伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2022年07月

第9回 親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会

 コロナのために2年中止になっていた「親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会」を、今週末の7月30・31日、千葉県教育会館で開催します。
 開催を決めた5月とはコロナの感染状況が大きく違ってきていますが、政府・自治体が行動制限しないというので、最大限の感染対策をとって、対面での研修会を開きます。感染急拡大のため、また濃厚接触者になったからと、せっかく申し込んで下さったのにキャンセルされた方もおられますが、新しい申し込みもあります。
 直前になりましたが、会場は、ゆったりとかなり広いので、余裕があります。
 どもる子どもの保護者、ことばの教室担当者や言語聴覚士の方、当日参加も受け付けますので、ご参加下さい。

 今回のテーマは、「対話っていいね」〜対話をすすめる7つの視点〜
   健康生成論、レジリエンス、ナラティヴ・アプローチ、ポジティブ心理学、
   オープンダイアローグ、当事者研究、PTG(心的外傷後成長) です。

 どもる子どもの幸せを考え、私たちは、言語訓練ではなく、吃音の本質・特徴を踏まえた、生きる力を子どもが自身でみつけていくための同行者でありたいと考えています。そのために、これまで学んできた、《健康生成論、レジリエンス、ナラティヴ・アプローチ、ポジティブ心理学、オープンダイアローグ、当事者研究、PTG(心的外傷後成長)》という7つの視点で、子どもたちとの対話を振り返ります。
 対話は、教育に限らず、今、多くの場で、その重要性が言われています。対話をしたいと思うが、どもる子どもに吃音の話をしていいのだろうか、傷つけるのではないだろうかと、躊躇しているという話も聞きます。ためらわず、一歩、対話の世界に入っていただくために、今回、「対話っていいね!」というテーマを設定しました。担当者が、対話は必要で、対話っておもしろい、対話って楽しいと思っていただくことが一番です。具体的な対話事例を提供し、参加者のみんなで考える時間にしたいです。
 今まで、皆さんが日々実際に実践されてきた「子どもとの対話」の意味づけをし、それに少し、この視点で話し合えるのではという提案もできたらと思います。また、どもりカルタや吃音チェックリストなど教材を使った対話のすすめ方なども紹介します。
 吃音の新しい取り組みの展望を、共に探っていく研修会になればと願っています。
 
日時 2022年7月30・31日
    30日(土)9時40分〜20時(受付は9時20分〜)
    31日(日)9時20分〜16時30分
会場 千葉県教育会館
参加費 6000円(当日、受付でお支払い下さい)


 僕たちは、明日、千葉に向かいます。久しぶりの吃音講習会開催に、今からわくわくして準備をしています。詳細は、日本吃音臨床研究会のホームページをご覧下さい。
 参加申し込みをして下さった皆さん、どうぞお気をつけて会場にお越し下さい。
 いい時間を共に過ごしましょう。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/28

吃音と就職の問題について〜吃音と就職Q&A

吃音と就職Q&A

 21歳の夏まで、吃音に深く悩んでいた時、僕は「どもっていたら、就職なんてできない」と本当に考えていました。だから、将来、社会人となって仕事をしている姿を、僕はまったくイメージすることができませんでした。高校時代、国語の音読ができなくて、一ヶ月ほど不登校になっていた僕が、まさか、大学の教員になって、講義や講演をしているなど、想像もできなかったことです。大勢のどもる人の就職相談にのってきました。たくさんの人の人生と向き合ってきました。その中で出会った人々のことが、話の中に出てきます。

Q&A  6吃音Q&A  4 大阪吃音教室の講座の定番となった「どもりQ&A」の動画をつくる講座。
 大阪吃音教室の仲間の一人が代表して僕に質問してくれます。その質問に、僕がその場で瞬間に考えたことをそのまま話します。編集なしの「ぶっつけ本番」です。その場には大阪吃音教室の参加者がいてくれます。質問してくれた人にだけでなく、その日参加している人たちに対しても答えています。ひとりで話しているところを撮影してもらうのとは全く違うのです。周りの人たちを意識するということは、動画を見て下さる人のことを意識していることにつながります。僕にとっては、少し緊張しますが、脳が活性化するとてもいい時間になっています。普段考えてもいなかったことが、質問と対話によって引き出される、この感覚がとても好きなのです。
 You Tubeにアップするための編集作業と、動画にふさわしいタイトルの検討は、大阪吃音教室の仲間の制作です。みんなで検討したタイトルをつけた編集が終わり、公開することになりました。

 今年は、全ての質問が、就職に関係しているので、動画のタイトルを「吃音と就職Q&A」としました。就職を目前に控えた学生だけでなく、就職できるだろうかと子どもの将来に不安をもつどもる子どもの保護者や、どもる子ども自身にも、考えていただける内容になっています。
 多くの人に観ていただきたいと思っています。ぜひ、ご覧下さい。また、興味がありそうな人にぜひ紹介して下さい。
 8つの動画のタイトルを紹介します。

吃音と就職Q&A
1.入学時から始まる就職活動…高校や大学に入学した直後から、就職の準備を始める 
2.学童期から始める仕事の話…学童期から仕事や就職について考える
3.学校の就職セミナーの活用…学校の就職セミナーは、あくまで練習の場と考える
4.自分の強みの育成…学力、体力、対人関係力など自分の強みを育成する
5.自分の吃音を語る力…吃音に悩みながらどう生きてきたかを語れることは、面接の大きな武器になる
6.自分が納得できる人生…自分が納得できる人生を送るために、就職活動は粘り強く挑戦する
7.好きな道で苦労をする…できるだけ早く自分が好きなことをみつけて勉強する/話すことが多い仕事をすることがお薦め
8.吃音理解を求める前に…自分の吃音をどう理解してもらいたいかを整理し、語れるようにしておく/どもらないようにするための言語訓練ではなく、相手に伝わるようにするための日本語のレッスンは必要

1.吃音と就職Q&A「入学時から始まる就職活動」
https://youtu.be/tWbq9m61v-o

2.吃音と就職Q&A「学童期から始める仕事の話」
https://youtu.be/ezis8Z3KsvM

3.吃音と就職Q&A「学校の就職セミナーの活用」
https://youtu.be/TverIfF5y9g

4.吃音と就職Q&A「自分の強みの育成」
https://youtu.be/QEf_5KKIRl8

5.吃音と就職Q&A「自分の吃音を語る力」
https://youtu.be/4qvLydlbJtU

6.吃音と就職Q&A「自分が納得できる人生」
https://youtu.be/ONmyssSpXcE

7.吃音と就職Q&A「好きな道で苦労をする」
https://youtu.be/mXntCsRPx5Q

8.吃音と就職Q&A「吃音理解を求める前に」
https://youtu.be/4Gi6Pa3DmwY

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/26

吃音親子サマーキャンプ、今年は実施の方向です

サマキャンの写真  7% 先日、吃音親子サマーキャンプの会場である、滋賀県彦根市の荒神山自然の家に打ち合わせのため、行ってきました。
 2年間の中止を経て、今年、吃音親子サマーキャンプの開催を決めたのは、5月のゴールデンウィークが明けて2週間くらいが過ぎてからでした。連休後の感染拡大が大きいものではなかったので、これならいけるのではないかと判断して、「お待たせしました!」とお知らせしたのです。
 心配が全くなかったわけではありませんが、今年開催できないと、これまで1年ごとに子どもたちの成長を見守ってきたことが崩れてしまうとの思いがありました。あのとき、小学6年生だった子どもたちは、今年、中学3年生になっています。
 開催を決めたものの、参加者がどれくらい集まるか、何よりスタッフが集まって下さるか、不安はつきませんでした。これまでと同じような人数の申し込みが届いているわけではありませんが、人数に関係なく、本当に必要として下さっていた人たちが集うことになり、きっといい時間になるだろうと思っていました。
 ところが、ここへ来ての感染急拡大。覚悟を鈍らせるような数字ですが、行動制限はしないとの方針に、それならば、最大限気をつけて、予定どおり開催したいと思っています。今後の状況により、まだ流動的ではありますが。

 3年ぶりか、と荒神山自然の家が近づくと、懐かしい思いがよみがえってきます。ここは、みんながバスに乗って到着するところ、車で来る人たちの駐車場、ラジオ体操をする広場、3年前と変わらない荒神山自然の家が出迎えてくれました。
 うれしかったのは、その日、自然の家を利用していた人たちの様子でした。チアガールの練習のための合宿だとのことで、小学校低学年から高学年までの女の子が70人くらい、参加していました。キラキラ光るポンポンを手に、音楽に合わせ、体を動かしています。リーダーも指導者も、マスクはしていますが、とても楽しそうな表情です。音楽に合わせて、声も出していました。

 自然の家の所員さんの話では、会場として何も制限はしていない、主催者側に任せているとのことでした。もちろん、検温、消毒などの基本的な感染対策はきちんととり、食堂の利用人数も80人までとして、その上で、僕たちに任せてくれるというのです。いつものように、僕たちだけの貸し切りです。部屋は、全て自由に使っていいとのことです。ベッドや布団は、新しくなっていました。コロナの影響を受け、休館となったときにリニューアルしたそうです。見慣れたはずの会場が、僕たちのことを待っていてくれている気持ちになりました。

 実際、使用するにあたり、まだまだたくさん、細かいことを考えなくてはいけないだろうと思います。コロナ感染防止対策も、万全にしなければなりません。課題はいろいろとありますが、今後、よほどのことがない限り、実施の方向で準備をすすめます。
 これ以上の拡大にならないことを祈って、こんな状況の中、参加申し込みをして下さった人たちと、いい時間いい空間を過ごしたいと、強く思いました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/25

羽鳥操さんのご著書『「野口体操」ふたたび。』

 野口三千三さんと羽鳥操さんを紹介してきました。
 今回は、羽鳥操さんが以前送って下さったご著書の紹介です。
 一度の出会いにもかかわらず、忘れずに、ご著書をお送り下さること、大変うれしいことでした。お手紙にはこう書かれていました。

 
このほど新刊本としては十数年ぶりに、『「野口体操」ふたたび。』を世界文化社から上梓いたしましたので、お送りさせていただきます。
 今回は、東京藝術大学で生まれ育った「野口体操」にフォーカスして書き下ろしました。驚くほどのスピードで変容著しい現代に生きる私たちは、ことにデジタルの波にのまれて生身の身体感覚を失いかけています。加えて感染症パンデミックによる閉塞した現状に、誰もが「いったい、何を拠り所としていけばいいのか」と少なからず問いかけています。
 創始者・野口三千三は、戦争の体験を通して、自分自身のからだの内側に目を向ける体操を考案しました。野口が模索した身体(自然)への回帰は、今、この時代にあってこそ、必要とされるのではないでしょうか。
 ご高評を賜りますとともに、広くご紹介いただければ幸甚に存じます。
                           2022年3月吉日


 僕は、こんな返事を書きました。

 
羽鳥操様
 大変ご無沙汰をしております。
 コロナの感染は、少し減少傾向にあるようですが、まだまだ油断できない状況の中、お元気なご様子、うれしく思いました。
 このたびは、ご著書『「野口体操」ふたたび。』をお送りいただき、ありがとうございました。私もこの本に導かれ、野口体操に触れてみようと考えました。
 コロナ禍の中、新刊を出されるエネルギー、敬意を表します。コロナ禍だったからこその出版だったのかもしれませんが。からだ、ことば、コミュニケーション、人と人との直の出会いなど、様々なことを考えさせられました。ご著書の年表に名前がありました竹内敏晴さん、今、竹内さんの書かれたものや話されたことを読み返し、年報を制作していますので、より、その思いを強くしました。
 おわりにで、オンラインでの仕事について書かれていました。対面での話を基本としてきた私も、初めは慣れないオンライン、Zoom、Web配信など、必要に迫られて、助けてもらいながら活動していましたので、共感できました。
 この時代、大切なことが書かれているだろうと思います。大切に読ませていただきます。
 私は、相変わらず、吃音にかかわって生きています。子どもたちのための吃音親子サマーキャンプや、臨床家のための吃音講習会など、2年間、イベントはほぼ中止になりましたが、ブログやTwitter、Facebookなどで発信を続けています。今年は、なんとか、対面で、それらの集まりが開催できるようにと願っています。
 金子書房から出版しました「吃音の当事者研究」、お送りします。お読みいただければ、幸いです。
 暖かくなったと思ったら、寒い日もあります。どうぞ、おからだ、ご自愛下さい。
                                  2022年3月20日
                日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


「野口体操」ふたび。 羽鳥操 表紙『「野口体操」ふたたび。』
羽鳥操  世界文化社
発行日 2022年3月30日初版第1刷発行


 野口三千三さんが僕たちに問いかけて下さったのが、「吃音をなおそうとすることは、気持ちのいいことですか?」でした。羽鳥さんのご著書の、第一章は「きもちいい」をみつけようです。その部分だけを紹介します。多くの人に読んでいただきたいと思います。

 
「野ロ体操があってよかった!」
 コロナ禍の自粛が一旦解けた2020年7月、対面のレッスンがはじまった。
 その時、皆さんの第一声がこの見出しのことばだった。
 私も同じことばを返した。
 「人をダメにするソファに身を沈めて、スマホ片手にデジタル情報の海でサーフィンに興じていると、過剰な情報に肥大した脳は、バーチャルな不安に埋め尽くされてしまう」
 そういう私に、「目の前にある冷蔵庫から、昼間から冷えたビールをついつい取り出してしまいますね」。
 そうおっしゃる御仁がおられる。
 コロナ太りを心配しながらも、やめられない日々が繰り返されたそうだ。
 ストレスがストレスを呼ぶ経験を重ねながら、体操のレッスン再開を待ちに待っていたことを知る。想像はしていたが、体操がこれほど求められているとはゆめゆめ思わなかった。からだを動かすきもちよさを知ってしまった人々がいる。それは野口体操の仲間たちであった。
 "ウェルビーイング"、心身の健康をいかに保つか。
 "QOL(クオリティ・オブ・ライフ)"、生活の質を維持することが難しくなってきた。そのためには、自分のからだをどうしたらよいのか。
 その答えが「野口体操があってよかった!」。
 外出制限が一番ストレスを感じるということは、アンケート結果を待つまでもなく、皆が体感したことだ。そんななかで、一人ではなく、共に体操することから得られるきもちよさは捨て難い。教える立場の私にとっても同様である。
 「独りじゃない!」
 そのことが心のざわつきをなだめてくれる。
 そこで思い起こされるのは「社会的処方」ということばだ。医療だけでは行き届かない身体の不調、たとえば、不眠・うつ・痛み等々。また、孤独やひきこもりが社会的な問題となって久しい。非医療的行為で、そうした問題を解決するコミュニティの必要がいわれるようになった。コロナだけではない、日常の困りごとを地域で手助けしていく方法だという。
 私は、このことばを拡大解釈してみた。野口体操のレッスンでは、地域を超えて集まってくる方々の心身が、安らかになる方法を工夫してみよう。

 野口体操には、一人だけでなく二人で組んで行う体操が、いくつも組み込まれている。
 他者とともに動き、話し、手を添えてもらう。心身の手当をする練習も味わい深い。手を添える人・手を添えられた人、といった一方的な関係だけではなく、その関係が瞬時に交代する。ことばをかえてみると、助ける人が助けられる人、助けられる人が助ける人になる。
 今、この人は、何を必要としているのだろう。必要としていることを感じ取り、何気なく手で触れて手当をする。そうしたことを野口体操では、時代とともに少しずつ形をかえながらも、半世紀以上行ってきている。
 ともにからだを動かすことで、からだの内側に眠っているありのままの"私"に、からだ自体から目覚めていく。生きものとして三十八億年かけてつくられた生命のシステムを活性化するきもちよさを体感できるころには、"私"という意識も消えてくれるようでありたい。
 久しぶりのレッスンで得心がいった。
 医療でもなく心理療法でもなく、いろいろな縛りのないゆるい場。教室に集う方々には、それぞれが背負うのっぴきならない問題はいっとき横に置いていただこう。からだをゆすりながら、ほぐし・ゆるめ・とかす。色や形、味や香り、クリアな音感、外側に張り巡らされた脳の出先機関としての皮膚……。五感の母なるからだをみがいていくこととしよう。


 巻末付録には、野口三千三語録(番外編)があります。
 僕も伊藤伸二語録を集めて、ホームページで公開しようと考えていますので、興味深く読みました。共感することばかりです。そのいくつかを紹介します。

 
☆無理は無理だ。無理をしなければ無理ができる。
 ☆いい加減にやらなければ、いい加減は見つからない。
 ☆私の体操はかたちじゃない。中身が問題なんです。気分が問題なんです。イメージが問題なんです。生き方が問題なんです。
 ☆生きているということのいちばん確かな証拠は、このからだがあるということ。さらに、そのからだが動くことができるということ。
 ☆他の人を尊敬するのも悪くはない。しかし、自分自身のなかに尊敬すべきものがあることに気づくことがより大切である。
 ☆自分がこの世のなかに生きて存在していることの意味に、誇りをもてるようにしていかなければならない。自分の小さな欠点に気づき、自分自身を責めることが美徳である、という倫理観は誤りである。
 ☆今の自分のもつ「弱さ・下手さ・未熟さ…」を、やさしく認めて温かく包み込むことのできない者は、他の人のそれをやさしく認めて温かく包み込むことができないであろう。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/24

表現とからだと癒やし (3) 自分のリズムで話す

 第21回日本文化デザイン会議'98青森『異和感の…』(1998.10.30〜11.1)でのダイジェスト版の紹介は、今回でおしまいです。主催者が出版した冊子からの転載です。
 「どもり」ということばを死語にしたくないということ、どうでもいい会話が難しいということ、自分のリズムで話すのが一番だということ、など、大切なことがちりばめられている時間でした。このようなシンポジウムに参加する機会があったこと、とてもありがたいことでした。竹内敏晴さんのおかげです。

表現とからだと癒し (3)
     コーディネイター 鴻上尚史
     第21回日本文化デザイン会議'98青森『異和感の…』(1998.10.30〜11.1)

どうでもいい会話は難しい

伊藤 この間、映画の『金閣寺』(注)を見たんです。市川雷蔵演じる主人公がどもりなんですけど、音声がプツンプツンと切られてるんですよ。どもりという言葉が頻繁に出てきてたんでしょうね。

鴻上 でも、『彼は吃音だ』とか、言い換えるのもおかしいですよね。

伊藤 おかしいですよ。そんなのは、僕たちは納得できませんね。

鴻上 それは使い道によって差別語にもなるし、それを伝えるためのちゃんとした言葉にもなるということですか。

伊藤 使っている人が、どもりは劣ったものだというイメージがあるから、差別的に使っているという印象を与えるだけで、「ど・も・り」という三つの文字は何も言っていないわけですね。僕は昔、どもりが嫌だったんです。ヤモリでもイモリでも、「も、り」と付く言葉は全部嫌だった。でも、人生を生き直すためには、どもりという言葉そのものが平気になっていくプロセスがすごく大事だと思うんですね。今はこの言葉は全く平気になりましたけど、そこからでないと生きられないというところがあるので、どもりという言葉を死語にしたくないんです。

鴻上 僕がイギリスにいて一番辛かったのは、休み時間の英語だったんですよ。つまり、休み時間は、どうでもいいことをしゃべってるんですね。しゃべる動機がない言葉はすごく難しいんです。自分は普段、どうでもいい話をキャッチボールしてるだけなんだというのが、すごくよくわかった。それは、伊藤さんの機関誌で言うと「サロン的な言葉」ですよね。

伊藤 どうしてもこれを伝えたいという言葉があると、どもってでも言うんだけど、実は、サロン的な、どうでもいいような会話で、人間関係というのは成り立っているんですよね。

羽鳥 どうでもいいことをキャッチボールしている間に、その人のことが言葉の端々でわかってくるんですね。

鴻上 そうなんです。どうでもいい言葉なんだけど、すごく大事なんですよ。
 ちょっと時間がありますので、何か聞きたいことがあったら質問してください。

会場 羽鳥さんはどういった音楽を聴かれるんですか。体操をしている時に聞く音楽とか、身体の中に流れている音楽ということについてうかがいたいんですが。

羽鳥 体操をしている時は鏡と音楽はいらないんです。外側の自分の動きや形を見るのではなくて、それは自分の身体の中で探しますから鏡はいらないですね。音楽は、他人がつくったりリズム感に合わせていかなければいけない。でも、野口体操は自分のリズムでやりますから、音楽もいらないんです。言葉も動きもリズムも、自分の身体の中に探しましょうということなんですね。皆さん、自分の身体の感覚や言葉を持っています。そうしたら、ほぐれるって何だろう、柔らかいって何だろうって、自分の言葉に置き換えていったらどうでしょうか。

鴻上 他人のリズムを必要としなくなるというのは、すごく衝撃的な話ですね。今、ほとんどの人は、何か他人の規範がないと安心できませんからね。

羽鳥 だから、どんなにどもってもいいんです。伊藤さんは伊藤さんのリズムで話してるわけですから、待ってあげればいい。大事なのはその人が身体の中に持っている感覚で、それがどれだけ自由であるか、豊かであるかということではないでしょうか。

鴻上 それでは、それを結論ということにして、終わりたいと思います。皆さんが何か得るものがございましたら、よかったなと思います。私は得るものがたくさんありました。

 (注)『炎上』(えんじょう) 1958年8月公開。三島由紀夫の長編小説『金閣寺』をもとに市川崑監督が映画化した。主演は市川雷蔵。
 
  第21回日本文化デザイン会議'98青森ダイジェスト(主催者の許可を得て「スタタリング・ナウ」に転載)

出演者
伊藤伸二 日本吃音臨床研究会会長。大阪教育大学非常勤講師。伊藤伸二ことばの相談室室長。【主な著書】『改訂 吃音研究ハンドブック』『吃音とコミュニケーション』『吃音者宣言』など。【主な活動】月刊紙「スタタリング・ナウ」、年報での吃音情報の提供、国際吃音連盟の運営他

上野可奈子 俳優。【主な舞台出演】'95年第三舞台トライアルプレイvol.2「パレード旅団」 '96年第三舞台「リレイヤー掘廖'97年サードステージ・ワークショップ公演「コーマ・エンジェル」【主なCF出演】'98年キリン一番搾り、'98年資生堂「サクセスフルメーリングリストエイジング」など

鴻上尚史 劇団「第三舞台」主宰者。脚本家。演出家。'94年岸田戯曲賞。【主な作品】戯曲集「朝日のように夕日をつれて」「天使は瞳を閉じて」「トランス」「パレード旅団」、エッセイ集「鴻上夕日堂の逆上」「映画に走れ!」映画「ジュリエット・ゲーム」「青空に一番近い場所」脚本・監督など。

羽鳥操 「野口三千三授業記録の会」代表。野口体操講師。'75年野口三千三氏と出会う。野口体操・野口自然科学に傾倒し、師事。'88年「野口三千三授業記録の会」を発足、授業の記録を企画・構成・制作。【著書】『野口体操・感覚こそ力』【ビデオ】『野口三千三授業記録』他多数。(了)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/22

表現とからだと癒やし (2) からだと言葉の結びつき

 自己紹介の後、鴻上さんのコーディネーターで、話がすすんでいきます。からだと言葉の結びつき、からだをほぐすことと気持ちをほぐすこと、ちょうどいい力の入れ方と抜き方など、興味ある話題が続いていきます。
 最後の方で、鴻上さんが僕に「伊藤さんは明後日、舞台に立つんですね」と声をかけて下さっています。秋浜悟史作の「ほらんばか」という竹内敏晴さん演出の舞台の主役をすることになっていたのでした。話は身体について進んでいますが、僕は、身体としての言葉が壊れるという経験をしています。人前で講義や講演などでの「説明、説得的な言葉」では僕は、その頃、ほとんどどもらなくなっていました。しかし、竹内さんは、それでは演劇、人間の情念を演じる言葉としてはダメだと、厳しく稽古を付けてくれました。この稽古の中で、それまで、人前ではほとんどどもらなくなっていたのが、人前でもどもるようになった、おもしろい経験をしています。その芝居が、このシンポジウムのすぐ後のことだったんですね。とても、懐かしい思い出のひとつです。

表現とからだと癒し (2)
     コーディネイター 鴻上尚史
     第21回日本文化デザイン会議'98青森『異和感の…』(1998.10.30〜11.1)

自分が言いたいことを一所懸命に言う

鴻上 伊藤さんは、なおす努力の否定ということをおっしゃっていたことがありますね。その根底には、的確に話せて、早いテンポでこの現代社会の流れにのることが、どもる人の最終目的だと言われてきたということがあるわけですね。

伊藤 世間で言われている"普通"とか"効率"ばかりを追いかけていくと、身体も壊れていくし、気持ちも沈んでいくんです。どもりは簡単になおると言われることもありますが、小学校1年頃まで持ち越した人のどもりが完全に消えるということは、おそらくないんです。なおらないものをなおそうとしてあがくことは、その人の生き方を非常に苦しいものにしていきます。それで、効率のいい話し言葉を目指すことは捨てて、自分の気持ちを、どもりながらでも言うという方向へ視点を変えていくことのほうが、生き方として楽だと。そのへんから、なおす努力の否定ということを言い始めたわけです。

鴻上 伊藤さんに持ってきていただいた日本吃音臨床研究会の機関誌の中に、『情けない』と言いたかったんだけど、その言葉がすごく言いにくいので、『悲しい』と言葉を変えて言ったと。でも本当は、自分は『情けない』と言いたかったんだという文章があったんですが、僕はそれを読みながら、自分は本当はこう言いたかったんだけど、それを言わなかったとか、言えなかったということってあるなと思ったんです。もっと言えば、本当にこれは自分が言いたかった言葉だろうかというのは、常に思っていることだと思うんです。これは、どもる、どもらないに関係なく、非常に普遍的な問題なんじゃないかという気がします。

身体をほぐすことで気持ちもほぐす

鴻上 羽鳥さんに野口体操のビデオをもってきていただいたので、それを拝見しましょう。
《野口体操 ビデオ上映》

羽鳥 これは野口三千三先生が82歳の時の映像で、亡くなる半年前に撮ったものです。先生の言葉の一つひとつは、本当に82年間、身体の中でずっと育まれてきたものなんです。妥協のない先生で、動きの説明にしても、ズバッとすごいことをおっしゃるんですよ。こんなことを言って、傷つけちゃうんじゃないかと思うようなことを言われます。でも、相手を肯定して、その中から言葉が出てくるわけで、身体の底から出てきた言葉というものは本物ですからね。言葉というのは頭で考えて話してるのかもしれませんが、もしかするとおなかの底から、あるいは指先や足の先から、考えてることが言葉になって出たのかもしれない。鴻上さんは戯曲を書かれる時に、身体の中に言葉を探しませんか?

鴻上 やっぱり躰から出る言葉を探しますね。羽鳥さんは野口体操を始められて、どういうところで身体と言葉の結びつきを感じられたんでしょうか。

羽鳥 身体の動きが言葉であるし、言葉は身体の動きだということなんですけど、今は心という言葉も身体という言葉も使わなくなってしまいましたね。心でも身体でも、どっちでもいいというようなことになってきたんです。ビデオの最後に『自然直伝』と出ましたが、それは、自分の嫌なところも汚いところも、情けないところも悲しいところも、それでいいんだよって、先生が言ってくださってるのかなと思います。だから、野口体操に来て、形の上では全然柔らかく見えなくてもいいんですよ。自分がその時に、どれだけほぐれてるかということのほうが大事。形じゃないんですね。

伊藤 これでいいんだという気持ちになると、確かに身体は楽になるんでしょうけど、でも結局は、ほぐれてるようで、ほぐれてないんですね。身体がほぐれると気持ちも楽になる、つまり、気持ちよりも身体が先というほうが本物のような気がします。確かに吃音を受け入れることで楽になる部分はいっぱいあります。でも、それだけでちょっと足りない。その時に身体を楽にすると、もう少し前に進めるんですね。

鴻上 意識の持ちようでリラックスしようということだけだと、やっぱり限界があるということですね。上野さんは10年ダンスをやって、今はだいぶリラックスしてるんですか。

上野 すごく緊張している時に、緊張を解こう解こうと思うと、絶対解けないんですよ。例えば、台詞のことを集中して考えて、緊張を忘れることが大事で、緊張を解こうとかリラックスしようと思うことのほうが邪魔なような気がします。野口体操を始めて、大事なのは力を抜くことかなと思いました。

ちょうどいい力の入れ方、抜き方

羽鳥 ちょっと鴻上さんと一緒に、野口体操のぶら下がりをやってみますね。私がぶら下がりますので、鴻上さんは私の腰を持って、左右に優しく揺すってください。どうして優しくやるかと言うと、力を入れてしまうと、感覚が鈍くなるんです。鴻上さんの手で、私の中身を感じとってほしい。ぐっと押されると、身体が抵抗して、緊張してしまいます。それではほぐれるわけがない。日常生活の中でも、余分に力を入れすぎて暮らしてると、感覚が鈍くなるんです。余分な力を抜いて、感覚で動きをとらえるようにしてほしいですね。《ぶら下がり実演》

鴻上 僕がイギリスに留学していた時、今のぶら下がりによく似たレッスンをイギリス人の先生がやっていたんです。そのビデオがありますので見てください。《ビデオ上映》

鴻上 ムーブメント・ティーチャーといつて、身体の動きの先生が三人、ギルドホール演劇学校にいたんです。このレッスンでは、胸を開いてあくびをして、膝の力を抜いて、肩の力を抜いて、頭を落として、お尻の穴が天井に向くようにしています。

羽鳥 ぶら下げていく方向が野口体操と違っていて、末端、つまり頭から動いていますね。野口体操の場合は土台から崩すんです。下から順々に崩していったほうが楽に崩すことができるんですよ。身体のいろいろなところをたるませて、たるみ曲線をつくるんですね。くるぶしから膝の関節、膝、骨盤、それから胴体、首という具合に、自分の体の関節が持っている方向にまかせながらたるませていく。そうすると自然にたるんで、頭は最後になるんです。そして、お尻の穴が真上を向く。たるむというのは、力を抜いて、動きが自由になることなんです。

鴻上 そういえば伊藤さんは、明後日、お芝居の舞台に立たれるんですよね。本番近いんですから、ちょっとこわばってる体を楽にしていってください。

羽鳥 でも、ほぐしすぎちゃってもだめなんですよ。ちょうどいいたるみ方、ちょうどいい緊張というのが大切なんです。ちょうどよく力が抜けた時に、ちょうどいい力の入れ方がわかるんです。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/21

表現とからだと癒やし―登壇者の自己紹介から

 昨日、紹介した巻頭言に、竹村真一さんの議長提案を紹介しました。
 「多様性」や「複雑系」の問題は、社会の豊かさの根源であり、そして、単なる"違和感"を越えた創造的な、"異話感"をはらんでいることこそ「健全さ」のべースであるというところに僕は、惹かれました。
 多様性や一人ひとりの個性が生み出す豊饒な「異話感」に眼を向けなおし、差異や違和感をポジティブな資源としてひきうけていこうという感性と意志がこめられているという、馴染みのある大切にしたい共通の土台があったからこそ、知り合いの全くいない青森の地で、僕は居心地の悪い思いをせず、話すことができたのだと思います。
 ここで知り合った羽鳥さんとはその後、長いお付き合いが始まりましたし、鴻上さんには、僕たちの2泊3日の吃音ワークショップの「演劇と表現」の講師として来ていただくことにつながりました。不思議なありがたい出会いでした。

表現とからだと癒し
     コーディネイター 鴻上尚史
     第21回日本文化デザイン会議'98青森『異和感の…』(1998.10.30〜11.1)

生きることを楽にする身体

鴻上 僕はずっと第三舞台と言う劇団で演劇をやっておりまして、平行してワークショップも始めております。1997年の夏から一年間は、イギリスのギルドホール演劇学校に留学しておりました。興行としての成功も演劇の側面ではありますが、同時に、俳優を目指す人に限らず人間は身体と言葉を持っていますので、今日は生きることと自分の身体と言葉というものについてお話ができたらいいなと思っております。ではまず羽鳥さんから順番に自己紹介をしていただきます。

羽鳥 私は以前、ピアノを専門にやっていたんですが、緊張型の人間でしたから、舞台で思うように弾けないんですね。そこでピアノの先生に勧められて、23年前に、野口体操を始められた野口三千三先生のところに行きました。先生の動きは今まで見たこともない、いわゆる体操という概念に入らないようなものでした。それで家に帰って練習するんですが、何でもそうですけど、自分一人で練習する時間を持たなければ、できるようにはならないんです。もちろんみんなと一緒にやることにも意味があって、いい動きの方のそばにいると、その方の気によって自分も動けるようになっていくんですね。でも先生は、たった一人で自分の身体と仲良くする時間を持ちましょうとおっしゃっていたんです。私は非常に体操が不得意だったのですが、野口体操を続けることによって、だんだん生きるのが楽になってきました。目的や効果はあまり言いたくないんですが、身体が柔らかくなってきたから、ということでしょうか。

伊藤 僕はどもりという、「言語障害者」として生きてきたんですが、25歳くらいまでは、話ができないために、どもりを隠し、逃げ、人と触れ合えずに閉じこもってきました。どもりだから悩むのではなくて、どもりをどう受け止めるかで悩むわけで、どもりを非常に否定的にとらえて、劣ったものだという観念を持って生きていると、喋れなくなるんですね。
 現在は比較的喋れるようになりましたが、今でも特定の音が言えません。例えば、たちつてとの"と"。鮨のネタの「とろ」が言えないことがあります。だから、どうでもいいような言葉の時には言い換えたりしますが、これだけは言いたいと言うことに対しては逃げないようにしています。
 僕がどうして喋れるようになってきたかと言うと、同じどもりで悩む人と出会って、その辛さをいっぱい話したことです。今まで人から拒否され、蔑みと笑いの対象であった僕の言葉を、みんな全身で受け止めて聞いてくれたんですね。その体験は、僕が生きる上での大きな出発点となりました。どもりをマイナスに考えていることが自分の辛さなんだと気付いた時に、どもりを引き受けて生きようという覚悟のようなものができて、ずいぶんと楽になりましたね。
 そして外に出ていくと、どもっていても聞いてくれる人がいるし、共感できる人がいる。そういう人たちの聞いてくださる姿勢に支えられて、恥をかき、辛い思いをしながらも、どんどん喋っていくと、どもりの症状そのものはあまり変わらなくても、ずいぶんと生きやすくなりました。それで僕たちは、どもりを隠したり逃げたりするのではなく、どもりを持ったままの生き方を、自らにも社会にも宣言しようということで、『吃音者宣言』という宣言を出したんです。
 そして10年ほど前に、『からだとことばのレッスン』を全国的に展開しておられる竹内敏晴さんと出会いました。自分では声もずいぶん大きくなってきているので、人に届いていると思っていたのですが、レッスンを受けてみると、相手に届く声には、まだ先があるんだということを感じました。声では相手に呼びかけてはいても、やはり人が恐くて、身体はそれを拒否していたんですね。人への恐れが、未だに私の体の中にはあるんだということに気付かされて、今もレッスンを受けております。

上野 私は鴻上さんの劇団で舞台に立たせていただいております。高校生の時からモダンダンスを始めて、10年近くダンスをやっています。私も小さい頃は、質問の答えがわかっていても手を挙げられないような、気の小さい子供でした。それが小学生の高学年の頃に、水泳でリレーの選手に選ばれたんですね。体育は得意だったので、そちらで活躍したことがきっかけになって性格も変わってきて、あまり恥ずかしくなく喋ったりできるようになったんじゃないかと思っています。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/20

野口三千三さんから羽鳥操さんへ

 野口三千三さんのことを紹介してきました。
 出会いから随分後になって、僕は再び野口三千三さんに出会うことになります。
 野口三千三さんに師事し、「野口三千三授業記録の会」代表で、野口体操の講師としてその普及に力を尽くしてこられた羽鳥操さんとの出会いです。1999年でした。
 演出家の鴻上尚史さんがコーディネイトされた、第21回日本文化デザイン会議 '98青森に、シンポジストとして参加しましたが、そのときのシンポジストのお一人が、羽鳥操さんでした。このデザイン会議、本当は竹内敏晴さんが出席されるはずだったのですが、どうしても行けなくなり、竹内さんから「伊藤さん、代わりに参加して下さい」と依頼されて、参加したものでした。テーマは「表現とからだと癒やし」、メインタイトルは「異話感の…」でした。
 「スタタリング・ナウ」を順に紹介してきて、本当は、今日は、NO.47を紹介する予定でしたが、野口三千三さんと関係の深い羽鳥さんとの出会いを紹介します。
 まず、「スタタリング・ナウ」1999.4.17 NO.56の巻頭言からです。

   
異話感の…
                   日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 昨秋、2万人近い人々が参加し、青森で開かれた日本文化デザイン会議で、劇作家・演出家の鴻上尚史さんがコーディネイトするシンポジウムに参加した。
 50近く企画されたシンポジウムの中のひとつ、「表現とからだと癒し」で、何が話せるか不安はあったが、メインタイトル、「異話感の・・」に後押しされて参加した。異話感はもちろん造語で、違和感をもじったものだ。会議はこう呼びかける。

 ―社会の豊かさの根源である「多様性」や「複雑系」の問題に光をあててみようと思います。
単なる"違和感"を越えた創造的な、"異話感"をはらんでいることこそ「健全さ」のべースである。多様性や一人ひとりの個性が生み出す豊饒な「異話感」に眼を向けなおしたい。テーマには、このような差異や違和感をポジティブな資源としてひきうけていこうという感性と意志がこめられています―  議長提案 竹村真一

 シンポジウムで、差別用語としての《どもり》という表現が話題になったが、《どもり》を死語にしたくないと話した。
 どもりに悩む人がどもるのと、あわてたら誰でもつっかえますよとは本質的に違う。それを、誰でもどもりますよと表現をされることがある。
 また、子どもにどもりを意識させたくないからと、「どもる」と言わずに「つっかえる」「つまる」としか言わない人もいる。
 一般社会は違和感をもつものと向き合ったとき、どうするのだろうか。排除する、拒否するということもあるが、受け入れようともする。しかし、その多くは、そのままを受け入れるのではなく、自分が受け入れやすいようなものに融合させて受け止めようとするのではないか。
 「つっかえる」「つまる」「あわてて言うとどもる」と表現すると、誰にでもある現象だと言うことができる。これは、多数者が少数者を引き上げようとしているとも考えられる。そこには優劣の関係が現れ、対等の関係は消えてしまう。
 差別用語を使わないようにするということも、優った者の側の言うことだ。これは配慮であったり、善意から出ていたりすることだけに表立っては反論がしにくい。
 多数者の側に融合させようとする動きを、私は、どもりを差別語として使わないでおこうという風潮の中に感じてしまうのだ。
 どもりということばがなくなり、吃音としか使えなくなると、これまでの自分が否定されたような思いになる。単に「ことばのつまり」「つっかえ」ではないこの状態をどう表現すればいいのか。自分がこれまで悩み、もがいてきたことを簡単にことばの言い換えでは済ませたくないのだ。
 現実にどもるという、話しことばの少数者であるのなら、少数者としての衿持をもちたい。
 1998年の夏、国際吃音学会への参加でサンフランシスコに行った時、サンフランシスコのグライド・メモリアル・ユナイテド・メソジスト教会に行った。いわゆる社会的弱者・少数者と呼ばれる人たちが集まり、ユニークな牧師の語りや音楽で有名な教会である。静かな賛美歌ではなく、躍動感溢れる歌声がロックのライブコンサートのように響く。牧師の話は、ユーモアにあふれ、ひとりひとりの参加者に語りかけていく。
 ここに集う人々の何と違うことか。肌の色、顔の輪郭、髪の色と形、そしてことば。様々な国々から来た人たちが今、アメリカの地で生活をしている。からだ全体で、人はそれぞれに違い、そして生きているのだと表現しているように見える。
 アメリカでは、これだけ目を見張るばかりの違う人々が生きながら、違いを認めざるを得ない状況にありながら、どもりに対しては、なかなか受け入れられないようだ。
 私たちが知る限りでは、吃音を治したいと思い、また治そうとするのは私たちよりアメリカのセルフヘルプグループに集まる人たちの方に強い。
 自分を主張しなければ何も起こらない競争原理の厳しいアメリカと日本とでは比較できないことは理解できても、流暢に話す人も、どもって話す人もいてもいいという感覚が何故育たないのか。不思議でならない。
 違いを違いとして認めて、その上で対決するのではなく、きっちりと互いが相手に向き合う。
 私は、と敢えて限定したいが、私は違和感をもちつつ、それを大事にしながら生き続けたい。
(1999.4.17 「スタタリング・ナウ」NO.56)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/19

野口体操から考えた吃音 (3)

 野口三千三さんの話の続きです。ちょっと長くなりますが、今日で最後です。野口体操のいくつかを紹介して下さった後、おわりにというところで、野口さんは、再び、「あなたは、吃音を治そうと取り組んでいますが、それは本当に気持ちのいいことでしょうか?」と問いかけています。
 気持ちのいいことを、楽しく取り組む、これが一番で、僕たちがずっと大切にしてきたことです。セルフヘルプグループの活動も、吃音親子サマーキャンプも、僕たちは自分が楽しくて、気持ちがいいから続けてきたのです。それが、セルフヘルプグループは56年、吃音親子サマーキャンプは30年と続いてきたのです。気持ちよく、楽しくなければとても続くことではありません。同じような価値観に出会いました。
                           
野口体操から考えた吃音(3)
                           野口三千三
野口体操のいくつか

 これから私の行っている体操のうちいくつか紹介しましょう。これは自分のからだがどのように動くか、どうあることが気持ちいいのかを知る手掛かりです。自分がからだに対して何かを命じるのではなく、からだが話していることを素直に聴くことです。

《腕のぶらさげ》
 人間が立っているとき、腕がぶら下がっているということは、誰でもが知っています。しかし、当たり前のことだけに、あまり意識していないでしょう。本当にぶら下がっているかどうかを確かめようとする人は少ないでしょう。実は、普段から"ぶら下げ"を確かめていないからこそ、肩が凝ったりするのです。立っている人間にとって、宿命的に故障が起こるのは、おへその真裏のそへ、腕の付け根、首の付け根の後ろです。人間が立つためには、そこを無理せざるを得ないのです。
 だから、からだをいろいろ動かしてみて、本当にぶら下がっているだろうか、腕が解放されるにはどうすればいいのだろうか、とからだに問いかけてみるのです。小理屈ばって肩をいからせないで、もっと楽に自然な状態で生きようじゃないか。"ぶら下げ"とはそういう運動です。
 まず両脚を少し開いて、すっきり立って下さい。そして、からだの形にこだわらないで、楽にすっきりという感じの中で、優しく静かな上下のはずみをつけて、全身の中身を揺すりましょう。肩や腕の中身が緊張していなければ、ぶら下げた柔らかい紐や鎖のように、ゆらゆらと揺れ動くはずです。決してとび上がるのではないですよ、揺するのです。
 揺するということはどういうことでしょう。
 ぐっすり眠っている人を起こすときには、声をかけるだけでなくて揺すります。意識を失って倒れている人がいると、「どうしたの!」と夢中になって揺すります。このとき、揺するという行為の中には、どこか祈る気持ちが含まれています。全身を揺するとき、この祈りの気持ちが大変大事なことなのです。
 祈るような気持ちで、全身を揺すって下さい。宇宙にたったひとっきりしかいない、過去にも、未来にもない、今ここにしかない自分のからだに、祈るように問いかけるのです。

《胴体や頭のぶら下げ》
 「腕のぶら下げ」が確かめられたら、「胴体や頭のぶら下げ」を確かめてみましょう。高く上がる必要はありません。床から離れては激しすぎます。全身をほぐすように、自分にとって一番気持ちのよい抵抗のない揺すり方をして下さい。
 「どうすればよいのですか」それは私が答えるのではなく、みなさんのからだが答えてくれるのです。
 「ほぐす」というのは、とくということです。「とく」というのは、風呂敷を解く、つまり「あける」に通じます。満員電車のように、ぎっしりと詰まっていて身動きできない状態を固いといいます。
 《固い》ということは動き《難い》ということです。あいていればどこへでも行けます。あいていることは可能性の前提条件です。
 私はからだのことは「からだち」といいますが、“から”が“たつ”ということです。揺するのは、あいているところをできるだけつくろう、"から"に内包されている潜在的な生命力・活力を発見させることです。
 この運動は、同じリズム、同じテンポで続けると分かります。時には止まったり、変化をつける必要があります。きちんと形の整ったメトロノーム的なテンポやリズムでは死んだものです。自分のからだの中から、どう動きたいかが生まれてくるのです。そのからだからの声を耳をすませて聴き、それにしたがって動けばよいのです。

《はね上げ落とし》
 今までの運動は落ちることでしたが、今度は上の方向、つまり重さの反対の方向へ上げる運動です。重さと反対の方向というと、今までとは全然違う運動と思われるかも知れませんが、重さが元だということを実感していただきたいのです。
 まず、左足に重さをのせて、右足の膝を曲げていって下さい。曲げていくと、右足のかかとはお尻につくはずです。この運動は簡単なように思えますが、実際にやってみると難しいものです。どんなに力を入れても、かかとは尻についてくれません。頑張ってやろうとすると、右股の後ろ側の筋肉がけいれんを起こしてしまいます。
 なぜうまくいかないのでしょう。ここでもまた動きの主動力は筋肉だと思い込んでいる過ちに気づいてほしいのです。「今直接仕事をしている部分が、その仕事のエネルギーを出しているようでは、絶対によい動きは生まれない」ということを分かってほしいのです。曲げようとする右脚に力を入れないで、上下の方向へ弾みを取りながら上げると、右脚は曲がって尻を打っことができます。すぐにできる人は少ないようです。力を入れてはいけないと分かっていながら、みなさん方のからだは歪んでいるので、どうしても右脚の筋肉に頼ろうとしてしまうのです。うまくできるようになると、上げようとする右脚もぶら下がっているんだなあと、実感するはずです。
 この運動から、腕のぶら下げと同様に、足も本質的にはぶら下げが大切だということを掴んでほしいのです。歩くとき、動く足に力を入れてはいけないのです。新しく前に出る足はぶら下がっていて振れる足なのです。ですから、足は単に重さ'を受ける場所だと固定して考えてはいけません。2本が2本とも突っ張ったら絶対に歩けません。どうしても1本で重みを受け、片方はぶら下げの状態にあることが、一番自然な形なのです。

《中身を放る》
 次に移りましょう。腕のないからだをイメージして下さい。そして、なくなった腕の付け根から、からだの中身を液体にしてドーッとこぼして下さい。こぼすというと、散らばるような感じがありますので、中身を放るといった方がよいでしょう。
 右、左、右、左、ドーッ。そういうふうに、中身を全部放って下さい。中身を全部出しても、母なる大地からどんどん補給されます。ですから、少なくとも片方の足の裏はいつも下にくっつけていなければなりません。足の裏をよくあけて、吸い付いている必要があります。ときどき中身がよく出たかどうか確かめて、残っているようならちょっと弾みをつけて全部出してしまいましょう。
 中身を全部出しても、母なる大地からどんどん補給されると言いましたが、私は、人間のからだというものは、道、溝、管の集まりだと考えています。管は、入り口があり、通り道があり、出口があるものです。もしそのうちのどこか1か所でも通れなくなると、どんな立派な管でも機能しなくなります。血管や気管や食道だけが管ではありません。からだの全部が管なのです。
 だから、人間が生きていく上で一番大事なことは、自分のからだにいつも好ましい道をっくる能力です。私の名前は「野口三千三」ですが、「ミチゾウ」とは「道をつくる」とも解釈できます。つまり、自分のからだの中に、必要な道をいっでもつくることのできる能力を身にっける営みが野口体操なのです。

おわりに「気持ちがいいかい?」

 これまで、からだと動きについての私の考え方や私が行っている体操のごく一部をお話してきました。もうそろそろ時間が迫ってきていますので、最後に2つのことをお話しておきたいと思います。
 私の話から、みなさん方は「いいからだとは、どういう状態なのだろう」と疑問を持たれたのではないでしょうか。"いい"とは、結局、各々ひとりひとりが見つけ出していくしかありません。
 皆さんが染まって来られた価値観からいうと、"いい"というのは、理想的な形を目標に置いて、自分をそれに近づけようとされてきたのではないですか。だから結局は私に「いいからだとは何か」と聴きたくなるのでしょう。目標を提示してもらわないと不安になってくるのではないでしょうか。
 そうではなくて、固定した目標を持たないで、その都度自分の中に出てくるものに、過去も現在も未来もいっしょくたになった自分の流れの方向に、素直に自分のからだを任せ切るのです。
 私自身、その流れの方向を、「気持ちのいい方向」ということばで表しています。あるいは、「自分が生きていくのに都合のいい方向」「生きるということを保つのに具合のいい方向」とも言えるでしょう。
 ただし、「気持ちいい」ということを、浅く考えると危険です。快楽を求めればいいと、短絡的に考える人も出てきます。これは、理屈よりも日常生活の中で実際に生きていく本当の姿を見つめていけば、自然と解決されます。いつもいつも、「お前、本当に気持ちがいいかい?」と、絶えず自問自答を繰り返し、飽くなき問いを続けることです。そうすれば、自ずと自分が生きていくのに都合のよい方向が見えてくるのです。
 それでは、私からみなさんに問いかけてみましょう。
「あなたは本当に気持ちいいですか?」
「あなたは、吃音を治そうと取り組んでいますが、それは本当に気持ちのいいことでしょうか?」
 苦痛が伴うなら、どこかで無理をしているのです。無理があると、あなたのからだやこころが、歪めたり、固めたりしていることになります。吃音を治そうとするなら、楽しみながらして下さい。吃音を治すことが楽しくなかったら、あなたにとってもっと楽しいこと、気持ちのよいことを探せばいいのです。それは、あなた自身のからだが教えてくれます。じっと耳を澄ませて聴いて下さい。あなたが求めているものは何なのか。(了)

野口三千三氏(のぐち・みちぞう)=東京芸大名誉教授・体育学、野口体操教室主宰)29日午前1時58分、肺炎のため東京都文京区の病院で死去、83歳。葬儀・告別式は4月1日午後2時から東京都台東区上野桜木1の14の11の上野寛永寺第三霊園で。喪主は長男和也(かずや)氏。自宅は東京都豊島区西巣鴨2の17の17。
 独自の自然観、人間観による「野口体操」の生みの親。演劇、美術、音楽、教育、医療など幅広い分野で活躍した。体操の哲学ともいえる「原初生命体としての人間」などの著書がある。(朝日新聞 1998.3.30)

野口三千三さんの著書
☆原初生命体としての人間 岩波書店
☆野口体操・おもさに貞く 柏樹社
☆野口体操・からだに貞く 柏樹社


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/18

野口体操から考えた吃音 (2)

 野口三千三さんのお話の続きです。
今回は、からだのことが中心ですが、その中に、「発声器官は、特別な練習をしなくても、動くように作られている」と言われているところがあります。なるほどおもしろいなあと思います。
 「人間にとって最も大切なことは、外側に表れたことではなくて、内側で何事かが起こっているということ。外側に表れているどもりという現象にとらわれすぎているのではないだろうか」これらのことばは、竹内敏晴さんもおっしゃっていました。
すうっと、心にしみこんできます。

野口体操から考えた吃音(2)
                           野口三千三

人間の動き
 次に、人間の動きをこのムチによって説明しましょう。
 このムチは、基(元)の部分が竹、中間が革紐、先端が麻縄で作られています。ムチの基本構造は、大きく次の3つに分かれます。

1.基の部分が太く(大きく)、先端にいくにしたがってだんだん細く(小さく)なっていく
2.基の部分が硬く、先端にいくにしたがってだんだん軟らかくなっていく
3.基の部分が重く、先端にいくにしたがってだんだん軽くなっていく

 下等動物から人間に至るまで、すべての生き物の形は、基本的にムチの構造と同じです。人間は筋肉などの複雑な組み合わせによってできているだけです。
 ムチを振ると、ものすごい音がします。基の部分に加えられたエネルギーが先端まで伝わり、先端の速度は音速を越えます。ムチはどこにも硬いところがないからこそ、波をうって激しく打ち当たるのです。つまり、直接仕事をする先端は軟らかい方がよく動くのです。先端の働きは、基(人間で言えば足や腰)から伝わってきたエネルギーをいかに微調整するかにあります。ピアノを弾くとき、指先で弾こうとするとすぐ疲れてしまいます。ボクシングにしても、腕だけを動かしていたのでは強烈なパンチは打てません。
 声を出すことも、同様なことが言えます。発声器官はムチの先端にあたり、その先端には力が入っていてはいけません。例えば、皆さん方は「アーイーウー」と大きな口を開けて発声練習をされるのではないでしょうか。もしそうなら、却って逆効果です。軟らかくしておくべきところに意識を集中し、力を入れているだけだからです。
 発声器官は、特別な練習をしなくても、動くように作られているものです。緊張するからぎこちなく動くだけです。だから、発声器官にこだわらず、からだ全体、特に肩や首を軟らかくすることを考えた方がよいでしょう。

《すべての存在は重さである》
 意識と筋肉をもった人間が、からだの動きにおいて犯す最大の誤りは、動きの主エネルギーが筋肉の緊張収縮だと思いこんでいることです。
 「からだの動きの主エネルギーは、筋肉の収縮力ではなく、自分自身のからだの重さである」
 これが私の考えです。このことは、自分自身のからだで本当に実感しないと納得できません。実感するのに最も分かりやすい、階段のぼりで説明してみましょう。
 階段をのぼろうのぼろうと意識的に努力すると、どうしても上げる脚や上体や肩に力が入ってしまいます。そうなると自分のからだの重さが負担になり、疲れてしまいます。しかし、階段を踏んだ左足にからだの重さを任せ切ると、そのとき右足にからだの重さを任せると、当然の結果として、階段(地球)から反動のエネルギーが生まれ、左足→左脚→左腰→右腰→右脚→右足と伝わっていくのです。
 つまり、からだの重さをのせる(問いかけ)ことによって、地球から(答え)を受け取り、それがエネルギーとなっているのです。ですから、からだの重さこそ動きの主エネルギーです。
 上にのぼっていくというのは、自分のからだの重さによって、下へ話しかけることです。からだの重さを任せ切ってしまいますから、ほとんど体重を負担と感じず、軽やかにスイスイのぼっていくことができます。ロケットを考えてみて下さい。ロケットだって地球に向かって話しかけるから上がって行くのです。
 人間の動きのあらゆる現象は、重さの原理でまとまったり、流れたり、動いたりしています。そのことが分からず、筋肉と意識に頼ろうとするから、からだ全体が歪んでくるのです。先程私は、どもりの問題で大切なのは、からだ全体や肩や首を軟らかくすることだと言いました。それにはまず、自分自身のからだの重さに任せることを実感するのがよいでしょう。重さに任せてしまう、それが、人間の一番安らかで楽な状態なのです。

《豊かな動き》
 「私なんかからだが固いから、体操なんてとても駄目です」
 こう言う人がいます。私はこんなことを聞くたびに、そういう人たちの傲慢さが気になって仕方がないんです。からだが固いとか、運動神経が鈍いとかを自分で結論づける能力が、自分にあるとでも思っているのでしょうか。
そのような人は、おそらく、体操競技のように自由自在にからだが折れたり曲がったりすることが、やわらかいからだだと思っているのでしょう。そんな柔らかさも、もちろんある種の柔らかさではあると思います。しかし、これは単に外側に表れた形の運動だけを見ているに過ぎません。むしろ私が言いたいのは、たとえ外見的には真っすぐ突っ立っているだけで、からだが曲がらなかったとしても、からだの内部が自由自在に変化したならば、その方が"柔らか"く"豊かな"動きだということです。
 もともと「動く」ということばのもとは、「うごめく」ということばです。これは、「うごうご」という擬態語から出ています。「うごめく」とか「うごうご」という語感からも感じられるように、一つのまとまった動きに対して「うごめく」ということばは使わないのです。小さいものがいっぱいいて、それがはっきり分からないように動くのが「うごめく」ということです。
 外見ではほとんど動かないけれど、からだの中では非常に動いている、ということは日常生活ではしばしば体験しているはずです。たとえば、非常にうれしいとき、非常に悲しいとき、猛烈に怒っているとき、必ずしも大きく動かないけれどからだの中は波打つように動いているはずです。全体の形の変化は少ないけれど、中の変化はとてつもなく大きいわけです。
 このからだの中の動きや変化こそ、豊かな動きであって、私はそれを大事に大事にしていきたいのです。
 だから私は、吃音の人と話すことが少しも苦になりません。吃音の人と話していると、ことばを出そうとしているからだのもどかしさが伝わってきます。その人の中で何かが動いているのが分かるのです。しかし、みなさん方は自分の中で動いているものに気づいておられないのではないでしょうか。どもることを恥ずかしいと思い、劣等感を持っておられると思いますが、どうしてどもってはいけないのですか。考えたことがありますか。
「どうして、どもってはいけないのですか。この質問に答えられる人、手を挙げなさい」
 みんなが手を挙げると、手を挙げられなかった人は自分が劣ったような気持ちになります。「あなた、答えなさい」と言われて、立ち上がったけれどなかなか言えないと、その人はみじめな気持ちになります。早く手を挙げた方が優れている、はきはきと答える人が優れている、そもそもこの考え方が誤っているのです。
 人間にとって最も大切なことは、外側に表れたことではなくて、内側で何事かが起こっているということです。だのにみなさん方は外側に表れている吃音という現象にとらわれすぎているのではないでしょうか。自分の中で起こっていること、動いているものをもっと大切にしてほしいと思います。もし自分の中で起こっていることを実感でき、それがすばらしいものだと分かったら、皆さん方が持っている話し方についての価値観も大きく変化するのではないでしょうか。どもるという外側に表れる形は変わらないけれど、内側が大きく変化するはずです。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/17
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