に逃げていた私が、なぜ自分の“どもり”を受け入れることができるようになったのか、と考えていくと、「諦めた」からだということに気づきました。ひょんなことから、しゃべる職業に就き、初めの何年かはうまくしゃべれないことに落ち込む日々を送っていましたが、いつもいつも落ち込んでいられないほどにどもる場面を経験すると、「まっ、いいか」という気持ちになっていきました。私は自分の`どもりrと向かい合い、葛藤する中で「まっ、いいか」と自分の“どもり”を諦めていったのです。流暢な話し方ができない自分、ブロック症状が激しくて立ち往生している自分、緊張すると何を言っているか相手に伝わらないしゃべり方になってしまう自分…様々な自分の姿を「まっ、いいか」と諦めることができるようになったのです。諦めるとは、今のままの自分でいいと自己肯定することなのです。“どもる”ことが私のセールスポイントだと、どもることに価値を見出してくれていた主人のお陰で、私は自己肯定の道を歩き始めることができました。今度は私が、息子の“どもり”に価値を見出してやれば良いのです。
私は今まで『諦めること』は悪いこと、負けることだと思っていました。何事に対しても、最後まで諦めない、努力し続けることが良いことだと考えていました。だから、親である私は、息子の“つっかえ”を諦めてはいけないと思っていたのです。流暢に話せるようになるまで諦めないで、“つっかえ”にこだわって“つっかえ”を消さなくてはならないと考えていました。こだわり続けていると、息子がつっかえるその一言ひとことが無性に気になってきます。言い直しをさせることは良くないことであることを十分知っているのに、つっかえの症状が妙に痴にさわり、言い直しをさせ、つっかえを消していくことにとらわれてしまいました。まさに、母親である私が我が子に自己否定の呪いをかけていたのです。
吃音ショートコースに参加されていたある女性のスピーチセラピストの方が、「自分は20歳の時、親が諦めてくれたお陰で楽になった」と語ってくださいました。この話を聞いて、私は親が子どもを「諦める」ことが「今のままのあなたでいい」という自己肯定のメッセージを送ることになるということに気づきました。
私は息子を自分の理想に近づけようとしていたのです。だから絶えず今の息子の姿に満足することができず、「今のままのあなたではいけない」「もっと素晴らしい子どもになりなさい」と自己否定のメッセージを送り続けていたのです。自分に自信が持てず、不安定な状態で暮らしていた息子がつっかえ始めたのは、その苦しい胸の内のSOS発信だったのかもしれません。私は息子を自分の理想像に近づけることを諦めてやらなくてはならないことに気づきました。この気づきの後、目の前でつっかえている息子が急にいとおしく思えてきました。今のままの
大ちゃんでいいのです。つっかえてしゃべるのが大ちゃんなのです。このように考えることができるようになって、私は楽になりました。息子との関係も良くなりました。
今、私は息子が“どもり”としての人生を歩むことになっても、ならなくても、どちらでも良いと思っています。私自身、“どもり”を抱えて、それなりに生きてきました。私にできたことなのですから、息子にできない訳がありません。
話す時に“つっかえる”症状を“どもり”と思うか思わないかは、その人の感性によって決められるものであると考えます。そして、“どもり”を魅力的な武器にできるかどうかも、その人の気持ちの持ち方次第であると考えます。息子には潔く、しなやかに、そして楽しんで“自分のつっかえ”に向き合ってほしいと思います。彼のために私にできることは、ぞうさんの歌に歌われているような自慢できる魅力的な“どもり”の母親になることでしょうか。
(「スタタリング・ナウ」2002.2.16 NO.90)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/07/09