治療法への、希望的観測
とっくの昔に専門学校の講義は終わり、別の専門学校の講義も終わったというのに、3のままになっていました。この項目を終了しないと次に進めないので、とりあえず今回の4で専門学校の講義のことは終了します。
書きたいことは、たくさんあるのですが、やはりブログの更新には時間がとられます。目の前の仕事をこなしていると、ブログを書く時間がとれないのです。毎年のことですが、4月、5月はハードスケジュールで、どたばたしています。
私の講義は、「治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方」を理論的に、実践的に、具体的な方法論まで提示するのですが、「治す」ことを至上任務だと考える学生には受け入れがたいことのようです。それでも6日間の講義の中では、ずいぶん柔軟にはなってきますが、このような、正直なふりかえりを書く人がいました。
「私が、吃る当事者なら、これまで聞いてきたことを踏まえれば、吃音を治すことにこだわらないで、吃音と共に生きる道を選択するだろうと思います。しかし、なんとか、治したいと強く願う吃る人が相談に来られたとき、私は、やはり、結果はどうなるか分からないにしても、一緒に、治す方向で取り組みたいと思います」
このふりかえりを紹介した後、私はこう話しました。
「治す方向で取り組むという人は、どのような方法で取り組もうとしているのでしょうか。世界の治療法を紹介し、治療の限界や、私たちの取り組みをこれだけ具体的に提示しても、このような思いをもつのは、やはり、何か、吃音を治す方法があるのではないかとの、希望的観測をもっているからじゃないだろうか。
吃らない人が意識しないで自然に流暢に話すような「自然な流暢さ」を、吃る人が身につけることは不可能なのです。できるとしたら、「コントロールされた流暢さ」を身につけることしかありません。その方法にしたところで、結局は「ゆっくり話す」ことでしかないのです。いろんな器具はその補助でしかありません。
本当に、本当に、世界のどこにも吃音を治す方法はないのです。それでも治そうとするのは、臨床家としては、なにかやったという満足感が得られるかも知れないが、吃る当事者にとっては、やはり治りませんでした、では済まされないのです。
私は、臨床家として、「治すことにこだわる」ことの無意味さを、一所懸命伝えます。それでも、吃る人が「治すことにこだわる」のなら、私には、治すお手伝いはできませんと、正直に言います」
このように言いますが、伝わっているかどうかは分かりません。
何とかしたいと吃る人本人や臨床家が思うのは、「どこかに、少しでも、改善できる方法があるはずだ。あるに違いない」という幻想を抱いているからではないでしょうか。
100年以上も長い間、世界中で、吃音の研究・臨床が必死で続けられながら、現在のところ、確実な方法はないのです。治療法がないのだということを、はっきりと認識することは、そんなに難しいことなのでしょうか。
4か月必死で努力しても治らず、世界の吃音臨床を知っている私には、自明のことであっても、私のような経験をしていない人には、それは難しいことなのでしょうか。どうしても、私には難しいこととは思えないのです。事実を見る目と、事実を認めることと、想像力があれば、と思ってしまうのです。
6日間いろいろと議論ができ、多くは伝わったと思う反面、常に、ここまで事をわけて説明しても分かってもらえない人がいるという、むなしさと徒労感が残ります。とてもよく分かってくれる人が多いのですから、少しはこのような意見があることは論理療法からすれば、それは、ごく当然のことなのですが、また、全員に分かってほしいと思うのは、相手への不当な要求であり、非論理的思考だとは分かっているのですが、こんな不全感をもってしまうのはなぜでしょう。
「治すことばかりを考えて」生きてきた21歳までがあまりにも、みじめだったから、同じような思いをしてもらいたくないとの思いが強すぎるのでしょう。
人は、それぞれ違うのですから、仕方がないことなのですが。
2009年5月10日 伊藤伸二
とっくの昔に専門学校の講義は終わり、別の専門学校の講義も終わったというのに、3のままになっていました。この項目を終了しないと次に進めないので、とりあえず今回の4で専門学校の講義のことは終了します。
書きたいことは、たくさんあるのですが、やはりブログの更新には時間がとられます。目の前の仕事をこなしていると、ブログを書く時間がとれないのです。毎年のことですが、4月、5月はハードスケジュールで、どたばたしています。
私の講義は、「治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方」を理論的に、実践的に、具体的な方法論まで提示するのですが、「治す」ことを至上任務だと考える学生には受け入れがたいことのようです。それでも6日間の講義の中では、ずいぶん柔軟にはなってきますが、このような、正直なふりかえりを書く人がいました。
「私が、吃る当事者なら、これまで聞いてきたことを踏まえれば、吃音を治すことにこだわらないで、吃音と共に生きる道を選択するだろうと思います。しかし、なんとか、治したいと強く願う吃る人が相談に来られたとき、私は、やはり、結果はどうなるか分からないにしても、一緒に、治す方向で取り組みたいと思います」
このふりかえりを紹介した後、私はこう話しました。
「治す方向で取り組むという人は、どのような方法で取り組もうとしているのでしょうか。世界の治療法を紹介し、治療の限界や、私たちの取り組みをこれだけ具体的に提示しても、このような思いをもつのは、やはり、何か、吃音を治す方法があるのではないかとの、希望的観測をもっているからじゃないだろうか。
吃らない人が意識しないで自然に流暢に話すような「自然な流暢さ」を、吃る人が身につけることは不可能なのです。できるとしたら、「コントロールされた流暢さ」を身につけることしかありません。その方法にしたところで、結局は「ゆっくり話す」ことでしかないのです。いろんな器具はその補助でしかありません。
本当に、本当に、世界のどこにも吃音を治す方法はないのです。それでも治そうとするのは、臨床家としては、なにかやったという満足感が得られるかも知れないが、吃る当事者にとっては、やはり治りませんでした、では済まされないのです。
私は、臨床家として、「治すことにこだわる」ことの無意味さを、一所懸命伝えます。それでも、吃る人が「治すことにこだわる」のなら、私には、治すお手伝いはできませんと、正直に言います」
このように言いますが、伝わっているかどうかは分かりません。
何とかしたいと吃る人本人や臨床家が思うのは、「どこかに、少しでも、改善できる方法があるはずだ。あるに違いない」という幻想を抱いているからではないでしょうか。
100年以上も長い間、世界中で、吃音の研究・臨床が必死で続けられながら、現在のところ、確実な方法はないのです。治療法がないのだということを、はっきりと認識することは、そんなに難しいことなのでしょうか。
4か月必死で努力しても治らず、世界の吃音臨床を知っている私には、自明のことであっても、私のような経験をしていない人には、それは難しいことなのでしょうか。どうしても、私には難しいこととは思えないのです。事実を見る目と、事実を認めることと、想像力があれば、と思ってしまうのです。
6日間いろいろと議論ができ、多くは伝わったと思う反面、常に、ここまで事をわけて説明しても分かってもらえない人がいるという、むなしさと徒労感が残ります。とてもよく分かってくれる人が多いのですから、少しはこのような意見があることは論理療法からすれば、それは、ごく当然のことなのですが、また、全員に分かってほしいと思うのは、相手への不当な要求であり、非論理的思考だとは分かっているのですが、こんな不全感をもってしまうのはなぜでしょう。
「治すことばかりを考えて」生きてきた21歳までがあまりにも、みじめだったから、同じような思いをしてもらいたくないとの思いが強すぎるのでしょう。
人は、それぞれ違うのですから、仕方がないことなのですが。
2009年5月10日 伊藤伸二