伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2022年05月

第31回吃音親子サマーキャンプ、開催します

今年は、吃音親子サマーキャンプ、開催します

サマキャンの写真 ワークブック表紙 10% 2年間中止していた、吃音親子サマーキャンプですが、今年は開催します。
 いろいろと考え、検討し、やっと開催決定を決めたばかりなので、案内要項も申込書もできあがっていませんが、取り急ぎ、日程だけは、皆さんに早くお知らせしたいと思いました。

 コロナの感染状況を見ながら、今年はなんとか吃音親子サマーキャンプを開催できないかと考えていました。
 先日、成人のどもる人のセルフヘルプグループである、大阪スタタリングプロジェクト(大阪吃音教室)の総会があり、メンバーも今年は開催しようと強く申し出てくれました。その後押しがあって決断しました。
 予約していた会場の荒神山自然の家に電話をし、感染対策や今の利用状況をお聞きしました。
詳しくは荒神山自然の家のホームページを見ていただければと思いますが、アクリル板の使用、検温、消毒、食堂の人数制限など、できるだけの対策はとっていただいています。後は、利用者である私たちの判断に任せるとのことでした。
 自然の家の所長はじめ所員の皆さんも、来所を待っていると温かいことばをかけて下さいました。
 プログラムは、これまで大切にしてきたことをできるだけ残しながら、状況に合わせて変更します。サマーキャンプの大切なプログラムの柱のひとつ、演劇の稽古と上演は難しいと思っています。でも、それに代わるもの、大声を出さないで表現することの楽しさ、面白さを味わえるようなもの、人との関わりに気づくようなエクササイズなど、考えていきます。

なってみる学び 表紙 大学院の学生時代からずっと吃音親子サマーキャンプに関わって下さっている、東京学芸大学教職大学院准教授の渡辺貴裕さんが、『なってみる学び―演劇的手法で変わる授業と学校』(時事通信社)を出版されています。本の内容にあるような、教育現場で実践しておられる、演劇的手法を使ったエクササイズを計画して下さることになっています。
 また、2年間できなかった高校生の卒業式は行いたいと思います。
 私たちのキャンプは初参加の人と、複数回参加の人の絶妙なバランスが、とてもいい刺激といい雰囲気を醸し出しています。初めて参加を検討されている方、30年間続けてきた吃音親子サマーキャンプの空間をご一緒しましょう。
 この2年間、皆さんおひとりおひとりにも、様々な変化があったことでしょう。どんなことがあったのか、何を考えていたのか、そんな話も、ゆったりとした時間の中でお聞きしたいし、僕たちもお話したいです。よろしければ、ご一緒して下さい。
 開催要項、申込書はできあがり次第、日本吃音臨床研究会のホームページに掲載します。また、ホームページの問い合わせ欄からお問い合わせいただき、ご住所など記載いただければ、できあがり次第、お送りします。お知り合いの方にも、この内容をお知らせ下さいますよう、お願いします。電話での問い合わせも大歓迎です。詳しい内容やキャンプの考え方も説明いたします。
 なお、新型コロナウイルスの感染状況によっては、残念ながら、中止ということもあり得ます。ご承知おき下さい。

第31回吃音親子サマーキャンプ
 日程 8月19・20・21日(金・土・日)
    19日13時から21日13時まで
 会場 滋賀県・荒神山自然の家
 参加費 ひとり16000円(大人・子ども同額)
     きょうだいは、13000円
 
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/05/31

吃音と自己表現 1

 1997年9月13〜15日、奈良県・桜井市で第3回吃音ショートコースが開かれました。テーマは《吃音と自己表現》でした。特別講師に平木典子さん(日本女子大学教授)を迎え、日本吃音臨床研究会顧問の内須川洸さん(昭和女子大学教授)を交えて、実習を取り入れながら、語り合いました。
 そして、最終日。僕が進行をし、前半は3人で話を進め、後半は参加者の声を拾いながらディスカッションとなりました。3時間の完全採録は、1997年度の年報『吃音と自己表現』に掲載されています。1998年1月17日の「スタタリング・ナウ」(NO.41)では、紙面の都合上、そのほんのさわりだけを紹介しています。
話すことが苦手な人のアサーション 表紙 年報『吃音と自己表現』は、在庫はありませんが、金子書房から『話すことが苦手な人のアサーション〜どもる人とのワークショップの記録〜』(定価 1800円+税)として発行しています。ご希望の方は、郵便局に備え付けの郵便振替用紙をご利用の上、ご送金下さい。お送りします。
  加入者名  日本吃音臨床研究会
  口座番号  00970−1−314142
  代金    1冊、1800円(送料当方負担)

吃音と自己表現

伊藤 今ここに湧き出てくる表現を大切にしたいと思いますので、どう話を進めるか計画を立てていません。どんな話になるか分かりませんが、ご一緒しましょう。しばらくの間、3人で話をさせていただいて、その後皆さんと話し合っていきます。
 昨夜、成人のどもる人、ことばの教室担当者とグループに別れて、どもる人の、どもる子どもの自己表現について、それぞれどのような問題があるかを話し合っていただきました。それが、KJ法図解として目の前にあります。
 平木先生、どうでしょう。先ほど見ていただきましたが、どもる人が、自分が何故自己表現ができないか考えていることがらや自己表現の実態について、どもらない人との差というものがありますか。

平木 さっき伊藤さんと話していたんですが、この図を見て、私が自己表現のトレーニングをしている人たちが、自己表現を妨げるものとして挙げていることと、どもる人と差があるという気はほとんどしませんね。
 自分は「どもるからこうなってる」と思ってるのを、「どもるから」というのを取ると、ほとんど他の人と変わらない。他の人は「どもるから」のところに違う理由があるんです。
 例えば「私は気が小さいから」とか、「小さいときからほとんどお母さんと話をしないで育ったから」とか、「から」のところに違う理由があるという事です。
 皆さんたちには「どもるから」っていうことが結構あるという、そんな感じがしましたけど。もしかして、それが原因だというふうに思いこまなければ、違うかなあという感じがしてます。

伊藤 アサーティブ・トレーニングは、「どもるから自己表現できない」という思いこみを取れば、本当にどもる人を含めて、全ての人が共通してできる取り組みだと考えられますね。

平木 考えることができると思いますね。それぞれの人がこだわっている理由は多分いろいろおありになるわけで、どもる人たちの中でも、どもるからって思っている人もいるだろうし、そうじゃない人もいる可能性があります。私が他のところでやるアサーションのトレーニングでは、どもるということがないから「から」の部分が多分他の理由になってると思うんです。
 しかし、どもるということは、それ自体とても大きなことは確かだと思うんです。どもることは、自分自身の自己表現に直接関わっていることですから。だけれども、そうじゃない理由まで、どもりのせいにしちゃってるとすると、ちょっと、それ取り除いた方がいいかも知れないと思ってますね。

伊藤 僕たちであれば「どもりだから」という、どもりをちょっと取ってみれば、他に理由があるかも知れない。同じ意味合いで、他の人達が抱えている、気が小さいとか、何かの影響を受けたからという、個々の一人一人の理由に、どうアプローチがなされるのでしょうか。

原因を追求しない
平木 私が家族療法をしていて家族療法の中で学んだことですが、人間がしていることに何か問題が起こったとして、機械の故障と同じようにはその原因が特定されるわけはないということです。機械の場合は、この時計も、これで仕組みが全部終わりです。これ自身で成り立ってますので、故障した時原因が突き止められるわけです。電池がなくなった、歯が壊れたなど、針が動かなくなった原因をきちんと突き止められます。人間がしていることは直線的に原因をたどることが出来ないというように言われています。
 例えば、学校に行かなくなった子、不登校の子がいるとするでしょう。多分、世の中の人達は、学校に行けなくなった原因はその子にあると考える。学校にあると考える。お母さんのしつけが悪いと考えるなど、原因をいろいろ言うでしょう。
 ところが、私達カウンセリングをしていますと、分からないんですよ。本人が悪いのか、お母さんが悪いのか、学校が悪いのか。原因捜しをしていると助けはできなくなる。お母さんが悪いとして、お母さんの話をいろいろ聞いていると、夫が悪いと言いたくなる。夫が悪いから夫を変えようと夫を呼ぶと、会社が悪いってなるわけです。会社が悪いって言いたくないようなとき、今度はお父さんとお母さんが悪いと言いたくなるんですよ。そうやって、原因を追究しようとすると限りなく広がっていく。限りなく広がっていくと、心理療法家たちは少なくとも会社まで出かけて行くことはできませんし、この社会を変える運動をするために心理療法家になってないから、結局もう一回個人に戻るんです。
 個人に戻ったときに、あなたが悪い、あなたが変わらなくてはという助け方をしても、その人は一生懸命生きている。周りの人達の関係のところでも問題が起こってるし、世の中でもいろんな事が起こってるから、結局原因というのは追究するとぐるぐる回っているということになるんですね。
 女の子が、幼稚園に初登園する日の朝、前の日の朝までとは全然違った家庭の様子が展開するでしょう。お母さんが忙しく子どもの準備をしている時、お父さんが起きてきて、「おい、俺の靴下、どこいったっけ」って言ったとします。いつもなら「はいはい」と言って持ってくるのに、その朝は「ちょっと自分で探して」となった。お父さんが「え、自分で探してとは何だ」と怒り出し、その日の朝の雰囲気がものすごく悪くなった。
 こうなった原因は何だと思いますか? お父さんが不機嫌になったのが悪いとも言えるし、お母さんが靴下を探してあげなかったのが悪いとも言えるし、最後にはこの子が幼稚園に行くようになったのが悪いとも言えるでしょう。
 人間がしていることは、いろんなつながりの中で生きているので、原因をこれと特定することは出来ないと考えるんです。原因を取り除けば問題が解決するとは考えない。原因が特定できないし、原因と思われることがなくなれば、問題が解決するかと言えばそんなことなくて、どこからでも今のようなことは起こり得るのです。
 違う家族で同じ事が起こって、「俺の靴下、どこだっけ」ってお父さんが言った時、お母さんが「自分で勝手に探して」と言ったら、「おお、そうか」といって探すお父さんもいるわけですよ。しかし、「おお、そうか」って探せば、丸く収まって、「何だって」といったら、丸く収まらなくなるというと、そんな単純な問題じゃない。
 だから、原因らしいことをなくせば問題は解決するとは考えにくいのです。原因捜しや犯人捜しは意味がないから止めようって考えるんです。
 私のパーソナリティーは母親の影響があると言っても、母が悪いと言っているのではなくて、母は私に影響を与えたが、私もその影響をもらったという半分ずつの責任があるわけです。半分ずつの責任で何かが起こってて、その責任はかかわり合いの中で起こるわけだから、どちらかの問題ととらえることはできない。
 心理療法の中では、何かが悪いからそれを取り除くのではなくて、どうしたらより良くなるかを考えるんです。原因捜しをしてその原因を取り除くという方法じゃなくって、とりあえず良く変える方法ってなあい?っていうふうに考える。
 これがあるから私は何々出来ないと思っていると、それがなくならなければだめという話になりますでしょ。どもりがあるから悪いって言ってたら、どもりがなくならないとダメなのかという話になります。そんなことないし、それだけでもないと思うんです。ひっかかってると、ダメなものがあると何でもダメになってしまいませんか。
           1997年9月13〜15日(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/05/30

何を大切に生きるか? 2年ぶりに、櫛谷宗則さんのお話をお聞きしました

何を大切に生きるか?

 昨日の大阪吃音教室の講座は、新潟県から櫛谷宗則さんをお迎えしました。
 演題は、「何を大切に生きるか?」です。これは、2年前、お話いただく予定だったものと同じです。
 会場のアネックスパル法円坂へは、櫛谷さんはホテルから歩いて来られました。櫛谷さんにとって、アネックスパル法円坂は初めての会場です。前、来ていただいたのは、應典院でした。ここにも、コロナの影響を感じます。「方向音痴で…」とおっしゃっていましたが、ちょっと遅れそうになったと思われたようで、アネックスパル法円坂の前の歩道橋を軽やかに駆けて来られました。作務衣姿の櫛谷さん、いつものように静かで穏やかな表情でした。
 初めてお会いしたのは、2015年。櫛谷さんの坐禅会で、僕をみつけ、「伊藤さんですね」と言われたときの、鋭いけれど、全てを包み込むような温かさを、僕は覚えています。それ以後、折に触れいただくお手紙のことばに励まされ続けています。

櫛谷宗則2 お話は、合掌することから始まりました。
 「皆さん、今日のお話の演題は、何を大切に生きるか?ですが、さて、皆さんは、何を大切にして生きておられますか」
 櫛谷さんは、こんな問いかけをされました。参加者が、そうだなあ、何だろうと考えていると、櫛谷さんは、こう続けられました。

 「健康が一番大事だという人、お金が一番大事だという人、家族が一番大事だという人もいる。仕事が一番大事だという人もいる。あるいは、皆さんの中だったら、吃音でもそれを受け容れて、元気にやれるのが一番大事だと思っている人もおられると思います。

 ところで、私のような高齢者になると、周りを見ると、みんな寂しいと言う。自分がそれまで培ってきた友達がだんだんどっちも病気持ちになるものだから、会う機会が減って、やがて亡くなってしまう。親族にしてもそう。自分と昔の話ができる人がいなくなっちゃう。やっぱり寂しい。それが進めば、連れ合いも亡くなってしまう。そんなふうに、高齢者になると、寂しいという人が結構います。でも、今、言ったような、お金、健康、彼女や彼氏がいる人だったら、彼女や彼氏が一番大事という幸せな人もいると思う。そういうのはみんな、自分の思い込みで生きているんじゃないのかなと思う。きちんと考えて生きていない。なんでそんなことをいうかというと、だって、我々、日々、こうやって生きていますよね。毎日毎日、生きているけれども、じゃ、あなた、その生きる意味って知ってますか? 知らないですよね。いや、その日、やることは知ってますよ。仕事はこうすればいい、ああすればいいというのはよく知っている。そういうのは知っているけれども、そういうふうにして生きる自分の人生全体の意味というのは、知らない。ただ、毎日毎日目の前のことに追われている。とにかく食べないといけない、家族を養わなわないといけないと思うわけです。とにかく食べるためには仕事をしなきゃだめ。お金をもらないとだめ。そうして、一生懸命、みんな生きている。そうやってお金をもらうために、どれだけ苦労するか、です。さんざん嫌な思いをして、下げたくない頭を下げて、からだを壊してまで生きるために働いて、そんなにさんざん苦労してあげく、なんでそうやって苦労するのか知らないですよ。なんでそこまで苦労して生きて、それが一体どういうことなのか、みんな知らない。健康が大事とよく言うけれど、私に言わせれば、あなたは健康を得て、それでどう生きようというのと聞きたいところです。健康が大事といっても、みんな、どうせいずれ年をとって、病気になって死ぬのは、決まり切っている。結局老いて死んでいくだけです。人生全体、私の生きる人生そのもの、なぜ私は生きるのか、生きるってどういうことなのか、どう生きるのが真実の生き方なのか、それをちゃんと見通して生きないとだめだと思うんです」

櫛谷宗則4 伸二と2人で こんな導入でした。詳しいお話の内容は、もう少し時間をかけて紹介したいと思います。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/05/28

ことば供養

 1998年に書いた文章を紹介します。「ことば供養」、今、振り返っても、いいタイトルだと思います。吃音の深い悩みの中にいた頃、授業中答えが分かっているのに「分かりません」と答えたこと、どうしても伝えたいことだったのにどもるのが嫌さに言わなかったこと、たくさんあります。そのとき、僕から生まれ出ようとしていた、限りないことばの数々に「ごめんね」と謝りたい気分です。今、僕は、自分に対しても相手に対しても、僕から生まれ出ようとしていることばに対しても、誠実でありたいと考えています。

  
ことば供養
             日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 2月8日は針供養。女性が裁縫を休み、折れた針を集めて、豆腐やこんにゃくに刺し、川に流したり神社に納めて供養する。日本には針だけでなく、筆供養など様々な供養が伝統行事として残る。
 筆供養の様子が先だってテレビで紹介された時、私はふと、《ことば供養》がしたくなった。
 この一年、自分の中から出たがっていたことばを、無視し、軽視しなかったか。この一年についてのことばにも供養したいのだから、どもりに悩んでいた時は、おびただしい数のことばの供養をしなければならないことだろう。
 どもって話すのは嫌で恥ずかしく、どもるぐらいなら黙りたかった。どもるのが嫌さに、本当に言いたかったことばを他のことばに言い換えた。
 どもりに深刻に悩んでいた25歳ごろまで、私は私のことばをどれだけないがしろにしてきたことか。私の口から出たがっていたことばを沈黙の中に葬り去り、「分かりません」で、出かけていたことばを自分のからだの中に押し込んだ。その上、せっかく出て来たことばを、ただどもったということだけで恥じた。私はことばに謝りたい。
 私は、どもることばは醜く、人を聞き辛くさせ、説得力がなく、嘲笑されるだけのものだと思ってきた。だから、どもらずに話したいと、普通に話せるようになることばかりを追い求めてきた。
 長い間、虐げてきた私のどもりことばだが、今は、私のかけがえのない自分のものになりきっている。どもって喋ることが、かえって説得力をもつと言われたことさえある。今は、どもりが治りたいとは思わない。しかし、どもり方を磨きたいとは思う。
 昨夏、サンフランシスコでの国際吃音学会で、いいどもり方だなあとしみじみと聞けた吃音研究者と出会った。軽くリズミカルにどもる彼女の発表は、私の耳には大変心地よかった。すらすら流暢に発表する研究者は多く、どもらない人と彼女との比較がすぐにできたので、余計に強い印象となった。
 どもりながらも、臆することなく発表すること自体素晴らしいことだが、今回はそれを越えて、どもり方そのものが素晴らしいと思った。そのどもり方がその人の個性を作っていたのだ。
 こんなに素晴らしいと感じるどもり方の人に出会ったのは初めての経験だが、これまでもいいどもり方だと思った人がいなかったわけではない。13年前、福岡の能古島での吃音ワークショップで出会ったSさんは、いわゆる吃音検査法では重度吃音の分類に入るだろうが、にこにこ楽しそうに話す。派手にどもるが悪びれるところは全くない。どもることで周りを明るくさせている印象さえ受けた。
 四国で教師をしているKさんは、Sさんと違って楽しいというどもり方ではない。いわゆる難発で、ことばがなかなか出てこない。この、ブロックしてことばが出ない状態が、《間》として実に生きていた。思慮深い彼のパーソナリティと、訥々とした話し方がぴったりしていた。多く話す人ではないだけに、ひとこと出ることばに重みがあった。
 吃音親子サマーキャンプにずっと参加していたM君も同じようなどもり方だ。以前は声がなかなか出ないで苦しそうだったが、最近はふと力を抜いたどもり方が彼の個性を表し、キャンプ初参加の高校生が、彼の話し方を真似たいと言った。吃音そのものを治すことはできなくても、連発型のどもり、難発型のどもり、その症状に合った、自分の個性と結びついたどもり方を工夫し、どもり方を自分なりに磨くことはできるのではないか。
 どもらない人に近づこうとするのではなく、どもり方を磨くのは楽しいことではないか。何がなんでもと焦ることなく取り組める。そうすれば、「分かりません」でしのいだり、口をつぐんだり、言い換えをあまりせずに、今湧き出る自分のことばを大切にすることにつながっていくことだろう。
 あの時、頭に浮かんだのに言えなかった、言わなかったことば。全く別のことばに言い換えてしまったことば。私が葬り去った私のことばに合掌。(「スタタリング・ナウ」1998.1.17 NO.41)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/05/26

吃音ファミリー 子どもの作文

 「スタタリング・ナウ」NO.40では、どもる子どもの親、松尾ひろ子さんの体験の後、息子の政毅君の作文が紹介されています。吃音親子サマーキャンプに初めて参加した小学4年生のとき、彼は国語の時間に「どもりになってよかった」という題の作文を書いています。
 その作文と、その後、5年生、6年生で書いた作文を紹介します。題名に、小学3年生までとその後の彼の変容が表れているように思います。

松尾政毅君の作文

【4年生のとき、国語の時間に書いた作文】

    どもりになってよかった
 「ねえ、サマーキャンプという所へ行ってみない」
と母さんが言った。このことばがぼくを大きく変えてしまった。なんで、どもりになったのかなと思う暗い心が、どもりになってよかったという明るい心になったからです。
 こんなにぼくの心が大きく変化したのは、サマーキャンプに行ったことから始まった。
 サマーキャンプというのは、いろいろな人とふれあったり、どもりのことを勉強したり、げきをしたりします。そして、何もかも自分の力でしなければならないのです。ふとんをしいたり、ご飯を作ったり、全部自分たちでしなければいけないのです。
 サマーキャンプに行く目的のひとつは、友達を作ることです。サマーキャンプに来ているみんなはすごくやさしくて、すぐに友達になれます。ぜったい友達になれます。
 サマーキャンプでは、吃音のことも勉強します。勉強といっても、発声練習をしたり、歌ったりです。どもりでこまっていることや、そのときどんな工夫をしているかなど、みんなで話し合ったりします。みんなといっしょにいれることがぼくにとってしあわせです。
 また、サマーキャンプでは、ぜったいげきをします。みんな努力して、工夫して、力を合わせて練習して、その練習の成果をみんなに見せるのです。
 みんなとふれあえる、これが一番の目的です。
 しかし、楽しくてもいっかは別れるときがきます。それが一番悲しいのです。せっかく友達をいっぱい作っても、遊んだり話したりできるのはほんのひとときだけです。
 だから、ぼくは毎日こう思います。(早く一年たたないかなあ)と。もうすぐ夏休みだから、みんなと会えるのはもうすぐです。だから、もう少しがまんして、次のキャンプで遊びまくろうと思います。(1995年)

【5年生のとき、サマーキャンプ作文教室で書いた作文】

    吃音の苦しみ
 ぼくがどもっていることに気がついたのは、小学1年のころでした。友達と話しているときに笑われたり、まねされたりして、そのときやっと自分が他の人と違うことを知りました。
 よく考えてみるとぼくに対してのどもりの悪口の始まりはようち園からだと分かりました。1年のころはそんなにバカにはされていませんでしたが、2年になって自分のクラスのクラスメイトを始め、自分より1年下の1年生や自分より上の3年生、4年生、5年生、6年生、そしてたまには中学生にまでもバカにされました。それが3年生まで続きました。
 3年の2学期、ぼくのたんにんの先生がいじめられていることに気がついてくれて学級会を開いてくれてそのぼくのどもりのことを取り上げてバカにする悪口をやめさせてくれたから、悪口はパッと止まりましたが、5年生になってまた、どもりについての悪口が始まりました。悪口を言うのは自分より小さな子どもばかりでした。だから、何回言っても放っておきました。しかし、だんだん何回も言われていると、だんだん怒りたくなってきました。しかし、怒ると多分その子はたんにんの先生に言いつけると思います。そうなると、どんな理由があっても年が年だから、怒られます。
 8月9日のサマーキャンプの話し合いでのみんなからのアドバイスを元に、どもりの悪口の根を完全に断ち切ろうと思っています。(1996年)

【6年生のとき、サマーキャンプ後に書いた感想】
 
   みんながついている
 3回目のサマーキャンプ。初めは一日おくれて行ったけど、二日目からはみんなとお話ができました。
 二日目に行ったとき、プログラムでいうと、グループで話し合いの最中でした。とちゅうからいったものの、前から来てたみたいに参加することができました。そこで、二人、友達になりました。話し合いの中で、一緒に話してたりしてなりました。その話は、一人は学校の話ででしたが、もう一人はゲームの話ででした。その学校の話でなったのは、岡本君で、彼とは年も同じで、気が合いました。食事とかに行くときもいつも一緒でした。彼は母に連れられていやいや来たと言いますが、話をしているととてもそうには思えませんでした。
 昼の食事のとき、入り口で、溝部先生に会いました。最初、ぼくは溝部先生のことが分かりませんでした。なにしろ、がらりと変わっていたので分からなかったのです。でも、まあ会えてうれしかったです。次に食べていると、たまに言友会に来る島浦の兄ちゃんが声をかけてくれました。島浦の兄ちゃんはサマーキャンプは初めてで、ぼくは来ているのを知ってびっくりしました。
 食事が終わると、そこらへんを歩いているといろいろな人から声をかけられました。みんな知っている人ばかりでした。知らない人もいっぱいいたけど、みんなはぼくを知っていたので、知り合いになりました。
 その夜のげきの練習のとき、みんな、つまっていない子もいたけど、つまっている子はつまりながらもいっしょうけん命がんばっているのを見て、感動しました。そのとき、ぼくもがんばるぞと思いました。
 次の朝、公民館でのげきの発表会、みんないっしょうけん命がんばっていました。そこで、ぼくはみんながついているという心強さを感じました。その後の集いは楽しかったけれど、これで最後かというのもありました。
 ついに別れのとき、なんといっても別れはつらいものです。ぼくも泣きそうになりましたが、こらえました。みんなとあくしゅをしてバスに乗りました。駅で時間があったので、写真をとったりプリクラをしました。そのプリクラはゆいいつの記念です。また、来年も来たいです。(1997年)

【6年生のとき、書いた《人権作文》】

    やさしさを見つけよう
 人間は、生まれつき皆平等だ。なのになぜいじめは起こる。いじめだけじゃない。差別もなぜ起こる。
 いじめも差別も、している本人はされる人の悲しみ、つらさや痛さなど何も分かっていない。いじめられることの苦しみや、差別されることのつらさは、他の人には分からない。される本人しか分からないのだ。この苦しみは計り知れない。
 いじめられる子はたいてい、いじめられていることを誰にも言わない。それは、こわいからなのだ。親などに言ってたら、余計にひどくなるのではないかと思い、いじめられる苦しみを心の底にしまってしまうのだ。
 このことはぼくもいじめられていたから分かる。いじめられていたといっても、あまりひどくはないが、小学校低学年の自分にはこたえる。
 ぼくは生まれつきことばがつまって、ことばが途中で切れてしまうことがある。このことで一年から三年までずっと毎日、まねされたりばかにされたりした。
 ずっといじめられていると、だんだん今の時代に「やさしさ」などないのだと思えてくる。だって、いじめられているのに周りの人は何もしてくれなかったからだ。いじめられているのに止めてくれない、励ましてくれないというのは、いじめよりも何よりもつらい。そんな日が何日も続いた。
 だけど、三年の時、自分でこのことを勇気を出して担任の先生に言って、クラスの皆に言ってもらった。すると、クラスの中でのいじめは終わった。自分でいじめにピリオドをさした。
 それからは、みんな、つまるときはばかにしなくなった。一部の人は「がんばれ」とか言ってくれた。そのとき僕は、本当の「やさしさ」を見つけた。
 そのときから、僕の考え方は変わった。やさしさはかけてくれるのを待つのではなくて、自分から見つけ出すものだと分かった。
 いじめられている子に必要なものは、やさしさだと思う。
 いじめられる子が、暗くなったり自分の世界に閉じこもるのは、いじめられたからではなくて周りの人々が冷たいからだと思う。
 いじめはこの世からなかなかなくならないかもしれない。でも、いじめられる子がいじめる子に立ち向かっていくか、周りの人が少しでもいじめられている子に対して声をかければ、その子も救われるかもしれない。一番大切なのはひとりひとりがいじめられる子を心配する気持ち、つまりやさしさの心を持つことだとぼくは思う。
 いじめられる子も幸せになる権利がある。しかし、それをふみにじろうとする人は許せない。
 やさしさを受け、幸せになる権利こそ人権だと思う。それをふみにじることは決して許せることではない。       (「スタタリング・ナウ」1997.12.20 NO.40)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/05/25

【再掲】大阪吃音教室 特別講座 「何を大切に生きるか?」 講師:櫛谷宗則さん

【再掲】大阪吃音教室 特別講座
何を大切に生きるか? 講師 櫛谷宗則さん

櫛谷宗則 坐禅会案内 先日5月7日、紹介した櫛谷宗則さんが講師の、大阪吃音教室特別講座「何を大切に生きるか?」の案内を再掲します。
 櫛谷さんに来ていただくのは、2年ぶりです。2004年頃に初めてお会いしてから、いつも櫛谷さんのことばに励まされています。今回、久しぶりにお話が聞けること、とても楽しみです。深く静かな時間を、ぜひご一緒しましょう。お待ちしています。


 櫛谷宗則さんとの出会いは、2004年頃だったでしょうか。朝日新聞のコラム「小さな新聞」で、僕たちのニュースレター「スタタリング・ナウ」が紹介された記事を読んだ櫛谷さんから、ご自分が編集し出版しておられる「共に育つ」への原稿依頼がありました。
 それまで縁のなかった仏教関係の冊子への執筆依頼でしたが、当時、仏教に惹かれ始めていた僕にとってはありがたいことでした。そして、お付き合いが始まり、毎回、「共に育つ」の冊子が出版されるたびに送って下さり、僕たちのニュースレターもずっと読んで下さっています。読んで、ときどき、はっとするような感想を書いて私を励まし続けて下さっていました。新潟で講演があったとき、足を延ばして五泉市のお寺にお伺いしたかったのですが、お互い都合がつかず、お会いすることができなかったという残念なこともありました。
 2015年、大阪市天王寺区のプレマ・サット・サンガで2日間坐禅会をされると知って、1日参加しました。一番前に座っていた僕に、休憩時間、「伊藤伸二さんですね」と声をかけて下さいました。そして、僕の顔をまっすぐに見て「あなたの目は何かと闘っている目だ」と見抜かれたのです。そのとき、何か文章を書いていただけないかとお願いしたのですが、その文章に添えて下さったお手紙にこう書かれていました。

 「これもご縁と思い、精一杯書かせていただきました。治す派との闘いは、対立しないで伊藤さんご自身の、吃音を光とする生き方を深めていかれること、その生活そのものが一番の道(武器)ではないかとふと思いました」

 櫛谷さんを、大阪吃音教室の講師にお迎えして、お話をお聞きすることは、2016年から始まりました。毎回、静かで、深い時間が過ぎていきます。昨年、一昨年と、コロナで大阪吃音教室も休講となり、櫛谷さんの坐禅会も中止になっていました。今年、坐禅会は、定員を減らして開催されます。大阪吃音教室にも来ていただけることになりました。新潟のお寺なので、大阪に来られるのはそう多くはありません。吃音について理解の深い禅の老師のお話は、きっと参加者の心に響きます。ご参加お待ちします。

日時 2022年5月27日午後6時半〜
会場 アネックスパル法円坂
演題 何を大切に生きるか?
講師 櫛谷宗則
〈プロフィール〉昭和25年、新潟県五泉市の生まれ。19歳の時、内山興正老師について出家得度。以来安泰寺に10年安居し、老師隠居後は近くの耕雲庵に入り縁のある人と坐る。老師遷化のあと、新潟に帰り、地元や大阪・福岡等で坐禅会を続けている。
編著 「禅に聞け」「生きる力としてのZen」「内山興正老師いのちの問答」(大法輪閣)「共に育つ」(耕雲庵)等。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/05/24

教育と愛国

教育と愛国

教育と愛国 パンフレット表紙 5月15日、十三の第七芸術劇場で、「教育と愛国」(斉加尚代監督)の映画を観ました。
 これは、大阪・毎日放送が2017年に放送した「教育と愛国〜教科書でいま何が起きているのか」に追加取材、再構成した作品で、監督は同放送ディレクターの斉加尚代さん。長年、教育現場を取材してきた人です。2017年度ギャラクシー賞・大賞を受賞したテレビドキュメンタリーが、最新取材を加えて映画化されました。斉加さんは毎日新聞の報道記者を経て、ドキュメンタリー担当ディレクターをされています。
 今の時代に、大阪毎日放送というメジャーな会社から、よくこんな映画ができたなと思いました。しかし、やはり、内容も、タイトルも堅く、上演してくれる劇場を探すのに苦労したそうです。でも、たくさんの苦労があるけれども、今、このことを伝えないといけないという使命感に似た思いで作ったのだと、上演後のトークで語っていました。上演後のトークショーに誰も残ってくれず、客席0の中でしゃべることになるかもしれないけど、まっいいかと、覚悟を決めたと言います。
 政治主導の教育で一番困るのは子どもです。子どもが右往左往することは絶対避けなければならない、監督の志は尊いと思いました。

 監督自ら、堅いと言われたこの「教育と愛国」とのタイトルに、僕は最初、違和感をもちました。
 1965年からの東京での大学生活で、銀座へ行くといつも見る異様な光景が思い出されるからです。大日本愛国党総裁の赤尾敏が、日の丸と星条旗をかかげ、大音量の軍艦マーチを流し、毎日、数寄屋橋交差点で反共の街頭演説していました。せっかく銀座に遊びに行ったのに、必ず街頭演説している赤尾敏を見るのがとても嫌でした。
 明治生まれの父親が、「天皇の戦争責任」を僕たち子どもに語るほどだったので、「お国のため」と死んでいった人たちのことを思うと「愛国心」ということば自体も嫌いでした。教育によって、報道規制によって、国民が一体となって戦争に進んでいく、教育のもつ恐ろしい力を思うと、「教育と愛国」のタイトルは、当初は違和感をもったものの、このドキュメンタリーを意義を想うと、このタイトルしかなかったのかなあとも思いました。

 見終わって、「愛国」という、一見きれいなことばに隠された、ひとりひとりを大切にしない、過去の歴史をなかったことにしてしまう、恐ろしさを感じました。世界的に右傾化が言われていますが、大切なことは、事実を事実として見ること、暗部と言われるものに対しても、です。そこから出発しないといけないのに、僕たちの国の政治家の多くは、目をそらさせようとしています。昔にはあまりなかったような「嫌韓本」が書店に平積みされ、「日本は素晴らしい」と、根拠なく書き続ける人たちの「愛国心」がまかり通っています。どこかの首相が「美しい国、日本」「元気な日本を取り戻そう」と叫べば叫ぶほど、日本はどんどん醜い国になっていきます。

 ロシアのウクライナ侵攻が始まって3ヶ月。
 日本では、教科書検定で、従軍慰安婦が慰安婦に、朝鮮半島からの強制連行が動員や徴用に書き換えられました。時の政府の一存で、教科書の用語が書き換えられる、これはまさに、教育への明らかな政治介入です。ロシアとどこが違うというのでしょう。今回のロシアのウクライナ侵攻を、「ロシア人は人間じゃない」と批判する人たちも、日本も同じようなことをし、戦争に進んでいく姿を頼もしく熱烈な声援を送っていたことを忘れたのでしょうか。歴史は忘れてはいけないのです。
 教育、表現の自由の制限、情報操作の恐ろしさを、この「教育と愛国」の映画は強く国民に訴えているのだと思います。僕たちのひとりひとりの生き方、考え方、歴史観が問われていると思いました。教育は誰のためにあるのか。歴史とどう向き合うのか。教育と学問の自由を侵してはならないのです。

 映画の後、監督の斉加尚代さんと、社会学者の白井聡さん(京都精華大学国際文化学部准教授)とのトークがありました。チケットは、完売でした。映画が終わった後の拍手、そして、大阪人らしく、時々笑いが起こるのも、少し救われた思いがしました。
「新しい教科書を作る会」の教科書の代表執筆者の伊藤隆東京大学名誉教授へのインタビューが流れたとき、僕の席の周りの人やあちこちから「失笑する」声がたくさん聞こえました。僕も思わず笑いながら、ここにいる、周りの人たちは仲間なのだと思わせてくれました。
 後で買ったパンフレットに、このブログでもよく紹介する松元ヒロさんが、「芸人としてはめちゃくちゃ笑えました」と書いていました。
 周りの人たちと思わず起こった「失笑」の場面を紹介します。

 ―この教科書が目指すものはなんですか?
 「ちゃんとした日本人をつくるってことでしょうね」
 ―ちゃんとしたというのは?
 「左翼ではない。むかしからの伝統を引き継いできた日本人・・・・」
 ―歴史から何を学ぶべきですか?
 「学ぶ必要はないんです・・・・あなたの学ぶって」
 ―たとえば、日本がなぜ戦争に負けたか?
  「それは弱かったからでしょう」

 これが東京大学で数多くの学者を育ててきた歴史学者の本音です。あまりのレベルのひどさに寒くなりました。このことばを引き出し、公開してもいいと承諾させた、作者の力量を想います。
 十三の第七芸術劇場ではかなりの「失笑の声」が聞こえたのですが、他の映画館ではどうだったのでしょう。東大の伊藤隆名誉教授はじめ、愛国教育を推し進めたい人たちの発言に笑ってしまいましたが、笑った瞬間、その後に、静かな恐怖を感じました。黙っていたら、いつの間にか、過去の歴史も、歴史のもつ意味づけも、変わってしまいます。南京虐殺がなかったことになってしまいます。第二次世界大戦の時の沖縄の地上戦での集団自決もなかったことにされてしまいます。怒りがこみ上げてきます。
 残念ながら、教科書は検定され、書き換えられています。それでも、自分の力で情報を集め、自分の頭で考える子どもに育って欲しい。それは、どうしたら実現できるでしょうか。僕たち一人一人が心して考え、できるところから実践をしていくしかありません。
 とりあえず僕たちにできることは、世間一般にあふれる吃音の情報に惑わされずに、自分の頭で考え行動する子どもたちを育てることだと思います。

 学校という場は大きく変化しました。物が言えなくなった教員と、教育委員会のことばを伝えるだけの校長。歴史教育は、権力者が思い描くような歴史にすり替えられ、政府が認めた事実を、歴史として教える場になってしまう学校。小さなできごととして放置しておくと、それはいつの間にか大きな変化になってしまいます。教育現場が活力を失い、教員のやる気を奪っていきます。
 1999年、石原慎太郎が東京都知事になってから、教育現場の破壊が始まりました。教員の職員会議は議論するところではなくなり、校長からの政府や教育委員会の上意下達の場になったこと、また、2008年、橋下徹が大阪府知事になってから、大阪の教育は大きく変わってしまいました。大阪には有能な教員は就職しなくなるだろうと思います。
 映画にも登場していた中学校教員の平井美津子さんが、客席におられて、発言されました。 「卒業してからも生きてくるのが教育だ。一番難しいのが、自由を護ること。教員は、身近な大人のひとりとして、子どもにとってのロールモデルになりたい。教員ひとりひとりが、どれだけリスクをとって、実践していけるか」
 厳しい内容ですが、現場の声として、切実なものがありました。

 最後に、トークショーの白井聡さんの話を紹介します。
 「この映画が優れているのは、20〜25年という長いスパンで、流れを追っていること。少しずつ確かに進んできた流れを的確にとらえ、しかも、それを重層的にとらえているところだ。映画には、たくさんの人が登場します。教育にこのように介入する、質の悪い政治家を選んだ有権者が一番悪い。主権者教育こそ大事で必要なことだ」
 僕たちは、賢い有権者にならないといけない、子どもたちを賢い有権者に育てないといけないと思いました。
 
土井敏邦 私を生きる 写真 また、「教育と愛国」を見ながら、この映画を紹介してくれた私たちの仲間、土井幸美さんのお連れ合いの土井敏邦監督の映画、「私を生きる」を思い出していました。
 2010年に制作された映画です。DVDにもなっています。合わせて見ていただきたいものです。

ルポ 大阪の教育改革とは何だったのか 表紙 さらにもう一冊。『ルポ 大阪の教育改革とは何だったのか』(永尾俊彦 岩波ブックレット1063)もぜひ。冒頭に登場するのが、大阪市長松井一郎宛てに提言をした久保敬・大阪市立木川南小学校校長です。教育の本質から、教育者として子どもをどう育てるかという一番大切な提言でした。真っ当なことをきちんと伝える校長がいることは救いです。この久保校長も、映画のはじめの道徳の授業に登場します。






 映画を観てから、日を置いて、ブログを書いています。時間は経ちましたが、静かな恐ろしさとともに、教育は誰のためにあるのか、歴史とどう向き合うのか、僕たちひとりひとりの生き方、考え方、歴史観が問われているという思いを、さらに強くしています。教育と学問の自由を侵してはならないと。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/05/22

吃音ファミリー 3

 昨日のつづきです。今日で、松尾さんの体験を終わります。自分のことを分かってくれる担任の先生との出会い、そして吃音親子サマーキャンプとの出会い、政毅君は、それらの出会いの中で変わっていきました。僕が、政毅君のことばで、一番よく覚えているのは、どもることをからかわれたときに言った、「これは僕のくせやねん。気にせんといて」です。さらりと、こんなことばを言えるなんて、すごいなあと思います。高校3年生のときに、サマーキャンプの卒業証書を渡すようになったのは、彼が卒業するときからです。政毅君は、参加者としての卒業後は、スタッフとしてずっと参加してくれていました。

どもり・親子の旅
                   松尾ひろ子(小学6年生・松尾政毅君の母)

『先生は、僕のこと分かってくれてるねん』
 3年生になり、クラスが変わり担任の先生も変わりました。新しい担任の先生は嶋田先生という、その年に転任してこられた40歳代の女の先生でした。
 嶋田先生は最初に「体のことではからかったりしないこと」を学級の子どもたちとの約束事にあげられました。
 政毅の吃音についても「最後まで松尾君の話を聞こう」と指導を入れて下さいました。
 3年生になってすぐの頃、隣のクラスの子どもから吃音のことでからかわれて落ち込んでいた時に、嶋田先生がその理由を聞いて下さると政毅は、「もういいねん。ぼくががまんすればいいねんから」と答えたそうです。嶋田先生は、「そんなんおかしいから、今からきちんとからかった子に話をしにいこう」と言って、からかった子どもと話をさせて下さったそうです。
 「嶋田先生は、ぼくのことよく分かってくれてるねん」と、家でも政毅はよく言っていました。
 自分のことを理解し、味方になってくれると実感できることは、子どもにとって大きな支えであったようです。嶋田先生との出会いは、その後の成長に大きく影響していると思います。
 4年生になる頃には、学級の中でもだんだんと自分の感情が出せるようになってきていました。けんかもしているようでした。欠席も少なくなってきていました。でも、吃音の方は以前よりもひどくなっているように思えました。

『いくいく、僕、困っててん』―吃音親子サマーキャンプ―
 もう《吃音を意識させない》だけでは吃音は消えないのではないかという思いと、吃音というのはそんな単純なものではないのではないかという思いがしてきました。
 いよいよ、吃音の専門機関に相談しなければいけないと思い始めました。ことばの教室は、私の住んでいる市にはないので、友人が他市のことばの教室の先生を紹介してくれました。そのことばの教室から日本吃音臨床研究会の伊藤伸二さんを紹介され、電話をしました。その時、大阪で吃音両親教室が近々あることを知り、初めて両親教室に参加しました。
 『治らないということを受け入れること』『早い時期に子どもに吃音を自覚させること』が大切だというお話は、これまで、吃音について読んだり、聞いたりしてきたことと、全く反対の考え方でした。
 『たとえ、吃音が治らなくても、それに負けないで自分らしく生きていける』という話や、実際どもりながら生活している成人のどもる人と多く出会えたことは勇気づけられましたが、そのことよりも、この日の『治らない』という宣告は、母親にとっては辛いものがありました。
 しかし、今思うとこの日から、親子で吃音と向き合うスタートに立たせていただけたのだと思います。
 どもる子どもを持つ両親教室で、親子サマーキャンプのことが紹介され、実際に前回参加された人も来ていました。そのお母さんの体験を聞きながら、私も親子で参加してみたいと思いました。しかし、今まで吃音について真正面から親子で話したことがなかったので、どのように切り出したらいいものか考えてしまいました。
 そこで、「政毅みたいにことばがつまったりことばが出にくい子どもたちが集まって、楽しいキャンプをするんだけど行ってみる?」と誘ってみました。すると、「行く行く。ちょうどいいわ。ぼくな、ことばのことで困っててん」と言い、簡単に参加が決まりました。

『苦しんでいるのはぼくだけでなかったんだ!』
 吃音親子サマーキャンプは、政毅にとって、とても大きな体験となりました。すぐに友達ができ、楽しく遊び、劇にも一所懸命取り組んでいました。いきいきと楽しそうにしている政毅を見るのはうれしいことでした。帰る道中もキャンプの話ばかりで、来年も行こうねとしきりに言います。
 自分と同じように苦しんでいる友達がいることに驚き、僕だけではなかったんだという安堵感や吃音を持ちながらもたくましく生きておられる方々との出会いは、将来の自分自身を投影することができたのだと思います。
 その秋の、国語の時間の作文に、キャンプのことを書いており、「どもりでよかった」とさえ書いているのには驚きました。あれだけ話すのは辛い、死ぬ思いやといっていたのですから、私には想像もできないような、子どもにとって、大きな体験となったのでしょう。だから、今のままの自分でいいのだとどもる自分自身を受け入れていくことができたのだろうと思います。
 政毅は、吃音親子サマーキャンプを境に物事を前向きに考えられるようになってきました。
 一方、私の方は『治らない=かわいそう』という思いからなかなか抜け出すことができずにいました。しかし、政毅の大きな変容ぶりを目の前にし、初めて私は『政毅の吃音から逃げないで隠さないで向き合っていこう』と思うことができるようになりました。
 それ以後、政毅は吃音親子サマーキャンプをとても楽しみにしており、夏の我が家の恒例行事になりました。そして、自分の吃音に興味を持ちはじめ、吃音について本で調べたり、脈拍や季節との関係等科学的に分析を試みたりしているようですが、未だ結論は出ていないようです。ただ、自分の場合は少し緊張した方が話しやすいということが分かったようでした。
 4年生も終わりになると同学年の子どもたちからは吃音のことを言われることはなくなりましたが、低学年の子どもたちは遠慮なく、真似をしたり、からかわれると、自分より小さい子どもだけに、きつく言い返すこともできず困っているようでした。
 ちょうど、いじめ問題がマスコミをにぎわかしているときでもあり、政毅の学校では、校長室の前に「お話ポスト」が設置されました。困っていること等を書いて入れると校長先生が読んでくれて、必要な時には全校集会の時にみんなに話してくれるというのです。
 早速、政毅はどもることでからかったり笑ったりしないでほしいこと、僕は普通の人間で、ただ話す時に癖があるだけなのだということを書きました。そして、全校集会の時に校長先生に話してもらったそうです。この話は、随分後になってから、何かの拍子に聞きました。いじめられ、からかわれ、3年生のとき、『僕ががまんすればいいねんから』と言っていたころとは随分と違います。自分で、訴え、解決しようという行動。それも全校児童に、自分の吃音について公表するというのは、ちょっと信じられないことでした。

『これ、僕のくせやねん 気にせんといて』
 5年生になり、再びクラスが変わり担任の先生も変わりました。一学年が2学級なので、また1,2年生の学級の再来です。
 前にからかった子から、また吃音のことで何か言われた時は、「これは僕のくせやねん。気にせんといて」とさらりとかわしたりしていました。
 しかし、学級の雰囲気はどうしても強い者の考えに流れがちになり、時には授業も成立しない状況の中で、児童会の係として随分苦労をしておりました。
 現在、6年生になり、再び嶋田先生が担任して下さり、温かく見守っていただいております。
 先日、政毅が学校で書いた作文が私の目に止まりました。
 「やさしさをみっけよう」という題の人権作文でした。
 読み進む中で私は、政毅にしか書けない作文だと思いました。それは、政毅が今までの短い人生の中で、さまざまな不合理や矛盾を体験しながらも、そこで学んだやさしさやあたたかさがにじみ出ていたからです。

おわりに
 小学校生活もまもなく終わろうとしています。政毅が、今日まで歩んできた道程はまちがいなく険しい道程であったと思います。
 しかし、幸いなことに吃音親子サマーキャンプや大阪吃音教室をはじめ、多くの方々との出会いの中で育てていただくことができました。中学生や高校生のお兄ちゃん、そして成人の吃音の方々との付き合い。普通の小学生なら経験できなかったことでしょう。
 多くの方々からいただいた我が子への愛は、政毅の中で確かに根付き、育ち続けていることをうれしく思いながら、子育ての第一段階を終えたいと思っています。
 これからは、政毅が決断し、歩む道を静かに見守っていきたいと思います。(1997.12 了)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/05/19

吃音ファミリー 2

昨日のつづきです。どもる子どもの親が不安の中で、どう過ごしていたのか、細やかな記録が続きます。そのうちに治るから、本人に意識させないように、という指導は今もされているのでしょうか。意識させないようにと思っても、本人は意識しています。しゃべりにくさを一番感じているのは本人なのです。そんな中で始まった小学校生活は、クラスが荒れていて、大変な1、2年生だったようです。

どもり・親子の旅 2
                   松尾ひろ子(小学6年生・松尾政毅君の母)

『どもりのことをちゃんと知りたかったよ!』
 小学校は、地域の公立小学校に入学しました。各学年2クラスという小さな学校です。担任の先生は50歳代の女の先生でした。
 政毅の吃音のことをお話すると、「私の目の届く所で問題が起こりましたら対処しますが、それ以外では責任は持てません」と言われました。多分、吃音のことで起こるであろういじめやからかいのことを言われているのだろうと思いました。現実には、先生の目の届かない所でいろいろな問題が起こっているので、うまくやっていけるのか不安に思いました。しかし、私も小学校に勤めていますので、担任の先生の言われることも分かり、それ以上何も言いませんでした。
 入学した学級は、男子の人数が多く元気すぎてけんかや問題が絶えない状況でした。
 今までの幼稚園の環境とは打って変わって学校から帰ると、とても疲れており、毎日のように昼寝をしていました。体にはアトピー性皮膚炎が出始めました。また、一週間のうちの水、木曜日あたりの欠席が増えてくるようになりました。
 それに拍車をかけるように、毎日出される音読の宿題には親も子も疲れ果ててしまいました。音読も二人でなら読めますので、私と一緒に読んでも納得できず、ますますパニックになっていくのです。体をリラックスさせればよいかもしれないと思い、風呂上がりや寝る前に読んだりしました。しかし、読めることは読めても、政毅自身が納得できる音読はできませんでした。
 たまりかねて担任の先生に相談しました。担任の先生の方から「調子の悪い時はできるところまででいいよ」と言ってもらい、少し気持ちが楽になったようでした。
 その頃、級友から「おまえの話し方、おかしいなあ」と言われ、本人も自覚するのですが、でもどうすればよいのか分からず不安になっていたと思われます。今までも話すことに不自由さを感じていたのですが、級友から直接言われたことで「ぼくはみんなと違う」という思いをいっそう強くしたようでした。
 後に政毅は、みんなから言われる前に、ぼくのような話し方は、どもりとか吃音だということをきちんと教えてほしかったと言いました。

『話すのは死ぬ思いや』
 長男の吃音で障害センターの方に相談した時に、ことばの言い直しなどはさせたり、吃音について話題にすることは、本人に吃音を意識をさせることになるのでしてはいけない。吃音を決して意識させてはいけないのですと、言われたことが記憶として強くあり、家庭の中では吃音には全く触れずに過ごしてきました。「ことばがつまる」とか、「言いにくいね」というように表現をして直接的な表現は避けてきました。
 この頃はよく「話すのは死ぬ思いや!」と言いました。話そうとするとことばがつまるのです。あせって早く言おうとすると息が続かず苦しくなるのです。やっとのことで話し終えた後は「はあー」と大きな深呼吸をしておりました。
 また、どもっていても、私には子どもの話したいことが分かりますので先取りして言ってしまうと、「今、言おうと思っていたのに!」と言って怒りました。
 勉強にっいては何も言わなかったのですが、なわとびや九九などは、学級の誰よりも早くできるようになりたいと、必死に練習に励んでおりました。今から思うと、うまく話せないことの代償だったのでしょう。学級の中での自分の存在を確かめているようにも思えました。
 学級の雰囲気は2年生になっても変わらずで、むしろ男子の乱暴ぶりは、だんだんエスカレートしてきた感がありました。担任の先生も手を焼かれているようでした。
 そんな中、政毅は周りから吃音へのいじめやからかいの洗礼を受けながら2年生を終えました。
 春休みに児童相談所へ行きました。幼稚園の頃と比べて吃音の状態が進んでいるように思えたからです。
 校長先生を退職された方が、政毅と遊んで下さって「この子は、年齢の割に難しいことばをたくさん知っている」と言われました。吃音についてはあまり分からないようなので、結局、一回限りで通うことはしませんでした。遠いということと、学校を早退させて連れていくより今の状態の方がいいだろうと思ったからです。 1997.12(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/05/18

吃音ファミリー

 30年続いた、吃音親子サマーキャンプという場は、大きな家族の集まりのようです。
 吃音親子サマーキャンプの2日目の夕食は、野外のクラフト棟でカツカレーと決まっているのですが、その光景を、僕はいつも、いいなあ、大きな家族みたいだなあと幸せな気持ちで眺めています。
 「吃音ファミリー」というタイトルの巻頭言が掲載されている「スタタリング・ナウ」(NO.40 1997.12)では、松尾さんが自分の体験をまとめて下さいました。僕たちも一緒に歩んだ、「どもり・親子の旅」です。

  
どもり・親子の旅
                   松尾ひろ子(小学6年生・松尾政毅君の母)

はじめに
 「治らないということを受け入れること」
 「早い時期に、吃音を自覚させること」
 このふたつのことばが呪文のように私の頭の中を巡っていました。
 1995年6月、初めてどもる子どもの両親教室に参加した時に聞いたことばです。
 やはり治してやれないのかという絶望感と、今まで私がしてきたこと(吃音を意識させないようにしてきたこと)と全く反対の考えに大変ショックを受けました。4年生まで吃音を持ち越してきているのだから、治らないかもしれないという思いはうすうす持っていたのですが、「治らない」ということを真正面から受け入れていくには、まだまだ未熟な母親でありました。
 それから2年半、吃音親子サマーキャンプや大阪吃音教室の活動、竹内敏晴レッスンと、親子で参加させていただく中で、子どもの方は自然体で吃音を受け入れていくことができたのではないかと思います。一方、母親は、そんな子どもの姿に励まされ、そして育てられ、ようやく吃音を取り巻く現実や事実と向き合えるようになってきたのです。
 発吃から7年余り、振り返って思うことはやはり、「吃音の早期自覚と受容」は必要なことだったということです。子どもがすでに吃音について意識していたのだから、ごまかさず、小学校入学までには吃音について話し、親子で向き合っておくべきだったと思っています。
 しかし、現実にまだ「吃音を意識させない」という指導が定着しており、多くのどもる子どものお母さんたちは、私のような経過をたどっておられるのではないかと思います。
 今、ようやく長かった原因探しや治療探しの旅から解放された気がします。
 これからは子どもの生きる力を信じて、見守りながら明るくさわやかな「どもり・親子の旅」を続けていきたいものだと思っています。

『お・お・おーが言えないよ!』
 私の家族は、夫と長男(高校2年生)次男(小学校6年生)の4人家族です。近くに夫の実家があり、夫は実家で鉄工所を営んでいます。
 私は小学校の養護教諭をしているため、二人の子どもたちは昼間、夫の実家で預かってもらっていました。
 長男にも吃音があったのですが、5歳下の弟の吃音が始まった頃から目立たなくなり、今はあまり感じなくなりました。でも、現在も本人は「俺もことばがダブるよ」と言っていますので多分、吃音を持ち越しているのだろうと思います。
 次男の方が長男に比べると、吃音の程度はひどいように思え、次男に気を取られてしまい、長男の吃音がどのように目立たなくなっていったのかよく覚えていないのです。ただ、長男は次男のような過敏さはなく、何事もマイペースです。
 次男政毅(まさき)の吃音が始まったのは、4歳半、幼稚園の年中組でした。突然のはじまりで「おおが言えない」「おおおー」と連発していました。それまでは普通に話しておりましたので、とてもびっくりしました。
 最初は幼稚園に慣れないのかもしれないと思い、様子を見ていましたが、それ以後、吃音が消えるということはありませんでした。波はあるもののだんだんひどくなっていくように思えました。
 幼稚園ではどもりながらも登園を嫌がることもなく元気に過ごしていました。お友達からは、よく「マーくんはなんでこんなしゃべり方をするの?」と聞かれました。そんな時私は、「これはね、マーくんのくせみたいなの」と答えていました。
 その頃、かかりつけの小児科の先生に相談をしてみました。大きくなったら自分で工夫するから、今、あちこちの訓練所や病院へ連れ回さないで、温かく見守る方がよいと言われました。
 祖父母もそのうちに治るだろうと思っていたようでした。私や夫も、少しの不自由さはあるけれどもこのままの状態であれば、そのうちに治るかもしれないという、かすかな期待と、反面、治らないかもしれないという不安も持ちながら小学校の入学を迎えました。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/05/17
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