伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2020年10月

一本の電話が、彼の人生を変えた

 行動する吃音者と題した彼の手記を掲載していますが、それには事実誤認というか、記憶違いがあります。腹話術のすすめと、電話のくだりです。
 僕は、「吃音をもちながら目的を達成する」の目標で、まずは彼の意見を尊重しました。今、一番したいことに取り組みたかったからです。それが、「彼女が欲しい」でした。そこで、どうすればそれが実現するかを一緒に考えましたが、K・J法の宿題をしてきませんでした。その理由が「模造紙が買えなかった」でした。そこで、「君の一番したいことを目指したが、約束を守らなかった。今度は僕の提案に従ってもらう」として腹話術を提案しました。舌を出さずに話さなければならない腹話術が、ひょっとすると、彼の「舌が出る」随伴症状に多少影響するかもしれないという期待は少しありました。しかし、本当の狙いは、どのようなことでも、言葉を発する趣味を5か月間練習し、200人も参加するどもる人の全国大会で演じることでした。腹話術に関しては、情報は全て自分で探して、練習することを提案しました。しかし、相変わらず消極的で、次の週には「近くの本屋に腹話術の本はなかった」と、近くの本屋に行ったことを報告しただけでした。これでは埒があかないと、腹話術の情報の「電話番号」だけを教えました。どうしても電話をかけなければならない状況に、彼を追い込んでいきました。そして、電話をすることになるのです。「手紙を出すだけでもよかったのですが、従来の行動パターンを破らねばならないと思い、今度こそ自分で電話をしてやろう、と決意しました」と彼の手記にはありますが、そうではありません。電話をかけざるを得ない状況に追い込まれなければ、過去のしみついた消極性から脱却することはできません。確かに僕は、彼を追い込みましたが、それを断ることも、僕との面接を止めることも彼にはできたはずです。しかし、そうせず、電話をかけることを選んだのは、彼の力です。
 この「一本の電話」が、彼のその後を変えました。後は彼の手記通りです。
 どもる人やどもる子どもは、多くの場合、「心は健康」です。時に、このように追い込むことも必要になるのです。彼の手記の続きを紹介します。

      
行動する吃音者へ (3)
                         N・I
具体的目標設定のもとで
 1月の半ば頃、Iさんから「5月のどもる人の全国大会を目標に、腹話術をはじめないか?」と言われました。僕としてはあまり気のすすむ話ではなかったのですが、自己変革のためには、多少嫌であってもがまんしてやるべきだと思い、決心しました。
 しかし、腹話術については皆目知識がありません。ですから、腹話術をマスターするための方法をどうして見つければよいのか、最初は全く思案にくれてしまいました。
 幸いなことに、僕は、プロの腹話術師である川上のぼるさんがうちの近所に住んでいることを、知っていました。直接たずねていくか、電話をかけるかすればよかったのですが、とても勇気がなく、家を捜してその前まで行って住所を確かめ、それから手紙を出すという手間なことをしました。
 実をいうと、この時にはまだ、腹話術をやろうという意欲が心の底から湧きあがっていた、というわけではありませんでした。ですから、この時の気の持ちようは、「女性にもてるには?」のK・J法をさぼった時と大差なかったのです。ただ今度は、自分に都合のいい理屈をつけて、逃がれようとだけはしないでおこうと思い、とりあえず何とか手を打ったのです。しかし、積極的な意欲をもたずにしたことでしたので、腹話術のマスターという目的が達成されるか否かよりも、ただ手を打つことにのみ注意が集中し、自分の今までの行動パターンを破れたとは、言えませんでした。
 次の週、相談に行った時に、Iさんからこの点を指摘され、この次はなんとか自分の行勤をもっと積極的なものに変革しよう、と思いました。そして、その後実際に市民会館などへ行って、腹話術をやっているサークルがないかどうか聞いたりしました。しかし、結局収穫はありませんでした。
 それから数週間後、相談に行くと幸運が待っていました。雑誌『宝石』の中に掲載されていた腹話術のサークル紹介記事を見せてもらいました。サークルの場所は東京でしたが、とりあえず連絡してみようと思いました。手紙を出すだけでもよかったのですが、従来の行動パターンを破らねばならないと思い、今度こそ自分で電話をしてやろう、と決意しました。
 僕は気合法、精神統一法で気持を引きしめ、逃げだしたい気持をおさえようとしました。そして、『石橋を叩けば渡れない』に語られている「最初をやらなければ二度目はない」という言葉をかみしめ、思い切ってダイヤルを回したのです。
 往生しながら、なんとか電話をかけ終わって、受話器を置いた時は、もう汗びっしょりでした。しかし以前でしたら、どもりながら話した後は、恥ずかしいような、みじめな気持になるのですが、この時は、それをほとんど感じませんでした。
 そうこうしているうちに、ひと月程前に出した、川上のぼるさんへの手紙の返事が来ました、「忙しくて、あまり自由な時間がないけれども、いつか遊びに来てくれれば、腹話術の手ほどきくらいはします。」という親切な内容でした。
 そこで、お言葉に甘え、川上さんのお宅へ電話をかけることにしました。この時も前と同様、やはり固い決意が必要でした。しかし、いったん決心しますと、逃げだしたいような、やめてしまいたいような気持ちは、案外簡単におさえることができるものです。
 その後、関西腹話術研究連盟にまで足を運んだり、書店で欲しい本についてたずねたり、今まで自分になかった行動のパターンを、獲得していきました。
 これらの行動を重ねていくうち、行動の際の、精神的な変化に気がつきました。人前や電話で話すとき、話す前のなんとも言えぬこわさと、終わったあとの穴にでも入りたいような恥ずかしさが、少しずつ軽減していったのです。行動しているうちに、どもることよりも、目的達成の方へ注意が向き、どもるという些細なことは、行動の上で、さほど気になるものではないということが、身にしみてきたからではないかと思います。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/10/31

吃音を言い訳に、困難を感じると逃げる行動パターンを変える

 昨日のつづきです。吃音の症状が重く、人生に消極的になっている彼が、僕との関わりで変われば、「吃音を治す努力は一切しない」僕の方針が間違っていないことになります。彼とはこんな約束をしました。「僕は国家公務員で国から給料をもらっているので、一週間に90分の面接料は一切いらない。そのかわり、僕が出した宿題は必ずしてくる。その約束が守れるなら、僕は君のために一週間に一度の面接を引き受ける。それが条件だ」と言いました。彼が「宿題は必ずする」と約束をしたので、彼との取り組みが始まりました。
 「吃音が治ったとしたら、君が一番したいことは何か」と彼に聞くと、「彼女が欲しい」と言いました。「それでは、6か月で彼女をつくるために、一緒に取り組もう」と提案し、「彼女をつくるために何をするか」を、僕の助手の成人のどもる人と3人でいろいろとアイデアを出しました。話し合いながら、アイデアをシールに書いていきました。そして、作り方を教えて、K・J法の図解を作ってくるようにと宿題を出しました。ところが、次の面接の日、彼は宿題をして来ませんでした。「なぜしなかったのか」と尋ねると、「模造紙がどこで売っているのか分からなかったから」と言うのです。文房具店で買えることを知らないことに、本当にびっくりしました。子どものころから、親が全ての必要なものを買い与え、彼はひとりで買い物に行ったことがなかったのです。そこで、「なぜ宿題をしなかったのか」、いろいろと質問をしていきました。今度は必ず、K・J法の図解を作ってくるように約束しました。この宿題で、彼の課題が明らかになっていきました。

  
行動する吃音者へ (2)
                           N・I
転機、そして
 そういうわけで、K先生にご相談させていただいたのが、社会人一年生の去年の秋でした。僕はその時、どもりについて次のように考えていました。「人前でどもってでもどんどん話し、どもっても平気でいられるよう性格を強化すれば、その結果どもりは治るだろうから、そこではじめて自分のやりたいことをやろう…」と。
 しかし、K先生のお考えは、どもりを持ちながら生きていこうというものでした。どもりはなおらないという覚悟から、欠陥を持ったままでどうしたらいいのか、という積極的な発想の大切なことを教えて下さいました。
 当時の僕は、どもりを治すという努力をなぜ放棄するんだろうと疑問に思いました。どもりながら行動できるのならそれでいいかもしれないが、治すに越したことはないのではないか、と。
 後になってわかった事ですが、どもりながら生きていくというのは、ひとつの開き直りだったのです。どもってはいけないという気持ちをほぐすためには、すらすらしゃべれることへの馬鹿げたイメージを打ち崩し、どもりは治らない、という開き直りに達することが肝要だと思います。どもりを治せば行勤できるからどもりを治すのではなく、どもりは治らないし、治ったところでどうということはない。それなら、どもってもやりたい事をやり、悔いのない人生を送ろうではないか、ということなのです。
 今までの悪循環の逆手をとるわけですが、この発想の転換はすぐに出来たわけではなく、その時は、まだまだ半信半疑の状態でした。
 相談の結果、11月の末から一週間に一度、定期的に相談に通うことになりました。それでも、はじめの頃は、まだ空想の世界へ逃げこんで自分を守る癖から抜けきれず、現実の行動に取り組む意欲も何もありませんでした。現実の苦しさから逃げず、空想の誘惑を、断ち切って現実を見据えるためにしなくてはならないことがありました。そしてそのきっかけとなるでき事は、意外に早く訪れたのです。
 私の相談相手に決まったIさんとの週に一度の面接がはじまりました。第2回の面接で、「女性にもてるには?」というテーマのK・J法を行うために、自由に話し合いました。そして、そのテープを僕が家へ持って帰り、K・J法を完成してくることになったわけです。
 ところが、一週間たって相談に行った時、僕はK・J法をやっていきませんでした。決して忘れたのではなく、やらなくてもいいんだと勝手に解釈してさぼってしまったのです。一応、テープを聴いて、ラベルに書き取るところまではやりましたが、最後まで完成させるとなると、模造紙やマジック・インキなどを購入しなくてはならず、大変な作業のように思えて、まさか最初からそこまで要求されることはないだろうと、高をくくっていました。そして、この勝手な合理化、甘えこそが僕にとってどもるという事実以上に問題であることを、「何故K・J法をさぼったか?」のK・J法をすることによって明らかにしていくことができたのです。
 これは重要な発見でした。しなければならない事でも困難を感じると、自分に対してなんとか理屈をつけて逃がれ、あくまでも自分は誠実なんだと思い込むこと、この慰安こそが僕の空想の本質だったのです。
 僕にとって行動への第一歩とは、この空想の世界への入り口を閉じることでした。「行動への尻込みから生じる言いわけを拒絶し、自分を厳しく追いこんでいくことが、自己を空想から現実に引きもどす重要な鍵なのだ。今の僕には、どもっても行勤し、自的達成の実績を積み重ねていくことが最も必要とされているんだ」そう気づいたのは、それから間もなくのことでした。
 新年に入ってから、西堀栄三郎著『石橋を叩けば渡れない』を読みました。読んだ当初は、少なからぬ抵抗を覚え、「哲学がない」、「盲目的行動信仰だ」と批判したくなりました。しかし考えてみると、僕のこの態度こそが自分の消極さをごまかすためのよろいであり、打ち崩さねばならない偶像だったのです。
 「いいことをしようとする意志さえあれば、うまくいかなくてもそれは誠実な態度だ」というのが僕の長い間の考えでした。むろんこれが誤っているとは思いませんが、これを隠れみのにして自己の消極性を正当化していた点が問題なのです。
 最近では、何事もやってみなくてはわからないし、それに、その結果とは別のところに意外な収穫があるかもしれない、という考えに変わってきています。行動のイメージをマイナスからプラスへ転換させようというわけなのです。
 こうした行動に対する考え方の変化が、僕をして著者の言わんとする所を理解せしめていきました。未知の経験の大切なこと、そしてその心構えの積極的なあり方など、学ぶことは多かったのです。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/10/30

「吃音を治す努力を否定して」の実践に取り組んだ人の体験

 前回にも書きましたが、大阪教育大学の研究紀要に書いた、彼との出会いは、僕にとって極めて大きな意味をもちました。彼はどもる状態は極めて重く、おまけに舌が出る随伴症状があり、吃音に向き合うことにも、吃音に取り組むことにも、消極的になっていました。しかし、実際の所は、彼はあまり困っていませんでした。職場で電話は一切とらないし、図書館の来館者が質問をしてきても全て逃げて、職場では「どもる」ことはほとんどなかったからです。困ったのは彼よりも上司でした。上司はいろいろと調べて、大阪教育大学には言語障害の研究室があって、その主任教授もどもる人なので、なんとか治してくれるだろうと考えたようです。そして、相談を受けた主任教授から、バトンタッチされて、直接関わるようになったのが僕でした。6か月で大きく変わった彼ですが、当時を振り返って、体験を書いていました。その体験を紹介していきます。
 日本吃音臨床研究会のホームページに紹介している論文『成人吃音者の一処遇例−治す努力を否定して』(1975年 大阪教育大学紀要 NO.24)と合わせてお読み下さい。

      
行動する吃音者へ (1)
                               N・I
幼年時代
 僕の幼年時代に関する記憶は、おおむね断片的かつあいまいで、どもるようになったいきさつ等については、まったく思い出すことができません。僕の記憶では幼稚園に入る前からどもっていたようです。赤ん坊の頃から神経質で落ち着きがなく、よく母の手を焼かせたそうです。そして、やり場のない不安を解消するためか、時々お寝小をしました。それは小学校の5年生頃まで続きました。小学校時代は情緒が不安定で、よく喧嘩をしました。クラスの中ではおとなしいほうではなく、スポーツや勉強もよくできましたが、いったん親しい人達から離れると、借りてきた猫のようにおとなしくなり、まったく何もできなくなってしまうのでした。

吃音矯正を通して
 高校1年の夏休みに、親にすすめられ、大阪の民間矯正所へ通いました。ここでは、「正しい」口形と呼吸の方法を習ったほか、どもりは必ず治るという確信を得ました。どもりは必ず治るという確信は、それまでまったく持ったことがありませんでしたので、どもりが完全に治ることへの激しいあこがれが僕の心に湧いてきました。「どもりは必ず治る。いや、治さねばならない」と。
 しかし、習った話し方がたいそう特殊なものでしたから、人前でとてもその話し方をおこなうことができませんでした。しかも話す時には、やはりどもるのが嫌なので、どうしてもどもりを隠そうとしてしまいます。そして、どもらないことへのあこがれが強くなっているために、逆にどもりへの嫌悪感が強くなってきたのです。その結果、どもってはいけない、どもることは悪いことだという強迫観念のようなものができてしまったのです。これは、本当にまずいことでした。
 とにかく、自分の意志を相手に伝えるという目的よりも、どもるかどもらないかということに大きな注意が向きました。すると自分の意志を伝えねばならないときでも、どもるのがいやで黙っているという事態がおこってきたのです。やがて、すべての責任をのがれるようになり、話さねばならない場所へはできるだけ出ないようになりました。
 そういうわけで、僕はだんだん現実から逃避し、空想の世界に入り込むようになっていきました。そして、現実と空想は離れてゆき、空想の世界にのみ自分の満足を見出すようになっていったのです。
 吃音矯正所へ通い終わってしばらくしてから、それまでは普通の、ことばが出ない、難発だったのが、言おうとすると舌が出てしまうようになってきたのです。これは、現在まで治ることなく尾をひいています。
 しかし、とにかく何が起ころうと空想の世界に入れば忘れられましたし、現実の世界での居心地の悪さはそれで帳消しになっていったのです。
 高校3年生の春、母にすすめられ、別の所でもう一度吃音矯正をうけました。ここでの矯正法は、意志の力でどもりをのり越えようというものでした。「勇気の中にどもりは住めぬ」とか「どもりの全責任を自分で負おう」という具合で、どもりが心の問題であることを強調していたようです。
 ここでの具体的な矯正方法としては、実地訓練がありました。街へ出て通りがかりの人に道をたずねたりするのですが、これが案外度胸づけになり、一時的にどもらなくなりました。しかし、僕の場合どもれば舌が出て、それがとても気にかかり、どもりながら話すということはできませんでした。従って、一時的に効果のあがったこの方法も、かえってどもりを隠す練習をしてしまう結果に終わってしまいました。
 大学時代は、実地訓練をしても失敗することが多くなりました。そこで、こんどはどもっても平気でいられる精神力を持てば、逆にどもらなくなるのだという考えが強くなってきました。しかし、こっそりと精神力をつけどもりを治してからみんなの前へ出たいという気持が強かったため、現実の場において積極的に行動することはできませんでした。
 大学を卒業し就職してからは、話さねばならない事態にたびたび直面し、どもって嫌な思いをする機会が多くなりました。しかし、仕事ですから逃げるわけにはいかず、段々気分的にせっぱつまってきたのです。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/10/29

吃音を治す努力を否定して−成人吃音者の一処遇例

 大阪吃音教室の講座「職場での吃音」を紹介しました。続いて、大阪吃音教室の定番の講座「どもって声が出ないときの対処法」を紹介するつもりでいたのですが、日本吃音臨床研究会のホームページを更新し、僕の論文を掲載してもらったので、そのことについてお知らせします。
 「吃音を治す努力の否定」が論文として出てきた最初です。1975年の論文です。

 これは、僕が、講演や講義でよく話す、ひとりのどもる男性の話です。彼とは、僕が大阪教育大学に勤めていたころ、出会いました。彼との面接の記録を、大阪教育大学の紀要に載せました。
 彼は、かなりどもります。僕が出会ったどもる人の中で、ベスト3に入るくらいの人です。彼は、図書館に勤めていたのですが、来館者との応対も、職場の会議での発言も、同僚との会話も、うまくできていなかったようです。そのため、仕事に支障が出て、上司の命令で、大阪教育大学の僕の研究室を訪れました。しかし、僕は、彼のどもりを治すことはできません。僕は、彼のどもる症状より、彼の、すべてに消極的な行動パターンの方が気になりました。そこで、彼に、「僕はあなたのどもりは治せないし、治そうと思わない。でも、吃音のために消極的になっている、あなたの行動パターンは一緒に変えていけると思う。それでよかったらやっていこう」と伝えました。どもりながら、自分らしく豊かに生きていくことを提案したのです。この論文を書いたのは、1975年、今から45年前のことです。「吃音はどう治すかではなく、どう生きるかの問題だ」という実践でした。

 その頃流行っていたKJ法を使い、彼と一緒に、彼の行動パターンを図解していきました。その取り組みによって、彼は、少しずつ、自分の行動パターンに気づいていきました。 また、彼の吃音には特徴がありました。それは、彼の、いわゆる随伴症状でした。彼自身も、どもることはもちろん気になっていましたが、それより随伴症状の方が気になっているようでした。彼の随伴症状は、話そうとすると、舌が出るというものだったのです。
 治す試みはしないといいながら、僕は、舌が出るということを頭に置いて、彼の行動パターンを変えるひとつの提案をしました。それは、6ヶ月後に迫った、どもる人たちの全国大会での発表でした。

 言語聴覚士養成の専門学校の講義では、よくこの事例を提示し、彼についてひととおりの情報提供をした後、では、どんな取り組みを提案したのだろうか、グループごとに話し合い、発表してもらいました。論文に書いてあることをそのまま紹介するより、ずっと興味を持って考えてもらえたようです。
 さて、僕が提案したことは何でしょう。
 ホームページに掲載されている論文を読めばすぐ分かりますが、その前にぜひ、想像してみて下さい。

 この論文は、日本吃音臨床研究会のホームページに掲載されています。トップページに、9個のバナーがあります。その中の「伊藤伸二のページ」の中の、研究業績 論文・著書のところをクリックして下さい。まず、著書が出てきて、その後に、執筆論文が出てきます。執筆論文の7番目に「成人吃音者の一処遇例〜治す努力を否定して」(1975年 『大阪教育大学紀要』NO.24)の論文を読むことができます。

 「明るく、積極的で、吃音の症状の軽い人なら、できるかも知れないが、吃音の症状が重く、消極的な人には無理だ。やはり吃音症状を改善することが先決だ」
 僕が「吃音はどう治すかではなく、どう生きるかの問題だ」と提唱すると、よく出された批判です。だから、彼と出会ったとき、彼が大きく変わっていけば、僕の考え方は正しいことになると考えて、一所懸命彼と関わりました。6か月の関わりで彼は見事に変わり、3年後には舌が出る随伴症状もなくなり、吃音そのものも大きく変わりました。
 彼と関わらなかったら、僕は自信をもって僕の考えを推し進めることができなかったかもしれません。僕にとっては恩人のような来談者でした。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/10/28

生きる知恵がつまっている、大阪吃音教室

吃音と職場、人それぞれのサバイバル−職場での吃音を考える (2)

5 教育担当からセールスの現場へ
Bさん:自動車のセールスマンを長くやってきました。自動車販売会社に入社して、最初は教育担当の部署に配属され、10年くらいで教育課長になりました。入社式の司会は教育課長の担当で、100人以上の氏名と出身高校名を朗読する必要がありました。前の夜に労務課長の家を訪ね、万一朗読できなかった場合の交代を頼みました。その上で、さきほどの司会の方と同様、当日は辞表を胸に忍ばせて入社式に臨み、なんとか大役を果たしました。
 その後、車のセールスマンに転じました。教育担当として部下を見ていたのですが、セールスマンの待遇が良いので、課長職を辞退して平社員として営業部に回してもらいました。営業職は、電話の多い人ほどセールスの成績が良いので、電話を回避せずに挑戦しました。
 定年退職後も、人と話すチャンスを積極的に作るよう心がけています。今、日本に研修生として来日している外国人の日本語学習を支援する活動を続けているのも、人前で話す機会を増やすことが理由の一つです。

6 逃げられる時には逃げてきた
Cさん:私はこれまで、話すことから逃げられる時は逃げ、避けられる時は避けてきました。就職する時も、社名や会社の住所の言いやすいところを探して面接に行きました。以前、お好み焼き屋で働いていたことがありますが、そのときも言いやすいメニューの揃っている店を選びました。お好み焼きが焼けたら、そのことをマイクで知らせないといけないのですが、ことばにつまって叱られたこともありました。その頃は、職場では吃音を隠し続けていたのです。
 生命保険のセールスを始めたのは離婚し、母子家庭になり、給料のいい仕事に就く必要があったので選びました。人前で話をするのが苦手で、会社に自分宛の電話がかかってきたら、社外に出て公衆電話から電話したり、近くの自宅まで帰って電話をかけたこともありました。朝礼も嫌でした。司会役が交代で回ってきたからです。前日にセールスの成績を上げた人の名を発表することになっていたので、苦手な音から始まる名前の人は、保険の成約が取れなければいいのにと思ったりもしました。
 その頃、大阪吃音教室に出会い、職場で自分の吃音を公表するという、これまで考えたこともないような対策を知りました。実行してみて、ずいぶん気が楽になりました。それでも、職場でセールスのロールプレイをするのは苦手のままでした。そのうち、初めは言いやすくて選んだ「K生命」という会社名が言いづらくなってきました。ちょうどその頃A生命から誘われていて、こちらの社名の方が言いやすいので、「これは、神様のお告げだ」と考えて転職しました。外資系のA生命は、セールスのことばづかいが厳密に決められてはいなかったので、ロールプレイも楽になりました。

司会:私とパネラーの3人の話が終わりました。後半は、今日、参加されている皆さんの話を聞きたいと思います。今、現実に、職場での吃音で困っているという人がいれば、お話下さい。

7 電話は数をこなすこと
Dさん:勤務先を今休職しています。復職にあたり、電話対応がある事務職に就いてくれないかと言われて、迷っています。「おそれいります」とか「お待たせしました」など、言わなければならないと決められていることを言う時の工夫があれば聞きたいのですが。
Aさん:電話は慣れが大きいと思います。電話をかけてかけて、取って取って、を繰り返すうちに、だんだんと言えるようになってくるようです。私もそうでしたから。
司会:私も電話は数をこなすしかないと思います。会社名などが言いにくい場合も、電話口では相手には見えないから、少々おかしな話し方でも構わないと思うのです。私は、普段対面で話す時と、電話口で話す時の話し方を変えています。電話では、ゆっくり一音一拍で、軽く発声するように心がけています。

8 電話はゆっくり、はっきり、笑顔で
Aさん:電話口ではゆっくりとしゃべることができるので、却ってどもる人には得な面もあるようです。電話では、話す相手と1本の線でつながっているだけなので、相手に語りかけることを意識しながら話すと、自然と口調はゆっくりになりました。
Cさん:私は小さい時から、聞き返されるとどもりやすいので、電話では特に、大きめの声でゆっくりはっきり話すよう心がけています。また、滑舌が少しでも良くなるよう、相手に顔の見えない電話の時でも、笑顔で話すよう意識しています。
Eさん:勤務先は、K社という、珍しい社名で、言いにくいし、聞き返されることが多いです。また、電話をとった時には「ありがとうございます。K社の何々です」と言うようにと、職場で決められているので、正直しんどいです。今は、人前では電話で話せないので、書庫で隠れるようにして電話しているのですが、隠れないで電話できるようになりたいと思っています。
Aさん:Eさんの仕事の肝腎なところが始まるのは、電話での挨拶が終わってからではないですか。今は挨拶がうまく行かずに困っているということを、上司と相談してはどうでしょう。
Fさん:転職したばかりです。そんな職場で、話しづらい人への対応はどうすれば良いか、悩んでいます。夕方に作業の報告をする時など、せっかちな人や自分が好意を持てない人には話しにくいです。特に、「早よ言えや」などと言われると、余計言えなくなります。
Aさん:急かされている状況で、話しやすい人に話すのと同じように話すのは難しいと、私も思います。上司としては、損な上司ですね。相手側、つまり上司の方に、あなたを話しづらくさせている原因があるのだから、話しづらいことを自分の責任だとあまり思わない方が良いと思います。
Gさん:S社の自分の属している部門がK社に売却されたので、K社に勤務先が変わることになっています。K社には朝礼があると聞いていて、それが一番の不安です。
司会:これから就職する人は、基本的に自分のやりたい仕事に就くのがよいと思います。どんな職場にも、つらいことがあります。自分の好きな仕事なら、少々嫌なことがあってもがんばれるでしょう。
 最後に、朝日新聞休日版の「Be」に載った小倉智昭(おぐらともあき)キャスターの自伝を紹介します。「小さい時から話す仕事につくのが夢で、テレビ東京のアナウンサーとして就職。大好きだった競馬の中継で有名に。普段の雑談は苦手で、マイクに向かうとコントロール出来る。好きな仕事ならがんばれる」と書いてあります。
Aさん:同感です。今の話で、桂文福さんや、その弟子のまめださんのことを思い出しました。
Hさん(初参加者):今日の話を聞いて、同感することがとても多かったです。私も電話は苦手で、今日の話はとても面白かったです。これからも例会に参加して何かつかんで帰りたいと思っています。(2008.5.23)(了)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/10/27

「対話」と「学び」が中心の、大阪吃音教室

職場での吃音を考える (1)

 どもる人のセルフヘルプグループ、NPO法人大阪スタタリングプロジェクトは、「大阪吃音教室」と名付けた例会を、毎週金曜日の夜に開いています。多かったときは40名ほど参加したこともありましたが、現在は20名程度が参加しています。毎年2月の運営会議で、翌年の年間スケジュールと担当者を決めて、ほぼスケジュール通りに開かれています。
 「吃音を治す、改善する」を目指さず、「吃音と共に豊かに生きる」ために、言語障害学以外の、たとえば、精神医学、臨床心理学、カウンセリング、社会学、教育、演劇など様々な分野から、役に立ちそうなことを積極的に取り入れ、毎年、バージョンアップを繰り返しながら、「対話」「学び」を続けています。
 その大阪吃音教室の様子は、NPO法人大阪スタタリングプロジェクトが発行している機関紙『新生』で紹介されますが、これからしばらく、大阪吃音教室の様子を紹介していきます。
 第1回は、2008年5月23日の大阪吃音教室の講座「職場での吃音について」です。

1 例会の進め方
進行:今日のテーマは、職場での吃音について考えます。私は講師という柄ではないので、大阪吃音教室の例会に20年通ってきた体験をもとに話をしたいと思います。そこで今日は、参加者の中から、Aさん、Bさん、Cさんをパネラーに指名し、パネルディスカッションの形で進めます。(3人が、進行役の人と並んで座る)
 まず、皆さんの職業をお聞きします。

2 吃音と職種
進行:民間の会社で、事務職をしています。
Aさん:団体職員で、事務職をしています。
Bさん:定年退職し今は無職ですが、長年自動車のセールスマンをしていました。
Cさん:生命保険の代理店をしています。
進行:参加者の皆さんにも、どんな仕事をしているのか、お聞きしましょう。

○その日の参加者が職業を発表していき、それらをまとめてみると… 公務員、会社員(事務職・営業職・デザイナー・技術職・プログラマー)、保育士、保健師、介護職員、会社経営、教員、医師でした。

進行:これまで例会に参加した人の職業はさまざまで、教師は幼稚園から大学までいましたが、一番多かったのが小学校の教員でした。医師もほとんどの科の医師がいました。税務職員、銀行員、消防署員、刑務官、プロの棋士やプロボクサーなどもいました。また、バスガイドや結婚式の司会業、僧侶など、話す機会のとても多い職種の人もいたことは驚きでした。これまでの大阪吃音教室の参加者でいなかったのは、警察官、弁護士くらいで、ほとんどすべてと言っていいくらい様々な仕事に就いています。どもる人の職種が片寄っているということはないことが分かります。
 今日は、参加者の皆さんが職場で困っていることを話してもらいたいと思いますが、まず、パネラーと私から、これまでの職歴の中で困ったことを話します。

3 辞表を胸に式典に臨む
進行:私は39年前、N社に入社しました。観光バス運行課で7年、観光バス営業課で5年、その後本社の管理課に移って事務職を27年続けています。
 運行課時代は運転手管理が主な仕事で、一番困ったのは電話でした。観光バスの運転手の仕事は前日の午後3時頃に決まります。毎日、午後3時が過ぎたら運転手から電話がかかってきて、運行課員は翌日の配車の説明をする必要があったのです。また、運行課員には夜の当直勤務がありました。深夜に事故や故障が発生した時には、さまざまな対応を電話を使って一人でこなさねばなりませんでした。
 営業課時代には、毎日、朝から夕方まで、数十本から百本くらいの電話をかけていました。それまで嫌いだった電話も、仕事だから使わなければなりません。電話での商談後、お互いに必ず名乗るのが通例で、それにも困りました。でも、電話をかけ続けたおかげで、電話に慣れることができたと思います。
 事務職になってつらかったのは、毎朝の朝礼でした。管理課主任になり、本社勤務の社員100人くらいの前で、毎日朝礼の司会をしました。その日の日付と曜日、連絡事項など、言い換えのきかない項目ばかりでした。それを15年間続けたのです。でも、今では社内の連絡事項はメールで済ませるようになり、5年前、朝礼はなくなりました。
 今は管理課が総務課となり、課長を務めています。入社式や記念式典など、重要な行事の司会は総務課長の職務で、部下にやらせるわけにはいきません。そういう司会を引き受ける勇気は、この大阪吃音教室の例会で得ました。吃音チェックリストの例会担当をして、「吃音による回避度」について話したりしている私が、こんな場面で回避してはならないと思いました。
 ある式典では失敗に備えて辞表を用意し、それを胸に式典司会に臨んだこともありました。今でもその時のドキドキを覚えています。もし、あの時、司会を回避していたら、私のサラリーマン人生はうまく行っていなかったと思います。

4 困った経験が今の糧に
Aさん:私は、3つの職業を経験しています。最初は大学卒業直後に勤めたハンカチ屋の営業職、2つ目はコンビニの店員、そして、そこも転職して、今は団体職員をしています。
 大学を卒業したのは24歳で、社会に出るのが怖かったのを覚えています。高校の時に父が亡くなったので、高校を卒業したら働かなければいけないと思っていたのですが、母親から大学進学を許され、6年かかって卒業しました。そのころ、特に怖かったのが人前で話すことと電話でした。でも、18歳から大阪吃音教室に来ていたので、高校卒業の時と比べたら、生きる自信はついていたように思います。
 最初に就職したハンカチメーカーは、営業の社員しか取っていませんでした。電話がとても怖かったのですが、商談をするには電話でアポを取る必要があります。嫌だったし、怖かったけれど、やっているうちに少しずつ慣れていきました。自分宛にかかってきた電話はまだよかったのですが、誰かにかかってきた電話を取り次ぐのはずっと苦手でした。 2年と少し続けましたが、コンビニに転職しました。そこで特に困ったのは接客マナーでした。電話を受けたら、「ありがとうございます。刈谷3丁目店です」と、決まった言葉を言わなければいけませんでした。でも、「ありがとう」の「あ」も、「刈谷」の「か」も言いにくくて困りました。スーパーバイザー(本社管理部の担当者)から時々チェックの電話が入り、電話口でつまってひどく叱られました。レジに立っても、「ありがとうございます」が言いにくくて「おおきに」を頭につけて言うと、「もっさりした口調だ」と叱られました。24時間営業の店だったこともあり、1年ほどで身体をこわしてしまい、辞めることにして、たまたまの紹介で今の職場に転職しました。
 電話のことや人との対面のことなど、ハンカチ屋とコンビニでの経験が、今に生きていると思います。(2008.5.23)(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/10/25

話し合いの場を成り立たせるもの−吃音親子サマーキャンプという場の意味 (4)

 第30回吃音親子サマーキャンプ最終日の午後のプログラム、トークセッションのつづきです。今回で最後です。過去の30年の月刊紙『スタタリング・ナウ』をもとに吃音親子サマーキャンプについて紹介してきましたが、よくまあ、こんなに、自分で書くのもおこがましいですが、すごいキャンプを、良い仲間たちと続けてきたものだと、改めて幸せな気持ちになります。
 昨日の大阪吃音教室は「どもり内観」でした。これはナラティヴ・アプローチにも通じる僕たちだけの取り組みで、とてもおもしろいものです。吉本伊信の内観法を吃音に活かし、「どもりさん」の身調べをしていきます。
 1 どもりさんにしてもらったこと
 2 どもりさんにして返したこと
 3 どもりさんに迷惑をかけたこと
 15分ほど、この三つの項目で振り返ります。一人ずつ出されたことをホワイトボードに書いていきますが、とても書き切れないたくさんのものが出ます。「どもり内観」については、また、大阪吃音教室の講座の紹介で書きたいと思います。
 「どもりさん」のおかげで、僕は、いい仲間と、吃音という、唯一無二のライフワークに出会いました。これが、どもりさんに「してもらったこと」です。そして、どもりさんに「して返したこと」が、この吃音親子サマーキャンプです。「どもり内観」を通して、キャンプや大阪吃音教室に集まり、吃音について豊かに語り合える幸せを、みんなで感じた、昨日の大阪吃音教室でした。

  
話し合いの場を成り立たせる難しさ

渡辺 : 話し合いの場を成り立たせる難しさって、何でしょう。伊藤さんは、今、文化ということばを使われましたけれど、話し合いの時間をとって、円になって、学年ごとに話し合いをしていますというだけだったら、伊藤さんが書かれているものを読んだら分かる。でも、ほかの所ではそれを成り立たせにくいものにしている。ここでの話し合いの文化とは一体どういうものなのか、それぞれ、話し合いについて思うことや印象に残っているエピソードがあったら、聞かせて下さい。
東野 : 大阪吃音教室では、どもる当事者同士が悩みを分かち合い、課題にどう対処していくか、どう生きていくか、話し合います。このキャンプの話し合いには、必ずどもる大人の当事者とことばの教室の担当者、言語聴覚士、教育関係者などが入っています。当事者が入っていると、話をする子どもたちにとっては、話しやすい気がしますけど。同じような体験をしない人に話をしても伝わらなかったり、理解されない部分もあるので、大人の当事者がいると、「それ、よく分かる」「こういうことやろ」と、応答ができる。
渡邉 : 話し合いをする時、信頼関係が大事だと思います。初めて会った人に、自分のことを語るって、すごいことだと思うんです。だから、子どもたちが、自分のことを話してくれるとき、信用してくれているんだな、話してみようと思ってくれたんだな、と感じています。ここに来ると、どもりのことを話すものだと思っているリピーターの子どもたちが話を始めるから、初めて来た子も話してみようかなと思うし、どもる大人が入っていると、体験を話してくれることもある。それと一回目の話し合いより、作文を書いた後の話し合いは、なんか違っている気がします。作文で自分と向き合い、自分のことを考える時間がとってもよかったのかなあと思います。スタッフの側が参加者である子どもたちの語る力を信じているから、話し合いをメインにできるのかなと思います。
伊藤 : このキャンプに来る前は、渡邉さんはことばの教室で、どもりについての話し合いを子どもたちとしていたの?
渡邉 : どうしていいか分からないから、とにかく、子どもと仲良くなろうと思って、ひたすらピンポンをやったり、ゲームをしたりしていました。どもることについて話したり聞いたりしていいのかなという不安がありました。ここに来たら、自然に話し合いをしていて、あっ、そうなんだと思って、それからは話し合いができるようになりました。子どもたちと話し合いができなかったのは、初めて会った相手と話し合いなんてできないと、勝手に思っていたのかもしれない。
渡辺 : 東野さんがおっしゃった点に関してはどうなんですか。当事者の力とか、当事者じゃないとできないとなると、
渡邉 : 当事者でないと分からない点もあるのかもしれないし、大人の当事者の体験を聞きたいということもあるかもしれないです。私が何年もしていることばの教室に、担当者としてどもる当事者が来たんです。一回目のグループ学習で、「この先生も、どもるんだよ」と言ったら、何年も一緒にやっている子どもたちが、ぱっとその人の方を見て、「先生、どもるんですか?」と、一瞬で通じていた。負けたと思いました。でも、そこからまた私の力で取り返しましたけどね。どもる人がいるのはいいことだと思うけれど必須ではない。どもらない私ができるとしたら、私はどもる経験は話せないけれど、こうして多くのどもる人と出会ったことで、その話をすることができる。こんな経験をした人がいたよ、こんなふうにがんばっている大人がいるよ、こうして乗り越えてきたんだって、と伝えることはできる。でも、こういうキャンプに来ないとそれはできなかったかもしれません。私は、皆さんと出会ったことで、いきいきと毎日を過ごしている人、がんばっている人がいることを伝えることができる。ひとりじゃないんだよということも伝えることができる。それは、どもらない私でもできることです。
坂本英樹 : キャンプの構造についてですが、このキャンプは2泊3日ですよね。1泊2日だと、子どもと親が来て、次の日に一緒に帰っていくが、2泊だと、真ん中の1日は、子どもだけの世界ができる。そこで、子どもたちのセルフヘルプグループができて、知的な活動をする。他の子と仲良くやっていけるだろうかと思った我が子が、実にいきいきと、いろんな子どもたちと関係を作って、たくましく活動している、その姿を見て親は安心できるし、スタッフも子どもたちはすごいなと思う。たとえば、今のこの時間、これだけの長い時間、子どもたちはよく聞いてますよね。聞く力があるということです。たとえば、どもってなかなかせりふが出なかった子が、一番せりふが多い役をとるんです。僕はやる!という力があるということであり、それをスタッフが感じ取ることができる。だから、話し合いのときも、待つことができる。私たち学校の教員は待てない。すぐ子どもの中に入っていって、効率よく回していこうとする。でも、ここは、子どもには力があると信じているから、不確実性に耐えることができて、待つことができる。その中で、子どもたちは信頼してもらえているからしゃべることができる。対話ができ、話し合いができるということだと思います。
伊藤 : 特別ということでは、ここは2泊3日です。それにこだわるのは、今、坂本さんが言ったように、3日はどうしても必要で、3日あるから、話し合いもできるし、劇もできる。1泊2日だったら、劇はできないし、話し合いも2回はできない。僕がこだわったのは、1回目の話し合いをして、一晩寝かして、翌日、作文を入れることだった。1回話し合って自分をみつめて、今度はひとりで作文を書く。それも90分という長い時間、自分をみつめる。そして、またもう一度話し合いをする。
 このように、サンドイッチにしたことで、徹底的に吃音に向き合うことができた。このように組んだことはよかったと思います。一人で、自分の課題に向き合うというのは、実は大変で、ひとりで90分の作文を書いていると、過去の苦しかったことや辛かったことを思い出して、泣き出す子も出てくる。25年くらい前、高校生が作文を書いているときに泣いて次の話し合いには参加できなかった。「気持ちが済むまで、散歩してきてもいいよ」と言った。それで、彼女は2回目の話し合いには参加しなかった。その後、彼女は帰るかもしれないと思ったけれど帰らなかった。彼女は演劇がしたかったらしい。帰ろうという気持ちも強かったけれど、最後の演劇を見届けないと悔しいと思って、彼女は最後まで残った。その頃は、話し合いが3回あったんですよ。90分、120分、そして最後に60分あった。そのときは、卒業式がなかったから、話し合いの時間をとることができた。
 話し合いと演劇の2つがあることが特別だといえる。話し合いは苦手だけれども、演劇は楽しいからする、また反対に演劇は嫌だけれど、話し合いは好きだとか、2つがあることが、特別なことなんじゃないかなと思います。だから、プログラムは上等じゃないかと自画自賛しています。
浜津 : ここのキャンプは、話し合いがあって、中に作文がある。劇の練習もあって、吃音と真正面から向き合わないといけない。これまで向き合えていなくても、ここでは強制的に向き合わないといけない。でも、そういう環境に入っているからできる。同じ状況でがんばっている友だちがいるし、自分の悩みとは全然違うところで悩んでいることもある。自分よりももっと悩んでいる話も聞く。いろんな話を聞くことによって、子ども自身も成長できるし、話を聞いている大人も成長する。このキャンプには、いろんな要素が詰まっていて、いいのかなと思います。
渡辺 : 話し合いで何か印象に残っていることってある?
浜津 : 僕は昔、音読が大嫌いだったんです。でも、音読が好きだという子どもがいて、僕からしたらあり得ない話で、なんで好きやねん、好きなはずないやろと思っていた。僕と180度違う。人前で話をすることも、その子は、平気だと言う。普通の会話の方がどもってしまうらしい。僕が一番びっくりしたのは、恋愛の話で、どもっている方が、一生懸命言ってくれていると感じるかもしれないよということばです。ずっと残っています。
東野 : さっきの補足を兼ねて言います。僕が最初に話し合いのグループに入ったのは、中学生グループでした。1回目か2回目だったと思います。5、6人の中学生がいましたが、シーンとなったままで全然発言してくれないんです。沈黙がずっと続きました。後から考えると、僕は教員ではないので、普段、子どもたちと関わっていないので、接し方に慣れていなかった。また、僕自身が人とコミュニケーションをとるのが苦手ということもあった。さっき、僕は、どもる人が話し合いに入ると、とてもいい効果があると言いましたけれど、それは、どんな人でもいいというわけではないんです。ここに来ているどもる当事者でスタッフの人は、ちゃんと話が聞ける人です。浜津君が言いましたけど、どもる人はひとりひとり違います。音読が苦手な人がいるかと思えば、音読が得意の人もいる。ひとりひとりが違うことをちゃんと知った上で、また、吃音をしっかり大阪吃音教室で勉強した人がスタッフとして来ています。だから、話し合いに入ったときに、自分とは違うからちゃんと話を聞こうとなるし、あなたのどもりの話を聞かせてね、と言える。それと、今、どもりで悩んでいて、どうしようもない闇のまっ只中にいる、悩んでいるどもる成人の人には、スタッフとして入ってもらっていません。自分の吃音のことを客観的に、肯定的にとらえることができる人に限っています。どもる人だったら誰でもいいということではないということを補足しておきます。
渡邉 : 話し合いの時間が好きな子がいました。多分、浜津君たちと同じ年頃だと思うんだけど、話し合いの時間が足りないと言って、夜遅くまで話し合っていたよね。夜は寝なさいと言われて、夜がだめなら、朝早く起きるのはいいですかと言って、朝早く起きて話し合っていたよね。
浜津 : 普段、みんなと話がしたいけど、どもってみんなのペースについていけない。けれども、話したいことはいっぱいあるんです。キャンプに参加するまでの1年間のストーリーがあって、それをたった1時間から2時間の話し合いでできるわけがない。みんなのどもりについての話と、どもり以外の、今、こんなことがんばっているとか、こんなことが辛い、こんなことがあったんだという話も大事にしていました。だから、夜遅くまで話していたんですね。スタッフもある程度大目に見てくれていたのかもしれないけれど、いっぱい話をしていた記憶はあります。
伊藤 : 昔はね、大目に見ていましたよ。でも、スタッフの老齢化がすすんできたので、スタッフの睡眠を確保しないといけないから、最近は消灯時間を守るようにしています。
渡辺 : さて、そろそろ時間です。職場などでキャンプでの経験がどうつながるのかという興味深い質問もあったのですが、それはまた、今後のキャンプの機会に聞いてもらえたらと思います。じゃ、この時間、ここらで区切りにしたいと思います。(2020.1.20) (了)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/10/24

吃音親子サマーキャンプとは何かを伝えるとき−吃音親子サマーキャンプという場の意味 (3)

 第30回吃音親子サマーキャンプ最終日の午後のプログラム、トークセッションのつづきです。

   
吃音親子サマーキャンプとは何かを伝えるとき

渡辺 : なるほど。伊藤さんの怨念から始まった劇が、こんなにいろんな形で話し合いできるなんて、おもしろい。続いて、「このキャンプのことを、キャンプ関係者以外に伝えるときの難しさ」。キャンプに来ている者同士だと通じ合えるものがあるけれど、キャンプに来ていない他のどもる子どもやその家族にしゃべったり、あるいはどもりと全然関係ない家族にしゃべったり、ことばの教室の先生がここに来たことのない同僚にしゃべったり、そんなとき、多分、難しさというか、伝えられる部分と伝えられない部分があるかと思うんです。
 私自身、ある意味、門外漢的な形でかかわって、だからこそ、キャンプの中の世界と外の世界のつなぎ目になろうと思って原稿を書いて、キャンプのことを発表してきたりもしてきたんですが、それでも、私自身、キャンプの中にずぼっと入ってしまっているから、外に向けて発信しようとして、改めて原稿を書くときの難しさを感じたりしています。ほかの人を誘うときに、「携帯、持ち込み禁止なんて、なんか変な宗教集団?」みたいに思われたり、「えっ、キャンプに行って話し合い?」と思われたり、難しさがあると思うのですが。キャンプのことを伝えたときに感じた難しさ、難しさなんて感じたことないよとか、そもそも伝えること自体怖くて伝えていないとか、近くの人としゃべっていただけますか。(少し待つ)はい、そろそろ時間を区切りましょうか。こんな話が出たよとか、ぜひ紹介したいと思うこととか、どうぞ。
森田 : 私の場合、吃音を周りに話していないので、そこから説明しなくてはいけない。また、キャンプだと野外活動と考えられるので、キャンプのことばを使わないで説明しないといけない。
伊藤 : 昔は、野外活動もしないし、テントを張るわけでもないから、吃音サマースクールだった。京都の児童福祉センターの言語聴覚士数人と一緒に始めたのが最初です。言語聴覚士たちは、どもる子どもは、それでなくても、日頃ストレスを感じ、しんどい思いをしているから、演劇や話し合いなどのしんどい活動でなく、楽しく、遊びを中心にしようと言う。僕は、与えられた楽しさは、一瞬の楽しかったで終わってしまうけれど、本当の楽しさは、ちょっとしんどいことにチャレンジしてやり遂げ、そこでじわじわと湧いてくる、私にもできたいう喜びが楽しさに転じることが大事だと思っていた。だから、最初から話し合い、劇を入れていた。その意見の食い違いからか、向こうが忙しくなったからか、分からないけれど、向こうが離れていったときから、吃音親子サマーキャンプという名前に変わったのかもしれない。
渡邉 : 私は、毎月、ことばの教室でグループ学習をしています。9月は、少し時間をもらって、ホームページから写真をとり、スライドを作り、キャンプの報告をしています。一度、ことばの教室に通っている子が、私と一緒に、キャンプに来たことがあります。その子が、グループ学習で、キャンプの報告をした。子どもたちは、私が毎年報告しているのに、「ほう、へえ」と、初めて聞くみたいに聞いていたの不思議だった。子どもは同じ子どもから聞きたいのかなと思った。私はことばの教室の先生だから、ことばの教室の先生に伝えるときには、なんとなく伝わるのかなあと思う。子どもが子どもに、お母さんがお母さんに、そういう同じ立場の人が同じ立場の人に伝えていくことで伝わるのかなあと思いました。
渡辺 : 夏休みのイベントみたいなイメージとのギャップも、伝わりにくさなのかなとも思います。伊藤さんは、このキャンプは特別だとよくおっしゃるけれど、どういうところが特別なんでしょう。
伊藤 : どもる人で、どもりを話題にしたくない人は少なくありません。僕も、昔、どもりを否定的に考えていたときは、どもりということばも大嫌いでした。ところが、1965年に東京正生学院で、30日間の合宿生活をしたときに、聞きたくもなく言いたくもなかったどもりについて語り、それをみんなが一生懸命聞いてくれる。また、苦しかったことを話して、お互いに笑うという経験は初めてだった。僕たちにとっては、最初は話題にしたくもなかったことだけれども、それを聞いてくれる人たちがいれば、ほんとは話したい。自分を語ることで、客観的に整理することができるし、他の人の体験を聞くことによって、こういう考え方もあるんだなと新しい価値観に出会える。これは絶対キャンプには欠かせないと思って入れました。話し合いは、最重要のテーマです。
 僕が講師として関係しているキャンプは、島根、静岡、岡山、群馬、沖縄、千葉ですが、1泊2日か1日で、それぞれに、特徴がある。それらのキャンプのスタッフで、滋賀のキャンプを経験した人がいる所は、話し合いを中心に置きます。今年21回目となる島根のキャンプは、話し合いや吃音についての作文の文化が根づきました。4回目の沖縄も、3回目の千葉も、滋賀のキャンプに参加しているスタッフがいるので、話し合いの時間を特別に大切にしています。吃音についての話し合いや作文などで、吃音に向き合うことにを徹底しているというのが特別かもしれません。(2020.1.20) (つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/10/22

吃音と演劇−吃音親子サマーキャンプという場の意味 (2)

 第30回吃音親子サマーキャンプのときの特別プログラム、「吃音親子サマーキャンプという場の意味」の続きを紹介します。

   
吃音親子サマーキャンプのしかけ

渡辺 : キャンプのプログラムの話も出てきました。大人の側が、次はこうしなさいと言わなくても、キャンプのしかけみたいなのがあって、それで進んでいくという話が出ました。「作文の時間が2日目の朝にあるのは、何か意味があるのか」「劇はいつから始まり、なぜ劇をしようと思ったのか」。特に、劇は最初からあった。伊藤さんが「浦島太郎」でせりふのある役をさせてもらえなかった怨念だということでしたが、いくら小学生2年生の時の怨念があっても、30年も続けているのは、それだけに留まらないものがあると思います。このキャンプのしかけ、プログラムの話、いきましょうか。
伊藤 : 僕の怨念だけで続かないですね。音読や発表は、学校では苦手だけれども、同じようにどもる子どもたちや支える人がいたら、学校とは全然違う力を発揮する。僕は、セリフのある役をもらえなかったとき、芝居にはセリフの多い主役と、少ないわき役があると思っていた。竹内敏晴さんの芝居に出演したときに、竹内さんは、ひとりひとりが主役だと言った。少ないせりふでも、その人がしゃべるときは、その人にスポットライトが当たり、その瞬間はその人が主役だ、ということです。その緊張する場をひとりで支えることを子どものころに経験しておくことが、その後の緊張する場面で役立つと思うようになりました。
 今回、僕は、久しぶりに卒業式で泣きました。鈴木葵ちゃんが小学5年で初めて参加したときのことを思い出したからです。舞台で葵ちゃんはことばが出なくて、涙をぼろぼろこぼしながら、それでも舞台から逃げずに、その場に居続けた。僕は、この姿をすごいと思った。また、何年か後に、セリフの多い役をしたいと手を挙げたことがあった。芝居が終わった後に感想を聞いたら、葵ちゃんはさっと手を挙げて、「私は主役をしたのに、どもってスムーズに進行しなくてみんなに迷惑をかけてしまった。他の人だったら、できたかもしれなかったのに。悔しい」と発言した。そのシーンがずっと頭に残っている。今回の芝居でも、かなりどもりながら、葵ちゃんは自分で自分を支えていた。その姿を思い出して僕は泣いてしまった。
渡辺 : 劇へのとらえ方、考え方が変わったのは、具体的にいつぐらいからですか。
伊藤 : 最初、「どろぼう学校」や「ごんぎつね」、竹内敏晴さんの「からだとことばのレッスン」でした「夕鶴」をしていた頃は、まだ遊びのような感覚でした。プロの演出家、劇作家の竹内敏晴さんに、サマーキャンプの劇のシナリオを書いて演出をしてほしい、本格的な演劇をしたいとお願いをした時から変わったと思います。
渡辺 : 竹内さんは、多分、吃音サマーキャンプの6回目くらいから、13、4年間、演出・指導して下さったんですよね。第20回目くらいまでは、竹内さんが脚本を書き、スタッフ向けに演出指導をして下さっていた。21回目以降は、私です。だから、私が関わってきた20年のうち、竹内さんの合宿で「劇のための事前レッスン」を受けて参加していたのと、自分が事前レッスンをして参加しているのと半々です。葵ちゃんの劇のエピソードで、私もいろんな印象に残っていることがあって、葵ちゃんが最初に参加したとき、さっき伊藤さんが言っていたけど、めっちゃどもって、舞台でなかなかことばが出てこなかった。練習のときも大変で、同じグループだった私は、これだけしんどい思いをしていたら、てっきり、もう劇のことが嫌になったのと違うかな、本人にとってつらい体験だったんじゃないかなと思った。そのときの感想で、葵ちゃん、何を言ったか覚えてる?
鈴木 : うん?
渡辺 : いっぱいどもって、「役になりきれなかった。次はもっとうまくやりたい」と言ったんです。そのとき、わっ、すごいなと思った。つらい思いをしたんじゃないかな、はこっちの杞憂で、本人はもっと違うレベルのことを考えていた。役になりきれなかったと思っていたのか、すごいなと思ったことは、すごく印象に残っています。
 劇で印象に残っていることはいっぱいある。でも、それは、派手に何かをするというよりも、ほんとにちょっとしたことです。今回の芝居でも、父親役を寛明君が、ダニー役を乃音ちゃんがしていた。父のほら吹き話を、寛明君がどもりながらしゃべる。ダニーの乃音ちゃんは、めっちゃ目を輝かせて、きらきらさせて、それに聞き入っているという、それだけの場面なんですけど、日常の中で、あれだけ人が目をきらきらさせて自分の話を聞いてくれる、それも自慢話を、そんなことは、なかなかないと思うんです。でも、それが虚構の世界の中でならちゃんとできる。それはどもるどもらないに関係なく、ちゃんと人に向き合って、関わることでそれができる。そういうシーンがいいなあと、今、劇を担当している身として私はそんなふうに見ています。私は、そんな劇の見方をしているんですけど、劇への思いとか、印象に残っていること、ありませんか。
渡邉 : 私は恥ずかしがり屋なので、子どもたちと一緒に劇をするのはいいけれど、自分が演じるのはすごく苦手だった。だけど、ちょっとがんばってみようと思って、竹内さんのレッスンに行ったけど、こわかった。誰に向かって言っているのか、その人にしっかりと伝わったか、これくらい離れていればどのくらいの大きさの声を出せばいいのかなど、ことばを丁寧に話すということを教わった。竹内さんのレッスンを受けたのは少しですが、びしびし鍛えてもらった気がする。竹内さんが亡くなって、渡辺さんのレッスンに変わったときは、子どもたちが劇の中にどれだけ入り込めるか、この劇をどう楽しめるか、を考えるようになった。基本はあるけれど、これを入れるともっと効果的になるんじゃないかを考えて、子どもたちと劇を作っていけるようになった。キャンプの劇は、誰に伝えているのか、ことばを丁寧に伝えるとはどういうことかを考えることが詰まった劇だと思う。
渡辺 : 劇って、普段できないことができるのが楽しい。今年の劇でも、「できるもんかよ、できねえよ」のやりとりがありました。ああいう、ののしりことばって、日常生活では言ったら怒られることもあるし、場合によっては、自分が言われる方になるかもしれない。でも、この場なら、怒られることなく、しかも楽しんでできる。虚構の力というものがある。私の担当したグループで、フランクとデイリが対面する場面で、「こんなところでお目にかかるなんて」「まあなんて偶然」という、それだけのやりとりですが、そこのやりとりを取り出して、練習の時、二人組でやってみようと取り組んだ。照れながら言う、ドアをバーンと破って出てくる、いろいろあって、おもしろかった。どれが正解というのではなくて、いろんな表現の仕方、現れ方がある。こんなのを楽しめるというのが、劇の世界の魅力なのかなと思います。
浜津 : 私が小学生で初めて参加したとき、どもりながら演技をするのが嫌だった。見ている人もどもる人が多いのだから、大丈夫と分かっていても、嫌でした。日頃の生活から、どもりたくない、どもると嫌がられる、時間がかかる、などの先入観が残っていたからだと思います。話をするとどもるので、力が入って、どもってはいけないと思っていた。でも、サマーキャンプに来て、毎年、演劇を繰り返していくうちに、みんなは待ってくれることが前提にあって、どもりながらどう表現したらいいだろうと、みんなで考えていくうちに、緊張がちょっとずつほぐれていった。どもらないようにどもらないようと早口になってしまったり、肩やからだに力が入って萎縮して小さな声でしゃべってしまったりしていたけれど、今は、大きな声で、どもりながらでも、話せるようになったので、劇の力は大きかったのかなと思います。
渡辺 : 浜津君といろいろ練習をしたね。すごく印象に残っていることは、中学生の、多分一番恥ずかしい時期から脱却しようとしていた時期に、「モモと灰色の男たち」の芝居で、浜津君は灰色の男の役で、「時は金なり」「一日2時間節約できれば、720時間節約できる」のせりふをドーンと前に出て言う役だった。当時、私も若かったので、荒神山の小山を転げ落ちながら、体を動かしながら声を出そうとか、いろいろと特訓をしていたんです。浜津君のお母さんに、「今年、期待しといて下さいよ」と言ったら、お母さんは、「毎年、今年はどんなのをやるのかなと期待して見るけど、いつももじもじして、その繰り返しやから、期待しないで見てます」と言っていた。でも、本番の浜津君の「時は金なり」を見て、お母さんは、涙をボロボロ流して「こんなふうに変わるなんて」と言っていたのが、すごい印象に残っている。こんなふうに、一皮むける機会、場にもなるのかなと思った。東野 竹内さんのレッスンは貴重な体験でした。竹内さんからは、どもってことばが出ないときに、息をもっと出せとか、ことばは相手に届かないとだめだとかを教えてもらいました。日常生活で、実際にしているんですが、そのことはとてもよかった。日常的に、どもる子どもは音読でなかなか声が出なくて困っているし、大人も人前での発表やスピーチ、自己紹介、電話で困っている。そういうことばが出ない状態を、ひとりで突破していかなくてはいけない。お芝居の舞台に立ったときのあの場面に置き換えて経験を積む、といったところでも、お芝居がとても役に立っていると思います。それを経験しても、吃音が軽くなるわけではないけれど。ことばを話すとは、息を届けるとは、など竹内さんの独特の表現がありますが、そんなことをどもる子どもたちに経験してほしいと思いながら、僕はお芝居にかかわっています。(2020.1.20) (つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/10/21

私が長く参加している訳−吃音親子サマーキャンプという場の意味 (1)

 吃音親子サマーキャンプの特集をしたニュースレターの巻頭言を紹介し、サマーキャンプ30年の歩みを振り返ってきました。
 区切りとしての最後に、「吃音親子サマーキャンプという場の意味」と題したトークセッションを紹介します。これは、2019年、サマーキャンプ3日目の最終日の午後、第30回を記念して設けられた特別プログラムの再現です。
 自己紹介から始まり、長く参加しているスタッフが、自分にとってサマーキャンプとはどういう場だったのか、思い思いに語っています。自己紹介と長く参加している訳を語るところからスタートしました。

   
はじめに
             
 2019年8月25日、劇の上演、卒業式を終えた昼食後、吃音親子サマーキャンプ第30回記念の特別セッションを設けました。全国各地から集まり、共に過ごす濃密な時間の持つ意味を参加者全員で再確認する場です。東京学芸大学大学院准教授の渡辺貴裕さんの司会で、長く参加している4人が自分にとってのサマーキャンプについて話しました。参加者からの事前の質問をもとにした5人の語りを紹介します。

伊藤伸二 : 渡辺貴裕さんは、吃音親子サマーキャンプに20回参加し、教育学の研究者として、書籍や論文でキャンプに関する文章を書いて下さっています。第三者とは言えないかもしれないけれど、僕たちとは違う立場で、30回の記念のセッションでキャンプについて話して欲しいとお願いしました。すると、一人で話すより、このメンバーで話そうと再提案されて、この場が設けられました。
渡辺貴裕 : 伊藤さんはよくこの荒神山での吃音親子サマーキャンプは特別だと言う。皆さん、特別と言われたらどんな気がしますか?
参加者 : うれしい。
渡辺 : そう、「特別なんだ」と、なんかうれしい気がしますね。一方で、特別のままだと、まずいんじゃないか、もっと広まって、他でも同じようなキャンプが開かれることも必要だという気もしています。でも、どうしたらいいのだろう。特別は特別で大事にしながら、このキャンプで起こっていること、キャンプの意義を、それぞれの立場で関係してきた者が話し合うことで浮かび上がらせたらなあという思いで、この場を設けました。皆さんから質問も募り、その質問を取り上げて、一問一答ではなく、これを切り口に、キャンプの特徴を浮かび上がらせていけたらなあと思っています。では、まず何者かということを一言ずつ。
渡邉美穂 : ことばの教室の担当者です。キャンプには、30回のうち半分は来ていると思います。
東野晃之 : 僕は、どもる当事者で、大阪スタタリングプロジェクトの会長をしています。サマーキャンプへの参加は30回です。
浜津光介 : 私も当事者で、キャンプの卒業生です。
渡辺 : 司会、進行を務める私は20回来ています。申し込み用紙に、当事者、卒業生、ことばの教室担当者、言語聴覚士など立場を表す項目がありましたが、どれにも私は当てはまらない。要件を満たしていないにもかかわらず、20回来続けて、今回はこの場の進行までしてくれと無茶ぶりまでされるという、恐ろしい団体です。

   長く参加し続ける訳

渡辺 : メンバーの共通点として、長く参加しているスタッフなので、「なぜ、ずっと参加しているのですか」さらに、「続けて参加する中で、関わり方に変化はありますか」あたりからいきましょうか。
渡邉 : 私は、ことばの教室の担当になって、どもる子どもとどんな勉強をしたらいいか分からなくて、このキャンプに参加しました。自分が担当している子どもたちのために、何か指導のヒントがあったらいいなと思ったんです。でも、勉強してメモするキャンプじゃなかった。夢中で3日間を過ごしてとても楽しかった。1回目は、子どものため、勉強のためと思って参加したけれど、2回目からは、私自身が楽しいからに変わりました。それからは、子どもたちのためには片隅にあるけれど、それより、ここで出会う人たちのエピソードや体験を聞き、私はどうなのか、どもらない私はどんなふうに生きているのか、生きたいのかと考える1年に1回の時間になっています。
東野 : 僕が30回続けているのは、キャンプの場がとても居心地がいいからです。普段の生活では、どもらない人が多いから、どもる人やどもる子どもは少数派ですが、ここはそれが反対で、とても居心地がいい。僕自身は、今はほとんど悩んでいないので、吃音のことを考えることはあまりない。でも、参加すると、人と関わるのが苦手だったり、人と話すときに気後れする自分を再確認します。
 毎週、大阪吃音教室の場で、どもる人が集まって話し合っていますが、キャンプには、子ども、保護者、当事者、どもる子どもを支援する教員や言語聴覚士など、立場の違う人がいるので、いろんな刺激がある。居心地がいいだけでなくて、癒やされたり、学べたり、元気をもらう場です。それで、参加し続けています。
渡辺 : 東野さんの場合、大阪吃音教室で、どもる人たちとしゃべる場はあるわけですが、そことこのキャンプと、居心地の良さは違うのでしょうか。
東野 : 違いますね。僕は、話し合いでは、親グループに参加することが多いんだけど、親がどんなことを心配しているか、どもる子どもについてどう思っているかなど話を聞き、自分の経験と照らして理解できる。僕は成人になるまで、親に、自分の吃音のことを話したことがなかった。だから、親が僕の吃音をどう考えているのか知らなかった。でも、キャンプで親の気持ちを理解することができた。また、言語聴覚士やことばの教室の教員の方が、子どもとどう関わりを持ちたいと思っているのか、どんな課題があるのかの話を聞くと、もう一度、吃音について、第三者の視点で考えることができることも刺激的です。
渡辺 : 私も、なぜ参加をするのかということを考えることはもはやなくて、年中行事になっている。ここに来ると、いきいきするんです。子どもの話を聞いたり、劇をつくったり、親の話を聞いたり、すべてひっくるめて、自分にとって、血湧き肉躍る感覚があって、毎年、来続けている。ただ、参加する中で関わり方に変化はある。最初は、私も若くて大学生で、暇さえあれば、子どもの所に行って一緒に遊んでいた。からだを使って、持ち上げたり、振り回したりしていた。それは、若かったということと、何らかの形で役に立とうとしていたのかなあと思う。当事者でも専門家でもない、じゃ、子どもと遊ぼうと。でも、だんだんその気負いみたいなのがなくなっていって、今は、寸暇を惜しんで休んでますね。それにはモデルがあって、最初来たときに、このキャンプ、どもるスタッフはおっちゃんばっかりやと思って、20年経っていますが、当時のおっちゃんは、空き時間は、どこかその辺で寝てたんです。これでいいんかと思った。何かのためにでもなく、自分が何かを得るぞ!みたいな気負いもなく、すごく自然体。それでいて、刺激を受けて、あるいは考えさせられる、そんな場かなという気がしています。
 浜津君は、長く参加しているだけでなく、卒業生なので、子どもとして参加していたときと、スタッフとして参加しているときとの違いがあれば。
浜津 : 長く参加している理由は、恩返しが一番だと思います。自分はキャンプで救われました。僕は今、32歳です。渡辺さんが大学生で、子どもと遊んでいたと言っていた頃の子どもです。僕、渡辺さんのことが大好きでした。子どものころは、誰が言語の専門家なのか、誰が当事者か分からないけれど、そうやって、関わってもらった先輩やスタッフの見本がいっぱいいたので、スタッフとして参加してからは、恩返しができたらなと思っています。それと、結局、私もここが居心地がいいんです。なぜか眠くなるんです。多分、職場では緊張もし、気を張っているけど、ここに来ると、力が抜けるんだと思う。ここは、ホームという位置づけもあって、1年に1度、ここに帰ってくるのは、自分の1年間のスケジュールに入っている。子どもとして参加と、スタッフとして参加の違いですが、子どもの頃は、面倒をみてもらっていたのが、スタッフになった瞬間、面倒をみる方に変わった。そのときに、こんなにも大変なことをスタッフの皆さんがしていたんだなと分かった。どもる当事者だけとは言っていられない。参加している子どもたちをいかに元気づけ、笑顔にするかを大事にするようになったと思います。
渡辺 : このキャンプは、スタッフでも寝ていられるし、対等性と伊藤さんがおっしゃるように、スタッフだから何かしてあげるとか世話するとかの意識がそんなに強くないキャンプだと思うけれど、それでも、参加者とスタッフでは何か違いがあるとしたら、それはどんなことなんだろう。
浜津 : キャンプで卒業式を迎えたということは、君は一人でもやっていけるよと言われているようで、卒業式を迎えた生徒は、気軽に参加してもいいと思うんですが、僕は、キャンプに来て何を得て帰ってもらうかということを大事にしています。
渡邉 : 私はことばの教室の教員なのに気楽に参加してました。学校の宿泊学習では、「時間を守りなさい」、「集合しなさい、遅いよ」と、先生が子どもたちを怒っているのをずっと見続けてきた。でも、このキャンプでは、誰も怒らないし、誰も「こうしなさい、ああしなさい」と指示しない、それなのに、プログラムが時間どおりすすんでいく。誰も何も言われてないのに、自然に形を作っていくこのキャンプって、ほんとに何なんだろうと思った。みんなが、これをしておこうかな、これをしておいたらいいよねと、自分から気づいて動いている。子どもたちは話し合いの時間になるとさっと移動するし、不思議な空間だと思った。そのことがきっかけで、自分自身の家族のあり方を考えるようになりました。子どもに、「こうしなさい、ああしなさい」と指示したり、ガミガミ言わないようにしたら、子どもが自分で考えて行動できるようになるだろうと信じることができる母親になれたと思います。(2020.1.20) (つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/10/20
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