伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2022年01月

「晴眼」に違和感 1月3日 東京新聞の社説

 1月3日の東京新聞の社説のタイトルは、「差別の正体と向き合う」でした。
 「2年前、本紙1面で始まった連載「祝祭の風景 ブラインドサッカー編」で、全盲のアスリートが直面する社会の壁と、障害者スポーツを通じてつかもうとする夢を描いた。そして、その主人公が結婚したとの連絡を受けた」
 と、社説は始まりました。その続きのことばに、僕は違和感を持ちました。
 「結婚相手は、「競技を通じて出会った晴眼(視覚障害のない)の女性」と続きます。
 僕は、この「晴眼」ということばに違和感を持ったのです。その後に(視覚障害のない)とあるのですから、結婚相手は、「競技を通じて出会った視覚障害のない女性」と書いていいのではないかと思うのです。
 晴眼、晴眼者は、もちろん差別用語でも、使ってはいけないことばでもありません。専門用語として使うらしいのですが、社説で、わざわざそれを使う意味があるとは思えませんでした。「差別の正体と向き合う」というタイトルの社説なので、余計にそう感じました。
 僕が今回「晴眼」にこだわったのには理由があります。
 今は全く使われていませんが、僕が1965年に、吃音を治したいと、民間吃音矯正所・東京正生学院に行っていた頃、頻繁に聞いたのが「正音者」でした。吃音を治して「正音者」になろうというのです。「吃音者」の言い方は当時は全く気になりませんでしたが、「正音者」の方にとても違和感をもち、嫌いでした。
 
 今回、社説にあった「晴眼」ということばから、僕は、吃音者と正音者を連想しました。「吃音者」ということばも昔は使っていましたが、僕は今は使いません。「正音者」は昔から使っていませんし、誰も使う人はいないでしょう。そう考えると「晴眼」とは何なんだろうと思うのです。

 ひとつ付け加えますと、「どもり」を僕は差別用語だとは思いませんし、現在も使っています。しかし、一般的には「どもり」は差別用語だから使わないようにしようというメディアや教育関係者、吃音の専門家はいます。「吃音」は今は少し認知度があがり、一般にも知られるようになりましたが、以前は「吃音って何?」と聞かれることが少なくありませんでした。「どもりのことだよ」と言って分かることが多かったのです。
 でも、最近は「どもり」がだんだんと使われなくなって、「吃音」の方が知っている人が増えているかもしれません。「どもり」も「やもり」「いもり」も、「どもり」を連想することばはすべて嫌だった時代を経て、僕は今、どもりと上手につき合えるようになると、「どもり」ということばが差別用語として消えてしまうのは、残念になってきました。
 というわけで、今回の「晴眼」もひとりひとりの受け止め方は違うので、なんとも言えないのですが、僕が違和感をもったということは書いておきたくて書きました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/01/03

障害受容について考えた吃音ショートコース

 新しい年を迎えたご挨拶のようなブログで、今年がスタートしました。
 今日から、通常に戻ります。様々な立場の人が一堂に集い、吃音について語り合う吃音ショートコースの第一回のゲスト、東京正生学院の理事長だった梅田英彦さんの話を紹介したところでした。そのときの吃音ショートコースに参加した人の感想を紹介します。安藤百枝さんは、息子がどもることがきっかけで言語障害教育とつながりができた人です。大阪教育大学の言語障害児特別専攻科で学び、僕たちと親しくなり、内須川洸先生とのプライベートな旅行ではいつも一緒でしたし、横浜での吃音相談会の企画者のひとりでしたし、「どもりの相談」の編集・出版にも関わって下さった大切な人でした。
 仲間の中では一番お元気だったのに、病気のため、お亡くなりになりました。今回、安藤さんの感想を読み直し、安藤さんの温かくて優しくて、そして厳しい視点をもったことばの数々を思い出しました。

《吃音ショートコース・感想より》

 吃音ショートコースでたくさんの心のおみやげを持って帰った次の日、重度の自閉症のター君のお母さんからこんな報告を受けました。

 先日、ター君の姉(小5)の日曜参観と懇談会がありました。これまでずっと平日参観の時は父親に会社を休んでもらってター君をみてもらって参観に行くことができていました。ところが今回は父親の都合が悪くなり、ター君をひとりにできないので、参観に行けないと姉に言ったところ、
 姉 「ター君も連れてくればいいじゃないの」
 私 「ター君、変な声出したり動き回ったりするかもしれないよ。それでもいいの?」
 姉 「だって、それがター君なんだもの」
 私はクラスのお母さんたちの前にター君を連れて行くのは恥ずかしく、さんざん迷ったけれど思い切って連れて行きました。すると、友達も「ター君」「ター君」と声をかけてくれ、お母さんたちの態度もいつもと変わりありませんでした。これで何かがふっ切れた感じで、これからはどこへでもター君を連れて行けるような気がします。

 普段なら、お母さんたちの深刻な悩みの相談もかなり冷静に聞ける私なのに、この時は不覚にも熱いものがこみあげてしまい、「よかったね」と言うのがやっとでした。前日までの吃音ショートコースでの《受容》の余韻が残っていたのでしょう。
 「お姉ちゃんもえらいけど、お姉ちゃんをそういう気持ちにさせたのはお母さんの育て方が良かったからよ…」
 やや冷静になって、こうほめたのですが、私の感動している気持ちが伝わったのか、その日は心を開いた深い話し合いをすることができました。

 本当に人それぞれに、いろいろな時期に様々な方法で、ひとつずつ乗り越えながら自分の問題、子どもの問題を受け入れていくのだなあ、それでいいんだなあ、と改めて痛感しました。ター君のお母さんとは長い付き合いなのに、いつもター君が引き起こすトラブルの相談が中心で、こんなに心が通い合ったのは初めてでした。きっと、吃音ショートコースのお陰で、私の心が開いていたからでしょう。
 それにしてもお姉ちゃんのセリフ、すごい!!

 今回の吃音ショートコース、とても充実した集いでした。人数もちょうど良かったのか、参加者ひとりひとりの気持ちがとても大切にされていて、企画の面でも運営の面でも、スタッフの皆様の力量に感服致しました。
 『早期自覚教育とことばの直接指導』のグループワークの中で、
 「子どもは、どもりながらもきちんと伝えられたという体験を積み重ねて、自分の中で有能感を育てていく。それを支援することがことばの教室の先生の役割で、そのために相手に届く声を出す指導も必要なのだ」
という伊藤伸二さんのお話がありましたが、本当にその通りで、その積み重ねが受容につながるのだと思いました。そして、これはそのまま失語症の方にも、障害のある子どもをもったお母さんたちにもあてはまることです。
 豊かな体験ができる楽しい環境作りを、と思うと社会的環境、物理的環境、心の環境、人的環境・・・やることいっぱいあるぞ!!と、今燃えています。私の人生時間が足りない…。ただし、心配なことがひとつあります。今回私たちは、伊藤さんの熱のこもった生の声に接したので、その真意が理解できましたが、「相手に届く声の指導」の文字面だけで判断したり、誤って解釈したり、人から人へと伝わっていった場合、誤解される恐れを感じます。
 《吃音を治す努力の否定》が誤解されたように…。
 対象が幼児であった場合、間違った解釈のまま下手に使われると、とんでもないことになるのでは、と危惧しています。メディアを使ったり、学会や研究会で発表したり等、いろいろな方法で、真意と具体的方法を広めてほしいと思います。誤解が広がらないうちに、是非お願い致します。(了)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/01/02

今年もよろしくお願いします

 新しい年を、新しい気持ちでお迎えのことと思います。
 僕は、吃音に深く悩んでいた学童期・思春期、新しい年を迎えて「新年、おめでとうございます」の心境にはとてもなれませんでした。だから、子どもの頃から、「明けまして、おめでとうございます」とは、ほとんど言ってこなかったように思います。
 小学2年生の秋から、学校に全く居場所がなくなりました。そして、中学2年生の夏休み、『どもりは20日間で必ず治る』という本で大声を出して練習をしていたとき、「うるさい、そんなことをしても、どもり、治りっこないでしょう」の母親の声に怒って、家出をしてから、家庭にも僕の居場所はなくなりました。
 このことは何度書いているので、詳しく書きませんが、その年の年末、そして翌年の正月、僕は「こんなに冷たい家にいるより、暖かい映画館で正月を迎える」と言って、僕の住む田舎の映画館で特別な日限定で始まったオールナイト上映で正月を迎えました。
 母親への思いを取り戻すことができた22歳の正月まで、僕にとっては「お正月」は苦手で、嫌なものであり続けました。そのときの習慣からか「明けましておめでとうございます」とは、今でも言いません。
 吃音の悩みとは関係なく、昨今の日本の政治状況、昨年の年の瀬に食料配布の列に並んだ大勢の人たちのこと、「アベノマスク」に多額の保管料がかかっているあまりにもばかばかしい日本の政治の現実、それらを考えると、吃音に悩んでいたころに「明けましておめでとうございます」と言えなかった以上に、とても、「明けましておめでとうございます」とは言えないのです。
 年が改まったからといって、めでたいという思いはまったくありませんが、年を重ねてきたという感慨と、今年も自分らしく、正直に生きたいという思いを新たにする意味で、1月1日は、やはり特別の意味はもっています。僕は、みんながするから、これまで続けてきたからという慣習やしきたりというものとはほど遠いところにいますが、年賀状だけは書いています。近況報告の意味で出すのですが、今年は、こんな年賀状にしました。
 ブログも、Twitterも、Facebookも、これまでと同じように続けていきます。
 今年1年、どうぞ、よろしくお願いします。

     
  初春
          2022年1月1日

 昨年も、吃音親子サマーキャンプ、吃音講習会など多くの行事が中止になりました。スケジュールが空いた分、「ステイホーム」の自粛生活への同調圧力に屈せず、四国や山陰、大好きになった信州の白馬村などへ、数日や10日ほどの「旅」に車でよく出かけていました。「ワーケーション」の流れに乗って、仕事もよくし、最初無理だと思っていたZoomで、旅先から講演をするなどの新しい経験もできました。
 吃音に深く悩んでいた学童期・思春期、私は勉強もせず、夜の町をさまよい、一人自転車で遠くに出かけ、孤独を癒やしていました。大学4年生の時、無銭旅行に近い3か月の日本一周の「一人旅」では、多くの人にお世話になり、人の温かさに触れました。大阪教育大学の教員時代、35都道府県への全国巡回吃音相談会の「旅」では、多くの人に感謝されました。
 私の人生にとって、「旅」は「不要不急」ではないのです。
 新型コロナウイルスが収まることを願いながら、今年は、1月8日から、「吃音の対話的アプローチ」のための合宿と、東京ワークショップで「直」の出会いがスタートします。
 今年もよろしくお願いします。
                              伊藤 伸二
日本吃音臨床研究会 www.kituonkenkyu.org/
伊藤伸二のブログ www.kituon.livedoor.blog/


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/01/01
Archives
livedoor プロフィール

kituon

QRコード(携帯電話用)
QRコード