2008年6月20日
 国立特別支援教育総合研究所での講義

 金曜日の深夜というより、土曜日の午前1時近く、神奈川から戻りました。
 神奈川県の久里浜で、受講者、研究所の研究員3人も加わって居酒屋で3時間30分も話し込んでいたため、最終の新幹線で、私の駅へは着かずに2つ手前の四条畷止まりで、それからはタクシーで帰りました。
 国立特別支援教育総合研究所では、現職教員の短期、長期の研修をしています。発達障害、情緒障害、言語障害のコースに養護学校や、特別支援学級、ことばの教室の教師が大勢研修に来ています。もう20年近く講師とし久里浜へは行っているのですが、研修要項を見ると、私のような民間人はほとんどいません。ほとんどが、多くの人に知られているような大学教授や研究所の人ばかりです。どこにも所属していない、民間人を講師として呼んでいただくのは本当にありがたいことです。
 全国から教員が集まりますので、国立特別支援教育総合研究所には居ながらにして全国の流れがわかります。研究員との昼食や居酒屋での話で、全国の情報を、特別支援学級、ことばの教室の今の流れを知ることができる私にはとても貴重な時間です。
 自閉症や、発達障害の流れは、少しずっですが私の考えていることに近くなっています。それを言語障害の分野ではなかなかそうはいかないのは言語病理学から出発したからだろうとの話になりました。
 特別支援教育の流れで、発達障害、情緒障害にはたくさんの受講生が集まり、というよりは教育委員会が押し込み言語障害コースはわずかに6名の受講者です。こんな贅沢な研修は、お国の仕事だからなのでしょうね。その言語障害の中でも、吃音はますます相対的に小さなものになっています。ことばの教室の子ども達も、発達障害、情緒障害の子どもが増え、相対的に割合は低下しているものの減っているどころが増えているというという印象が話されていました。
 受講生はじっくりと話を聞いてくれ、共感してくれました。最後に感想を言ってもらったとき、泣き始めた人がいました。「笑いあり、涙あり」の講義は初めてだと、居酒屋では話していました。どもりは人が生きるということとつながり、自分の悩みや、劣等感と共振したのでしょう。
 じっくりと吃音について話を聞いてくれる人、私の話を大勢に聞かせたいと思っている人と過ごす時間は、とても幸せな時間です。
 私の吃音にとらわれ、強い劣等感をもって悩み始めるプロセス。吃音の悩みからどう解放されていくかを、エリクソンのライフサイクル論を使って、事例検討のように受講者と話し合っていきます。私の講義は常に当てていきます。このことはどうですか? 何があったと想像しますか?など、ひとりひとりに聞いていきます。その前提として必ず「パス」をしてもいいことを確認します。受講生のことばの教室の教員の中に、以前私の話を聞いたことがある人が2人もいて、その内の一人は「当てられる」ことに不安があったようです。その情報がみんなにいっていて覚悟をしていたようなのです。
 ひとりの吃音の青年の事例を通して、アメリカの吃音の歴史と、日本の歴史、アメリカの臨床と私の臨床の違いなどをあきらかにしていきます。
 特に、流暢に話す派と流暢に吃る派の対立と統合的アプローチの話は丁寧にします。その上で、学童期・思春期の吃る子どもへの支援について、TBSのニュースバードの40分のビデオ、キャンプの記録のビデオなどを見てもらい話し合っていきます。
 今年のシラバスにはこう書きました。
 「吃音の問題は症状のみではない。吃音に起因して生じる様々な困難さを視野に入れ、また、生涯にわたり吃音症状が消失しない可能性も念頭において指導・支援を考える必要がある。では、症状の軽減消失にとらわれない支援とはどのようなものなのか、子どもが自らの吃音と上手く向き合い、つきあっていくことを支えるために、教育の現場で何ができるか。様々な実践、試みを通して提示する」
                   伊藤伸二