伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2021年04月

歩んできた道 これからの道 

 時代が、セルフヘルプグループを、そして伊藤伸二を後押ししてくれたと書きました。僕は、偶然の連続、幸運に恵まれたと思います。この文章を書いたときから、時は流れ、社会情勢は変わり、僕たちの周りもずいぶんと様変わりしました。発達障害者支援法の登場など、予想もしなかった選択肢が目の前にあります。どう生きるか、自分で選んでいかなければなりません。
 僕は、こんなときだからこそ、原点に戻り、どもる子どもやどもる人たちが自分なりの幸せな人生を送ることを考えたいと思います。「吃音者宣言」は、「治す・改善する」の選択肢しかなかったときに、こっちの道もあるんだよと別の道を提示しました。「吃音者宣言」が出された、出るべくして出た背景を、今一度かみしめています。
 今、新型コロナウイルスに、それに対応する政府・自治体の対策に、僕たちは翻弄されています。問題の本質を見抜き、把握し、選択し、そしてその選択に責任をもつ、その重要性を思います。

 
東京言友会創立20周年に寄せて
        歩んできた道 これからの道

       全国言友会連絡協議会会長
       元東京言友会運営委員長    伊藤伸二

§ 石油ショック
 世界に奇跡と言われる高度成長を続けてきた日本経済は、1973年、石油ショックに見舞われた。常勝巨人がV9を達成した直後、トイレットペーパー買い占めの騒動が起こった。日本の高度成長を支えた日本人の「夢とロマン」が失われていった。
 言友会の質的転換も、石油ショックと時を同じくしている。『ことばのりずむ』8号が「吃音を治す努力の否定」の特集を組んだのは、1974年であった。これまで誰もが信じて疑わなかった吃音問題解決の大前提「どもりを治す」に、言友会が初めてメスを入れたのである。
 アメリカの吃音研究の第一人者、ウェンデル・ジョンソンが、どもりを軽くする、あるいは治すという前提で「その障害が存在している間はそれを抱えたまま立派に生活する」―『教室の言語障害児』(日本文化科学社 1974年)―と言うのとは、本質的に違う発想の転換であった。
 壊さなければ本当に新しいものは作れない。捨てなければ何事かに集中できない。言友会は、どもりを治すという前提を壊し、そして捨てた。石油ショック以降、日本経済が質的転換をとげていったように、言友会もまた、大きな方向の転換をしていたのである。

§歴史に学ぶ
 「<吃音者宣言>は、どもりを治す努力を精一杯しそれでも治らなかったという経験を持つ人だから言えるのです。私はまだそのような経験をしていません。どもりが治る夢は捨てたくありません」
 このように言う人がいる。
 広島の平和公園には「安らかに眠って下さい。二度と過ちは繰り返しませんから」という文が刻まれた原爆記念碑がある。二度とこの愚行を繰り返してはならないと全世界の人々に訴えている。戦争の体験を記録し、戦争を知らない世代に語り継ごうとする運動がある。「体験をしなければ本当の大変さな分からない。本当に戦争の悲惨さを理解するには、戦争をしてみなければ」このようなことを言う人はまずいないであろう。
 歴史を学び、そこから教訓を引き出し、今後の指針とする。これは、人間の知恵だと言える。
 吃音の問題が1903年の楽石社以来、大きな変化もなく、営々と同じ歴史を繰り返したのは、歴史から学べなかった、つまり吃音者の体験が記録され、語られてこなかったところにあったからだ。
 言友会に結集した吃音者は、自らの体験を出し合い、整理した。吃音治療の効果がなかったこと、治療に目を向けすぎて人生がおろそかになったこと。それは吃音の苦しみだけが語られるのとは質的に違う自分への問いかけであった。多くの吃音者の体験は事実として記録し、語り継がなければならない。いろいろな体験を持つ数多くの吃音者の話を聞く機会は一般的には多くない。一つの文としてまとまれば、何度も、また誰でもが読むことができる。私たちがしてきた失敗を後に続く吃音者にはしてほしくない。このような願いをこめて<吃音者宣言>は起草された。
 しかし、どもり方が様々に違うように、吃音者の体験もまた様々である。治療を受けて治った人、また自ら治療法を考え出し治した人、どもってはいるが悩まなかった人、それぞれの体験は事実だろう。それら様々な吃音者のそれぞれの体験を示すことは難しいし、不可能に近い。「私たちは…」で始まっている<吃音者宣言>は、言友会に集まった大勢の吃音者の体験が基本になっている。「吃音者全ては」と言っているのではない。
 自分のこれまで生きてきた道そのままが書かれていると言って下さった方がいた。どもりに悩み、不本意な生活を送ってきた吃音者にとっては思い当たる部分は少なくないだろう。
 <吃音者宣言>が自分の体験と似ていると思う人は先輩の失敗の経験を生かしてほしい。体験が似ていなくても部分的に共感を覚える人は、生かせるものは生かしてほしい。しかし、自分とは関係ないと無視をする人もいるだろう。受け取り方は人によって様々なはずである。
 罰則を決めてある法律ですら破る人はいる。まして<吃音者宣言>は、誰をも縛るものではない。<吃音者宣言>自体が吃音者の生き方を変えるものでもない。治すという方向の選択しかなかった吃音問題解決に、「こっちの道もあるよ」と選択肢を一つ増やしたのが<吃音者宣言>の意義であった。<吃音者宣言>を参考にするかしないか、それは一人一人の吃音者の選択に委ねられている。そして、その選択に対しては自分自身で責任を持たなければならない。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/4/30

歩んできた道 これからの道 

 77歳という、思ってもみなかった年齢になり、これまでのことを振り返る機会をもてました。改めて、多くの人との出逢いがあり、支えがあり、その中で、不器用ながら、吃音一筋で生きてきたなあという思いを強くしています。あれほど悩んだ吃音ですが、今、その吃音によって生かされている自分を感じています。この年になっても、「吃音と共に豊かに生きる」ことに役立つことならと、新しいことをどんどん学びたいとのエネルギーが枯渇することなく続いています。それも、「吃音を治す・改善する」を完全に捨て去ったが故の、吃音のもつ奥深さに魅了されてのことでしょう。
 言友会創立の時期は、社会全体がエネルギッシュで、勢いがありました。創立20年後に書いた文章であっても、勢いがあり力強いものを感じます。そして、時代に後押しされた幸運を思います。時代が、伊藤伸二を生み、育ててくれたのでしょう。

  
東京言友会創立20周年に寄せて  
          歩んできた道 これからの道

       全国言友会連絡協議会会長
       元東京言友会運営委員長    伊藤伸二

§ 悩んでいるのは私だけではなかった
 成人吃音者に、民間矯正所の果たした役割は決して小さいものではない。
 吃音のことは、友達にも母親にさえ話せなかったという人は多い。「どもり」ということばにさえ神経をとがらせていた人々が「どもり」ということばが飛びかう中で、共に悩みを語り、他人の体験に耳を傾ける。どもっている自分を、他人のどもっている状態を受け入れ、そこから自己の吃音を客観的に見ることができるようになっていった。
 この体験は、吃音問題解決の出発点であり、また最大のポイントでもある。吃音者同志のふれ合い、出会いの場を提供したのが民間吃音矯正所であった。しかし、「どもりは必ず治る」と宣伝する吃音矯正所で多くの人々の吃音は治らなかった。言友会に集う吃音者の多くは、一度は吃音矯正所に通った経験を持つ。当然、吃音矯正所が「治る」と宣伝をしてきただけに吃音者の反発も出てくる。この吃音矯正所への反発も、言友会誕生のエネルギーとなった。
 反発はしても吃音矯正所の利点までも否定はできない。言友会の利点も、吃音者同志の出会い、ふれ合いにあったことは言うまでもない。
 現在と比べて、昔の方が言友会に人が集まり、活気があったと過去をふり返る人がいる。どもりを治す方向で一致していたから活気があったのだともいう。確かに、初期の言友会はどもりを治すための基礎的な練習は週に一度の例会で少し行っていた。しかし、以前よりは話せるようになったことを、基礎的な練習の効果だと思う人は少ないであろう。ある人はどもりながらも仕事に打ち込むようになり、ある人は社会的な活動へと飛び出し、ある人は詩吟に打ち込んだ。その中から話す自信が育ったのだった。
 どのような練習法であっても、週に一度の30分程度の練習で効果が上がるものではない。それよりも、どもる仲間が身近に存在し、共に様々な行動を起こす中で、どもりながらでもやればできるのだという自信が育ったことが言友会活動の意義であった。

§ 若者の明日を築くために
 「確かなことばを求めて」から「若者の明日を築くために」へ、言友会創立4周年記念祭から5周年へのテーマの変化は、極めて重要な意味を持つ。
 吃音が全ての生活から、少しずつ脱皮し、若者として、人として生きる、そのために何をなすべきか探り始めた年であった。吃音にこだわらない幅広い人々との連帯の動きの始まりでもあった。活動は当然、社会に向けてエネルギッシュに展開されていく。
 *みんなが集まる事務所が欲しい→新聞で呼びかけて借りよう
 *借りた事務所が壊れそうだ→新しい建物を自分達で建てよう
 *すばらしい映画「若者たち」が興行価値が低いからとお蔵になりかけている→自分達で全国に先駆けて上映しよう
 *テレビのワイドショーで、反戦を訴える発言をした人がくびになった→その人に5周年記念祭の「生きがい」の討論の司会をしてもらおう

 時には向こうみずの、時にはちょっとした思いつきからの、私たちのいろいろな訴えに耳を傾け、行動を無視せず拾い上げてくれる姿勢が、高度経済成長期のその時代の社会にはあった。
 当時、大学や職場に事務所から通う人がいて、いつも5人ほどは事務所に泊まっていた。大学闘争で大勢の若者が全生活をそこに傾けたように、大学生活を言友会活動に集中させる大学生がいた。仕事以外の時間のほとんどを言友会活動に費やした社会人がいた。その人たちの力なしに、資金0からの東京言友会の事務所建設は実現しなかったし、400名もの人々を集めた5周年記念祭は開けなかった。
 「ひまがあれば」「都合がつけば」という生半可な活動ではなかった。「何でもみてやろう」「私も立ち上がろう」の意欲ある時代だからこその活動であった。そして、吃音が全ての生活からの脱皮に成功した若者ならではの活動であった。そのような活動は、東京だけでなく、京都、大阪、福岡などでも展開された。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/4/29

歩んできた道 これからの道

 今日は4月28日、僕は77歳になりました。根拠はありませんが、僕は思春期から、確実に63歳で死ぬと思っていました。それも、「野垂れ死に」のイメージです。それが、少しずつなくなっていましたが、23歳の時、3か月をかけた日本一周の一人旅で、金沢市の繁華街・香林坊の路地裏に来たとき、「ここが僕が野垂れ死にするところだ」との感じが沸いてきました。僕は今でも毎日かなりクリアーな夢をみますが、香林坊の路地裏が、夢によく出てきた、落ちぶれて死ぬ場所のイメージにそっくりだったからです。吃音の悩みから解放されてからも、この「野垂れ死に」のイメージは、もち続けていました。糖尿病ということもあって、僕が、この年まで生きるとは思ってもいませんでした。なので、とても不思議な気持ちがします。
 何年か前、小椋佳の「生前葬コンサート」に行きました。コンサートの最後に、「顧みれば」という歌を聴きました。小椋佳が、これまでの人生を振り返って作った曲でした。僕は、小椋佳の人生と、自分の人生と重ね合わせました。思っていたより長く生きてきたこと以上に、21歳で吃音の悩みから解放されてからは、ずっと充実した幸せな人生だったなあと、しみじみと思います。そして、多くの人に出逢い、支えられてきたなあと心から思います。
 30年前に離脱した、古巣の言友会の20年の記念誌に掲載するため、まだ全国言友会連絡協議会会長をしていた時代に投稿を依頼された文章があります。77歳になった誕生日の今日、「顧みれば」にちなんで、言友会の歩みを振り返って書いた文章を紹介することにします。

       顧みれば
  顧みれば 教科書のない 一度限りの 人生を
  まあよく 生きてきたと思う
  友の支え 女性の救い 出逢いの恵み 数多く
  運良く受けて 来たと思う
  運命を 満喫したと 思われる今

  顧みれば 過ち挫折 一度ならずの 重なりを
  まあ良く超えて 来たと思う
  力不足 才能超えて 果たせたことも 数多く
  心は充ちて 来たと思う
  運命を 満喫したと 思われる今

  楽しみ 悲しみ 笑いも 涙も
  生きていればこその 味わいと
  瞳綻ばせて 美晴るかす
              https://utaten.com/lyric/yg16010539/


  
東京言友会創立20周年に寄せて
  歩んできた道 これからの道

          全国言友会連絡協議会会長
          元東京言友会運営委員長    伊藤伸二

§はじめに
 一つのグループが、時の社会状況や他の組織の影響を受けずに、一人独自の歩みを続けることはあり得ない。言友会の誕生、成長は世に言う「団塊の世代」の成長と歩調を合わせている。言友会の20年を社会状況に照らしてふり返ろう。

§何でもみてやろう
 1961年、小田実の「何でもみてやろう」が発刊され、翌年には堀江謙一がヨットで太平洋を単独で横断した。「やればできる」との思いを若者に与えた影響は大きい。1964年には東京オリンピックが開かれ、日本経済はオリンピック景気から戦後最高の黄金期、いざなぎ景気へと続いていく。
 1965年、べ平連によるデモが初めて行われ、各党派が握っていた大学闘争、平和運動の主導権は、大学のクラスやサークルの一般学生、そして市民へと移っていった。
 自己の主張のためには「私も立ち上がる」気概が若者にあり、社会の青年サークル活動も活発であった。
 社会のこのような状況の中で、1964年設置された言語治療教室が、切実な要求を持つ親と熱心な教師によって、全国的な設置運動へと広がっていく。
 一方、成人吃音者は自らの吃音を治そうと、民間矯正所を訪れた。夏休みの時期などは、200人、300人と吃音者が集まり、宿舎の部屋に泊まりきれない人が廊下にあふれた。親も教師も吃音を治すことに賭けた。
 1966年秋、吃音者の吃音を治したいとの願いは一つの塊となり、言友会が誕生した。「何でもみてやろう」「私も立ち上がろう」のエネルギーが言友会を生んだのである。
 時を同じくして、障害者が生活と権利を守ろうと団結して立ち上がり、障害児教育の自主的な研究団体も創立され、発展していった。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/4/28

吃音体験を綴る−自分史

 自分の吃音体験を綴る「ことば文学賞」を制定して、20年以上が過ぎました。その活動の中で、たくさんの作品が生まれています。どの作品も、その人ならではの体験であり、優劣をつけるものではないのですが、励みになるようにと、選考者にお願いして、最優秀作品と優秀作品を選んでもらっていました。
 その最初の選考者が、高橋徹さんでした。元朝日新聞社の記者で、文芸欄を担当し、文学作品の評論などをしておられました。自身も詩を書いたり、カルチャーセンターで文章教室の講師もされていました。高橋さんに、その年の作品を送り、選考してもらっていたのです。そして、ことば文学賞の発表の講評の講座だけでなく、文章の書き方の講座も担当してもらっていました。
 その高橋さんが、「自分史の方法をめぐって」というタイトルの文章を書いて下さっていました。自分史を書くときのヒントが紹介されています。
 阪神淡路大震災のとき、避難されていた体育館にお見舞いに行ったことがあります。高橋さんらしいと思ったのは、枕元にお酒の瓶が並んでいたことでした。「地震の時、たくさんの本が、凶器のように倒れてきた」とおっしゃっていたことを思い出します。
 お亡くなりになる直前まで、僕たちのことば文学賞の選考をして下さっていました。高橋さん独特の言い回し、しゃべり方がなつかしく思い出されます。
 「大阪吃音教室の会員の作品が一冊にまとめて出版される日が来るか。それを私は待つようになっている」と、高橋さんは文章の最後に書いておられます。大阪吃音教室では、すでに2冊の体験集宇を発行しています。「吃音を生きる機修匹發訖佑燭舛梁慮浬検廖峙媛擦鮴犬る供修匹發訖佑燭舛離汽丱ぅ丱襦廚2冊です。高橋徹さんのおかげです。ありがとうございました。たくさんあるセルフヘルプグループの中で、自分の体験を綴ることを、活動の主要なものにしているところは、あまりないでしょう。

   
自分史の方法をめぐって
                         高橋徹(詩人)

 私の周りに、二人の吃音者がいた。二人とももの書きであり、現実の職場では管理職であった。立場上、発言しなければならないことが多いが、言葉は常に出にくかった。
 しかし私を含めて仲間は、そのことを気にもしなかった。二人の重症ともいえる吃音に、すっかり慣れてしまっていたからだ。
 縁があって、大阪吃音教室の集まりに三回出た。そしてその書かれた文章によって、私は吃音者の苦しみを初めてじかに教えられた。私の二人の友人も、そのような悩みを胸ふかく秘めていたであろうと知って、いまさらのように私は恥じた。

 「名前を呼ばれて返事する、そのハイが出なかった」
 「教室で、いつ先生から当てられるか、その恐怖にいつも責めさいなまれていた」
 「親をうらんで反抗し、きょうだいとはけんかの繰り返し。打ち明ける友人一人もなく、まさに地獄の毎日だった」
 「吃ることをひたすら隠し、話す場面から徹底的に回避するという、心理的にも重い吃音者になっていた」

 これらは大阪吃音教室に参加するどもる人の作品の一部である。それは最近の大阪吃音教室の講座の席で書かれたものであった。執筆時間は一時間足らず、八百字以内にまとめる、という取り決めだった。
 その夜の集まりで文章を書くことは、あらかじめ全員に知らされていたとはいえ、果たして書くことが出来るか。短い文章ほど、難しいのだ。そのことを知っている私は、不安だった。
 しかし、提出された作品は、二十五編にも達した。それらに目を通した私は、いずれも読める文章になっているのを知って驚嘆した。文字の間違いや表現のまどろこしさ、句読点のおかしさなどはあったが、簡潔に<吃音人生の断面>が描かれていたのだ。
 その夜の主題は、出席者のうちの一人の提案により<自分史>と決まった。いうまでもなく、吃音体験を書くことである。
 このように主題がまず決められたのがよかった。その瞬聞、出席者はそれぞれ無数の体験を思い出したのに違いない。
 よくいわれるように、まさに走馬灯さながらに追憶が頭をよぎったことだろう。
 一つの思い出が浮かべば、それに関連して似通った思い出がわいてくる。それは更にまたべつの連想を生む。
 混乱する。やみくもに書き出せば、記憶の糸はもつれるばかりだ。
 さて、それらの思い出―体験のどの部分に光をあてるか、である。主題は吃音体験だが、どの一点に絞るか、が重要になってくる。
 こんな時は、机から離れて散歩でもするのがよい。しかし、この時は時間は決められていて、そのような余裕はない。

 いよいよ執筆だ。
 が、まだ大切なことがある。いかに書き始めるか、である。「冒頭の数行を考えよ。そこにエネルギーを集中することだ。すべり出しさえうまくいけば、あとは楽だ」と、私は出席者に話していた。
 ―上手に書こうなどと思わないこと。
 ―奇妙に気取った表現は無用である。
 ―事実を淡々と。
 ―肩に力を入れないで。
 とも話していた。これらは文章作法の常識だが、確かにこの通りなのだ。それに全体の構成も忘れてはならない。大事なところは、念を入れて書くということも。
 大事なところとは、その文章の中心点である。ポイント、やま、核といってもよいだろう。最も強く述べたいところである。そこは丹念に、微細に表現することだ。
 繰り返すようだが、提出された作品は以上の点を頭において書かれたようであった。それらを拝見しつつ、私はバカげたことをふと考えていた。苦しみをもつ者は幸い、とはあるいは大阪吃音教室のどもる人たちのことか。なぜなら十分に読むに耐える文章を、たちまちのうちに書きあげることが出来たから。ほんとうに、そのように思えたのだ。

 敬愛する作家・真継伸彦氏が吃音者と知ったのは、『吃音とコミュニケーション』からだった。よい声で堂々と話す真継氏だが、そう言えば常に大きく息を吸い、ゆったりと間をとって話されていた。
 『吃音とコミュニケーション』には、真継氏は吃音者であることを自ら公表することによって、おのれを強くしたとある。
 苦悩を克服するために、文章を書く―確かに、すぐれた文学作品はそのようにもして生み出された。
 いつの日か、大阪吃音教室の会員の作品が一冊にまとめて出版される日が来るか。それを私は待つようになっている。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/4/26

伊藤伸二の自分史−どもる僕が舞台に立った日

 僕が吃音に悩むようになったきっかけが、小学2年生の秋の学芸会で、せりふのある役を外されたことにあるとは、これまで何度も話をし、書いてもきました。そのことをよく知っている竹内敏晴さんが、大きな舞台の主役をさせて下さいました。主役候補は二人いたのですが、僕の「どもる人間が、舞台で主役をする」の願いを知っていて、僕の実力というよりも、ひいきで僕を選んでくれたのだと思います。厳しい稽古でした。何度も何度もセリフの稽古をしたのをよく覚えています。完全にセリフがからだの中に入ったのか、いまだにセリフを言うことができます。今から紹介する文章は、いつ、どの状況で書いたのかは不明ですが、下書きのようにして残っていました。そのまま、紹介します。
 また、この舞台に関して僕の著書『新・吃音者宣言』(芳賀書店・絶版)に、竹内さんが推薦文のような形で書いて下さった文章があります。舞台に関する部分だけを紹介します。
 この文章にも書いてありますが、大勢の人の前ではほんどどもらなくなっていた僕が、この舞台をきっかけに再びどもるようになりました。そのことは「竹内敏晴さんに壊された私のことば」のタイトルの文章を「竹内敏晴特集」の「学芸総合誌・季刊『環』(藤原書店)に書きました。またいつか紹介したいと思います。

  
どもる僕が舞台に立った日

 「春になると、激しい心がすえて、春になると、決まって毎年、オラの頭がこけになる」
 秋浜悟史の戯曲の「ほらんばか」を演じる、大きな私の声が、狂気の青年の声が、会場いっぱいに響き渡る。舞台の観衆の顔は私には全く見えない。スポットライトを浴びて私はまっすぐに立っていた。
 その年の竹内敏晴さんの夏の「竹内敏晴・公開レッスン」のメイン舞台が「ほらんばか」だった。東北地方のある寒村が舞台で、春になるとほらんばか(ほら事語り)になってしまう工藤充年は、昔、仲間と集団農場を経営していて、不在の間に牛をすべて伝染病で死なせたことで、ほらんばかになってしまう。最後には、恋人の首を絞めて殺してしまうというエネルギーほとばしる主人公を演じた。
 舞台が終わって、観客にあいさつのために中央に立ったとき、私は長い間のこだわりであった「どもる人間が、劇の主人公をする」に、とうとうひとつの区切りをつけたのだ。
 私を長い間苦しめた吃音の悩みの出発は、小学校の2年生の秋の学芸会だ。劇で主役をさせてもらえなかったのは、私がどもるからだ。「どもりは悪いもの、劣ったもの、恥ずかしいもの」という吃音に対する強い劣等感をもつきっかけとなったのが、劇で主役をさせてもらえなかったことにある。
 21歳の夏まで、私は自分を表現できずに生きてきた。夏に初恋の人との出会いや同じように吃音に悩む人に出会って私は自分のことばを取り戻した。どもりながらどんどん話していった。あれほど苦手だった電話も人前での話もできるようになり、私は大学の教員になった。大学で講義をしたり、大勢の前で講演を数限りなくし、第1回世界大会という大きな舞台にも立った。現実にはどもることは少なくないが、吃音には全く悩まなくなった。楽しく充実した人生を歩んではいるが、やり残した仕事があるような気がずっとしていた。
 竹内敏晴さんは、私の吃音へのこだわりとなった劇のことを知っていたのか知らないのか分からなかったが、東京での舞台の主役に私を指名してくださった。初めての本読みの日、竹内さんはノートに「これでは表現者としては全くダメだ、絶望的になる」と書いていたそうだ。21歳の頃からすればあまりどもらなくなっていた私は、説明説得的な口調が身につき、劇の中での表現者としてのことばにはほど遠いものだったのだ。
 3ヶ月ほど集中して稽古に励んだ。そして舞台。
 「こんなに感動した舞台は初めてだ」と若い演劇関係者が竹内さんに話したそうだ。
 幕が下りる共演者と並んであいさつするため舞台に立ったとき、言いようのない満足の、あたたかいものが胸にこみ上げてきた。大勢の人の前で私は、小学2年の秋からの私の吃音のこだわりの長い長い旅が、ここでひとつの終わりを告げたのだった。
 普段はどもっても大勢の人の前で話すときはほとんどどもらなくなっていたのが、不思議なことに、この舞台での竹内と敏晴さんの厳しい稽古の結果なのか、秋になると、再び、人前で話すときもどもるようになった。


 
伊藤伸二とその仲間たち
                      竹内敏晴
 伊藤さんとわたしは斜面に立つ小さなあづまやに座っていた。まわりに繁っている樹との間から初夏の空が見え、もうヤブ蚊が唸っていた。
 伊藤さんは小さな台本をひろげて、熱のこもった声で朗々とせりふを読み上げた。ずいぶん稽古してきたな、とわかる調子だった。ほとんど吃らない。まっすぐにすらすらとことばは進む。しかし、聞いていたわたしはだんだん気持ちが落ち込んで来て、なにも言えなくなった。汗ばんで真っ赤な顔が、実にいきいきと躍るように声張り上げているのに。
 この日のわたしの手帳には「ほとんど絶望的になる」とある。つきあって数年、とびとびには違いないが、かなりレッスンもして来、ことばに対する考えは共通しているつもりでいたのだが、からだにはなにも滲みていなかったということだろうか。「説得セツメイ的口調の明確さによる言い急ぎを、一音一拍の呼気による表現のための声にかえてゆくこと」
 伊藤さんはこの年の4月からわたしの、大学での講義に出席するために大阪から名古屋まで毎週通って来ていたのだった。その講義の前の1時間ばかりを、かれは、夏にやる公開レッスンでのかれの持役の稽古にあてたいと言うのだった。その第一回のことである。
 この時まだわたしは伊藤伸二の決意をさだかには知っていなかった。かれはこの夏、いかにしても舞台に立って、一つの役−これは短いが、ことばが力強くリズムの美しい劇で、わたしはかれをその情念のほとばしる主役に指名したのだった−しかも主役を「やり切る」こと、にいわば自分を賭けていたのだということを。
 この本を読まれたら分かることだが、かれの、どもりへの苦しいこだわりは、小学校2年生の時、学芸会のせりふのある役から外されたことから顕在化する。かれにとって、この夏の舞台はそれ以来40年の苦悶に決着をつけ、次のステップへ越え出るための闘いにほかならなかったことを、わたしは後になってしかと知ることになる。
 だが、かれの語り口の、明晰で丁寧で説得的な口調は容易に崩れなかった。たぶん、ここに現代の吃音の背負っている重荷が凝縮しているのだろう。運動のリーダーとしてのかれには殊更それがかかっていることもあるのだろうが、ほかの人にとっても自分の情念なりイメージなりを豊かに外にあらわしてゆく、息づかいの深さ強さや、声音の高低の自在や、リズムの激しい動きなどは、より無自覚に、抑圧されているに相違ない。その日わたしは、伊藤さんの熱意と向かい合うために改めて身を正した。
 上演は凄まじい気迫だった。東京の劇団にいる青年が幕が下りた後訪ねて来て、これほど感動した芝居はなかった、と息をはずませて言った。
『新・吃音者宣言』(芳賀書店)―伊藤伸二さんとその仲間たち―

 
 日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/4/25

伊藤伸二の自分史−どもってもどもっても

 それにしても、いろいろなところでたくさんの文章を書いてきたものです。いつ、どこで、何のために書いたものか、さっぱり覚えていないのですが、鉛筆で下書きされたものがいくつかみつかりました。体験したことは同じですが、導入や展開の仕方で微妙に違ったものになります。
 今日、紹介する文章も、いつ書いたものなのか不明です。自分で読んで、なつかしく思います。

  
どもってもどもっても
                          伊藤伸二

 どもりが治らないと、私は何もできないとずっと思っていた。だから、どうしても、どもりを治したかった。21歳の夏、どもりが治ると宣伝する東京正生学院に行った時、私のどもりが治って、私の人生は大きく変わると思っていた。4ヶ月の必死の訓練にもかかわらず、私の吃音は治らなかった。では私は何もできないのか。
 私の家はとても貧乏だったので、大学1年生の東京での大学生活のすべてを、自分でかせがなくてはならない。どもっていれば何もできないと思っていた私でも、黙って配るだけの新聞配達はできると思っていたから、大学生活は新聞配達店の住み込みからスタートした。東京の大学へ行った大きな理由のひとつは、どもりを治すことにあった。東京正生学院という、当時一番信用できると思っていた所に行けるからだった。ところが、新聞配達を続けていては、肝心の吃音矯正所に行くことができない。そこで、大学の夏休みに入って、私は新聞配達店をやめ、吃音矯正所の寮に入った。どもりが治れば、新聞配達以外のアルバイトもできるからと思ったからだ。
 夏休み中、30日間、寮に入って訓練したが、私のどもりは治らなかった。新聞配達店を引き払っているので、住むところから探さなくてはならない。3帖一間の安いアパートを探したので、アルバイトを探し、アルバイトをして生活をしなければならない。大きな不安があるはずだが、全く不安は消えていた。それは、どもりを治すことにあきらめがつき、これまでどもりを隠し、話すことから逃げていた生活をやめる覚悟が夏休みの間にできたからだ。
 遊びの金をかせぐためのアルバイトなら、つらければやめるだろう。しかし、生活のためだから、どんなに辛くてもアルバイトをしなければならない。働かないことは、大学をやめること、東京を離れることを意味する。どっちみちしなければならないアルバイトなら、自分を変えるきっかけにしようと思った。
 アルバイトを再開するにあたって、私はひとつのルールを決めた。どんなに条件のいい、人間関係のいいアルバイト先でも、1ヶ月で辞めること。どんなに苦しくても1ヶ月は絶対に続けることだ。
 工場で汗水流して働き、デパートや商店ではどもってどもって応対した。仕事を選ぶことは一切しなかった。お茶の水にあった学徒援助会には、大学生の求人が毎日掲示されていた。そこに掲示されているアルバイトを片っ端から応募していった。
 大学の4年間、私はありとあらゆる仕事に就いた。しなかったのは、靴磨きくらいではないだろうかと思うぐらい、種々雑多の仕事をした。その中で、楽しかった、恋も芽生えた楽しいバイトもあったが、苦しいことの方が多かった。特に苦しかったのは、神田のガード下の「美人座」というキャバレーの1ヶ月だ。ホステスのマッチの火で呼びつけられて、暗がりの中で注文を聞く。「鶏の唐揚げ5人前と、ビール3本」。いろんな注文の中で、この注文が一番困った。調理場に注文を通す。「とととと…」ひどくどもった。「忙しいのに、早く言え、バカ!」何度も怒鳴られ、なぐられたこともあった。すぐにでも辞めたかったが、私にはルールがある。どんなに苦しくても1ヶ月は続けなければならない。それでも続けられたのは、採用してくれた支配人や、優しいホステスの励ましだった。
 学習研究社のこども百科のセールスも辛かった。インターホンを押して、家の人が出てきてくれても、何も話せずに立ち去ったこともあった。しかし、この苦しいアルバイト生活の中でも私は大きなものをつかんだ。どもりが治らなくても、どもりながらでも、できない仕事は何ひとつないのだということを。どんな仕事に就いても、私は生きていけるという大きな自信を私はつかんだ。
 どんなに苦しくても、どんなにどもっても、アルバイトが続けられたのは、私の家が貧乏だったからだ。逃げることを許さなかった我が家の貧乏に今は感謝している。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/4/24

視覚障害の人のためのラジオ番組での対談 

 重光萬石さんのラジオ番組「ラジオ天国! 重光萬石です」にゲストとして呼んでいただいて、対談した60分間の話の内容を紹介してきました。今日で最後です。1999年の収録でしたが、話している内容は、今と変わりありません。一貫性がある、ブレていないということだと、自分では思っています。自分の信じる道をまっすぐに歩くことができていること、ありがたいと思います。何度も書いていますが、相手にいい質問をしていただくと、本当に気持ちよく話せます。相手が話したいことを聞いていくのは難しいことかもしれませんが、対話をしていく中で、それはキャッチできるものなのかもしれません。それをキャッチできるのが、対談の名手と言われる人なのでしょう。重光萬石さんに僕はそれを感じました。ネットで「重光萬石」で検索すると昔の画像と、今の画像も出てきて、お芝居など広範囲に活躍されているのを知って、とてもうれしくなりました。
 「トロ」を食べに誘ってみようかな。


   
ラジオ天国! 重光萬石です

重光 話が元に戻りますが、3歳くらいのことばを覚えかけたときの子どもは、周りの大人たちと一緒に喋りたいと、その気持ちの方は勝っているんだけども、発声する訓練がまだ十分できてなくて、そういった時期にどもりとすごく似た症状を呈してしまうと、そのときにあんまり厳しく反復練習させたりすると、それがどもりにしてしまうことがあるんだということを聞いたんですけど、それはどうなんですか。
伊藤 それは可能性としてありますね。子どもが喋っている時にちゃんと言いなさいとか、もっとゆっくり言ったらそんなにつっかえないのに、というふうに厳しく言われ続けると、もう喋りたくなくなるし、喋っていることに対して罪悪感をもってしまう。そうすると、身を固まるし、喋れなくなります。そこらへんからどもり始めるという可能性もないことはないですね。
重光 じゃ、喋ることに対して悪いことだとか怖いものだとかそういうふうに思わせないということがまず第一番ですね。
伊藤 楽しくおしゃべりが一番大事です。また、自分の喜怒哀楽の感情を表現していくことが大事で、流暢にはっきりと喋ることが大事なのではない。それを、どもりに似たことばの繰り返しなどを、注意されたり、なめらかに話すことを押しつけられると、どもり始めることが起こることがありえますね。
重光 どもりは、それを克服しようとするよりもどうつき合っていくかが、なんか重要みたいに感じるんですけども、これに対する療法として論理療法というものがあるんですか。これはどういものですか。
伊藤 はい。これは、どもりの療法ではなくて、心理療法のひとつなんですが、考え方次第で悩みが消える、簡単に言えばそういうことなんです。何かものごと、できごとが起こって、そのことで悩んだりくよくよしたり、もう二度とこういうことはしたくないとか思う。それは、そのできごとが直接に悩みを生むのではなくて、その真ん中に必ずその人のもっている考え方、受け止め方がある。それを非論理的思考といいます。例えば、人前でどもってひどく落ち込むのは、「人前でどもるのは恥ずかしい、みっともないことだ」とか、「人前では流暢に話すべきだ」とかの考えを強くもっているからです。すると、どもって失敗したときに、ああ俺はもうだめな人間だと思ってしまう。それを、「人間、流暢に喋るにこしたことはないけれど、人前でどもったからといって自分がダメ人間ということでもない。流暢に喋ることばかりがすばらしいことではなかろう」と考えれば、人前でどもってもそれほどくよくよ悩んだりすることはない。
重光 なるほど。そういうふうに考え方を変えていくということなんですね。よく結婚式の披露宴の司会を、みなさんやられる場面が多いと思うんですけれど。僕もプロの端くれとしてよく皆さんからどういう風に上手にやったらいいですかと聞かれることがあるんです。その時、みなさんが本当は聞いてくるのは、どういうふうに流暢にやったらいいですかというニュアンスなんですよ、よくよく聞いてみると。でも、本当は別に流暢じゃなくても、内容がちゃんとしっかりして、次にやるのはこれです、次に紹介するのはこれですと、内容がきちっと的確に表現できてればそれが一番いいことで、案外司会者に求められているものは、流暢に喋ることよりも、きちっと会を進行させていくことなんですよね。だから、そこで大きな失敗さえなければ、別にことばにつっかえてたって言い間違いしたってそれはそんなに気にすることじゃないというふうに思うんですよ。
伊藤 ほんとうにそうだと思いますね。結婚式で思い出すのは、どもる人が就職とか結婚とかいろいろ大きな壁にぶち当たることがあるんですが、男性の人生のイベントで最後にぶち当たるのが新郎の父親としての結婚式の挨拶なんです。今までどもりを隠して、それなりにしのいで生きてきた。妻にも息子にも自分のどもりについて話していないし、周りにも気づかれていないほどにまあまあ喋れる。どもりそうな緊張する場面は今まではできるだけ逃げてきた。だから、周りの人間は自分がどもりだとは知らない。でも、挨拶文の中に、自分の言いにくい固有名詞などがあると言えるだろうかの不安が出てくる。新郎の結婚式の挨拶は病気で休むわけにはいかない。そうなると、流暢に喋れるだろうかとものすごくノイローゼになるくらい悩む。そういう人の相談にのることがあるんですが、簡単な処方箋があります。
重光 どうするんですか。
伊藤 新郎の父親のあいさつで流暢にぺらぺらとしゃべってもなんのおもしろみもない。本当に感激して、つっかえてしどろもどろになってするあいさつの方が本当のあいさつだから、あんたはむしろどもってどもってどもってあいさつしたらと教えるわけです。極端に言えば、絶句して涙を流すだけで、父親としての歓びは伝わる。
重光 なるほど。そういうことなんですね。でも、本当はできたらそのことが家族にも、お父さんどもってるからというふうに言えるようになってくると、もっと家族関係もいいと思うんですけどね。
伊藤 それがすばらしいですよね。
重光 でも、これにどういうふうに上手につきあっていくかということはなかなか難しい問題もたくさんあると思うんですが、今、伊藤伸二さんは大阪吃音教室で毎週1回、どもりと上手につきあう方法という講座をされています。日本吃音臨床研究会から『吃音と上手につきあうための吃音相談室』(絶版)という本ができております。今日は伊藤さんにいろいろとお話をうかがったんですが、結局は考え方を変えることなんでしょうが、なかなか伊藤さんのように達人になるには・・
伊藤 いやいや、達人じゃなくて、人生を誠実に、ていねいに生きることだけですよ。
重光 誠実に、ていねいに生きる。そうですか。今度、トロ、食べに行きましょうか。
伊藤 はははは。
重光 今日は、立て板に水のように、ぺらぺらとしゃべることよりも、誠実に、まじめにていねいにおしゃべりすることが大事なんだなあと身に染みてきました。やっぱり我々も、つっかえないように言わなきゃと思ってしまいますが、本当はそんなことよりも、何を喋るか、何を取り上げるかが、一番大事なことなんですね。これから勉強し続けようと思います。(了)
      「スタタリング・ナウ」 2001.6.16 NO.82 日本吃音臨床研究会


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/4/23

視覚障害の人のためのラジオ番組での対談 

 重光さんがいい聞き手で、いい質問をして下さるので、僕は刺激を受け、自由に気持ち良く話しているのが分かります。「ぺらぺらぺらぺら喋る人間がええとは限らないじゃないか」という僕のことばに、「ぐさっ」とユーモアで反応しながら「そうですね」と返して下さる重光さん、人間味あふれるすてきな方でした。
 番組の途中で、熊本の人から吃音についての質問の電話が入るなど、リスナーがいるラジオ番組ならではの臨場感ある様子を紹介します。

  
ラジオ天国! 重光萬石です

重光 伊藤さんの文の中で、吃音矯正所に行った時にそこで初めてどもりのことを皆でフランクに話せたと、そのことが伊藤さんにとってものすごく大きかったんだなということは分かるんですけど、まず逃げない、隠さないということだったんですね。
伊藤 それが大事でしょうが、まず初めは、辛いこと、人に話したくない悩みを自分のことばで話すことでしょうね。僕はこんなことが辛い。こんなことが苦しかったんだよということを話し、聞いてもらった。それが出発ですね。僕は、どもりの悩みを母親にも話せなかった、友だちや教師にも話せなかった、誰にも話せなかった。ずっと自分だけが悩んでいると思っていたのが、仲間と出会って話をした。聞いてもらえた、この安心感、喜びは、何物にも変えがたいものでしたね。
重光 なるほど。そういった安心感とか喜びとか、そういったものがあったことがさらに伊藤さんがさっきおっしゃったみたいに、どもる人の会を作ってまた積極的にやろうという土台になれたんでしょうね。
伊藤 全くそのとおりです。
重光 なるほど。
 ここで熊本県の山下さんからお電話で質問が寄せられてます。山下さんは小学校2年生のとき、本を読むのがすごく嫌だったそうなんです。現在もどもる傾向があり、カキクケコ、パピプ、タチツテトということばが言いにくいそうで、今でもちょっと不安でたとえば自己紹介とか女性と話をする時と、電話の時にすごく不安である。家の人はそんなことないよと言ってくれるんですけども、これは治るものなのでしょうかということですが。
伊藤 全く打つ手はないですね。
重光 えっ、打つ手はない、そんな、なんか突き放されたら山下さんの立つ瀬がないと思うんですけど。
伊藤 いやいや、特定の音が出ないのを出るようになれば、どもりの問題の100%が解消されたことなんですよ。どもりが治ったということになる。今世界的にもこうすれば今まで言えなかった音が出るようになるという方法がない。誰にもそれは教えられない。だから、自分自身が恥をかきながら話していくうちに、最近ちょっとましになったなあという程度です。僕の場合、未だに寿司屋で「ととととろ」となりますよ。僕は、仕事柄、人前で喋ることには慣れてますよね。ところが、「とと・・・」これを「とろ」とすっと言えるようになるには僕自身が出来ませんもの。
 だから、あきらめていますよ。寿司屋で「とろ」が本当に食べたかったら、一緒に行った人間に「ちょっと、とととろを注文してくれ」と頼めることが平気になると、たとえ「と」が言えなくても構わないとも思える。でも、電話の場合、無言の状態だったら切られるので、少なくとも「とととと」と受話器の向こうではどもっている人間がいるんだよと言う、そういうメッセージを出すためには、「とととととと」と言っていますが。
重光 でも、山下さんもこうしてよくお電話下さるんですから、電話もできるし、何よりも家の人がそんなことがないという。さっきのどもりが成立する3つの条件の中で、家の人がどもりだと思ってない程度なら、後は、ご本人が自分はそうじゃないと思ったらいいわけですね。
伊藤 そうなりますね。でも、「どもりじゃない」なんてことは、おそらく思えないから、「どもっていても大丈夫」だと思う方が大事なんですよね。
重光 あっ、なるほど。そうであっても大丈夫。ちょっとくらいつっかえたからどうだと。
伊藤 そうそう、ぺらぺらぺらぺら喋る人間がええとは限らんじゃないかと。
重光 ぐさっ。そうですよね。
伊藤 つっかえつっかえでも、誠実に丁寧に喋る人の方がすてきだなあと思う人もいるし。
重光 それはそうですよね。なるほど。(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/4/22

視覚障害の人のためのラジオ番組での対談 

 昨日は、重光さんが番組中に読んで下さった、僕が書いた「初恋の人」を紹介しました。
 重光さんの朗読のバックグラウンドミュージックとして「忘れな草をあなたに」が流れていたのです。なんとも幸せな時間でした。
 対談の続きを紹介します。
 「伊藤さんを見ていると、どもりを楽しんでいるように、うまく共存しているように感じる」との、重光さんのことばが印象的でした。実際に僕は、吃音について、いい聞き手が質問をしてくれると、吃音について話すのがとても好きです。以前、教育研究家で、「自分で決めたことを自分で実現する」セルフラーニング研究所を主宰する平井雷太さんと、20人ほどの人の前で「吃音談義」をしていたとき、二人とも楽しくてしょうがなかったことがありました。その時、周りの人につい、「どもりっていいでしょ。こんなにおもしろいんですよ」と二人で言ったことがあります。やはり僕は吃音について話すのがが好きなんですね。いい聞き手だった重光萬石さんとの対話は、本当に楽しいものでした。
 前回の続きです。

  
ラジオ天国! 重光萬石です

重光 伊藤さんの思い出の曲、菅原洋一で『忘れな草をあなたに』を聞いていただきました。
 伊藤さんは小学校2年生の時以降、吃音に苦しむ体験をされているんですけども、今もどもりの現役だとおっしゃっていましたが、本人から言われて初めて、あっ伊藤さんがどもるのかと思えるくらい、今日は少なくともそんな感じですよね。どもりの条件で、自分が悩みを持ったらどもりだということだったんですけど、伊藤さん、悩んでられるんですか。
伊藤 いや、今はもう全然悩んでません。
重光 じゃ、もう卒業じゃないですか。
伊藤 いやいや、それがですね、卒業なんだけど、卒業したくないんですよ。
重光 えっ、どういうことですか。
伊藤 今でもすごくどもる時はあるんです。例えば、言いにくい音がありまして、それを巧妙に言い換えたりはしてますけど、言い換えのできない固有名詞、自分の名前であるとか駅の名前であるとか。それとかお寿司屋さんで「とととと、・・・とろ」を注文しようと思ったら、確実にこうなるわけですよ。悩んではいないけれど、どもりと自覚していたいんです。周りの人は不思議でしょうね。僕がお寿司屋さんで「とととと」と言ってどもっている状態を見ると、この人はすごいどもりだなあと思うでしょうし、普段大学などで講義したり人前で喋ったりしている時は、この人どもり治ったんじゃないかなあと思うでしょうね。
重光 はあ、これ、変な言い方ですけど、伊藤さんを見ていますと、どもることを楽しんでいる。なんかそれとうまい具合に共存している感じがする。
伊藤 はははは。そうですね。
重光 ただ、日本中、もしかしたら世界中にたくさんいらっしゃるどもっている方の中には、できれば治してしまいたいと思っている方もたくさんいらっしゃると思うんですよ。そういう方たちにとって、治すことっていうのは、可能なんですか。
伊藤 僕が34年前にセルフヘルプグループを作った頃は、本や新聞も「どもりは必ず治る」という情報しかなかった。だから、僕たちもどもりは治るはずだと信じて、一所懸命治すために訓練をしたんです。上野の西郷さんの銅像の前で演説をしたり、山手線の電車の中で演説をしたりしたんだけど、全然治らなかった。僕だけじゃなくてほとんどの人が治っていない。世間一般に言われているようには、簡単に治るものではないと思ってきた時に、治らないなら、仕方がないと、治すことをあきらめた時に、僕の吃音症状も変わりましたね。
重光 そうですか。自分の考え方を変えたんですね。
伊藤 自分の考え方は、自分で変えることができますね。
重光 僕の高校1年のときの担任の先生はものすごくよく喋る先生なんですが、実はその先生が、小学校のときにものすごくどもってたんですって。そのときの担任の先生がわざとその先生を学級委員にした。学級委員になると「起立」とか「礼」とかいろんな号令をかけたり、会議のときに司会したり議長しますよね。そのことがご本人はよかったと。僕が担任になってもらってる時には全然どもらなかったというか、むしろ人の何倍もよく喋る先生でした。そういうことで言うと、治ったんじゃないのかなと思うんですけど、それはどういうことなんでしょうか。
伊藤 コントロールができているんですが、おそらくその方も特定の音は、今だにどもり、完全に治ったわけではないと思います。どもりに劣等感を持って、恥ずかしいことだと思うと、どもりを隠すことが起こりますね。隠すということは話す場面から逃げますね。喋る場から逃げるので、ますます自信がなくなって言語訓練の場からは一番遠い世界にいるわけです。ところが、俺はどもりなんだからどもるのは当たり前だと思って日常生活の場に出ていく。その人の場合、学級委員になる。人前で号令をかけ、話をする、それが言語訓練の場になったんでしょうね。どんどんどんどん喋る、その日常生活の中でしか言語訓練というのは成り立たないんです。
重光 日常生活の中で、ちゃんと意味のある、喋りたい、楽しいことを喋ってもらうと。
伊藤 そうです。だから、僕もどもりの矯正所で治らなかったけれど、自分で会を作った時にリーダーになって、会合の司会をしたり新聞社とか放送局に、どもってどもってどもりながら電話をかけた。それまではどもっていると人は話を聞いてくれないのではないかという恐れがあったんだけど、一所懸命喋ってみるとどもってても人は聞いてくれる。「あっ、なんだ今までどもりを悪いもの、劣ったものだと思っていたが、そうでもないぞ」と思い始めると、喋る回数がどんどん増えますね。それが結果としてどもりを軽くしたりするです。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/4/21

視覚障害の人のためのラジオ番組での対談 

 昨日のつづきです。重光さんが、僕の自分史「初恋の人」を朗読して下さいました。そのバックグラウンドミュージックとして流れたのが、「忘れな草をあなたに」でした。どんな曲でもいいからリクエストをと言われたようで、初恋の人を想う気持ちで選んだのだと思います。多分、以前ブログでは紹介したことがありますが、「初恋の人」も紹介します。この初恋の人とは、この文章を書いた1年後、毎年年末年始行っていた玉造温泉に行った時、松江市で再会しました。二人とも年相応に容貌は少し変わっていましたが、待ち合わせ場所では、すぐに彼女だと分かりました。いろんなことを話して、5時間があっという間に過ぎました。初恋の人と出会えるとは、思ってもいなかったことでした。


  
ラジオ天国! 重光萬石です

重光 今、ここに、伊藤さんが実際に小学校の頃からの思い出なんかをまとめた一文がありますので、みなさんに紹介します。タイトルは『初恋の人』。(『新・吃音者宣言』(芳賀書店)44ページ参照・萬石さんの素晴らしい朗読の後、曲が流れる)

     初恋の人
                           伊藤伸二
 小学2年生の秋から、どもることでいじめられ、からかわれ、教師から蔑まれた私は、自分をも他者をも信じることができなくなり、人と交わる術を知らずに学童期、思春期を生きた。凍りつくような孤独感の中で、不安を抱いて成人式を迎えたのを覚えている。
 自分と他者を遠ざけているどもりを治したいと訪れた吃音矯正所で、私の吃音は治らなかった。しかし、そこは私にとっては天国だった。耳にも口にもしたくなかったどもりについて、初めて自分のことばで語り、聞いてもらえた。同じように悩む仲間に、更にひとりの女性と出会えた。吃音矯正所に来るのは、ほとんどが男性で、女性は極めて少ない。その激戦をどう戦い抜いたのかは記憶にないが、二人で示し合わせては朝早く起き、矯正所の前の公園でデートをした。勝ち気で、清楚で、明るい人だった。
 吃音であれば友達はできない、まして恋人などできるはずがないと思っていた私にとって、彼女も私を好きになっていてくれていると実感できたとき、彼女のあたたかい手のひらの中で、固い氷の塊が少しずつ解けていくように感じられた。
 直接には10日ほどしか出会っていない。数カ月後に再会したときは、生きる道が違うと話し合って別れた。ところが、別れても彼女が私に灯してくれたロウソクのような小さな炎はいつまでも燃え続けた。長い間他者を信じられずに生きた私が、その後、まがりなりにも他者を信じ、愛し、自分も愛されるという人間関係の渦の中に出て行くことができたのは、この小さな炎が消えることなく燃え続けていたお陰だといつも思っていた。
 この5月、島根県の三瓶山の麓で、どもる子どもだけを募ってのキャンプ『島根スタタリングフォーラム』が行われた。このようなどもる子どもだけを対象にした大掛かりな集いは、私たちの吃音親子サマーキャンプ以外では、恐らく初めてのことだろう。島根県の親の会の30周年の記念事業として、島根県のことばの教室の教師が一丸となって取り組んだもので、90名近くが参加した。
 「三瓶山」は、私にとって特別な響きがある。彼女の話に三瓶山がよく出ていたからだ。
 「今、私は他者を信じることのできる人間になれた。愛され、愛することの喜びを教えてくれたあの人に、できたら会ってお礼を言いたい」
 30人ほどのことばの教室の教師と、翌日のプログラムについて話し合っていたとき、話が弾んで、何かに後押しされるように、私は初恋の人の話をしていた。その人の当時の住所も名前も決して忘れることなくすらすらと口をついて出る。みんなはおもしろがって「あなたに代わって初恋の人を探します!」と、盛り上がった。絶対探し出しますと約束して下さる方も現れた。
 三瓶山から帰って2日目、島根県斐川町中部小学校ことばの教室からファクスが入った。
「初恋の人見つかりました。なつかしい思い出だとその人は言っておられましたよ」
 私は胸の高鳴りを押さえながら、すぐに電話をかけた。34年間、私に小さな炎を灯し続けてくれた彼女が、今、電話口に出ている。三瓶山に行く前には想像すらできなかったことが、今、現実に起こっている。その人もはっきりと私のことは覚えており懐かしがってくれた。会場から車でわずか20分の所にその人は住んでいたのだった。電話では、《小さな炎》についてのお礼のことばは言えなかったが、再会を約して電話を切った。
 どもる子どもたちとのキャンプ。夜のキャンドルサービスの時間に、ひとりひとりの小さなローソクの炎は一つの輪になって輝いていた。子どもたちと体験したこの一体感が、私にその話をさせ、さらに34年振りの再会を作ってくれたのだ。子どもたちとの不思議な縁を思った。
 子どものころ虐待を受けた女性が、自分が親になったときに子どもを虐待してしまう例は少なくない。しかし、夫からの愛を一杯受け、夫と共に子育てをする人は子どもを虐待しない。
 人間不信に陥った私が、人間を信頼できるようなったのは彼女から愛されたという実感をもてたからだ。この子どもたちは、小さな炎と出会えるだろうか。小さくても、長く灯り続ける炎と出会って欲しい。一つの輪になったローソクの小さな、しかし、確かな炎を見つめながら願っていた。(1999.6.19)(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/4/20
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