伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

どもり

ことば文学賞作品 1998年

 「スタタリング・ナウ」(1998.8.15 NO.48)で掲載していることば文学賞受賞作品を紹介します。選者の高橋徹さんのコメントつきです。

   
ことばよ
                          西村芳和
ことば ことば ことば
もし呪うことができるなら
僕はことばを呪いたい
映画『八ツ墓村』のように
頭にロウソクを突き刺し
桜並木を疾走して
ことばを
次から次へと
叩き斬ってしまいたい
尽きることなく押し寄せることばを
そして最後に
ことばの神を引っつかまえて
5寸釘で打ち付けてやりたい

その時ことばは
やっぱり断末魔の叫びを
ことばを使って発するのだろうか
そうだとすれば
僕はその断末魔の叫びのことばを
また生け捕りにして
またまた5寸釘で打ち付け
その断末魔の叫びのことばの
そのまた叫びのことばを
生け捕りにしなければならない
つまり終わりがない
もしかするとことばは
こうして何度も滅ぼされそうになりながら
生き続け繁殖し続けているのかもしれない

それにしてもことばよ
たまにはことばを使わず
その姿を顕してみせろ

そして
僕と勝負しろ

ことばよ
僕の前に現れ出るのがコワイのか
コワクないなら今すぐ出て来い

ことばよ
勝負だ

【高橋徹さんのコメント】
 「ことばよ」は、まずその発想、展開の仕方、ことばの使い方、構成、どれをとっても吃音者の問題を扱う詩としては出色の出来栄えでした。想像するに、どもりの問題をもっている方々は、それぞれことばに対してえも言えない気持ちを抱えていることでしょう。人間が音として発するだけのことばを、作者はポエジーという、詩的な考え方の中で、まるで不思議な独立して存在するものであるかのごとくイメージした。大層力強いものを感じました。ことばとの闘争心をもつ人、どもる人でないと、またときにはことばへの激しい憎しみがないと、こんな表現はできないと思いました。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/09/24

こっちの道もあったんだ

 「どもりは治る、治せる」、「どもりを治さないと大変なことになる」
 1965年の21歳まで、僕にはこの情報しかありませんでした。吃音を治すことが、唯一の道のように思わされていたのです。しかし、大勢のどもる人が集まり、自分の人生を語り、対話する中で、「どもっているまま、豊かに生きる」という道があることに気づきました。まさに、「こっちの道もあったんだ」です。僕は、僕の意見を押しつけようとは思いません。ただ、こっちの道もあるんだよということは伝えたいと思っています。
 吃音親子サマーキャンプが1週間後に近づいています。新型コロナウイルスの感染拡大がかつてないほどに拡大している中でも、初参加の人のキャンプへの申し込みがあります。コロナウイルスの感染には最大限注意しながら、今年は開催しますが、今回紹介するのは、吃音親子サマーキャンプに参加した人たちの声を特集した「スタタリング・ナウ」からの紹介です。
1998年7月18日の「スタタリング・ナウ」NO.47の巻頭言を紹介します。

こっちの道もあったんだ
              日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「どもりでちょっとよかった」(高校1年女子)
 「僕、どもってもいいんか」(小学3年男子)

 30数年前、どもる人のセルフヘルプグループを創った頃、どもりを治したいとの思いはとても強く、このようには考えられなかった。このような考え方ができるとは想像すらできなかった。
 吃音親子体験文集『どもり・親子の旅』には、小学生・中学生・高校生、そして親の、従来なかった視点からの体験があふれている。それは、新しい価値観、新しい文化とも言えるものだろう。

◇私はいろんなおともだちとしゃべりたい。その時私がどもっても平気です。だって、キャンプでどもっている大人の人が平気なのを見たからです。(小学4年生・女子)
◇親の話し合いのスタッフは、出された疑問や質問に自分の経験を交えて、かなりどもりながら応えていた。その姿を素敵だと思いました。(親)
◇同室のどもる子どものお母さんが「私もどもります」と少しどもりながらいろいろと話して下さいましたが、どもっている彼女に嫌悪感など、みじんも感じませんでした。(親)
◇劇の上演の時、すごくどもっていたけれど、それはそれは一生懸命に言葉を言おうとしている青年の姿に感動しました。(親)

 吃音親子サマーキャンプに取り入れている芝居。緊張する状況に身を置き、大勢の前で舞台に立つ。
 《大勢の人の前で劇をすることを避けなかった》
 《練習の時よりも大きな声が出た》
 《みんなが真剣に聞いてくれてうれしかった》
 これらの体験によって、子どものどもりに対する見方が、これまでにない広がりをみせる。私にもできるのではないかと少し自信が生まれる。
 吃音親子サマーキャンプのスタッフの多くは、どもる人たちだ。どもりながら明るく笑い飛ばす大人がいる。大人がどもりどもりキャンプの説明をしている。どもりは悪いものでも劣ったものでもないと信じる大人のどもる姿は、どもってもいいとの安心感を与える。どもりが治らずに大人になっても大丈夫なのだという見本がいっぱいいるのだ。子どもたちはその全体の雰囲気、大人たちの姿に影響を受ける。
 どもりながらやり遂げたという体験と、このどもる大人との出会いによって、価値観は広がりをみせる。
 吃音を否定し、自己を否定することによって自分を見失ってしまった私たちが、後に続く人たちにできることは、「どもっていてもいい」「あなたはひとりではない」と言い続けることしかない。
 しかし、この私たちの価値観や文化を主張することは、他の価値観や文化を抑圧することに繋がる危険性があることは意識しておきたい。
 だから私たちは、私たちの価値観を子どもたちや親に押しつけ、サマーキャンプで、それを声高に叫んでいるわけではない。ことさらにどもりを受け入れようと強調しているわけでもない。ただ、どもりと真剣に向き合い、自らのどもりを、気持ちを自分のことばで表現しているだけだ。
 一般的によく使われる《180度の価値観の転換》とは言わず、価値観を広げるという表現をする。それは、ひとつの道しか考えられなかったところに、「こっちの道もあるのだよ」と伝えることだ。どの道を選ぶかはその人の自由なのだ。
 この子どもたちも、今後どもりに悩むことはあるだろう。どもりを治したいと願う時期もおそらく来るだろう。しかし、一度は吃音と真剣に向き合い、複数の仲間と語り、自分ひとりではなかったと実感したことは確かなのだ。そして、どもりながら、自分なりに豊かな人生を生きているどもる人に出会ったことは、「こっちの道もあったのだ」とまた思い出させ、気づかせてくれることだろう。
 「どもりは治さなければならない」
 ひとつの道しか考えられなかった私たちの時代とは、明らかに違うのだ。
           「スタタリング・ナウ」1998.7.18 NO.47


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/08/11

特集・ことば供養 どもり方を磨く 3

 昨日の続きです。自分のどもり方を個性にして活かすという発想は、昔も今も、変わっていない僕の発想です。

伊藤 絶対どもりたくない、できるだけ隠そうと思ったときは、どもり方は変化しないんですね。隠すテクニックが多少上達するだけで、それは症状の変化とは結びつかない。
 どもりを否定していると、自分では相手に向いてるつもりでも、相手と向かい合っていない。このことばを言ったらどもるやろうと、コンピュータが瞬間に判断して、言わないとか、言い換える。相手と向き合うのではなく、自分のどもりと向き合っている。それは、自分のどもりとのコミュニケーションで、相手とのコミュニケーションではない。
 相手と向き合うためにはまず、相手の目を見る。目を見ることで相手と向き合うと、相手も向き合わざるを得なくなる。しかし、どもる姿を見られたくないと、うつむいてしゃべる。すると、相手は関係がつかめない、関わりにくい。いかにどもっても、相手の目を見て向かい合うと相手との関係は生きる。
 しかし、目を見るということは大変難しいんですね。東野さんも、竹内敏晴さんに質問したときに「あんた、さっきから僕の目を見てしゃべってないやないか」と言われたね。相手の目を見るようになって、東野さんも電話がずいぶん楽になった。どもりとの対話ではなくて、相手と対話することが基本ですね。
 真似をしてもいいと思える《どもり方の見本》を見つけることを考えたい。真似をすることから、自分のどもり方のプロポーションを変えようということです。
 どもり方のパターンにもいろいろありますね。ブロックの難発型と、連発型がある。本来ブロックを連発型にすれば良いんだけど、なかなか大人になってからでは難しい。わざとどもるという《随意吃》がどもる人にあまり支持されなかったが、できないことは無理してせずに、できる範囲でプロポーションを変える。難発なら難発なりのしゃべり方を活かす。連発だったら連発なりのしゃべり方を活かそうと、当面考えた方がいいかも知れない。
 例えば、ノーベル賞の作家・大江健三郎さんや物理学者・江崎玲於奈さん。あの人たちは、難発型のブロックを上手に活かしているように僕には思える。決して連発型にはならない。難発型のブロックの、「間」が生きている。どもるからゆっくりではなくて、自分の個性、パーソナリティーとして、どもって声が出ない時の「間」を活かすという発想をしてもいいと僕は思います。
 僕が「間」が素晴らしいと思った人に、徳川夢声という人がいます。ラジオの時代に、宮本武蔵などを朗読していて、随分ゆっくりした話し方だなあと聞いていました。その徳川夢声さんから「間」を学んだどもる人に、社会評論家の扇谷正造さんがいます。扇谷正造さんからは、「私はかってどもったが、今はどもりではない」と、私たちが吃音の仲間扱いをした時に叱られましたが、週刊朝日の編集長時代に、徳川夢声さんと対談して、その「間」にほれるんですね。その「間」を真似たと扇谷さんは言っていました。徳川夢声さんはどもる人ではありません。
 東京都知事だった美濃部亮吉さん、知っていますか。ちょうど美濃部さんが立候補して東京都知事に初当選する時、僕は大学生でした。直接的な応援はしませんでしたが、演説会場に演説を何度も聞きに行きました。その時の美濃部さんの話し方のとてもゆっくりでした。
 「みぃ・ん・しゅぅ・しゅぅ・ぎぃ・とぉ・い・う・もぉ・のぉ・はぁ…」
 僕は、民間吃音矯正所で教えられた極端にゆっくりの喋り方が嫌だったのですが、そのゆっくりさとあまり変わらない程度にゆっくりなのに、不自然さが全く無い。ソフトな語り口に、本当にびっくりしました。絶叫型の演説がまだ多かった時代に、美濃部さんは、自分のことばで淡々と聴衆に語りかけていく。それがものすごく素晴らしかった。
 この人、上手に間を使ってるなとか、この人のしゃべり方はゆっくりだなという人を、難発型の人は、「間」を活かすというふうに、発想を考えてモデルにしてはどうでしょうか。どもるからつっかえて「間」が開くんだと考えないで、「間」をどう活かすか。どもっているそのどもり方が、その人の個性を作る。このように有名人じゃなくても、僕らの仲間の中にも、どもり方の見本はあるんじゃないかと思います。
 難発型から連発型に変えようと思ったときは、羽仁進さんや平野レミさんのどもり方がモデルになるかも知れない。羽仁進さんの話し方は軽快ですし、平野レミさんは料理番組かなんかで聞いてると、明るく楽しくどもっている。
 ことば供養の中に書いた大分のSさんは、ブロックを突き破ってでもしゃべろうとするから、派手に爆発するようにどもりますが、彼がしゃべり始めると、思わずこちらの顔がほころんできて、笑いたくなる。彼のどもり方が、その場を柔らかくし、雰囲気を盛り上げる。温かい、明るい雰囲気なんです。いつもニコニコしている。
 あなたはどのどもり方、どのプロポーションを選ぶでしょうか。
 どっちみちどもるなら、かっこよく楽しく。いっぺん、今度上手にしゃべるのではなくて、どれだけ上手に格好良く、どもるかというどもり大会をやればおもしろいと思います。

東野 どもる人の有名人で、どもっているところをあんまり見たことないが、この間、映画監督の篠田正浩さんが出てて、ちょっとどもるのだけれど、柔和な感じでゆっくりと話をしていて、感じがいいなあと思いました。軽くどもって、気にならない。

伊藤 おっちょこちょい役を演じさせるとき、昔はよく俳優にどもらせていました。森の石松役の俳優はよくどどもっていたように思います。
 ユーモアはなかなか難しいことなんだけど、昔から吃音がり笑われ、からかわれた対象になったのはやっぱり、人がどもると、聞いていて面白い部分があるからですね。
 連発型のどもり方は、面白がられる。そして笑われると、僕たちは屈辱感を感じる。だから、今度は難発の状態になってしまう。本来というか、子どもにみられる、どもり初めのころのどもっている状態は、かわいそうだなあという印象を持たれるよりも、笑いの対象であることが多い。そう考えてくると、僕たちは、期せずして笑いをとっていることになる。
 面白い人は人気があるわけですが、私たちは期せずして、苦労せずにユーモアを醸し出すことができると考えることもできるのではないかと思うのです。
 では試しに、今から自分の名前を格好良くどもって言ってみましょうか。

 (次々と試みるがぎこちない。普段どもっているのに、いざ意識してどもろうとするとできない)

平沢(男・小学校教諭) 隠そうという意識が働いたときからブロック、難発が始まったなあと思う。小さいときはものすごい早口でどもりながらしゃべってたんですよね。中学生になって恥ずかしいと思い始めて、連発じゃなくて難発になって定着していった。だから、笑われたことを恥ずかしいと思わなかったら、今頃はなんともなかったかも知れない。

伊藤 人が笑ったことを、自分に対するさげすみととるか、「笑ってもらった」と喜ぶかで随分違いますね。どもる状態を自分で判断して、今日はしゃべりにくいなあと思ったら、今日は熟慮に熟慮を重ねてるようなどもり方するとか。結局サバイバルですよね。生き残るためにほとんどの人が、どもりを隠そうとしたり、また、どもらないふりをしたりして、失敗してきた。だけど、どもってもいいと思ったときに、少しずつどもりは変化してくる。どもらないように変化させようと思ったときは、変化は起こらない。
 このままでいい、悩んでいる自分も自分だ、落ち込んでいるのも自分だと思ったとき、変わっていく。これはどもりだけに限ったことではないように思います。(了)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/06/17

特集・ことば供養 どもり方を磨く 2

 昨日の続きです。「ことば供養」について、大阪吃音教室で話し合った内容を紹介しています。

伊藤 アメリカの、自身がどもる言語病理学者でもある12人の、吃音者へのメッセージを集めた本を翻訳して出版しましたが、その『人間とコミュニケーション』(NHK出版)の中に「言い替えをする自分を許そう」という表現があります。
 吃音を受け入れて生きるという主張の中に、どもっても決して言い替えをしてはいけないという主張がこれまでにあって、息苦しさを感じていたのですが、「言い換えを許す」はとても新鮮で、そうだそうだと共感したのをよく覚えています。
 言い替えをすることに罪悪感を持ってしまうと、横田さんが言ったように、いつも自分を責めてしまうことになり、とっても辛い。
 そこである人は、自動的に自分の身を守るために、感じなくしてしまう。それが日常的になってしまうと、気づけなくなる。
 知人のスピーチセラピストが広島の病院で仕事をしていた時の話です。
 ある人が、上司から紹介されて吃音の相談に来た。つきあいのある私たちのことを話したり、どもりは、逃げたり隠したりするのが問題ですねなどと話をしていたら、その人がワーっと泣き出して、自分のことを話し始めました。

 『子どもが学校で事故で片目を失明した。裁判で訴える話もあったが、仕方がないと示談で済ませた。物分かりのいい人間を演じていた。《どもる人は吃音を隠し、逃げる》という話を今聞いて、実は僕もそうだったのだと気づいた。
 裁判になると、話さなければならない。吃音については隠して、誰にも話していなかったので、周りの人に吃音であることを知られるのが怖かった。それで示談で済ませたのだ。どもりを隠して、どもりたくないために、自分は大事な娘の失明の事でも、主張しなければならないのに主張しなかった。自分がどもりでなかったら、きちんと言っていただろうと思うと悔しい。娘に申し訳ないことをした』

 いつも避けたり逃げたりが日常的になると、逃げていることに気づかなくなってしまう。そうでないとバランスがとれないので、サバイバルという意味でそれはそれなりに意味があったのですが、一方で、それを意識化していく作業も必要な時がある。逃げている自分を意識するのは辛いけれど、そうしなければ、東野さんが言う不全感であったり、徳田さんが言う納得できない生き方であったりする。こう気づいた時に、辛い対応かも知れないが、その問題に直面していくことが大切ですね。ことばについて言えば、直面するきっかけに「ことばの供養」がなればいいなあと思います。
 それでは、どもり方を磨くに話をすすめますが、気持ちだけでなく、症状面でも変化している人は多いと思いますが、以前のどもり方と今とずいぶん違うと思う人、いれば教えて下さい。

佐藤(女・会社員) だいぶ変わってきました。言い替えをしてどもるのをごまかしてきたので、友達もどもるのを知らなかった。それが、ごまかさないようになったので、前よりどもるようになりました。

徳田 随分変わりました。今は自分がどもりだと自覚してしゃべっている。以前はどもりだと思いたくなかったし、なんとかうまくしゃべろうとして、言い替えを非常にしていた。今はほとんどやってません。今は言いたいときは、随意吃を使ってでもしゃべる。その方が自分そのものやと思うし、今はかっこよくしゃべろうとは思わない。同じどもるにしても素直にどもりたい。
 僕は心地よいどもり方という表現が好きで、それは、しゃべる方も聞く方にもいい。同じどもるにしても、聞きやすいし、心地よい。表情が豊かであれば、症状的にどもっていても、何を言ってるか素直に伝わってくる。

曽根 僕は今年の正月ぐらいから、どもりがひどくなった。自分で考えたんですが、いつも緊張気味の方が、どもらずに喋れるので、僕の体が自分のどもりを受け入れてきたようで、緊張が緩んで反対にどもり出したんかなと思う。症状的には目立つが、気分的には違います。

平沢(男・会社員) この大阪吃音教室に初めて来た中学1年の頃は、あまり人の顔を見ることができずに、しゃべることが多かった。顔をひきつるように話すことがあったのですが、どもっても声を大きくしてしゃべろうとして、だいぶどもりが軽くなった。最近は、どもっても、人の顔を見てしゃべればみんな聞いてくれます。

杉本(男・自営) 僕はあまり昔はどもりを意識しなかったが、ここに来て自分はどもると意識するようになった。最近よけい、ひどくなった。最悪です。それでも楽ですが…。

東野 ずいぶん軽くなりました。最初出なくて、難発だった。変わった理由は、どもってもいいやと思い出してからです。どもってもいい、どもりを受け入れようと思ったときから軽くなっていきました。それまではやっぱりどもらずにしゃべりたいとか、どもりであるのにどもりの自分を否定してるからよけいことばが出なかったのです。
 今は気持ちが沈んでいる時は確かに調子悪いですが、また元に戻るわぐらいで、吃症状に関しては考えませんからね。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/06/16

もうひとつの、どもり・親子旅

 先日、紹介した松尾さん親子のどもり旅の続編として編集した『スタタリング・ナウ』(1998年2月21日)を紹介しています。次に、松尾さんの文章を読んだ感想を紹介します。今日は、松尾さんと同じように、どもる子どもの親であり、後にそれがきっかけで、大阪教育大学の特殊教育特別専攻科(言語障害児教育)で吃音を学び、小平市の障害者センターでスピーチセラピストとして働いていた安藤さんの感想です。安藤さんは、松尾さんの「どもり・親子の旅」を読んで、ご自分の親子の旅を振り返って下さいました。その安藤さんとは、僕は公私ともに親しくさせていただきました。最初のパンフレット「どもりの相談」を作ったときも一緒に合宿をしたり、内須川洸先生との年に一度の旅行にもご一緒しました。ご病気で亡くなられましたが、こうして文章を読むと、包み込むような温かさと鋭い指摘とが思い出されます。

  
どもり・親子の旅を終えて

                  小平市障害者センター言語相談室 安藤百枝

はじめに
 松尾さんの「どもり・親子の旅」、とても懐かしい気持ちで読ませて頂きました。
 私は現在、スピーチセラピストとして働いていますが、20数年前、当時幼稚園児だった息子とどもりの旅をスタートしたひとりの母親でもあります。その旅がいつ終わったのかはっきりしませんが、松尾さんの文に触発されて、長いようで短かった私共の旅をふり返ってみました。

息子のどもりが重くなり
 時々軽くつっかえる程度だった息子のどもりが、5歳の時自家中毒のあと急に重くなった時には、どうしたらよいのかわからず、あわてました。
 どもりに関しては、注意したり、言い直しをさせたりしなければ、そのうち治るという程度の知識しかなかった私は、なんとかして治さなければ、と総合病院の小児科を受診し、そこですすめられたスピーチクリニックに通いました。
 話す前にフゥーッと息を吐くという練習をして、一時的に軽くなったのも束の間、以前よりひどくなってしまいました。そしてまた、別の吃音研究所に通うという愚かなことをしました。そこでは、機械を背中に背負わせるなどする治療にインチキ臭さを感じ、2回ほどでやめました。
 どうすればいいのか戸惑っていたある日、テレビを見ていると、NHK教育テレビ番組「NHKことばの治療教室」が出演メンバーを募集していると案内していました。ここなら信頼できるだろうと応募し、条件に合ったため、メンバーに入れていただきました。

NHKことばの治療教室
 ここでの一年間は、それまでの私のどもりに対する考え方が、根底からくつがえされる葛藤の日々となりました。
 NHKでの指導は、どもりだけを追放するのではなく、子ども全体を良くすることでどもりを追放しようという考え方で、どもっている子どもをそのまま受け入れ、子どもの話をよく聞いて、話しやすい雰囲気をつくり、どもっても平気でいられる母親になるように、という母親指導が中心でした。しつけについても色々と考えさせられ、反省することばかりでした。
 子ども達は別の部屋で研修の先生が遊んで下さり、息子も「今度はいつ渋谷に行くの?」と楽しみにしているようでした。
 5人の母親グループの中で私は一番の劣等生で、いつまでも治したいという気持ちが強かったのですが、宿題の日記をつけながら色々な角度から自分を見つめる中で、少しずつ私の中味が変わってきました。
 母親が変われば子どもも変わるという見本のように息子の吃症状は軽くなり、自分でも「僕、ウウ、ウ、ウルトラマンていわなくなったね」といっていました。
 今思えば、どもりのことをきちんと話す絶好のチャンスだったと思うのですが、当時はどもりを意識させるなんてとんでもないことで、「ウ、ウ、ウってつっかえてもたくさんおしゃべりするほうがいいんだよ」と言ったと思います。
 『どもり』ということばは禁句でした。
 私の中にも、どもるという症状があることは認めても、『どもり』だとは認めたくない気持ちがあったと思います。
 一年間の指導が終わる頃には、どもりも軽い症状での波となり、私自身も一年前の自分からは想像できない位に平気になっていました。
 そして心の中では、治らないのかもしれないと薄々感じておりました。その一方で、親がどもる症状を気にしないで、大らかな気持ちで接することができるようになれば、子どものどもりの問題は解決する、という当時の指導の「解決する」ということばに、親の接し方次第で治るのでは、という希望を抱いていました。

治らないどもりをどうするか
 そんなあいまいな気持ちで、私共は夫の転勤で大阪へ転居することになり、もう少しどもりのことを勉強したいという気持ちもあって、大阪教育大学の神山五郎教授を訪ねました。
 そこで私は「目からウロコが落ちる」という体験をしたのです。
 特殊教育特別専攻科(言語障害児教育)の授業を聴講させてもらった時、神山教授や当時専攻科の学生だった伊藤伸二さん達、魅力あるどもる人達が、「治らないどもりをどうするか」というテーマで、どもりながら話し合っていたのです。
 はっきりと「治らないどもり」ということばを耳にした時、私の気持ちは落ち込むどころか、むしろすっきりして目からウロコが落ちる思いでした。
 テレビや映画の中の吃音者ではなく、ナマの成人吃音の人に身近に接したのは初めてでしたが、嫌な印象は全くなくて、「どもりをもったままいかに生きるか」という授業の内容にもすっかりはまってしまい、次の年、大阪教育大学・特殊教育特別専攻科の学生となりました。
 息子のどもりのことは二の次となり、言語障害についての勉強をしながら、どもる人達と一緒に、私自身が自分の人生と向き合う旅を始めたのです。
 『吃音者宣言』が発表される少し前の頃です。

息子との旅を終えて
 息子との旅が終わった今も、わたしの旅は続いています。私の中で、吃音の受容を、自分自身の受容を確かめる旅でもあります。
 息子は3年生までを大阪で過ごしました。幼稚園時代の友達と別れて知らない土地での学校生活のスタートは、不安だったことと思いますが、すばらしい先生に出会えて、どもりが悪くなることも、からかわれたりすることもなく、学校に行くのがとても楽しそうでした。ひとりひとりの気持ちをとても大切にして、子ども達の話をじっくり聞いて下さる先生でした。
 松尾さんも、3年の時の担任の先生との出会いが、その後の松尾君の成長に大きく影響していると書いていらっしゃいますが、学童期のどもる子どもに担任の先生が与える影響は、その子の生き方を左右するといっても過言ではないと思います。
 当時、吃音親子サマーキャンプはありませんでしたので、将来どもりが重くなったり、悩んだりした時には、大阪吃音教室に託そうと思っていました。大阪吃音教室に中学部や高校部を作って欲しい、と伊藤さんに頼んだのもその頃です。
 子どもがどもり始めた時の親の悩みは、今どもっていることだけでなく、この先どうなるだろう、まともな人生を送れるのだろうか、という将来への不安が大きいと思うのです。
 社会で活躍している著名人が、どもりながら話されたり、子どもの頃どもっていた、という話を聞いて安心したりもしましたが、身近に接した大阪吃音教室の人達の存在は、私にとってそんな不安をかき消してくれるものでした。
 その後、症状が重くなることもなく、楽天的な性格もあったのか、思春期を迎えても、どもることで深く悩む様子もなく、大阪吃音教室とは今のところ縁がありませんが…。

おわりに
 『スタタリング・ナウ』40号で、伊藤伸二さんが、「どもりに関しては、吃音ファミリーにお任せ下さい。吃音ファミリーはひとり立ちするための母港です」と書いておられるのを読んで、気持ちがとても広やかになりました。
 吃音親子サマーキャンプで、自分の悩みや、どもりについて思いきり語り合い、力を合わせて劇に取り組んだ子ども達の中には、忘れられない共通の記憶と心の結びつきが生まれ、光となって輝き続けることと思います。
 松尾君の作文を読むと、日本吃音臨床研究会が目指しているものがじわじわと彼の中に浸透して、輝いていく様子が感じられます。
 特に、人権作文「やさしさを見つけよう」は、頭の下がる思いで読みました。彼の内面から湧き出ることばがあふれています。
 人を殺すのも生かすのも人だ、と言われますが、だからこそ、人との出会いが大切だと思います。松尾君が、まだ色に染まっていない時期に、日本吃音臨床研究会のどもる人達に出会えたのは幸運でした。
 中学生になった彼が、ひとりでも多くの理解者と出会い、ふれあう中で、また違う輝きを見せてくれることを願っています。
 吃音ファミリーを母港として、自分の海路図をつくり、ゆっくりと大海に漕ぎ出していって下さい。(1998年2月21日)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/06/12

どもり親子の旅・松尾さんの場合

 先日、紹介した松尾さん親子のどもり旅の続編として編集した『スタタリング・ナウ』を紹介しています。松尾君が「先生は、僕のこと分かってくれてるねん」と言っていた、その先生が、卒業する松尾君へのメッセージとして、文章を書いて下さいました。
 僕は、小・中・高と、僕のことを理解してくれる教師に誰ひとり出会っていません。
 「先生は、僕のこと分かってくれてるねん」の松尾君のことばは、とてもうらやましいです。

  
卒業にあたって、松尾君へ
                     田嶋美子

 松尾さんよりいただいた日本吃音臨床研究会の「スタタリング・ナウ」2月号を読み、小学校卒業を控えた松尾君の成長を担任として振り返っておきたいと思い、ペンをとりました。
 松尾君との出会いは小学校3年生のときでした。その頃は、小さい肩に精一杯力を入れて、ひとりで心ない周りの友達と戦っていたのを思い出します。遊びに外に出ると、休み時間の終わりには握りこぶしを振るわせて怒ることがたびたびありました。話し方の真似をされたり、嘲笑されたり、子どもはストレート過ぎて残酷です。松尾君にとって心が休まる日が少なかったようです。とにかく、この肩の力を抜かせてやりたいという思いから、ひとつひとつ、起こったできごとをていねいに解決していくことから始めました。同時に、松尾君の心をみんなに伝え、松尾君側に立った気持ちも考えようという語りかけもたくさんしました。
 松尾君のクラスは、一年入学後まもなく不登校になってしまった女の子や、友達への接し方、甘え方が分からず、つい手が出てしまう暴力的な男の子など個性豊かで、重い問題も背負う子が多くいました。
 「ひとりひとりにていねいに対応する」ことを心がけ、どの子の方にもきちんと向き合えるだけ向き合いました。特別なことはしていませんが、お母さんの文にあったように、そんな私に心を開き、松尾君は肩の力を少しずつ抜いていきました。
 笑顔で遊ぶ姿が見られ、親友のような友達もでき、クラスは戦う場所ではなくなりました。
 4年生になると、給食委員会に入って、給食のメニューやそれにまつわる話を全校児童に放送する仕事を引き受けました。松尾君が放送するという日は、いつもはおしゃべりでにぎやかな食事時なのに、しいんと静まり返り、耳を傾け、放送が終わるとスピーカーに向かって拍手が起こります。松尾君を応援し、励ましていけるクラスとして育ったことを確かに感じ取れるひとときです。授業の朗読でも同じような姿が見られました。
 しかし、松尾君をもっと内側から成長させたのは、日本吃音臨床研究会との出会いだと思います。サマーキャンプのことを目を輝かせて、繰り返し語ってくれました。会で出会った人達に支えられて、自分のことをきちんと見つめ直そうとしているのがよく分かりました。ちょうど、深く物事を考え始めようとする4年生という時期の出会いもよかったのでしょう。自分から友達を誘い、我が家へ遊びに来たりして、行動的になってきたのもサマーキャンプ以後のことでした。
 5年生では担任をはずれましたが、運よく、6年生でまた担任になることができました。クラスの中でも、松尾君と話すのは特に楽しみです。
 手応えがすごいのです。映画『もののけ姫』を見に行った後で(彼は2回も見たそうです)クラスのみんなも「よかったなあ」とか「分からんわ、あの映画は」と喋っています。松尾君は「先生、あの映画は悲しいなあ」と語りかけてきます。「なんで?」「だって、あの中に出て来る人はみんないい人ばっかりや。いい人ばっかりやのに、戦ったり、憎しみ合ったりしやなあかんところが悲しいやん。つまり、分かり合えないんや」松尾君と話していると、ついこちらも考え込まねばならず、力が入ります。深く考えることが苦手な子が多くなっている中で、松尾君は特に頼もしい12歳です。作文でも、自分の考えを整理して、問題を投げかけるという力がついていることを感じます。人の痛みを自分のこととして感じられるやさしさを持っているので、友達からの悩み相談も多いようです。日本吃音臨床研究会で、大人に混じってディスカッションできる体験も、深く考える力をつけるのでしょうね。そして、何よりも苦しみから自分で抜け出してきた力が、他の12歳とは違う魅力を松尾君に与えてくれたのだと思います。
 クラスの友達と別れて、私立の中学校に進む松尾君ですが、人間的な魅力の前には、ことばの問題はかき消されていくことと信じています。夢を語り、自分を語ることを楽しんで下さい。応援しています。(1998年2月21日)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/06/11

吃音者宣言1 逃げの人生の始まり 読売新聞 1997.5.9

 学芸会の配役に屈辱感

 大阪セルフヘルプ支援センターで知り合った、読売新聞の記者の森川明義さんが、僕の人生に興味・関心をもち、僕の人生を7回にわたって、記事にして下さいました。僕は、研修会や講習会で、また本の中で、自分の人生を話したり書いたりしていますが、他者が書いてくれた僕の人生を、新聞記事として読むというおもしろい経験をしました。今日から7回の連載を紹介します。

読売新聞連載 写真_0001 
「どもりで本当によかった」。日本吃音臨床研究会(大阪府寝屋川市)代表の伊藤伸二(53)は今、自信と誇りを持ってそう言える。
 11年前の1986年8月11日正午前の国立京都国際会館Aルーム。国連の軍縮会議なども開かれた馬蹄形の威厳のある大会議室だ。世界11か国から約400人の吃音者や研究者らが集まった第1回吃音問題研究国際大会の幕が、熱気に包まれながら下りようとしていた。
 明かりが落とされた会議室で、参加者全員が立ち上がり隣の人と肩を組み「今日の日はさようなら」の曲をハミングで響かせる。当時、吃音者でつくる全国言友会連絡協議会長で、大会の会長を務めた伊藤は静かにマイクを手に取った。
 「私はどもりが嫌いでしたが、世界の仲間と出会え、どもりが好きになっている自分を感じています。3年後、ドイツのケルンでまたあいましょう」
 会場から、伊藤に惜しみない拍手が贈られた。
 世界の仲間と集いたいと、ほのかな構想を抱いてから16年、具体的な準備にも3年をかけた国際会議のフィナーレ。感激で涙があふれた。

伊藤が、初めて「どもり」を意識したのは、津市で暮らしていた小学校2年生のときだった。
吃音は3歳ごろからあったようだ。が、意識することは全くといっていいほどなかった。どもっていてもよくしゃべり、明るく元気で友だちも多かった。成績も良かった。何事にも積極的でクラスの副委員長にもなった。
 2年生の秋。恒例の学芸会が迫っていた。伊藤たちのクラスの出し物は「浦島太郎」に決まった。当時、成績のいい子が重要な役を射止めた。「当然、自分は主役の太郎役」と思い込んでいた。家族にも得意になって話した。
3週間前、担任の教師から配役が発表された。わくわくして待った。「太郎は○○君、亀は××君」。重要な役は次々に決まっていくのに伊藤の名は呼ばれない。最後に数人やっと役が振り当てられた。多数の村人役の一人。せりふは皆で一緒に言う「さようなら、亀」だけだった。
今から思えば、傲慢で冷や汗ものだが、その時は屈辱感に震えた。「どうして、成績のいい僕が……」。ふと、思い当たった。
 「どもっているから?」
 練習が嫌でたまらなかった。"その他大勢"の仲間を誘ってさぼろうとした。嫌な人間だと思ったが、独りに耐えられなかった。
 吃音を強烈に意識するようになった。成績も良く、走るのも速い。級友からも一目置かれた存在だったのが、学芸会をきっかけに、誇りや自信を急速に失ってしまい、いじけたようになった。
 いじめられるようにもなった。ちょっと言い争いになると「どもりのくせに」という言葉が浴びせかけられた。自分が正しいと思っても、その言葉で腰が引けてしまう。相手はそれを知っているから余計にはやし立てる。どんどん無口に、そして引っ込み思案になっていった。
 たくさんいた友人も、1人抜け、2人抜け……。気が付くと独りぼっち。自分自身から、吃音から逃げる人生の始まりだった。(敬称略)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/22
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