伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2022年02月

セルフヘルプグループ「ちいさな風の会」3

 若林さんの自己紹介の後、お話は、「ちいさな風の会」に移っていきました。きっかけは新聞記事で、ゆるやかなつながりを続けてこられました。
 「人はそれぞれに違う、その違いを認めた上で、それでもなお共通のものを求め、認め合い、分かち合うことでこの会は育まれて来たように思う」というところに、僕は惹かれます。

ちいさな風の会と私
                        若林一美
.ちいさな風の会

新聞記事がきっかけで
 1988年の1月から半年間、毎日新聞に、《様々な死の周辺》についての話を連載しました。それを読んだ読者の方から、子どもを亡くした親の会を作れないだろうかという呼びかけがきたのです。
 いろいろな闘病者の会や、子どもが難病で闘病されている親の会はあるけれども、子どもを亡くした親の会はないから、作れないだろうかということでした。
 1988年の夏に「ちいさな風の会」というグループは生まれました。
 会の文集の最初に次の文があります。

 『ちいさな風の会は、子どもを亡くした親の会です。同じ体験を経た者同士が集うことで、悲しみを見つめながらも一筋の光を見い出すことにつなげたいと願っています。一人一人の生き方を尊重し合い、宗教や政治といったものに特定されず小さな交わりの場を育んでいきたいと思います』

 文集やお便りの発行の他に集会を開いています。
 2か月に1度、東京で定期的に開く他、大阪や広島などでも開いています。
 この会は、子どもを亡くしたということだけが共通の核にして人が集まっている会で、子どもを亡くした親たちの切実な思いから生まれた自助グループです。勉強会でも知的なことを追及する研究会でもありません。お互いがあるがままに正直な自分を語る中で、改めて自らを顧み、それと同時に他者への思いやりやいたわりが生まれてきたように思います。
 8年間の歩みはゆっくりしたペースで、互いの中で体験し、実感してきました。
 百人百様の顔があるように最終的にその人が歩んで来た道程はその人のものです。そのことを認めた上でそれでもなお共通のものを求め、認め合い、分かち合うことでこの会は育まれて来たように思います。

何故私が世話人を
 私は、きっかけになった記事を書いていたということがあって、会の雑用を引き受けるような形で、この会と一緒に歩んできました。
 それぞれ痛みを抱えていらっしゃると、365日、ある意味で1日1日すべてにご自分のいろんな辛さとか、裏返せば喜びにもつながるようなものであるとしても、気持ちの揺れ動きがあります。その揺れがあっても、会は続けて行くことが大切ではないかと、経験者ではないが、その揺れのない、私がお手伝いしてきました。
 「あなたは体験者ではないが、どんな人か知っている」と、記事を読んで下さった方たちが信頼して下さいました。また、取材で出会った人からも、すごく親しみっていうか、“sympathy”って言葉でおっしゃった方もいらっしゃったのですが、そんなものを感じると言われたこともあります。不思議な出会いだと思います。
 死をテーマに、取材者としていろんな方たちにお会いし、その人にとって一番辛いことをきっかけに出会った方たちが、私にとっても大事な人たちになったのです。(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/02/27

セルフヘルプグループ「ちいさな風の会」2

 一昨日の続きです。若林さんのお話は、すうーっと僕の心に染み入ってきました。
 アルフォンス・デーケンの「死の準備教育」や、千葉敦子の『ニューヨークでがんと生きる』『よく死ぬことは、よく生きることだ』、『「死への準備」日記』などは、若林さんのお話を聞く7、8年くらい前に読みましたが、通じるものを感じていました。今をしっかり生きることは、僕の心に強く刻まれています。

ちいさな風の会と私
                        若林一美
死は今始まる時
 ホスピスや、小児病棟などで取材を始める前は、また、頭で考えていた時の死は、全部がそこで終わってしまうことでした。確かに、《終わる》こともあるけれど、死によって《始まる》こともある、という思いを、多くの出会いの中で感じ、今はより強くそんな感を抱いています。
 いつか死ぬと漠然と考えていた死が、仮定法でなくなる時、それまでのその人ではなくなります。残された家族にとっても、大事な家族に去られてしまうのですから、新しい自分の居場所、その人の存在のない自分とは何かなど考えなければなりません。死は、死にゆく人にとっても、残された人にとっても新しい時が始まる時ではないかという気がするのです。

頑張れ! に傷つく人々
 死別の悲しみ、苦しみは、有り様は変わるかもしれないが、悲しみは悲しみとしてその人の一生を終えるときまで取り除くことはできないと思います。
 ところが、今の社会では、一般社会の人間関係の中で、背負わなくてもいい痛みや悲しみが、よけいに覆いかぶさっていることがあります。世間の人たちは、悲しんでいる人、苦しんでいる人に、その人のためと思って一生懸命励まします。
 「頑張りなさい。悲しんじゃだめよ。いつまでもくよくよしていたら亡くなった人が成仏できないわよ」
 「暗い顔をしていたらあなたの健康を壊すから明るくしなさい」
 「そんなに泣いてないで、次の子が授かるんだから。明るくしないとご主人に嫌われるわよ」
 例えば、赤ちゃんを流産で亡くした若いお母さんが、その後何人かのお子さんができたとしても、その子はその子であって、亡くなった子はその子ではないのです。
 「泣いている顔なんか見たくない。だからともかく明るい顔をしてちょうだい」
 このようなこちらの気持ちを、あたかも相手に対する思いやりのように投げかけてしまっているということも往々にしてあるのではないかと思えるのです。確かにその人のことを心配してのことかもしれませんが、自分の大事な人を亡くして悲しんでいる時に、笑ったり、明るくせよとは、ずいぶん心ない言葉かけではないでしょうか。

死の教育ゼミ
 私は、アメリカのミネソタ大学の社会学部のロバート・フルトン先生のところに、1983年から2年間勉強に行きました。
 フルトン先生は、死の教育のパイオニア的存在で、1960年代初めてアメリカの大学の講座の中で死の問題を取り上げた方です。現在私が担当している大学院のゼミで、学生の中に高校時代に摂食障害だった人がいます。食べ過ぎたり食べられなかったりの繰り返しの中でとても苦しんだといいます。また、高校が受験校で、不登校になって苦しんだという人もいます。
 そういう学生たちはその時の自分をふりかえり、こう表現します。
 「生きていても、生きている実感がない」
 「私の居場所がなかった」
 「ちいさな風の会」の人たちからも、よく似たような言葉を聞くのです。
 今ゼミの中では、死という問題と同じような形で、摂食障害、不登校の問題、いじめの問題が、取り上げられています。

人の悲しみを聞くということ
 「社会の中で泣ける場がない」
 「自分らしく生きられない」
 この言葉も、様々な悲しみをもつ人たちからよく聞きました。私は、多くの人にお目にかかり、お話を聞いて記事にする仕事をしていた最初の頃、その人が一番辛くて触れてほしくないような話を他人が聞くということが一体どういうものなのか、とても疑問に思っていました。
  
 こんなことを聞いていいのか? とても苦しそうで、泣いてばかりいる姿を見ると、その人をもっと苦しめているのではないか? 聞いてほしくないようなこととか、辛い話は話さず、他人が聞かない方がいいのではないだろうか? こう感じていた時に、こんな体験をしました。

 私が人にお目にかかって、お話をうかがうのは、せいぜい1時間半か2時間です。相手の方が思い出して下さり、今のお気持ちをお話し下さいます。私は、どうしていいか分らないけれどお話を聞いて、筆記することでしかその場にいないわけです。そのようにして、お話をうかがった時に、ある方がこうおっしゃったのです。
 「今日は本当になんか良いお話を伺わせていただいて、心が軽くなりました」
 お話を伺って、と言われても、実は私はほとんど話していないのです。
 誰かに話を聞いてもらうことが、その人にとっては、救いになることもあり、その人自身が自分で自分を話すことを通し、癒されていったのでしょう。
 悲しみ、辛い思いは、なかなか他人に聞いてもらえない。また、話せないのが現状です。
 例えば、夫が亡くなったき、最初の半年から1年位は、周りの人も気の毒がって、「お気の毒ね」とか「かわいそうね」と聞いてくれます。それが5年経ち、10年経っていくうちに、話す場がなくなってくる。自分も、いつまでも暗い顔をしてると人から嫌がられるのじゃないかと思い、話せなくなってしまう。
 「自分が大好きだったその人の事を思いっきり話し、偲ぶ中で、その人が自分の心の中にいてくれることを確認できるし、その人もまた生きているのです」
 こういうことをおっしゃったのです。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/02/26

セルフヘルプグループ「ちいさな風の会」

 1995年11月19日(日)、大阪セルフヘルプ支援センター主催の第7回セルフヘルプ・グループ・セミナー〜今、再び生きる力を!〜が開かれました。その年の1月17日は、阪神淡路大震災があり、関西を中心に活動していた僕たちの仲間は、大きな被害を受けました。そのことを心に刻みながら、神戸バプテスト教会で開催しました。
 震災で子どもを亡くした男親の会ができるなど、これまでなかったセルフヘルプグループができた年でもありました。
 子どもを亡くした親の会《ちいさな風の会》の世話人・若林一美さんのお話は、同じ体験をした者同士が集うことで、悲しみを見つめながらも一筋の光を見い出すことにつなげたいとの願いがあふれたものとなりました。若林一美さん、大阪セルフヘルプ支援センターの了解を得て、日本吃音臨床研究会のニュースレター『スタタリング・ナウ』(1996年12月)に紹介した若林さんのお話を、紹介します。

ちいさな風の会と私
                        若林一美

はじめに
 「ちいさな風の会」という、子どもを亡くした親の会でいろいろお手伝いさせていただいております、若林一美です。
 私自身は体験者ではありませんし、専門家でもありません。そういう人間が何故このような会に関わっているのか? 私の自己紹介のようなものを兼ねながら、会についてのお話をさせていただきます。

1.死について考える

仕事の中で「死」と出会う
 《様々な人間がいて、いろいろな価値観や考え方がある。どうしたら人間が互いに分かり合えるのだろうか》
 私が、教育学を専攻した大学と大学院での中心課題でした。卒業後の選択として、人間と実際に触れ合う仕事がしたいと、ジャーナリズムの世界に入り、月刊雑誌の記者になりました。いろいろな生き方をしている人たちに、インタビュアーとしてお会いし、話を聞くという仕事を始めたのです。
 「人間って、病気って何だろうか。病気は、ひとりの人の体の一部分が故障することだけではなくて、その人の生き方、社会的な生活の場とか、その人と生活を共有している人たちの生き方も全部根底から覆してしまうのではないか」
 ガンの最新医療の現状を特集する医療取材班の一員となって、ガンの最新医療の現場を歩くようになり、病気のしくみ以上に、これらが重い問題として、自分の中に残ってきました。

私のホスピス体験
 ちょうどそのような時に、ホスピスが、私がいっぱい抱えている疑問点を解決する糸口になるのではないか、これまでの医療とは少し違ったものなのではないかと感じ、1970年の暮れからアメリカ、ヨーロッパのホスピスを見に出かけました。
 ニューヨークで、若い一人のガンの患者さんに出会いました。20代の男性で、リンパ系のガンでした。治療の術がなく、ホスピスチームの人たちがその人の介護にかかわっています。そのチームカンファレンスの中で、その男性の患者さんの話が出てきたのです。
 薬や放射線を使ったガンの治療で、夫がインポテンツになり、性行為がもてなくなりました。
 「治療でこの結果が起こり得るなら、なぜ事前にきちんと私たち夫婦に話してくれなかったのか、夫も苦しみ、私もとても満足できない、納得できない」
 妻が夫の担当である看護婦さんに訴え、カンファレンスに出されたのです。
 死ぬか生きるかという、命の尊さとか、どう支えるかという話が交わされる場で、突然、性行為の話が耳に入ってきました。一瞬これは聞き違えていると思いながら一生懸命神経を集中して聞いていると、やはり、その話題なのです。
 私自身は、大学院で学んだのは性心理学という分野で、大学の中ではセックスという言葉は比較的頻繁に口にし、性の問題を、変に偏見なく、語ったり考えられたりする人間だと思っていたのですが、ホスピスの取材で、突然思いもかけないところでセックスの話題がでてきたので、私は非常にとまどいを感じました。
 「少なくともその人の残された時間を長くさせるために、セックスが犠牲になっても、仕方がないのではないか。ましてその不満を本人でなく、元気な妻がどうこう言う筋合いのものではないのじゃないか」
 あまり明確ではないけれど、このようなものが違和感としてあったのでしょう。
 そのカンファレンス後、その看護婦さんに素直に自分の思いを伝えました。
 すると、私とほとんど年齢の変わらない若い看護婦さんが、この人は何を言っているのだろうといった表情で言いました。「だって、死にそうな人だってごく普通の人間ですよ」これを聞いたとき、はっとして、「あー、そうなのだ」と思い致りました。
 英語では、dying patientといってdieに、進行形のingをつけて末期患者と呼びますが、dying patientの状態になっても、私たちと同じ人間なのです。
 当たり前のことなのですけど、確かにそのとおりだと、その時初めて私は気づかされたような気がしました。
 どんなに病気が重かろうと、残された時間が短かかろうと、やっぱり生きている人間なのです。その人それぞれの好みや生き方、考え方があります。例えば性に関しても、セックスライフを取ってしまえば生きている価値がないという人もいれば、あまり関係ないという人もいるかもしれません。それはその人の感じ方や生き方のことであって、他人がそこに分け入って、そんな状況にある人が、こんなことについて話すなんておかしいということ自体、とても僭越なことなのだと思ったのです。
 医療の現場でも、クォリティ・オブ・ライフとか、人間の尊厳とか、難しい言葉が使われて、こういう言葉が使われるとなんとなく納得してしまうようなところがあります。言葉では理解しても、自分自身に置き換えたとき、抽象的な言葉になればなるほど中身が薄れていって、よく分からなくなります。こういう言葉を他人と交わしてしまうと、その人との間に溝が生じてしまういう気さえするときがあるのです。
 1970年代の半ば頃から、私は、現在の医療では治せないと言われ、死と対峙して生きている方たち、その生活を支えている人たち、大事な方を亡くされた遺族の方たちに、お会いしてお話を伺うことが仕事の中心になり始めました。この20年で、250人ほどの遺族の方たちとお会いしてきました。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/02/24

セルフヘルプグループと居場所

 社会には、さまざまなセルフヘルプグループがあります。僕が、どもる人のセルフヘルプグループ言友会を創立した1965年頃にはまだ少なかったのですが、その後、さまざまなセルフヘルプグループができ、そのセルフヘルプグループを支援するセルフヘルプ支援センターも作られました。僕は、その中のひとつ、大阪セルフヘルプ支援センターで活動していました。そこでさまざまなセルフヘルプグループと出会いました。
 今日は、そのひとつ、「ちいさな風の会」というセルフヘルプグループを紹介します。子どもを亡くした親の会です。代表の若林一美さんを講師に迎え、1995年にセルフヘルプ支援センター主催の講演会を行いました。そのお話を掲載している「スタタリング・ナウ」(1996年12月)の巻頭言からまず紹介します。

悲しみと居場所
              日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 どもりに深刻に悩んでいた時、何処にも私の居場所はなかった。学校ではいつもひとりぼっち、家族の中でも孤立していた。授業でどもってどもって読むその時も辛かったが、休憩時間や遊びの時間、運動会、遠足など皆が楽しくしている場で、自分の居場所がないのが辛かった。
 小学校2年の秋から悩み始め、学校では孤立していたが、家庭には居場所があった。しかし、中学2年生の夏、どもりを治そうと発声練習に励んでいた私に、「うるさいわね。そんなことしてもどもりは治りっこないでしょ!」と、母親からこのことばが投げかけられた瞬間から、家庭でも私の居場所はなくなった。夜の町を彷徨い、中学生から映画館に入り浸った。夜の町、映画館だけが、人の目を気にせずに、悲しい時には泣き、どもらずにすむ僕の居場所だった。
 ひとりぼっちで生きるのは寂しいし、辛い。誰かと触れ合いたい、誰かに話を聞いてもらいたい。孤独の生活の中で、常に他者を求めていた。この思いが、30年前、セルフヘルプグループを作る原動力となった。
 《ちいさな風の会》の人たちも、居場所がなかったという。誰にも悩みを話せずに、一人で閉じこもっていた頃、同じような体験をもつ人と、出会いたかったであろう。そして、実際に出会うことができ、言い知れぬ安らぎを得たことだろう。
 「悲しんでもいいんだ。泣いてもいいんだ」。
 悲しむことが、涙を流すことが、あたかも悪いことであるかのように思い込まされて、悲しみを押さえてきた人々にとって、悲しみを語り、思い切り泣けるのはなんとうれしいことか。悲しい時は悲しみ、泣きたい時は泣く。こんな当たり前のことが、できないのはどこかおかしい。
 ユーモアや笑いはとても大切なことなのに、それとは異質なものが、それらしく、大手を振って歩いている。例えば、『脳内革命』がその一例だ。明るく前向きに考えれば、脳内モルヒネが出るなどという主張のこの本が、大ベストセラーになること自体、いびつな社会といえないか。
 この本が、読まれれば読まれるほど、悲しい顔、憂鬱そうな顔をしていると、《暗い》と敬遠されることになりはしないか。お笑い系統のタレントがテレビを支配して久しい。どの番組でも、必要以上に、笑い声と笑い顔が満ちあふれている。
 暗いと言われることを恐れ、悲しみを嫌い、悲しみの涙を嫌う。この社会の風潮は、かなりの時間がたっても子どもを失くした悲しみから癒されずにいる人々にとって、なんと生き辛いことか。
 人生の生きる喜びは、楽しいことばかりを考えることではない。悲しみを悲しみとして充分に感じ、喜怒哀楽の感情を深くもってこそ、生きているという実感があり、それが喜びと結びつく。
 悲しみを、辛さを、遠慮なく、自らのことばで率直に語りたい。悲しむことを疎んじる人間に、本当の喜びが感じられるのだろうか。
 《ちいさな風の会》ができて本当によかった。
 この会の人たちだけでなく、もっともっといろんな悲しみや、悩みや、生き辛さをもった人がいることだろう。その人達がセルフヘルプグループと出会ったり、もし適切なグループがなかったら、その人自身がグループをつくる。そのお手伝いができないかと、大阪セルフヘルプ支援センターは活動を続けている。
 その支援センターが主催した昨秋のセミナーで、《ちいさな風の会》の若林一美さんが、会のこと、ご自分のことを話して下さった。悲しみについて考える機会となった。
 20年前に私が起草した『吃音者宣言』。
 その文言の中に、《明るく》《たくましく》がある。明るく、たくましいをゴールにしているかのような印象を与えてしまった。そのときからずっと気になっていたが、歴史的なものだから、変えられない。その部分が、また、気になり始めた。(1996年12月)
 
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/02/23

専門職者と当事者の関係

 僕が吃音に悩んでいた頃、吃音のことを相談できるのは、民間の吃音矯正所だけでした。今は、言語聴覚士という国家資格をもった専門職者がいます。僕は、10校ほどの言語聴覚士養成の専門学校や大学で、吃音の講義を担当してきました。僕から講義を受けた人は「治すことにこだわらない」でいてくれると思うのですが、他の講師から受ける吃音の講義は、僕とは全く別物だと、いろんなところで出会う言語聴覚士から聞きました。
 吃音は30時間の専門的な講義しかなく、基本的な知識をさらっと勉強するだけ、「吃音は治した方がいい、治してあげなくては」と善意に考える専門家が、吃音に悩む人の本当の味方になってくれるのか、不安ではあります。どもる当事者と、専門職者が、真摯に互いに耳を傾け、語り合う中で、よりよい方向がみつかるのだと思います。

 吃音親子サマーキャンプや吃音講習会などに、ことばの教室担当者や言語聴覚士の人が参加して下さるようになりました。実際に、どもる子どもやどもる人の声を聞いて下さる専門職者が増えることは、ありがたいことです。今年こそ、そんな機会を持つことができるようにと願っています。1996年11月に書いた、『スタタリング・ナウ』の巻頭言を紹介します。

専門職とセルフヘルプグループ
              日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 『吃音の会にはどもる人以外を寄せつけまいとするような雰囲気を感じさせることがしばしばあります。門戸は開いているのですが、入りづらいものを感じるのは私の思い過ごしでしょうか』
 『吃音症状を云々したからと言って、目くじらをたてないで欲しい。自己の信念や学説にとらわれずに、相手の発言に謙虚に耳を傾けながら、討論を尽くす機会をもって欲しい』

 1986年、私たちが第1回吃音問題研究国際大会を開いたときに作成した資料集に、一部の専門家から寄稿されたことばだ。私たちにとっては意外だったが、私たちに近いと思っていた専門家からこのように受け取られてしまっていたのだった。
 1989年ドイツのケルンで開かれた第2回国際大会のシンポジウムで、ドイツのグループと専門家が壇上で掴み合わんばかりに対立していた。イギリスのグループは、専門家への依存が強い現状を報告した。敵対か依存かの関係が印象的だった。
 専門職とグループとの関係は、セルフヘルプグループについて語る時、常に話題になる。
今秋開かれた、大阪セルフヘルプ支援センターの年に1度のセミナーでも、懇親会で、専門職とグループの関係が話題の中心となった。専門職への依存が話される一方で、専門職との戦いを通して、グループが真に自立していくとの発言や、グループが成長し、専門職を育てる必要があるなどの話が出された。
 日本でセルフヘルプグループがとりあげられるようになった1976年ごろ、様々なグループから専門職と対立しているかのような報告があった。しかし、その後、専門職がセルフヘルプグループの意義を認め、支持するようになり、1980年以降は、互いの役割を尊重する動きになってきており、よりよい関係への模索は続いている。
 吃音の場合はどうか。日本のグループの場合、敵対や依存ではなく、自立していると言えるのではないか。また、臨床の場面で、指導する側、指導される側の立場はあっても、吃音親子サマーキャンプや、吃音ショートコースなどで、私たちと専門家が吃音問題について話し合う場合、全く対等だと言っていい。互いが、理解すべきだとか、教えてやるではなく、対等の立場で集まるところに意義がある。
 吃音そのものについて、専門家はよく知っていても、吃音をもって人生を生きる上で、何が問題になるかは、どもる本人が知っている。
 本音と本音が遠慮なくぶつかる。はためには、時として、厳しい対立と映るかも知れないが決してそうではない。互いが互いの本音に耳を傾けることから、互いの理解が深まるのだ。
 今年の吃音親子サマーキャンプや、吃音ショートコースには、多くのことばの教室の教師が参加した。吃音の私たちと専門家のキャンプでの共同の取り組みや、吃音ショートコースなどの話し合いの中で、私たちは、ことばの教室の教師や、スピーチセラピストの真摯な、愛情ある、どもる子どもやどもる人への対処に感動し、安心して後輩の吃音の子ども託せたり、自分自身が相談に行けるとの信頼感をもった。また、ことばの教室の教師からは、これまでになく、心を揺すぶられる体験をし、どもる人たちにとって何が問題なのかを、肌を通して感じることができたとの感想が出された。
 このような信頼は、理解させよう、分かるべきだ、互いを指導しようとの意図した関係からは決して生まれない。互いが、共感したり、理解が深まるのはあくまでも結果なのだ。
 吃音親子サマーキャンプや吃音ショートコースに参加した、ことばの教室の教師や言語聴覚士などの専門家は、私たちに吃音以外の人を寄せつけまいとする雰囲気が少しでもあれば参加はしなかったであろうし、私たちが謙虚に耳を傾けなければ、決して二度と参加しようとは思わないだろう。
 参加してよかった、また、是非参加したいとの、専門家の声がとてもうれしい。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/02/20

水町俊郎・愛媛大学教授と吃音 (3)

 水町先生が大阪吃音教室でお話をして下さったのは、1996年2月9日でした。
 大阪吃音教室が始まる前の、ゆっくりとした時間の中で、いろいろと吃音について話し合いました。吃音についての価値観が共通で、『友、遠方より来たる』と楽しいひとときを過ごしたことを覚えています。僕たちの主張と共通することが多く、僕たちの主張の理論的な裏付けとして、水町先生の研究を活用させていただいています。
 今回、大阪吃音教室でお話しいただいたものを紹介することができ、よかったです。
治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方 表紙 3 水町先生とは、『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』(ナカニシヤ出版 2005年)の本を共著で出版しました。その本の完成をとても楽しみにしておられたのですが、愛媛大学の研究室で最終の打ち合わせをした後、完成を待たずに亡くなられました。今回書いておられる「死を目前にした患者」の状態で、打ち合わせのために数日退院し、打ち合わせの翌日にはまた入院し、まもなくお亡くなりになりました。愛媛大学の研究室での最後の打ち合わせは、最後の力をふりしぼってだったと思いますが、とてもお元気で、楽しそうに話しておられました。その姿は、生涯忘れることはありません。僕にとって、本当にありがたい存在でした。

吃音について思うこと
                  愛媛大学教授 水町俊郎

日本吃音臨床研究会の年報『障害と受容』を読んで
 この創刊号を読んで、気づかされたことがあります。私は大学で、この半期の間、「障害の受容」の問題をずっと講義してきました。しかし、受容のあるべき姿、つまり、表面的なことしか話ができていなかったように思います。「受容」というものを「悟り」に近いものである「あるべき受容の姿」として、学生に講義してきたんじゃないか、と反省しています。
 この本を読ませてもらって伝わってきたのは、受容というのは、悟りきったような、解脱の心境を言うのではなくて、もっと人間くさいものである、と感じさせられました。
 このことと関連して、『「死の医学」への序章』(柳田邦男著、新潮社)の中に西川医師という千葉の国立病院の先生のことが出てきます。
 死を目前にした患者が、どういう心理的なプロセスをたどって受容に至るか、ということについて、キューブラ・ロスが引用されています。ロスは、「病気の段階がどうであれ、患者は最後の瞬間までなんらかのかたちで希望を持ち続けていました。わたしたちはこれを忘れるべきではない!」と、書いています。そう簡単に悟れるもんではない、ということです。
 また、精神科の医師であるその西川医師が、短波放送でガンセンターの大森医師と対談している中で、(以下、西川医師の発言)
 「キューブラ・ロスが、死に至るまでの過程を五段階に分けて、否認、怒り、取引、抑鬱、そして最後に受容に至るといっています。。しかし、私は転移があるところまできていますが、(私の体験では)キューブラ・ロスの五段階の通りに順々に進んでいくのではないように思うのです。ちょうど海岸に打ち寄せる波が寄せては返すように、ショックがわーっと押し寄せてきたり、それが引いて、覚悟をしなければいかんと思ったり、そういうことが何回も繰り返します。何といいますか、非常に激しい苦行をしながら、自分を創り、経験し(やがて)まあ死も仕方がないということになって受容していくのではないでしょうか。私は、まだそこまで行きませんけれど」
 西川さんは、ガンが次々に転移して、50才くらいで亡くなった方です。「受容」と、口で言うのは易しいけど、我々はそれぞれ生身の人間ですから、死んでもしょうがないや、とはなかなか思えません。
 あるいは、どもりがあるけどしょうがない、と、悩みが何もなくなるかと言うと決してそうではない。最後まで、できればそうじゃないようになりたいという気持ちは、ぬぐい去れないんだ、と。これが、受容というものの実態だということを、ここに言おうとしているわけですね。
 『スタタリング・ナウ』で、東京のSTの安藤百枝さんも同じようなことを発言されています。「治したいという、元通りにしたいという欲求は、その人が死ぬまで持っていらっしゃると思います。私はそれでいいと思うんです。それを思わなくなることが受容というふうに、スタッフが思いちがいをしています。そういうことはあり得ないと思います」とあります。
 岡山県倉敷市で「生きがい療法」をしている病院があります。そこも、今言ったような受容のとらえ方をしています。死がこわい、というのは人間の本能ですから、それを忘れることはできません。受容しきれません。これが当たり前です。だから、忘れようというんじゃなくて、あるがままで、残された人生、やらなきゃいけないことをやっていこうじゃないか、といいます。これが、生きがい療法の基本的な考え方ですね。
 受容というものはこうあるべきだ、というものではなく、また、悟り切った解脱の境地を言うんじゃなくて、悶々とするのが当たり前であり、そうでありながらだめになってしまうんじゃなくて、それでもなお、各々の役割を果たしていくことが、できるかどうかの問題です。(了)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/02/19

水町俊郎・愛媛大学教授と吃音 (2)

 昨日の続きです。読めば読むほど、水町先生と僕たちの、吃音に対する考え方がよく似ていることに驚きます。
 昨日、紹介した文章の最後に、水町先生は、最初勉強を始めた頃は、症状をどうやって取るかの勉強を一生懸命していたが、今は、完全にstutter more fluently approachの立場に立っているとおっしゃっています。症状だけやっていても、どうにもならないということが、私なりにわかったから、考え方を変えたのだということです。吃音研究者や臨床家で、これまでの方針を変える人はほとんどいません。吃音について真剣に向き合えば向き合うほど、吃音の当事者の考え方を聞こうとするものですが、内須川先生と水町先生は、それがとても顕著でした。水町先生の誠実さが見えます。吃音の背景にある心理に重点を置くという考え方をしていただいていること、ありがたいと思いました。

吃音について思うこと
                  愛媛大学教授 水町俊郎

どもる人の誤った観念
どもる人の誤った観念の代表的なものが、「デモステネス・コンプレックス」です。「どもりさえなければ人に負けない」「どもりさえなければ幸せになれる」逆に言いますと、どもりがあるから人に負けてばかりいますし、どもりのせいで幸せになれません。どもりのために恋人ができない、どもりのためにいい就職口がない、など、うまくいかなかったことを、何でもどもりのせいにします。そういう考え方が根底にある、「どもりさえなければ」という考え方がデモステネス・コンプレックスです。
このデモステネス・コンプレックスのことを、非常にわかりやすく、もっとひろげて言った人がジョゼフ・G・シーハンです。
彼は、「鎖につながれた巨人のコンプレックス」("Giant in chain”Complex)と表現しました。小人の国のガリバーと同じです。鎖につながれていますから、どうにもできません。しかし、鎖さえはずれたら、自分は何でもできます。
 ところが、これはおかしいのです。私はどもりではない。どもりではないから何でもできているかと言いますと、ほとんどできていません。どもりでなかったら何でもできる、ということは絶対にありません。
 こういうふうに、どもる人ができないことをどもりのせいにする、という考え方に代表されるような歪んだとらえ方を正していく、もっと前向きにしていく、というのがstutter more fluently approachの基本的な考え方であると思います。

アサーション(自己主張)の研究
アサーションについての私の研究の一つを紹介します。これはあくまでも仮説ですが、どもる人は吃音であるがゆえに、言うべきことを言わない、やるべきことをやらないで、引っ込んでいるのではないか、ということを私なりに考えました。そのことを、データーの上でどうなっているか、検証しようと思ったわけです。
10年前のその当時、アメリカにおいて、アサーション・トレーニングで吃音の指導をしたという論文に、三つあいました。ところが、一体どもる人は、吃音でない人に比べて、どの程度自己主張できているのか、ということを調べた研究は一つもありませんでした。
 そこで私は、皆さんにお願いして調査をしました。どもらない人とどもる人との間には、違いがあるかどうか調べたわけです。私の予想では、どもる人の方が自己主張ができてなくて、どもらない人の方が自己主張できてるとばかり思っていました。ところが、調べてみると必ずしもそうではない。
 ある面では確かに、どもる人よりもどもらない人の方が主張的でした。ところが別の側面では、逆にどもる人の方が自己主張をちゃんとしていて、どもらない人の方が自己主張をしていません。もう一つ分かったのは、どもる人の中を分けて比較してみますと、自己主張できている人と、できていない人がはっきりと分かれます。
 この二つのグループについて、彼らが自分の吃音をどの程度と考えているか、とか、吃音にどの程度悩んでいるかとか調べますと、これが、主張しているか(高主張群)、していないか(低主張群〉、とものすごく関係します。
 たとえば、「自分の吃音は重い」と考えている人の割合は、低主張群の方が多いのです。高主張群は、重いと考えている人は少ないのです。逆に、自分の吃音を軽いと考えている人は、低主張群では少なくて、高主張群がずっと多いのです。つまり、自分を主張できていない人は、自分の吃音を重いと思っているわけです。
 どの程度悩んでいるかについても、高主張群と低主張群とでは有意差があります。たとえば、非常に悩んでいる人が低主張群にぐっと多いのです。それに対して、高主張群は、非常に悩んでいる人が少ないのです。逆に、ほとんど悩んでいないという人は低主張群には少ないのに対して、高主張群になるとぐっと増えます。
 だから、自己主張できているかいないかということと、自分のどもりにとらわれているかいないか、ということは、非常に関係があるわけです。
 自己主張できていない人は、自己主張できていないだけでなく、自分の吃音にとらわれて、自分の吃音がひどいと自己評価し、思い悩んでいる、ということです。

吃音受容
 今までの話から、吃音の人の問題のポイントは、間違ったとらえ方を正して、自分なりに主張すべきところは主張するということになってくるわけですが、そのためには、自分の吃音を受容する、ということが前提になります。根底にそういうことができませんと、間違ったとらえ方から逃れる、ということができにくくなります。
 受容の問題は、大阪吃音教室ではよく言われていますので、どもる人の専売特許かと思われるかも知れませんが、決してそうではありません。
 受容の問題は、末期ガンを宣告されて死を受容しなければならない人の問題でもありますし、年をとってきて、自分の老いを自覚しなければならないのも、一つの受容です。人間すべてに関係する問題です。
 我々もそうです。理想と程遠い自分を認めないと、どうにもなりません。欠点の多い自分というものを受容していきます。自己受容はすべての人の共通の問題であるわけです。
 私も二十歳の頃がありました。その頃私は自分がイヤでした。男前じゃないし、頭は悪いし、性格は暗い。自己否定的な思いをした時期があります。その頃読んだ本の一つが、高神覚昇という人の「般若心経講義」という本です。その中に「塵(ちり)の効用」という項がありました。
 朝焼け、夕焼けは美しいが、それは、ちりに太陽光線が反射してできるんだ。「ちり、あくた」と役に立たない物として毛嫌いするけれども、そういう一見役に立たないと思われる物があるからこそ、人に感動を与える朝焼け、夕焼けが見れるんです。世の中に役に立たないものはない。
 これを読んだ時、私もまだ生きていく意味があると思いました。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/02/18

水町俊郎・愛媛大学教授と吃音

 吃音の研究者で、僕たちの考え方を全面的に支持し、応援して下さったのが、筑波大学の内須川洸教授と愛媛大学の水町俊郎教授のふたりでした。その中のひとり、水町俊郎先生が、大阪吃音教室で話して下さった「吃音について思うこと」を紹介します。
 まじめで、誠実で、謙虚で、僕たちの話に耳を傾けて下さいました。たくさんの研究論文を残して下さっています。それらを紹介していかなければらならないと思いながら、まだできていません。そのひとつのきっかけになればと思い、今回、「スタタリング・ナウ」NO.25に掲載されていたものを紹介します。

  
吃音について思うこと
                  愛媛大学教授 水町俊郎

二つのアプローチ
 まず、私の吃音についての考え方を知っていただくために、吃音に対しての二つのアプローチを紹介しましょう。いろいろある考え方の極端と極端を抜き出すとこうなります。

・speak more fluently approach
・stutter more fluently approach

 前者は「より流暢に話す」アプローチということで、限りなくどもらない人と同じような話し方を身につけさせようとする考え方です。どもる話し方はいけない話し方なので、なるべくどもらない、普通の人と同じような話し方に近づけようとする立場の考え方。
 後者は「より流暢にどもる」アプローチということで、吃音の問題は、表面的に流暢な話し方をするかしないかが基本的な問題ではない。自分のスピーチの問題にとらわれて、やるべきことをやらないとか、逃げの人生を生きていくとかいうことに、問題のポイントがあるという考え方です。
 この立場の人達は、ことばの問題は、「流暢にしゃべらなくてよいのです。以前より少しでも楽などもり方や、コミュニケーションが楽にできる」とか、「少しでも人に伝わりやすくしゃべれればそれでいい」。むしろ、そういうことにひけめを感じたりすることの方に問題があると主張します。
 ことばの問題の背景にある心理的なものにターゲットを置くべきであって、ことばそのものに関しては、今までよりも多少でも、つながりがつくような話し方ができれば、それはそれでいいんだというとらえ方です。
 要するに、吃音の症状そのものをどの程度治そうとするかの違いであるといえます。

どこまでを治療の目標とするか

・治療対象としてのspeech behaviorの分類

ー然な流暢性(spontaneous fluency)
▲灰鵐肇蹇璽襪気譴仁暢性(controlled fluency)
受け入れることができる吃音(acceptable stuttering)

 要するにどもるんですから、それをどの程度改善しようとねらうか、の問題です。一番ゆるい目標が、の《受け入れることができる吃音》です。これは、吃音は基本的には治っていない、症状は取れていない、しかし、従来より少し楽などもり方ができている、こういうところをねらいます。
 以前はものすごくどもっていたが、最近は以前よりもリラックスしたどもり方ができている。それはそれでいいんだ、というターゲットの置き方です。
 これに対してもう一つレベル・アップされた段階が、△痢團灰鵐肇蹇璽襪気譴仁暢性》です。
 例えば、「えーと」とか特別なものを入れるとスムースに出てくるとか、意図的にゆっくりしゃべるようにすると出てくるとか、あるいは、メトロノームの音に合わせてしゃべるとスムースに出てくるといった、何かの助けをかりると流暢に出るようになる、そういうレベルをねらうのが△任后
 ,痢埃然な流暢性》、これは要するに、どもらない人と同じで何の工夫もせずにスラスラことばがしゃべれること。吃音の悩みを一つも持たない話し方です。
 はじめにあげた二つのアプローチの考え方が、どこまでをねらっているか、ということですが、,里匹發蕕覆た祐屬汎韻犬茲Δ望しもどもらない話し方を目指すのが"speak more fluently approachです。まとめますと、こうなります。
『"speak more fluently approach"の立場の者は、究極的な目標を,砲きます。もしこれが達成不能であれば△鯡槁犬砲靴泙垢、これが達成されないからといって、に目標を下げることはありません。なぜなら、彼らの目標は、あくまで"fluency"(流暢性)の達成にあるのだから』
 それに対して、"stutter more fluently approach"の立場の者も、できるならば,鮹成したいのです。,砲覆襪砲海靴燭海箸呂覆ぁ△塙佑┐泙垢、ねばならない、とは考えません。そして、それが容易ではないと考えていますし、現に症状がそう簡単に取れるものではない、ということも大体わかってきています。,量槁犬砲△泙蠅砲海世錣蠅垢ると、かえってどもる人にスピーチに対する意識を強める結果になる、との考え方から、を目標にすることが多いのです。
吃音を持ちながら、一回きりの人生をどう生きていくかをもっと考えた方が得策だと、考えます。
 吃音症状面をどうしようとしているか、という点で、この二つは基本的に違います。
 また、どういう人にどちらのapproachが有効か、という研究があります。
 簡単に言いますと、吃音から逃げよう、避けようという気持ちが非常に強い人には、後者のstutter more fluently approachが良いだろう、そして、内面的にそれほど大きな問題はない、しかし、何とかしたいという場合には、speak more fluently approachの方が良いだろうと言われています。
私自身はどういう立場かといいますと、最初勉強を始めた頃はspeak more fluently approachの勉強、つまり症状をどうやって取るか、の勉強を一生懸命していました。ところが今は、完全にstutter more fluently approachの立場に立っています。症状だけやっていても、どうにもならないということが、私なりにわかった上で移ったわけです。吃音の背景にある心理に重点を置く、という考え方です。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/02/17

みんなちがって、みんないい

 やさしいことばで、語りかけるように歌う金子みすゞの童謡を知ったのは、30年くらい前でしょうか。国語の教科書にも載っている有名な「みんなちがって、みんないい」は、特に僕の心に響きました。人はひとりひとりみんな違う、その違いを互いに認め合うことができれば、やさしい世の中になるのになあと、そのとき思いました。不寛容な現代社会において、今、求められている大切なことでしょう。
 「スタタリング・ナウ」1996年9月 NO.25 の巻頭言を紹介します。

みんなちがって、みんないい
            日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

  わたしと小鳥とすずと
わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやく走れない

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように、
たくさんなうたは知らないよ

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。
      (金子みすゞ全集 JULA出版局)

 金子みすゞの童謡は、今年は国語の教科書でもとりあげられるようになったが、それ以前からも小学生にこの童謡は人気があった。
 違っていいということが、みすゞの童謡のように優しく語りかけ、子どもの心に染み込んでいけば、素晴らしいことだ。
 僕はどもるけれど、こんなことができるよ。君はどもらないけれど、こんな辛いこと経験しているじゃないか。互いが互いの違いを本当に認めることができれば、今問題となっているいじめや不登校の問題も、あまり起こらないに違いない。
 この時代に、金子みすゞの童謡に光が当てられるのも、偶然のことではないだろう。
 吃音に悩み、辛い思いをしているどもる子どもやどもる人が、吃音を治したいと願うのは自然なことだ。しかし、本人が、そう思っているからと言って、治せないもの、確実な治療法がないものに、『そのうちに治るから、頑張って治そうね』と励ますことは、現実に、今、どもっているその子どもにどう響くだろうか。
 私たちは好きでどもるようになったわけではない。
 どもり続けるのも自分の責任ではない。自分の責任でないものに、自分のからだの一部になっているものに、『治そうね』と言われるのは、よく考えれば辛いことなのだ。
 同級生との話し方の違いに劣等感をもち、悩み始めた私の小学生時代。吃音が治りにくいものであるならば、「そのうち治るよ」と気休めを言ってくれる人よりも、「努力すれば治るから、頑張ろうね」と励ましてくれる人よりも、「どもってもいいやん、人はみんな違うんだよ」、こう言ってくれる、金子みすゞさんのような人に出会いたかった。人はそれぞれに違うということを、子どもの頃から実感できれば、その後の人生が違ったものになったであろうと思うからだ。
 自分を大事にできなかったら、他人を大事にできないし、違いを受け入れなかったら、自分と違う人を認めることができないだろう。
 誰かからの借り物ではなく、自分の吃音を通して、金子みすゞさんのように、みんな違っていいといえるようになれば素晴らしい。
 この夏も、吃音親子サマーキャンプで多くの子どもたちと出会った。一音一音絞り出すように話す子。ちょっと離れた人にはほとんど聞こえないような声しか出してこなかった子。その子どもたちが、一人も脱落することなく練習に集中し、大勢の前で、どもりながら、『セロ弾きのゴーシュ』を演じた。そして、「楽しかった。来年も来るよ」と言ってくれた。
 来年はもう少し大きな声が出るようになろうねとは言っても、「少しでも治そうね」なんてとても言えない。どもっているそのままでいい、どもってもいいんだよと言い続けたい。
 それが、どもりを嘆き、否定し、自分らしく生きられなかった、どもる先輩としてできる唯一のことだと思うから。
 みんなちがって、みんないい。(1996年9月)

 
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/02/16

三遊亭円歌師匠と吃音

 どもる人で、俳優、アナウンサー、落語家など話すことを仕事とする人がいます。アドラー心理学でいう劣等性、劣等感の直接補償ですが、たくさんいます。
 そんなひとり、三遊亭円歌さんの記事が出てきました。
 懐かしい「山のアナアナアナ、アナタ…」を思い出しました。
 三遊亭歌奴さんの落語がテレビで流れる度に、嫌な思いをしたという吃音の人は少なくありませんでした。ご自身の吃音体験から出てきた落語の新ネタだけに迫力がありました。だからよけいに、吃音に悩んで、吃音を否定的に考えている人にとっては嫌だったのでしょう。そこで、『サンデー毎日』編集部の仲介で、僕たちと話し合ったこともありました。 その当時嫌な思いをした人も、歌奴さんとの対話の後は、笑えるようになったと言っていました。今も、あの落語を思い出すことができます。円歌さん自身のことばと、演歌さんの寄席に参加した、古い仲間の宮島さんが、その感想を寄せてくれました。
 
三遊亭円歌新聞記事 
新聞記事 ビデオテープ 三遊亭円歌(落語家)
 (僕は)吃音(きつおん)者ですからね。つまり駅員をやってても「新大久保」というのがいえなかったり、お客に道を聞かれてもなかなかすぐ答えられなかったり。……そういうことで自分にすごくプレッシャーかかってましたから。もしも何かでこういうことが治ることがねえかなあと。
 終戦の前に上野の鈴本ヘフラッと入ったんですね。空襲が来たり警戒警報が出てる最中に、みんな防空ずきんかぶって、客席で笑ってるやつがいるんですよね。……その時にほんのちょぴっと明かりが見えたわけだよ、人の笑い声聞いてね。それで……オレの職業、これしかねえなあと思った。
 師匠(先代・円歌も吃音者だった)が後年、私にゆってくれましたですけどねえ「お前の気持ち一番わかったのはオレじゃねえかなあ」と。
(新・テレビ私の履歴書 下町のイキな笑いが僕の人生=東京、16日=から)


  
三遊亭円歌師匠の落語に学ぶ 
                    宮島哲夫(新潟県長岡市)
 三遊亭円歌師匠の寄席が長岡で行われました。今回はチャリティのこともあって、車椅子の障害者の方も大勢で、それらの方々への思いやりのこともあったのか、自らの吃音体験を交えた落語を語り、時間延長も構わない熱演ぶりでした。
 私も以前から、師匠は吃音を治したい一念で落語界に入ったことなど、新聞記事で読んでいましたので、是非聞いてみたいと思っていました。
 吃音談義は、さすがに落語協会会長の貫録十分、爆笑の連続、私にとっては笑うどころか、身を乗り出して聞いていました。私のようにいつまでも吃音にこだわり続けている者にとっては、説教のように身に染みる思いでした。
 国鉄の駅員時代、「新大久保」というのが言えなかったり、小学校時代から、軍隊生活での吃音が原因で殴られたこと、どもりで苦労したことをうまく話のタネにできるのは、天性の落語が身についているからでしょうか。
 終戦の前に、上野の鈴本に入り、人の笑い声を聞いて、オレの職業、これしかないと思ったこと、先代円歌師匠も吃音者だったことで、後年に、先代が「お前の気持ちを一番分かるのは、オレじゃねえかな」と語ったそうです。
 私の隣には重度らしい視覚障害の若い女性が、さもおかしそうな様子で声を出して笑っていましたが、私は終わりまで心から笑うことができませんでした。吃音者である私は、話が身につまされたということだけでなく、寝たきりの妻の看護に明け暮れ、笑う余裕がなくなっていることに気づかされました。生活の中の笑いの大切さを改めて思いました。
 帰りには、車椅子の友人に会って、師匠の人となりを語り、送迎車まで送りました。
1996年8月15日 『スタタリング・ナウ』NO.24


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/02/14
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