伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2021年05月

3分半で読める『両親への手紙』を、12分かかり最後まで読み切る

 昨日と同じ人の体験です。5年間つき合って、結婚することになり、顔合わせをする日のことを昨日紹介しました。いよいよ、今日は、結婚式です。「誓いのことば」と「両親への手紙」、彼女はどもりながら言い切りました。大阪吃音教室と出会い、仲間と共に成長していく姿が、ほほえましいです。結婚式を控えている女性へのエールです。

どもることを怖れずに
              沢田由希子 パート29歳

 人生の通過点に結婚がある。女の人はその日は主役になれる。そして私にも主役になれる日がきた。
 主役になれる日が決まってから、頭の隅に挙式の時の『誓いの言葉』と披露宴の時の『両親への手紙』のことがあった。結婚式では『誓いの言葉』を言い、披露宴では『両親への手紙』を読まなければならないと思い、そして結婚式という場でどもるなんて恥だと思っていた。『誓いの言葉』と『両親への手紙』のことを考えるとせっかく主役になれる日なのに憂鬱になった。でも大阪吃音教室に通い始め、いろいろな方と接しているうちに少しずつその気持ちが楽になった。
 大阪吃音教室に通い始めた年に吃音親子サマーキャンプに参加させてもらった。サマーキャンプの劇の練習の時に、なかなか声が出なかった。でも渡辺さんの指導もあって声がずいぶん出やすくなった。サマーキャンプが終わった頃にはもしかすると結婚式のときに流暢に『誓いの言葉』『両親への手紙』が言えるかもしれないと考えた時もあった。
 そして同じ年に、成人のどもる人のための、吃音ショートコースにも参加した。吃音ショートコースの夜のコミュニティアワーの時、大阪吃音教室の仲間が、私のところに来て、「結婚式のときに手紙読むの?」と聞いてきた。そして彼と話していたら、どうやら彼は結婚式の時に『誓いの言葉』を言わなかったことを知った。私は今まで必ず『誓いの言葉』は言わなければならないと思っていたけれど、言わなくても良いのだと気づかされた。結婚式までまだ時間があるから『誓いの言葉』『両親への手紙』をどうするか考えてみようと思った。
 結婚式の準備をしながらせっかく主役になれる日だから楽しみたい! でもどもると楽しめないのではないか、結婚式の素敵な場なのにどもっていたら主役になれないのではないか、といろいろ不安事があった。そんな中、毎週、大阪吃音教室に通い、吃音について学んだ。そのなかで、今の私は予期不安でいっぱいだと気づいた。私はなるべく直前まで『誓いの言葉』『両親への手紙』のことを考えないようにしようと思った。
 そして結婚式の3ヶ月ぐらい前になりいろいろ考え、やっぱり1度のことだから『誓いの言葉』は自分で言い、普段両親へ感謝の気持ちを伝えていないから主役になれる場面で『手紙』を読もうと心に決めた。でも決めたものの、いろいろ不安はあった。
 私の吃音は人前での挨拶や発表の時や緊張すると現れる。そして今まで私はそういう場を避け、自分の吃音を他人に隠してきた。親や友達の前ではあまりどもらないので周りの人は私の吃音に気づいていない人も多いだろう。だから自分の親の前でもどもる姿を見せたことがなかった。私が大阪吃音教室に通い始めた時も、親はあんまり大したことないと言っていたが、私の吃音はひどいときは、何十秒も声が出ない。そんなことは親は知らない。
 結婚式が近くなったある日、司会者の方との打ち合わせがあった。その時に司会者の方に「私はどもるので、たぶん手紙読むのにすごく時間がかかります」と伝えた。司会者の方は「ゆっくりでいいですよ」と言ってくれた。一人でも私の吃音を知ってもらっていた方が自分自身安心するだけのことだった。でも私にとってはとても重要なことだった。
 そして結婚式1週間前になって手紙を書き始めた。そして夫にも手紙を読む練習を何回も聞いてもらった。何回も練習しながら夫に「今はすらすら読めてるけど、本番は絶対どもる」と言っていた。いつも返ってくる言葉は「どもりながらなら読めるやろ」だった。私は気づかないうちに流暢に手紙を読んでいるイメージを何回もしていた。そしてその反面どもって立ち往生している姿が目に浮かぶ。夫の言葉を聞いて私は、当日は難発で言葉が出なくなると分かっていながらすらすら読もうと一生懸命になっていたことに気づいた。
 結婚式前日、大阪吃音教室には行かず実家でのんびり過ごしていた。でも大阪吃音教室の人達に少し会いたいような気がした。その時、私は去年の吃音ショートコースの集合写真がケータイに保存してあることに気づき、写真を眺め、みんなの顔を思い浮かべながら大阪吃音教室に通い始めてからのことを思い出していた。大阪吃音教室に通い、たくさんの人と出会い、いろいろな考え方などに触れることで予期不安も和らぎ、憂鬱さも前よりも楽になったと思う。

 そして結婚式当日。
 チャペルに入場するドアが開く前の緊張感は今までにないものだった。そんな気持ちの中で式が始まり、牧師さんが「誓いますか?」と言ったら「はい、誓います」と言うのが普通だろう。でも私は「はい…はい誓います」と言った。私は「はい」と言ったものの「誓います」が出にくかったので、これはまずいと思い、すぐに「はい誓います」と言い直した。
 私と向かい合わせに立っている夫は「誓います」って言えないと焦ったみたいだ。チャペルでの挙式が終わったら、なんとか「誓います」って言えたことで気持ちは少し楽になった。あとは、披露宴での両親への手紙だ。

 そしてとうとうこの時間がやってきた。
 夫がマイクを持ち、いよいよ手紙を読む。自分で「ゆっくり自分のペースで、どもることを怖れずに、どもっても焦らず最後まで読みきるぞ」と言い聞かせた。
 そしていよいよ「………お父さん…お母さん…」とどもりながら手紙を読んだ。流暢に読めば3分半なのに、私は何度も何度もつまりながら12分かかって最後まで読みきった。出席者に私がどもることも伝えられて良かったと思うが、何よりも両親に私がどもる姿を見せることができたのがイチバンかもしれない。
 そして自分自身、自信が持てた。そしてあの緊張感の中、どもりながら最後まで手紙を読んだという達成感が自分へのご褒美だ。
 結婚式が終わって初めて実家に帰った日、お父さんとお母さんが「手紙良かったよ」と言ってくれた。
 今までは話すことに気が引けていたが、今では夫に「どもるのにペチャクチャペチャクチャお喋りやなあ」とよく言われる。
 吃音だからこそ、普通の人より「両親への手紙」を読む価値があるのかもしれない。夫と時々、結婚式の思い出話をするのだが、夫は12分間マイクを持っとくのが疲れたらしい。(2012年)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/18

吃音でない彼が受け入れられて、吃音の私が受け入れられないはずがない

 僕は、いつまでたっても、インターネットやパソコン関連は不得手なままです。いろいろな人に助けていただいて、ブログやフェイスブック、ツイッターに投稿してきました。投稿の元になっているのが、ブログなのですが、契約していたライブドアからの連絡で、僕のこのブログのURLが突然変更になり、読めなくなった方がおられるのではないかと思います。
 読めなくなった方に、どうして伝えたらいいのか分からないのですが、なんとか探して、ここへたどり着いてくれること、願っています。
 日本吃音臨床研究会のホームペーシの伊藤伸二のブログをクリックしていただくと、ブログに飛ぶことができます。下記のURLを周りの人に、お知らせいただければありがたいです。

伊藤伸二の吃音(どもり)相談室
http://kituon.livedoor.blog/

 昨日は、どもる女性の体験を紹介しました。今日も、結婚を控えた女性の体験です。どもる彼女が自分の吃音をなかなか受け入れられず、どもらない彼が彼女の吃音を受け入れているという、おもしろい体験です。

どもる不安からどもる勇気へ
         沢田由希子(さわだゆきこ) 会社員、27歳

 私は来年春、5年つき合った彼と結婚する。私は5年つき合っている間、私が吃音だということを言っていなかった。
 私の場合、みんなの前で発表したり、みんなの前で音読したり、電話したり、緊張すると、初めの言葉が出にくくなり吃音がでる。家族や彼や親しい人などと話をする時は、時々言いにくい時はあるけれども、ほとんど言葉が簡単に出る。普段は言葉が簡単に出るので、周りの人は私が吃音だということは気づいていないだろう。
 デートでご飯を食べに行って食べたいもののメニューが言いにくいとき「これ」と言ったり、話をしていて言葉が出にくかったら言いやすい言葉に換えたり、また話すことを止めたりもしていた。自然と彼にどもりだということがばれないようにしていたのだと思う。
 でも、結婚すると決まり、私は彼に私が吃音だということを言わなければと思っていた。でも言い出せなかった。
 私は特に仕事場での吃音でずっと悩んでいた。そして大阪吃音教室に通うことを決めた。大阪吃音教室に通うとなれば私が吃音だということが彼にばれる。だからこれをきっかけに彼に私が吃音だということを伝えた。やはり彼は5年つき合っていたのに私の吃音に気づいていなかった。
 「吃音なんて全然気づかなかった。そんな、ひどくないやん」と彼に言われた。「ひどくないやん」と言われて、少しむきになり、話しにくい時は色々自分なりに小細工してきたのだから…と心のなかでつぶやいた。でも私自身、5年もばれていなかったことに驚きである。注文するとき「これ」とごまかしていたことや、言いにくい言葉は言い換えをしていたことを彼に説明した。彼は「そんなことしてたん?」という感じだった。
 私は吃音でない彼にどもる人の苦しみを話しても全部は分かってもらえないと思った。
 でも私が吃音だということを知ってもらい、気が少し楽になった。
 そして、6月の初めに両家の顔合わせをした。顔合わせの日にちが決まった時から私は、上手く喋れるかと不安と心配の毎日だった。
 顔合わせの当日、彼と父の日も近いのでお互いの父に服をプレゼントしようということでお店で服を選んでいた。選んでいる時も頭の中はどもらずに話ができるかいっぱいいっぱいで服を選んでいる場合ではなかった。我慢できなくなり、彼に「顔合わせの時、絶対どもるわあ。多分自分のお母さんを紹介する時、名前言えないわ。どうしよう」と言った。彼は「そんなん、どもってもいいねん。どもってあかんことないねんから。落ち着いて言えばいいねん。どもってでも話すことが大事やねんから」と言ってくれた。少しはホッとしたものの私は不安で落ち着いていられなかった。
 そして、顔合わせの時間が来て、母を紹介する時、「母の…。母の…。母の佳代子です」やっぱり佳代子ってなかなか言えなかったけど、最後は言えた。その後も、何回か言葉が出にくいこともあったけど、そこまで時間かからずに言えて、無事に顔合わせは終わった。
 家に帰ってから、彼に「やっぱりどもってしまったわあ」とメールをした。彼のいる前で一番言葉が出なかったから、彼からどんな返事がくるか怖かった。そして自分の中で「どう思われたやろう。嫌われたんじゃないか」など色々想像して不安になっていた。そして、彼からメールが来た。「どもってでもちゃんと話してたやん。周りはそんなに気にしてないもんやで。ユキはどもっていてもユキやねんから。どもっていいねん」とメールを読んで、安心したと同時に、私よりも彼の方が吃音について受け入れられているように感じた。
 吃音を隠すことで一生懸命だったり、どもったらどうしようとばかり考えている吃音の私。どもってもいいと思っている吃音でない彼。
 それから彼と吃音について話すことが多くなった。今まで吃音について話すことは全くなかったのに…。
 どもる人はどもることがありのままの自分。無理することはない。自分のできる範囲で頑張ればいい。流暢に話そうと格好つける必要はない。どもってでも言いたいことは言えばいい。どもることは悪くない。吃音に限らず、人間には完壁な人はいない。人は人それぞれ悩みや弱いところがある。世の中に一般的に凄いと言われる人がいるけれども、自分の悩みや自分の弱いところを人に言えるということが本当の凄いということだ。と彼は私に話してくれた。
 私はまだ大阪吃音教室に来て日が浅いので、正直、自分の吃音について受け入れられていない部分がある。これから毎週大阪吃音教室に通って自分の吃音を受け入れられるようになりたい。吃音でない彼が受け入れられて、吃音の私が受け入れられないはずがないだろう。
 自分で自分の吃音を受け入れて、勇気を出して堂々とどもれるようになりたい。
(2011年)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/17

どもることは不幸じゃない−どもる母親が、どもる息子と考えたこと

 どもる女の人が結婚して、子どもが生まれると、その子がどもるのではないかと心配だという話を聞くことがあります。子どもに絵本の読み聞かせをしてやりたいが、どもる自分にはできないから辛いという話も聞きます。女の人には、男の僕と違って、特有の悩みがあるのかもしれません。
 今日、紹介するのは、吃音親子サマーキャンプに親子で参加し、今でもつきあいの続いている一人の女性の体験です。自分の吃音をマイナスのものと意識していたのが、どもる息子と関わる中で、マイナスとマイナスでプラスに転じると思うようになる。そんな発想の転換が、彼女をとても楽にしたようです。彼女を見ていると、人間の強さを思います。

 
マイナス+マイナス=プラス
                       
 45歳の私と19歳の長男には吃音という共通項がある。4歳の息子がどもり始めた時、目の前が真っ暗になった。頭の中が真っ白になって何も考える事ができなかったのを今もよく覚えている。
 私は吃音が原因で小学校の時いじめられた経験があり、この記憶を引きずりながら生きてきたので、どもる息子が自分のようにいじめられる! あんな辛い思いをしたらどうしよう、とそのことばかり気になった。
 コンプレックスと自意識過剰の思春期を送っていた私は、中2の時、開き直って自分なりに吃音への姿勢を決めた。それは「どもる事を隠さない」、親しくなりたい人には積極的に自己開示していった。喋れば分かるのだから隠してもしかたない、どもる自分を分かって欲しかった。自己開示してそのために友達を失う事はなかったからこれは成功したのだと思う。でも、「私はどもるの」と人に言う時、とても悲しかったのも事実だ。どもりさえしなければこんな事、言わなくても良いのだから。心の中で泣きながらそれでも自分を知って欲しくて、どもる事を告白し続けた。
 私のどもる事へのイメージはどう考えてもマイナスだ。自分がどもり出した時から息子がどもるまで20数年の時間が流れていて、その間に学校に行き、就職をし、結婚、出産とそれなりに生きて、小学校のいじめ以外に吃音で決定的に打ちのめされた事がないにもかかわらず、「どもる事は悲しく、辛く、なりたくないこと」だ。だから息子がどもるようになった時、悲しかった。「親子でどもるなんて!」
 どもる息子を育てる事は自分の吃音と向き合う作業でもあった。息子には「吃音は悲しい」イメージを持って欲しくなくて「ことばの教室」にも行かず吃音を矯正する事は一切しなかった。矯正する事は治すべき自分がいる事で、それは自己否定に繋がると思ったから。
 息子の吃音を否定したくない、自分の吃音は中2の時、認めたのだから、息子の吃音も直視できるはずだった。でも、できなかった。思春期に決意したあの覚悟はなんだったのだろうと思うほど、どもる息子を見るのは悲しかった。私が息子にしてやれたのは、「どもるようになったけど、どもる事に負けないで!」とエールを送り、どもる先輩として内心のはらはらを隠しながら見守る事だけだった。吃音を言い訳にしない生き方をして欲しかった。私はそうしてきたという自負もあった。でも、そう願いながらその願いの裏側には、私の中の吃音に対する明らかなマイナスイメージがある。どもる自分を隠さない、でも、隠さない生き方をせざるを得ないのって悲しい、自分ひとりでも充分辛いのに子どももなってしまうなんてダブルパンチだ。マイナスが二倍になってしまう。
 そんなふうに思いながら10数年が過ぎて、私は近頃、親子でどもる事について以前とはまったく違う考えになっている。
 それは、「どもる息子で良かった!」
 私は息子がどもり出した時、息子に自分を重ねていじめを心配した。自分のようになったらどうしようと思った。事実、息子は吃音をからかわれ、いじめられた。よく、学校から泣きながら帰ってきていた。でも、彼は私と違ってその記憶に引きずられてコンプレックスにさいなまれていない。親子で、吃音という共通項はあるけど彼は私とは違う人間だ。違う人間だから吃音への対応も当然違う。「吃音は悲しい」は私の感精であって誰もがそう思うとは限らない。この事を息子は私の傍で育ちながら私に教え続けてくれた。思い込みの呪縛から解いてくれた。どもる息子を育てなければ、わからなかったと思う。
 親子でどもって悲しいマイナスの二倍じゃなくて、マイナス+マイナス=プラスだという事に気づいた。息子は私にとって一番身近などもる人であり、大切な事を教えてくれる人生の師匠だ。育児をして子どもを育てたのは確かに母親である私だが、私を人間として育ててくれたのは子どもだ。
 私には三人の子どもがいる。吃音のある長男からはいろいろなどもる人がいる事を、どもらない長女と次男からはどもらない側から見たどもる人の姿や本当にさりげない優しさを教えて貰った。
 自分が自分らしく、生きていく上で大切な事を子ども達に教わりながら、「親子でどもるのも悪くないかも!」と思っている。「どもることは不幸じゃない」と気付いたこの頃である。(2005年)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/16

70歳から始まった、新しい吃音人生

 昔のニュースレターを読み返して、どもる人の体験を紹介しています。作者の名前も顔もよく覚えている体験もあれば、思い出せないものもあります。本当にたくさんのどもる人に出会ってきました。55年もどもる人のセルフヘルプグループに身を置き、世界大会に6度参加し、30年間吃音親子サマーキャンプをしたり、全国各地で吃音キャンプの講師をしてきた僕は、おそらく、世界で一番、どもる人やどもる子どもたちに出会ってきただろうと思います。
 今日、紹介するのは、山本さん。出会ったとき、70歳だった山本さんですが、柔軟な考え方のできる人でした。新しい生き方、新しい吃音人生は、何歳からでも始めることができると教えていただいた人です。

 
70歳から始まった、新しい吃音人生
                  山本進  大学図書館司書(71歳)

 さくらホールでは木下順二作「タ鶴」が上演されていた。舞台装置も背景もない素朴な演劇。つうと与ひょう、その他の出演者の演技、セリフに迫力があり、会場は出演者と観客が一体化して熱気に溢れて、感銘と余韻を残して終わった。出演者は全員素人であり、どもる人だという演劇だが、その演技、セリフはどもらない人と変わらず、むしろそれ以上であることは、どもる私にとって、まさに驚きであり、表現できない深い感動を覚えたものであった。
 1998年11月23日、「どもる人のことばの公開レッスンと上演」に参加した時の印象である。
 難聴で言語障害の経験のある演出家の竹内敏晴さんの「ことばのレッスン」の、声を出す、靴が鳴る、タ焼け小焼けの合唱までは、これは新しい吃音矯正方法だと思い、私も大きな声を出して加わっていた。
 局瑤貌り、番組は木竜うるし、トム・ソーヤ、悪党と進み、タ鶴が始まるころには、私の意識は段々と変化してきた。この明るい、自信に満ちた顔、笑顔、言葉。そこは私が長い間悩み、こだわってきた「どもり」の世界はなかった。この明るさと自信は何だろう、どうしたらこうなれるのだろう。私は自分の目で見て、耳で聞いたこの現実に深い衝撃を受けた。そして私は今まで感じたことのない期待と希望で胸がふくらむ思いがした。
 私はこの事実と疑問を解決したい思いで、会場で販売していた図書、資料類を買いあさった。私がこの行事を知ったのは、1998年11月14日の朝日新聞の記事。「吃音の人ら、舞台に挑戦」という見出しがあった。「吃音」「どもり」という文字には敏感に反応する。早速切り抜いたが、11月23日は、親戚との恒例の旅行の日で、玉造温泉に行くことになっており、この行事は私には縁のないものと思っていた。事情でこの旅行は中止になった。今思うとこの日に旅行に行っていれば大阪吃音教室との出会いはなかったのである。
 会場で入手した資料は、『障害の受容』『からだ・ことば・こころ』『アサーティブ・トレーニング』『セルフヘルプグループ』『どもり・親子の旅』等であった。これらの資料は、私がいままでに読んだ吃音関係のものとは根本的に違う、新しい吃音に対する認識を提示していた。吃音の矯正ではなく、吃音の受容、吃音とつきあうということに特に興味を覚えた。私は吃音は社会生活には不便だが、訓練と努力によって矯正できるものだと思っていた。私は自己流だが、年を経るにしたがって若い時のひどい吃音と比べると日常生活に差し支えない程度には治っていたように思えるからである。しかし会議の発言、自己紹介、公衆の面前でどもるたびに自己嫌悪に陥っていた。
 『障害の受容』の吃音の受容は、初めて知った言葉で、奈良善弘氏の「53歳で初めて吃音とのつき合いが…大阪吃音教室の体験」を読んで共感を覚えた。そして私はこの「吃音の受容」をもっと深く知りたいと思った。また、『からだ・ことば・こころ』の、竹内敏晴さんの「どもる人達の『夕鶴』につきあって」を読んで、私が感動と驚きをうけた、どもる人のあの明るさ、自信に満ちた生き生きとした顔、言葉の謎が解けた感がした。
 このレッスンこそ、どもる人が言葉を取り戻す方法ではないか。「レッスン参加者の声」から、私はあらためて希望と期待を覚えた。
 11月27日(金)に私は初めて森の宮のアピオ大阪で行われている大阪吃音教室に出席した。2階の部屋の扉のまえには「大阪吃音教室」と書かれた案内板が立っていた。中に入ると若い人ばかりで、年寄りは私一人なのでいささか戸惑った。例会が始まり、私は新人として紹介され、このような自己紹介をした。
 「私は皆様の演劇を見て感動して、この教室に参りました。長い間どもりをやっています。私はなるべく喋らないですむ仕事と、大学図書館員になり、現在まで44年間大学図書館の司書として勤務しています。ひどかったどもりも今は日常生活や仕事に差し支えない程度になっています。私の職業選択はどもりが要因になっているが、今ではこれでよかったと思っています。年は70歳になりますが、年齢に関係がなく思い立った時が始まりだと思います。皆様の仲間に加えて下さい」
 その日の大阪吃音教室のテーマは「どもる人のための書くトレーニング」であった。私は戦時中の中学生時代に、どもりのために軍事教練で悩んだことを書いた。例会終了後の喫茶店での集いは楽しく、仲間になれるのではないかという感触があった。私と大阪吃音教室との出会いは、こうして始まった。
 私が背負っている「どもりの人生」について少しふれよう。私は旧満州の奉天市で生まれ育った。私のどもりは幼稚園時代から始まっている。小学校時代はどもっていたが、特に悩んだ記憶はあまり無い。育った所がおおらかな土地であったのでむしろ楽しい思い出のほうが多い。
 どもりの悩みの記憶が今でも残っているのは中学生時代である。昭和16年に入学した時はまだ自由な雰囲気が残っていたが、その年の12月8日、対米英宣戦布告により太平洋戦争が始まると、校内の事情は一変した。軍国主義の教育により、学校は軍隊化して軍事教練が強化されてきた。号令、自己申告、復唱、軍人勅諭の暗唱、毎日がこれの連続であり配属将校からは常に屈辱をうけた。どもりにとってはまさに苦難の時代であった。
 私はどもりを治したいと真剣に考えたが、むしろひどくなっていた。4年生になると級友は陸軍士官学校、海軍兵学校を目指すものが多く、志を遂げない者は甲種飛行予科練習生を志願した。どもりである私は教練の成績は最低で、全く縁がなかった。私は私自身で進路を選ばなければならなかった。当時の徴兵適齢期は満17歳以上に繰り上げられて、兵役に編入されたが、理科系の学校のみ徴兵延期の措置があった。私は文科系であったが、不得意な理科系に進むことを決めた。私はなんとか満州医科大学予科と旅順高等学校理科乙類に合格でき、旧制旅順高校に入学した。私はこの時ほど勉強したことはない。それは私がどもりであったため、あの苦難の時代を生きるために自分で考えた手段であったと思っている。全寮制の高校生活は充実し、夢と希望に満ち、私の人生では最高の青春の思い出である。
 昭和20年8月9日ソ連軍の侵攻、8月15日終戦、終戦後の満州はソ連軍、中共軍、国府軍の占領下で混乱を極めた。学校は閉鎖され、奉天に帰った私は家族を守るためになりふりかまわずに生きていた。当時外地にいた者の共通の体験である。私はどもっている余裕などはなかった。
 引揚後は無一物の生活で、転入学の意志はあったが学校どころではなかった。引揚から半年後、私は過労で倒れ、肋膜炎、肺結核を発病して約3年間にわたる療養を余儀なくされた。唯一の資本である体力を奪われ、復学の夢は消えて悶々の日を送っていた。病が小康状態になっても、絶望、悔恨、無気力、鬱状態の日々で、どもりはひどくなっていた。病が回復してくると、将来のことを考えるようになり、なるべく喋らないですむ仕事ということで、東京にあった文部省図書館職員養成所という学校を見つけて受験したところ合格して、卒業後大学図書館員になった。現在まで44年間大学図書館の司書として勤務している。ひどかったどもりも今は日常生活や仕事に差し支えない程度になっている。私の職業選択はどもりが要因になっているが、今ではこれでよかったと思っている。
 私は金曜日になると大阪吃音教室に通った。1年近く休まずに出席している。例会は明るく、楽しく私をひきつけるものが多くある。私が前述の行事で感じたことを、事実として、体験として知ることができ、新たな希望と期待が生まれてきた。ここに集まって来る人々は吃音という共通の悩みを背負って生きてきた人々である。多くの人々と語り、聞き、それぞれの人々の多様な「どもりの人生」を知ることができ、今までに経験をしたことのない縁と絆を感じている。
 私の「どもりの人生」は一人で悩み、一人でもがいていた全く孤独そのものであった。大阪吃音教室ではグループで悩みを語り、解決法を考えている。この出会いは、私にとっては全く新しい「どもりの人生」の発見であった。もっと早く出会っていたら私の人生は変わっていたと思う。しかし長い間のどもりの遍歴を経て出会ったことも無駄ではなかったと思う。私の「どもりの人生」は私の貴重な財産である。私はこの出会いを大切にして、残った人生を前向きに少しでもお役に立ちたいものだと心から願っている。(2000年)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/13

どもる人の体験−吃音のために、自分の本当にしたいことを見失いたくない

 僕は、吃音を治すために、東京の大学に行き、新聞配達店に住み込んで生活を始めました。どもる僕にできる仕事は、新聞配達しか思い浮かばなかったのです。新聞配達で得たお金で吃音矯正所に行き、治す試みをしましたが、治らず、矯正所での30日間の合宿生活を終えました。そして、新聞配達店に戻るか、別の仕事をするか、ここが僕にとって、大きな分岐点でした。
 僕は、新聞配達店に戻らず、アパートを借り、たくさんのアルバイトをしました。辛いこと、悲しいことも多かったけれど、うれしいこと、楽しいこともたくさんありました。何より、どもっていても、人は僕の話を聞いてくれるということが実感として分かりました。この経験は、僕の転機となりました。
 今日、紹介する体験をした作者も、僕と同じように新聞配達しか自分にはできないと考えていたようです。彼は、新聞配達をしていたとき、大阪吃音教室と出会いました。毎週参加する中で、彼は少しずつ自分をみつめていきます。自分が好きだったものは何か、本当にしたかったことは何だったのかと、振り返ります。そして、この文章を書いた少し後で、彼は人生の転機を迎えます。介護士の仕事をするために、勉強を始め、最初は介護士になり、さらに仕事や勉強に励み、今は、ケアマネージャーとして老人福祉の世界で活躍しています。笑い芸人にはなれなかったけれど、「自分は人を喜ばせたり、笑わせたりできるような人間になりたいのです」と書いたことを実現し、高齢者やその家族を喜ばせて、笑わせていることでしょう。
 「人は変われる」、何かのきっかけがあれば。彼の変わるきっかけに、大阪吃音教室がなれたことを、とても幸せなことだと、僕は考えているのです。
 

「吃音に生まれて良かった」と言えるようになりたい
                         正田良樹 29歳

 僕は、今、新聞配達店で働いています。年齢は、29才。この仕事を始めて、4年近くになります。なぜ、この仕事をしているかと言うと、人と話さなくても良いからです。黙々と一人で新聞を配っていれば良いのです。
 この仕事をしていて、吃音に悩まされる事はあまりありません。まるで、吃音に悩む人間にとっては、天国の様な所です。
 ところが、このままで良いのかなとつくづく感じます。新聞配達の仕事が、悪いという訳ではありません。ただ、吃音から逃げるという目的だけでこのまま続けて行くというのは、何か、自分自身をないがしろにしている様で、これではいけないのではないかと思えてくるのです。
 自分の持っている能力を封じ込めている様な気がするのです。
 僕は、人を笑わせたり喜ばせたりするのが好きです。小学生の頃、手品をしてクラスのみんなを喜ばせたり、冗談を言って笑かせたりするのが好きでした。
 今では、ほとんどやらなくなりました。けれども、お笑いを観るのは好きで、TVで一人で観ては、よく笑っています。そして、お笑い芸人を見ていると、凄く羨ましい気持ちになります。人を笑わせられるなんて、どんなに素敵なことなんだ!と。
 なので、自分は人を喜ばせたり、笑わせたりできるような人間になりたいのです。
 しかし、現実では、そのような自分が居るにもかかわらず、見向きもせずほったらかしにして生きようとしているのです。何て、もったいない事をしているのだろうと、近頃強く思う様になってきたのです。

 このまま、新聞配達を続けていては駄目だ。そう考えると、今の職場は天国では無い。
 吃音を理由に、行動を抑えてはいけない。吃音があるから、人を喜ばせられないなんて事は絶対に無い。苦しい事や、悔しい事に直面するかもしれないが、それをプラスのエネルギーに変えて、より自分を成長させて行きたい。そうする事で、他の人が思いつかないような発想が思いつくかもしれない。人に対する気配りや思いやりも、持てるようになるかもしれない。

 その様に考えると、吃音というのは悪いものでは無いのかもしれません。この様に考えられた時点で、もう今までの自分とは違っているようです。
 これからの人生、吃音とうまく付き合い、自分の本当にやりたい事を見失わないで自分らしく生きて行きたいと思います。
 そして本当に心の底から「吃音に生まれて良かった」と言えるようになりたいです。
(2010年)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/12

重要なことは、どんなにどもっても、自分の言いたいことをきっちり言う

 吃音と就職、面接は、どもる人にとって、共通するテーマで、僕のブログでも、これまで何度も取り上げてきました。今日、紹介する田村一正さんも、面接にしぼって自分史を書いています。面接官から尋ねられたときの答えが、僕は好きです。
 「日常的な、あまり重要でないことについては、どもるために言いたいことを言わないことがあるかもしれませんが、重要なことについては、どもりながらでも自分の言いたいことをきっちり言うようにしています」
 僕も同じです。どうでもいいことでは、今でも僕は逃げたり、言うことをやめたりしていることもあります。でも、自分が絶対に言いたいこと、言わなければいけないことでは、どんなにどもってでも言うと決めています。それが、僕の、「どもる覚悟」です。

  
面接
                          田村一正

 大学院で、今している研究が、新しい医薬品として期待される新しい化合物の合成ということもあり、医薬品に興味を持ち、ぜひとも製薬会社に入って人の役に立ちたいと考えていた。会社面接の際には、どもることもあるだろうが、私は修士なので学部よりも有利であるし、なんとかなるだろうと楽観的に思いながら就職活動に臨んだ。
 A薬品では、まず面接官三人と私で面接が行われた。しかし、非常に緊張していて自分の名前や大学名を言うのでさえ、ひどくどもってしまった。面接官は「緊張しないでリラックスして頂いていいですよ」と優しく言ってくれた。私も何度も落ちつこうとしたが、話すたびに次から次へとどもってしまい、更には自分でも何を言おうとしているのかわからなくなる程、頭が混乱してしまった。二日後、不合格の連絡がきた。
 B化学は、大学研究室の教授が強いつながりを持っていることもあり、会社の人が私を面接するために東京からわざわざ来てくださった。面接は、大学で教授も加わって三人で行われた。ところどころどもることはあっても前の面接よりもかなり落ちつけたし、話す内容もまあまあうまく言えたと思う。また、日頃厳しい教授が、私が受かるようにと、さかんに私を進めて下さったので、教授の気持ちに感謝しながら、必ず合格せねばと思った。面接が終わり会社の人が帰ってから教授に呼ばれた。結果は不合格であった。理由は、教授が会社の人に聞いたところによると、大学院修士卒の人にはあくまでも会社の指導的な人になってほしいので、どもると問題があるからとのことであった。
 しばらくして、所属する研究室の別の教授に私の就職のことで呼び出された。どもることや私の消極的な性格が面接の際いかに不利であるか、それにもかかわらず規模の大きい会社に挑戦しているという甘さを指摘されてしまった。ショックだった。この時、どんな仕事でもするから私を採ってくれる会社ならどこでもいい、とさえ思いつめた。
 その後、所属する研究室の教授の紹介で大阪のC薬品を受験した。面接は三度あり、社長とも話をした。最終面接で「どもるために自分の言いたいことが言えないということはありませんか」と聞かれ、一瞬焦ったが、次のように答えて「危機」を乗り越えた。
 「日常的な、あまり重要でないことについては、どもるために言いたいことを言わないことがあるかもしれませんが、重要なことについては、どもりながらでも自分の言いたいことをきっちり言うようにしています」
 一週間後に合格の連絡を頂いた。
 私は最初、大企業に就職したいと思っていた。そして入社後は、皆に遅れないように必死でついて行く自分の姿を想像していた。しかし、小さな会社に就職することに決まって、今度は会社の先頭に立って皆を引っ張って行こうと思っている。(2009年)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/11

どもる教師のサバイバル

 できるだけいろんな職業の人の経験を紹介していこうと思います。今日は、小学校の教師です。話すことが仕事とも言える学校の教師ですが、意外と、どもる人で教師をしている人は、僕の知り合いにはたくさんいます。教師は子どもたちの前では、それなりに話せるようになっても、苦手な場面ではそれぞれに苦労があるようです。でも、いろいろと工夫しながらサバイバルしています。窮極の困る場面は、卒業式の時の卒業生の呼名です。それすらも、悩みながらサバイバルしています。また、いつか、卒業式をどう乗り越えたかも紹介したいと思います。

  
私の通告闘争
                            松木憲二

 小学校の教員になって5、6年のこと、私も加入していた教職員組合で、主任制反対運動が、突如湧き起こった。これは、校長、教頭と我々平教員の間に「主任」という職制を新たに設けようというものだった。教務主任や学年主任を設けることにより学校運営の効率化を目指す文部省、各地教育委員会に対し、主任など必要ない、管理強化につながるだけだ、と組合は反発した。
 私の勤めるT市でも激しい反対運動が起きた。かつての全共闘運動を想起させる、深夜に及ぶ市教委との大衆団交もあった。
 しかし、結局、主任制は法制化されてしまう。T市でも「T市学校管理運営規則」なる法律に、主任制は盛り込まれた。学校長は4月になると、本人の意向を聞くことなく「主任」となった人たちの名前を発表し、月々数千円ずつの主任手当が給料明細表に加わった。
 これに対して組合は、「主任」の無効を主張し、組合員である「主任」から主任手当を集め、毎月市教委に突き返していった。この闘争は今も継続されている。
 組合はさらに、別の戦術をも開発した。それが私にとって一大問題となる「通告闘争」だった。これは、おのおのの学校で、主任制が実体のないものであることをみんなの前で学校長に宣言し、学校長、市教委にプレッシャーを与えるとともに、組員の反対運動に対するモティベーションを保ち続ける、というものだった。
 この話を初めて聞いた時、「へえー、何やオモロそうやな」と思ったが、具体的な方法を聞かされて私は顔をしかめた。印刷された文を校長の前で音読した後、その紙を校長に手渡す、というものだった。「その文章の中にオレの言いにくいことば(即ち、どもりやすいことば)があったらいやだなあ」と、どもる人間なら誰もが思うであろうことを、私も思った。
 「だれや! こんな創造性の全くない、くだらないことを考え出したヤツは!」と八つ当たりしても始まらない。避けられないことは、どんないやなことでも前向きに取り組むしかない、と覚悟した。
 『届(とどけ)、私たち教職員一同は、「T市学校管理運営規則」による主任等について下記の通り確認したので届けます』
 その文章は、短いものだった。当時私の勤務していたS小学校の30人近くの教員はほとんどが組合員で、毎朝始業前の1、2分、順番に読んでいく、ということに決まった。
 それが苦労(苦闘?)の始まりだった。30人近くが毎朝順に読むので、およそ1ヶ月に1回、順番が回ってくる。私に初めて順番が回ってくる2、3日前、徐々に押し寄せる予期不安の中で、その文章を実際に声を出して読んでみた。恐る恐る、どこかつまづきやすい箇所がないかどうか細心の注意を払いながら。つまづきそうな、悪い予感のする箇所はいくつかあった。特に「T市学校管理運営規則」の「T市」が言いにくかった。話の展開上明らかにさせるが、「T市」とは豊中市である。「とよなか」の「と」が出にくいと分かった。
 さてそれからというもの、1ヶ月に1回のわずか1分足らずの時間が、私にとって魔の時間となった。この1ヶ月に1度という間合いが、実に微妙な、イヤな間合いだった。1ヶ月に2、3度あれば、場慣れが進んで緊張の度合いは急速に低くなるにちがいない。確証はないが、なぜかその自信はあった。また3ヶ月に1度回ってくるのであれば、1回済ませた後はしばらく忘れて、恐怖から解放される時間ができる。しかし1ヶ月に1度というのは、慣れるには間遠すぎて、しかも忘れるには間近すぎたのだ。つまり、四六時中予期不安というストレスにさらされるということになったのだ。それでも徐々に場慣れが進むのでは、という期待はあったのだが、ダメだった。1ヶ月というのが、自信を喪失させ不安を熟成させるのにピッタリの時間で、毎回新たな不安と恐怖に私を直面させてくれたのだった。
 しかし私も、何の手も打たず、ただ座して待っていたわけではない。いろいろ対策を考えて、やってみた。まず、読む練習。当時私は自動車通勤で、車内では誰に気兼ねもせずに大声が出せる。順番が近づいてくると、通勤の車内で大声で練習をした。また当日の朝早く出勤し、誰もいない教室の大鏡の前でリハーサルをしてみたこともある。だが、これらの音読練習は、読みづらい箇所をよけい意識させるだけで、効果がないというより逆効果だった。
 当日の朝の、私が読む直前の時間の過ごし方が大事に思えて、いろいろ工夫をしたこともある。少し早めに出勤して、職員室で机上の整理などして静かに待つ。この方法は、静かに待つ間に不安ばかり増してきてダメだった。階段を早足で上下するという運動の直後に読む。これは息切れでよけい読みづらくなっただけで最悪だった。一番良かったと思われる方法は、いつもより少し遅く出勤し、服を着替えて定刻ギリギリに職員室に入り、間髪を入れず、つまりよけいなことを考える時間をなくして読み始めるというやり方だった。
 しかし、これらはどれも言ってみれば小手先のその場しのぎの工夫と言える。その当時大阪吃音教室では、論理療法が紹介されたばかりだった。早速私は、論理療法的にこの問題の解決を試みた。論理療法はご存知のようABC論理がその中核である。悩みや不安(C)は、どもるという出来事(A)のために生じるのではなく、その出来事をどう考えるか(B)、その人の考え方次第だ、という理論である。この、Bの部分、つまりどもるということに対して自分が持っている誤った考え(イラショナル・ビリーフ)がないかどうか、時々じっくり考える時間を持った。
 職員室で同僚の前でどもると、とても恥ずかしい。それはなぜか。どもりは異常なことであってはならないことだ。どもると人間としての価値が低いと思われるのではないか。こう考えている自分がおり、その考えが正しいかどうか、じっくり考えてみる。
 どもることは異常か? たしかにどもる人間は数が少ない。多くの人はスラスラ読める。しかし、異常と言えるのか? 私がどもって文章を読むことで、私の仕事或いは職場の機能に何か支障をきたすのか? どう考えても、支障をきたさない。誰にも迷惑を全くかけていない。では、なぜ恥ずかしがるのか? それは小学の時以来の積み重なった体験をひきずっているだけで、実は、恥ずかしがる必要など全くない。異常と思う必要がない。「あってはならない」と思ったって、現実に治らないどもりを持っているのだから、それは受け入れる以外はない。
 どもると、人間としての価値が本当に低いのか? 人間の価値とは何か? これは人それぞれによって考えることが違うだろう。仕事上有能な人を価値あると考える人もいるだろうし、他人に優しい人を価値あると思う人もいるだろう。また、人間の価値なんか人が決めるものではない、と思っている人もいるだろう。つまり、百人いれば百通りの考え方があり得るものだ。話しことばがスムースでないということだけで、人間の価値がどうのこうの思うのは、そもそもナンセンス(無意味)なことだ。中にはどもっていると変な目で見る人もいるかもしれない。それはいろんな人間がいるのだから、いちいち気にしても始まらない。ゴーイング・マイウェイ。オレのやり方で堂々とやるのが、一番良い生き方だ。
 こんなことを考えていると、気持ちがだんだんスッキリしてくるのが分かった。特に、私の番が来てどもったあとの、落ち込みから立ち直るのに役に立った。
 立ち直りは早くなったが、相変わらず順番が近づくと不安が増してくるし、どもるのがイヤだと感じる気持ちもそのままだ。
 しかしある時、ついに絶妙の方法を思いついた。毎朝やっているこの通告闘争、校長も組合員も通告する文面はいちいち聞かずともどうせすっかり頭の中に入っている。言ってみれば、退屈な儀式を毎朝繰り返しているに過ぎない。ならば、文章中の1字や2字聞こえなかったって、どうってことないだろう。
 というわけで私の編み出した究極の作戦は、どもる字を省略してしまう、というものだった。「とよなか市」の「と」が言いにくいので、とばしてしまえ、というわけだ。「とよなか市」も「よなか市」も似たようなものだ、毎朝この文章に一字一句耳を澄ましているやつなんか、いるはずがない。
 そして、ついに私の順番が来た。『とどけ。私たち教職員一同は、よなか市学校管理運営規則にはよる……』と、「と」ぬけのまま、何事もなかったように読み終わった。回りの反応は私の予想した通りだった。全くの無反応。
 成功だった。この成功は、それまで魔の時間だったものを、待ち遠しいと思えるほどの至福の時間とした。「と」を抜かさずとも「豊中市」とスラスラと出ることが多くなった。またある時は大胆にも、最初の「とどけ」の「と」が言いにくそうな気がした時、「どけ!」から始めたこともある。これはさすがに、異様に感じた人もいただろうが、私はスリルといたずら心を満足させ、内心ほくそえんでいたのであった。
 こうして私の楽しみとなったこの通告闘争、しかし、マンネリでその効果が疑われ始めたのか、2年目には中止されたのであった。(1998年)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/10

どもる人の体験

 緊急事態宣言が延長となり、大阪吃音教室もまた休講が続くことになりました。4月9日に開講式をして、その後は休講です。セルフヘルプグループの大切な、会い続ける場、ミーティングがなくなり、寂しい思いをしています。
 だからこそ、これまで綴られてきた、どもる人の体験を紹介していこうと思います。こうして生きている人がいる、仲間がいると思うことで得られるものは大きいことを信じています。今日紹介する作品、僕の好きな作品です。

      
どもりとメガネのおかげで   29歳

 大阪吃音教室に集まった人たちの多くは、「どもってはいけない、というメッセージを受け続けて育った体験」、「どもりを隠そうとした体験」、「人前でどもることに怯え、話すことを避けた体験」、「どもりに悩み、もがき苦しんだ体験」、「どもりを治そうとした体験」、「どもりを治すことができなかった体験」などを経て、大阪吃音教室にたどり着いたという。
 しかし、実は、私にはそのような体験はまったくない。その点で、私は大阪吃音教室の中では珍しいタイプかもしれない。どもる人が、皆、吃音に苦しむとは限らない。大阪吃音教室の背後には、吃音にそれほど悩まずに生きている多くの見えないどもる人がいるはずだ。私の吃音そのものへのとらわれも小さかった。なぜ、私は、吃音にそれほどとらわれずに生きてこれたのか。それは、私が生まれもっての視覚障害者であったことと関係するかもしれない。
 幼い頃から、私は、周囲の人たちにとって、「どもり」である前に、「メガネ」だった。子どもの頃、私がかけていた眼鏡のレンズは、虫めがねのように分厚く、かけると目がものすごく大きく見えた。このドギツイ眼鏡と、レンズを通して映った大きな目の与える強烈なインパクトのために、私の第一印象はどこへ行ってもすぐに決まってしまった。
 私はよくどもったが、最初に言われることはきまって、「きっついメガネやな〜」、「視力いくらぐらいなん?」、「そのメガネかけさせて」だった。初対面でも、ずうずうしい態度でからんでくる連中は、どこへ行っても、ひとりやふたりは必ずいた。彼らのなれなれしく軽薄な口調からは、「こいつだったらなめてかかっても大丈夫だろう」という優越感が透けて見えるようで、プライドの高かった私には、それが屈辱でならなかった。
 だから私は、視力のことや、眼鏡のことをネタにされることを激しく嫌った。なかでも、「メガネザル」は、当時の私にとっては最大の侮辱で、そのように言われたものなら、その瞬間に相手に殴りかかっていた。殴りかかった後にはきまって涙が溢れてきた。「喧嘩は泣いた方が負け」という暗黙のルールがあったのに、必死に涙をこらえようとしても止まらなかった。
 私は自分の眼鏡が大嫌いだった。誰がすき好んでこんなかっこ悪い眼鏡をかけるものか。生まれもっての視覚障害という、自分にはどうしようもない運命に強制されたものなのだ。この先、視力はよくなる見込みもないし、コンタクトも医者から止められているので、これからも、生きている限りずっと、自分はこんな眼鏡をかけ続けるしかない。私にとって、眼鏡をからかわれることは、生まれ・現在・将来すべてを笑いものにされたに等しかった。こらえようとしても溢れてくる涙は、このような悔しさと絶望からだった。
 しかし、私は変わることができた。まず、「からかわれても相手にしない」という対処の術を身につけた。私は、数多くの意に沿わぬあだ名をつけられることがあったが、そういう時の一番の対処法は、決して返事をしたり、怒ったりしないことだった。反応すれば、そのあだ名が自分だと認めたことになる。「一体誰のことだか分からない。まあ、自分のことではないだろう」、そういう顔で知らんぷりをしていたら、そのうち、誰も私を、私の呼ばれたくないあだ名では呼ばなくなった。
 やがて、最初はからかいをやめさせるための手段として、我慢して怒りを抑えて相手にしないようにしていたのが、ほんとに腹が立たなくなってきた。あれほど腹が立った「メガネザル」という言葉も、悠然と聞き流して、「俺の方がおとなだなあ」と、逆に自分の方が密かな優越感に浸るほどの心の余裕ができた。「きっつい眼鏡やな〜」と言われても、「うん、俺、目悪いから」とふつうに返せるようになった。
 いつの間にか、私はいろんなことを受け入れられるようになっていた。私は、障害やメガネ以外にも、背が低いことや、惨めなまでの短足であることなどのコンプレックスも抱えていた。思春期のおとずれが早かった私は、そのことでも、障害やメガネと同じぐらい悩んだ。しかし、いつの間にか、「身長や足の長さを恋人の条件にする女の子なんてこっちからお断りだ」と気にしないようになっていた。身長も足の長さも、障害もメガネも、私が悪くてそうなったわけではないし、変えようがない。以前なら、「だからこそ悔しい」とやりきれない気持ちになっていたのが、「だからこそ、そんなことで私を判断する人間など、所詮たいした人間ではないのだから、そんなやつらから何を言われ、どう思われようがかまわない」と思えるようになった。小学校4年生頃のことである。
 その頃には、どもりも、もう気にならなくなっていた。私は、よくどもったが、おしゃべりで、明るい子どもに成長していた。
 私が、どもりを隠そうなどと一度も考えたことがなく、どもりながらでも明るく生きれたのは、こうしたバックグラウンドがあったからこそである。メガネとその他の多くのコンプレックスを受け入れることは、どもりを受け入れることにそのままつながっていた。 私はどもりであるうえに、メガネで、チビで、短足で、小太りで、運動音痴で、喘息もちで、不器用で、どんくさく、ぐずでのろまだった。みんながふつうにできることで、自分だけができないことが多すぎた。しかし、だからこそ、私は、まわりの男の子と同じようにかっこつけることを早くに諦め、自分を活かす別の道を考えることができたのである。私は、「いじられキャラ」として、クラスメイトや先生から、それなりに可愛がられた。どもりは、「いじられキャラ」の私には、うってつけだったに違いない。
 「かっこよさ」には、「ほんもの」と、差別や偏見にもとづいたものや、非合理的で上っ面だけの「にせもの」が混在する。子どもの世界は特にそうだ。しかし、私は、まわりの男の子と同じようにかっこつけることができなかったおかげで、まわりに流されず、「ほんもの」と「にせもの」を峻別する力を身につけることができた。「どもりはかっこ悪いことだ」という偏見は、どこからともなく入ってきた。しかし、「ほんもの」と「にせもの」の峻別ができていたから、私は、「そんなことは、にせもののかっこよさにとらわれた人たちの言うことだ」と聞き流し、惑わなかったのだと思う。
 「ほんもの」と「にせもの」を峻別する力は、思春期に数多くのコンプレックスと向き合う中で鍛えられ、私の「根」や「芯」となり、私のすべてを支えている。もし、私のコノプレックスがどもりだけだったら、思春期にはやはり、どもりを「かっこ悪いこと」と否定し、必死に隠したり、治すことばかり考えていたかもしれない。その意味で、数多くのコンプレックスを背負っていた私は、コンプレックスがどもりしかなかった人より、きっと幸運だったのだ。
 私のまわりには、在日朝鮮人であることや、部落の出身であることや、精神科に通院していることを隠し続けている人たちがいた。背が低いことや、アトピー性皮膚炎による顔の湿疹や、にきびや、くせ毛や、怪我による傷で頭の一部に毛が生えなくなってしまったことにずっと悩み続けている人たちがいた。そして、大阪吃音教室で、どもりを隠し続けてきた人たちの辛い体験をたくさん聴いた。彼らの背負ってきた辛さを、他人の私が推し量ることはできない。しかし、そういう人たちに出会うと、私はいつも悲しい気持ちになる。もし、私が彼らの立場だったら、おそらく、隠さない生き方、受け入れて上手に付き合う生き方を選択しただろうと思う。
 私は、どもりとメガネと、その他、多くのコンプレックスが重なったおかげで、わりと早くに、隠さない生き方、受け入れて上手に付き合う生き方ができるようになった。私は、そういう生き方を選択した自分自身に、どもりながら生きる道を選択した大阪吃音教室の人たちに、隠さない生き方を選択したすべての人たちに、あたたかいエールをおくりたい。(2006年)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/9

吃音とレジリエンス−どもる子どもとレジリエンス 

 昨日のつづきです。レジリエンスの7つの構成要素を、吃音とからめて紹介しました。この7つに3つプラスして、僕は10個にしました。楽観的な人生観と、アサーションと、共同体感覚を加えました。そのうちの、楽観的な人生観について説明しています。その後、参加者の感想を紹介します。

 
7つのレジリエンスの要素について、僕なりに解釈したことを少し話しました。これらすべてを持っている人はいないでしょう。おっちょこちょいですごくおもしろいは、ユーモアの要素です。それだけでも、困難な場を乗り切る力になります。考える力があって、物事の本質を見極める力があれば、人間関係がうまくいかない子であったとしても、本質をとらえられるかもしれません。
 7つはお互いに関係してくるので、7つの中の、何かひとつでも、子どものころから育てていけば、他のことにも波及し影響していくでしょう。困難な状況であったとしてもそれにくじけてしまわないで、なんとかなるというような子どもになってほしいなと考えています。そういう子どもに育てることは可能だと思います。吃音を治す、改善することはできなくても、吃音に負けない子どもに育てることです。7つに3つの要素を僕はつけ加えますが、その中の一つ、楽観的な人生観についてもう少し話します。

◇楽観的な人生観
 吃音に悩んでいた時の僕は、ものすごく悲観的でした。悲観的な人もいれば楽観的な人がいるのは人間のおもしろいところです。ギリシャの財務危機のニュースで、ギリシャの人たちが「仕方がない」という意味のことばをよく使うことを知りました。経済危機の、将来への不安がいっぱいのはずのギリシャの人たちのことを、僕たちは大変だと思うけれど、彼たちは「仕方がないやん」と思っているようです。「Noマネー、Noジョブ、Noプロブレム」と何人もの人が言っていました。この感覚は、すごく楽観的です。普通なら、そんなに楽観的になれるわけないだろうというときに、1日に8,000円しか銀行からお金を引き出せないときに、コーヒーを飲んでいる場合と違うだろうと思うけれど、コーヒーを飲んで談笑しているニュース映像が流れていました。「まあ、いいか」ですね。
 吃音の場合、ネガティヴになれば、吃音は大きくのしかかってきます。楽観主義というのは、親に影響されます。親が物事を悲観的に考える傾向にあるのだったら、根拠のある楽観主義者になって下さい。僕は、アメリカ言語病理学を信頼し、「吃音を治す、改善する」方向を捨てられない人たちは、「根拠のない楽天主義」だと思います。吃音が治らないのを、「まあいいか、しゃあないわ。できることをしっかり努力しよう」は、「根拠ある楽観主義」です。僕たちを含め、たくさんの人たちが、「吃音とともに豊かに生きている」のは、まぎれもない事実なのですから。
 一生懸命がんばればできることは一生懸命がんばるけれど、世の中にはどうしようもないことはあるのだから、がんばってもできないことは仕方がないと思いましょう。世の中には、アルコール依存症やギャンブル依存症や虐待のグループなど、たくさんのセルフヘルプグループがあります。その人たちが大事にしていることばの中に、神学者/ニーバーの平安の祈りというのがあります。自分ではどうすることのできないものを変えようとして自分の人生を見失った人たちは、努力すべきことは何かを見極めます。

 変えることができるなら、変えていく勇気をもとう
    変えられぬものはそれを受け入れる冷静さをもとう
       変えることができるかできないか、見分ける知恵をもとう

 これはすばらしいことばだと思います。変えられないのに一生懸命治そうとがんばったらエネルギーを消耗するだけです。そして、自分はだめな人間だと思ってしまいます。変えることができるのなら、一生懸命がんばればいい。全てにがんばるのではなく、がんばれるところで、がんばって達成できるところでがんばればいいのです。
 レジリエンスについて、一応話してみました。今の話に対しての感想と、質問があったらどうぞ。

 ふりかえり

参加者(父)知らないうちに困難を乗り越えている人がすごくいると思います。たぶんそういう人たちって、こういうレジリエンスみたいなものを、なんとなく知らないうちに身につけていたのでしょう。身につけていない子どもには、親が手助けしてやって、「どもるくらい、なんともない、大丈夫だ」と思えたらいいなあと、今日、思いました。
伊藤 おっしゃるとおりで、もともと楽観的な明るい子もいれば、そうじゃない子もいます。素質の部分がかなりあります。だけど、このレジリエンスの研究者たちは、素質もあるけれど、後で十分に育てることができると言っています。意識的に周りの人間がその子に関わればその子を育てることができると考えられます。どもる子どもに限らず、これからの子どもは大変な時代に入っていくと思います。こんな厳しい時代の中でも、しぶとく、しなやかに、生き抜く子どもに育てるということは、吃音に限らず大事です。
参加者(母) 2歳からどもり出して、1年少しくらいなので、治るかもしれないと考えていました。でも、どもるという事実を認めて、まあ治る可能性も考えつつ、知識として学んでいくことが重要だと感じました。
参加者(母) 参加して、自分ひとりじゃなかった、私と同じような気持ちのお父さんやお母さんがいるということ、当事者の人の話を聞けたことがよかったです。今朝、長男には、吃音相談会に行ってくることを伝えてきました。帰ってから、同じような思いをしている人がいるということをしっかり伝えたいと思います。そして、彼には、しぶとく、しなやかに生き抜いていくをモットーに生きてほしいと思うし、私自身もそうありたいです。吃音は決してマイナスじゃないと思いました。先輩のお母さんの話、自分の昔を思い出すような若いお母さんの話、いろんな人の話が、これから私の強い味方になってくれるんじゃないかと思いました。
伊藤 子どもも自分ひとりだと思っているけれど親も同じで、自分ひとりだと思っています。他のことではママ友に話ができるけれど、どもりのことは話せないというお母さんにとっては、こういう場や吃音親子サマーキャンプは、私はひとりじゃないと思える場であり、心強いと思います。すごい数のどもる子どもがいるわけだし、それと同じ数の保護者がいる。お互いに体験や気持ちを共有しながら、子どもの幸せにつながるために何ができるか、何をしたらいいかを考えたいですね。
 僕の考え方に反対する吃音臨床家や研究者がたくさんいます。彼らは、吃音を治したいというのが親のニーズなんだから、完全に治らなくても、少しでも改善してあげなくてはだめでしょう、と言います。治したいというのが親のニーズだと言いますが、たしかに、表面的にはそうだけど、奥には「子どもに幸せになってほしい」、「楽しく自分の人生を生きてほしい」、があるはずです。楽しく生きてほしい人生に、吃音がマイナスに影響すると思うから、なんとか治したいと思うのであって、それがマイナスに影響しないようにできたら、それはそれでいいわけです。
 アドラー心理学の中に劣等感の補償という考え方があります。劣等感があったからがんばれるという考え方です。その補償には、直接的な補償と間接的な補償があって、どもるから、話すことの少ない仕事に就いて、そこで力をふりしぼってがんばろうというのが間接的な補償です。たとえば、ノーベル物理学賞の江崎玲於奈さんは、自分がどもりだったから、人間関係がうまくいかなかったのでサイエンスの道に入ったと言っていました。自分がノーベル賞をもらったのは、ひょっとしたらどもりのおかげかもしれないという言い方もしていました。苦手なことはおいておいて、自分の長所を伸ばすということです。ほかにも間接的な補償はたくさんあります。小説家はいっぱいいて、どもりで苦しんだことを文章に書いたり、どもるからことばを言い換えてきたことが語彙数を増やして小説家として大成したかもしれないと言っています。直木賞作家や芥川賞作家の中に、どもる人はいっぱいいますし、世界的な小説家の中にもいっぱいいます。
 直接的な補償は、苦手なものにあえて挑戦をして、話すことの多い仕事に就くことです。そんな人がいっぱいいるのが、吃音の特徴です。『親、教師、言語聴覚士が使える、吃音ワークブック』(解放出版社)の中に、どもりの有名人がたくさんいることを書きました。教師、弁護士、落語家、俳優、アナウンサーなど、子どもたちにそんな人のことを教えてあげれば、そうか!と思うでしょう。
 僕の大好きなどもりの著名人の中に、間直之助という人がいます。有名なサル学の研究者ですが、どもって人間関係がうまくいかないので、霊長類のサルの研究に入りました。間組という大手ゼネコンの社長の息子に産まれたが、実業の世界に入ることは諦めて、自分が好きな道に入りました。その人生を、遠藤周作が『彼の生き方』(新潮社)という小説に書いています。どもりだからと、優しい動物の世界に入ったり、反対に華やかな映画俳優になったり、これだけバラエティに富んでいるのは、どもりがとても豊かな世界だからです。
参加者(母) 子どもが2歳からどもり始めて、3年間たちました。未熟児で生んでしまったことが悪かったのか、自分の子育てが悪かったのか、と悩んできましたが、今日お話を聞かせていただいて、過去のことを考えるのではなくて、これから先のことを考えてあげればいいんだなと前向きな気持ちになれてとてもよかったです。
伊藤 小学校入学までになんとかしたいと思ってたでしょう。そういう焦りはだめです。小学校入学までになんとかしたいという保護者が案外に多いんです。小学校に入ったら、いろんなことがあるのではないかと、先のことで不安になるけれど、先の不安はあまり考えないで、起こったときにどう対処すればいいかを親子で一緒に考えればいいんじゃないでしょうか。
参加者(母) うちは吃音だけでなく、発達障害があるので、1歳くらいから、子どもと、一生懸命かかわってきました。1歳くらいのとき、発達障害の症状がひどかったから、本当はもう少しひどくなるんじゃないかと思いましたが、遊びの会に行ったり、いろんな人に出会ったり、いっぱいからだを動かして遊んだり、いろんな積み木で遊んだりしてきました。また、田舎なので、川や山で遊んで虫に親しんだり、家族でキャンプに行ったりできました。そういうことを大事にしてこれたのは、吃音や発達障害のおかげかなと今日、改めて思いました。今、8歳なんですけど、すごくよかったなと思っています。私自身はこれまですごく順風満帆にきて、苦労をしてきませんでした。子育てで初めてつまずき、自分の思い通りにいかないことに出会ったのです。子どものことは、私が代わってやれません。吃音がなかったら、たぶん、もっと怒ったり、もっといい学校に行くように言ったり、子どもに対して多くを要求する母親になっていたかもしれません。
参加者(父) レジリエンスでいえば、楽観主義にあたることかもしれませんが。ことばがどもるということは、ネガティヴ要素になるかもしれないですけど、結局、本人が気にしなかったり、または気にしてもそれを乗り越えればいいと私自身は考えています。どのように乗り越えていけばいいのか、具体的なことを考えたいと思っていたところ、具体的に教えていただいたので、よかったです。今、妻が言いましたが、結果的に発達障害だったこともあって、小さい頃から、今日教えていただいたことは、十分ではないかもしれないけれど、比較的できていることも多いように思います。今までしてきたことにそれぞれの相互関係があるとおっしゃったので、気持ちが楽になりました。弱い部分があっても、逆に強い部分を伸ばすことによって広げていけることを系統立てて教えていただいたので、非常に有意義な3時間でした。(了)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/7

吃音とレジリエンス−どもる子どもとレジリエンス 

 子ども自身がもっている自然回復力、自然治癒力、困難や逆境から耐えて生きぬく力を信じて、吃音に負けない子どもに育てていくことが、親や専門家にとって必要なことだと考えています。これがレジリエンスです。レジリエンスと出会って、僕は、レジリエンスに関する本をたくさん読みました。その中で、『サバイバーと心の回復力』(金剛出版)に出てくる、レジリエンスの7つの構成要素を、吃音とからめて説明します。
 その前に、吃音についての3つの事実について話します。

  
3つの事実
 ーっていない…これは紛れもない事実です。3年ごとに開かれる世界大会に参加し、世界中の状況も分かっています。あまりどもらないように変化した人は、僕を含めてたくさんいますが、治ったという人を僕は知りません。
 吃音の治療法がない…言いにくいときにこうすれば言えるなど、それぞれに工夫しています。ことばを言い換えたり、「あのう」をつけたり、ことばの順序を入れ替えたりし、あまりどもらなくなる人はいますが、治っているわけではなく、確実な治療法はありません。
 8朕雄垢ものすごくある…吃音の悩みや吃音から受ける影響の個人差です。すごくどもっているのに、冗談を言って元気な人もいる一方、ほとんどどもらないのに、すごく悩む人がいます。悩みは、どもる状態に正比例しません。むしろ、どもりの軽い人の方が悩みが大きいのではないかと思うくらいです。どもりを改善することはほとんど役に立たないということになります。

 僕たちは、3つの事実のうちの個人差に注目します。ある人はすごく悩み、ある人はそれなりに生きている。どもりがほんとに障害になるのであれば、どもる人すべてがどもりに悩み、どもりの程度によってハンディの大きさが変わるはずです。これが、吃音が、他の病気や障害と違うところです。
 この個人差から、今、レジリエンスに出会いました。
 逆境や困難にあいながら、しっかりと生きていくために、どういう力が育っていればいいか。これは、どもる子どもたちの子育てに役に立つのではないかと思いました。レジリエンスの構成要素として7つを挙げている『サバイバーと心の回復力』(金剛出版)の7つの構成要素を説明します。

 7つのレジリエンス
◇洞察…自分の問題について、気づき、理解する。
 私が書いた、『親、教師、言語聴覚士が使える、吃音ワークブック』や『どもる君へ いま伝えたいこと』、『知っていますか? どもりと向きあう一問一答』(解放出版社)などの本を読み、どもりについてしっかり勉強して、どもりの本当の問題とは何かを理解することです。すると、子どもは子どもなりに、どもっていることは悪いことではない、そしてこれは自分の力ではどうしようもないことだが、自分でできることをがんばろう、となります。方向転換をすることができるのです。これを、洞察といいます。
 僕らの仲間のことばの教室の担当者は、『親、教師、言語聴覚士が使える、吃音ワークブック』を使って、子どもたちと、吃音に対する知識や、どもりとつきあう勉強をしています。言語訓練や言語指導ではなく、吃音の学習です。教科を学習するように、吃音のことを勉強するのです。吃音氷山説や言語関係図を学び、どもりを隠し、話すことから逃げ、人間関係を避けていると自分の将来にとって役に立たないということが分かれば、自分のどもりの問題が見えてきて、取り組むべき課題が分かってくるのです。

◇独立性…吃音と吃音の問題を区別し、吃音に支配されない、自分が人生の主人公になる。 主体性ともいいます。僕は、どもりに自分自身の人生の全てを左右されて、21歳まで生きてきました。どもりさえなかったら、人生の主人公になれると思っていたのです。そうではなくて、どもりながらも僕は人生の主人公だ、どもりを治すことはあきらめるけれど、自分の人生はあきらめない、そう考えることができることが独立性です。
 私たちの後輩の消防士は、消防学校時代、「消防士になる人間がこんなにどもっていて、どうするか。そんなことで、緊急のときに、市民の命が守れるのか」と言われました。でも、彼は、独立性があったのでしょう。人生の主人公は僕だ、どもりだからといって、自分の人生はあきらめないと思っているので、我慢して、暴言や無理解に耐えて、結局、彼は1年間、消防学校を続けました。今、ちゃんと消防署に勤めています。この前、メールがきました。確かにしんどいことはあるけれど、がんばっています。
 病気や障害が主人公ではありません。そういうものに影響を受けないで、自分の独立性を発揮することが大切です。この独立性は、子どものころ、たとえば友だちがいなくても、一人で遊ぶことができるとか、お母さんがいなくてもある程度の時間、自分で耐えて、過ごすことができるとか、そういうことの積み重ねで育つものだと思います。僕が今、こうしてどもりから解放されてレジリエントに生きているのも、ひょっとしたら、この独立性があったからじゃないかと思います。
 僕は、三重県津市から家出して、大阪の豊中市で新聞配達店に住み込んで、大学受験の浪人生活を送りました。これは、独立性が強かったということになります。僕は、東京での大学生活を、親から一切の仕送りを受けることなく、学費・住居費・食費まで、すべて自分でやってきました。この独立性があったことが、吃音とともに生きるということにつながったのだろうと思います。

◇関係性…親密で満足できる人間関係、結びつきを大切にする。
 『サバイバーと心の回復力』(金剛出版)で紹介されているレジリエンスは、親から虐待を受け、大変な家族の中で生きてきた少年少女たちが、愛してくれない親をあきらめ、別の大人と仲良くなろうとしたり、自分のことを理解してくれる友だちと仲良くしたり、人間関係を探すところから来ています。向こうから来てくれるカウンセラーや精神科医ではなく、自分から人間関係を積極的に求めていこうとします。これが関係性です。小さい頃に、親から叱られても、人なつっこく近所のおばちゃんにくっついてみたりする子どもがいると思いますが、そのように自分から関係性を作っていくと、自分の味方をつくり、どもっていてもそれを受け止めてくれる仲間を作り、社会の吃音に対する理解を広げるというものにつながっていくのです。人への関心や人を求めていく力、これは、レジリエンスに関係してきます。

◇イニシアティヴ…問題に立ち向かい、自分を主張し、自分の生きやすい環境に変えていく。
 自分から率先して、何かに取り組むことです。子どもの頃に、何でもいいから、時間を忘れて、一所懸命好きなことにがんばることが、イニシアティヴにつながっていきます。主体的に何かに取り組む子に育てたいものです。何が好きなのか、何に夢中になれるのか、ですが、今はすごいハンディがあります。インターネットの世界で、ゲームがあるからです。これは、結果として子どもにとってかわいそうだと思います。ゲームがなかったら、仕方なくとも関係性を求めたり、たとえば夏休みの宿題でも、昆虫採集で自分はこうしたいと思って主体的に取り組めるのに、今はゲームがあるから、ゲームに熱中してしまいます。すると、自分の寂しさが解消してしまいます。簡単に夢中になる代わりのものがあることは、子どもにとって不幸な時代ともいえます。だからこそ、よけいにゲームを遠ざけて、野外活動をしたり、自然とふれあったり、何かものを作ったりということを、親としてはできるだけ生活の中で心がけてほしいです。僕は、子どものころ、長い時間をかけてゴム動力プロペラ紙飛行機をつくるのを親が手伝ってくれた記憶が残っています。

◇創造性…悩みの中から自分を解放させていくプロセスが、新しいものを創造する。
 僕は、子どもの頃から孤独で生きてきました。これは、今から思うとありがたいことでした。友だちもいなくて、時間がたっぷりあったので、図書館で小説や文学全集を読み、中学になると映画館に入り浸っていました。それはさまざまな人生を知ること、世界を知ることにつながりました。また、僕はずっと日記をつけていました。しゃべれない分、できるだけ自分の気持ち、くやしさ、悲しさを文章に書いて表現していました。これは、後になって、自分の気持ちをことばで表現することにつながりました。日記は後になって考えると、文章力を育てることになりました。文章でも、絵でも、音楽でも、何か自分を表現するチャンネルをもっているということが、すごく大事です。
 できるだけ子どもの頃に、絵を描く、音楽を聞く、楽器を演奏する、小説などの文学や演劇、映画に触れる環境をぜひ作ってもらいたいと思います。僕が親に感謝していることのひとつに、僕の親が、いつも家で本を読んでいたことがあります。父親はいつも机に向かって本を読んでいて、僕の家には本がいっぱいありました。それが当たり前の生活でした。今、そのことはとてもありがたいことだと思います。その父親の後ろ姿を見ていたので、僕は日記を書いたり、ひとりぼっちのときには図書館に行って、本を読んだりしていたのだと思います。そのことが、今、本を書くことにつながっています。いまだに本に埋もれた生活をしているのは、創造性があったからだと思います。
 また、父親は歴史的ないろんな話を僕にして聞かせました。また、当時としては珍しく、アメリカやヨーロッパの映画を観に連れて行ってくれました。本や映画が、自分の孤独を癒やすだけでなく、「人生にはいろんな楽しみ、苦しみがある」ことを教えてくれ、それが、吃音が治らないと理解した時に、「吃音と共に生きる」覚悟につながったんだと思います。

◇ユーモア…自分の欠点や弱点を人ごとのように笑い飛ばし、自分の嫌な気分を解放する。
 障害や病気やいろんな生きづらさや困難を抱えていると、このユーモアの精神がないとしんどいです。僕たちは大阪吃音教室で、どもりをテーマにして、川柳やカルタを作って、自分の失敗を笑い飛ばしています。この、笑い飛ばすということが、困難な状態を生き抜いていく力の源泉になるだろうと思うのです。ユーモアの一番の源泉は、遊ぶことです。子どもの頃から、遊ぶということを大事にしてほしいと思います。遊べない人間は、学ぶチャンスを失ってしまいます。今は、子どもから、遊びが奪われてしまって、子どもが遊べない時代になってしまいました。今こそ、子どもに遊びを取り戻す必要があると思います。自然の中で遊んだり、家族で遊んだりするといいでしょう。熱中して遊ぶと、声を出して笑うことも多いです。おもしろいことを一緒にしたと実感できることが大事です。よく「自信をもて。自信を持て」と言うけれど、僕は、勉強はできなかったし、いいところなどありませんでした。そんな僕は自信など持てなかったのです。でも、長所はないけれども、僕には好きなことがありました。少なくとも、好きな読書や映画があったから、非行に走らなかったのだと思います。何か好きなものを親子で見つけ出すといいでしょう。そのためには、親子でできるだけいろんな経験をすることです。いろんな経験を親子で一緒にする中で子どもがちょっとでも関心を示したり、好きなことはないかとみつけることです。これがユーモアにつながるのではないでしょうか。

◇モラル…充実したよりよい人生を送りたいとの希望をもつ。
 自分の人生に対して「どうでもいい。どっちみち一緒だ」と思うのではなく、自分なりのいい人生、自分自身の納得のいく、豊かな人生を生きるんだというものを子どもの頃から考えることが大切です。経済的に豊かで、社会的に評価されるということではありません。子どもが意識的に身につけられるわけではないので、大人は子どもに、大人になったらこんないいことがあるよ、楽しいことがあるよ、と伝えることです。自分のことだけでなく、他の人の人生でもいいです。こんなことをした人がいる、こんな生き方をした人がいる。そんな偉人伝が昔はたくさんありました。僕はそれに影響されました。キュリー夫人伝、チャーチル伝、ガンジー伝など、いろんなものがあって、そういうものを読みながら、人生とは高潔なものだと思いました。僕は、ガンジーが好きで、ガンジーの生き方に関心を持っていました。今は、「偉人伝なんて・・」と言われるくらい、影を潜めているけれど、人生とはいいもので、こういう生き方をしている人がいるということを語りたい。人生を熱く語れるような大人でありたいと思います。そのことが子どもに影響していくのではないでしょうか。僕の父は、自分の人生を熱く語る人でした。「鶏口となるも牛後となるなかれ」「清貧に甘んじる」など、何度も聞かされました。それが、今の僕の中に生き続けているのは不思議です。(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/6
Archives
livedoor プロフィール

kituon

QRコード(携帯電話用)
QRコード