伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2020年07月

新型コロナウイルス感染拡大の中での、ことばの教室の研修会

 一年前から、どもる子どもの保護者、どもる子どもや保護者の教育にあたる、ことばの教室の担当者の研修会が計画されていました。先日、計画どおりに実施され、話をしてきました。研修会に向けての、担当者との一連のメールのやりとりを紹介します。

 【4月 研修会担当者からのメール】
 大阪は感染が心配ですが、お元気でお過ごしでしょうか? 私たちのところは、大都市ほどではありませんが、感染が報告される日はドキドキします。教員も在宅勤務を勧められています。さて、7月の研修会の計画が決まりました。
 午前は保護者と子ども対象の学習会、午後は教員対象の研修会です。
 コロナの影響で、新年度がスムーズにスタートできなかったので、計画立案のための話し合いもままならず、報告が遅くなり、申し訳ありませんでした。今後もコロナの感染の状況がどうなるかわかりませんので、予定通り開催できるのか不明です。開催できるとすれば、このような内容でお願いしたいです。

9:30〜10:15 保護者対象の学習会
11:00〜12:00 伊藤先生と子どもの語る会
   伊藤先生と通級担当者とのランチ学習会
13:30〜15:30 教員向け講演会 通級指導者や通常学級の担任対象

 【7月 研修会担当者からのメール】
 コロナがまた、増えてきましたね。新幹線で移動される伊藤先生の感染が心配です。それで、開催の仕方の変更も考えておいた方が良いのではと思っています。伊藤先生は、ZOOMを使っていらっしゃいますか? このまま、感染が増えるようでしたら、ZOOMでの研修会に変更しようと考えています。ZOOMを使っていらっしゃらないようでしたら、中止や延期も検討します。
 ZOOMの利用について、お返事ください。

 【伊藤からの研修会担当者へのメール】
 ご連絡ありがとうございます。コロナ感染者がまた増えてきた中、私のことをご心配下さり、恐縮です。ZOOM、延期、中止といろいろと考えて下さり、ありがとうございます。
私の考えを少しお伝えし、どのようにされるか、みなさんの決定にお任せします。
 このような状況だからこそ、少人数でも会ってお話ができることを私は希望します。4日間出向しているところで、対面講義ができず、ZOOMも学校側が対応できていなかったために、学生に、指定していた教科書のページを知らせたり、資料を送ったりして、それを読んだ上で自分の考えを書くという4回のレポートにしました。提出されたレポートが送られてきましたが、ちゃんと書いている学生もいましたが、昨年までのように対面で講義をして、その後返ってきたレポートとはかなり違うものでした。
 私のように、知識だけを伝えるのではなく、ある意味「哲学」を、学生と、コミュニケーションをとりながら講義をすすめる人間には、リモートでは、やはり限界を感じました。
そこで、私のかってな提案です。こんな時だからこそ、少人数でも集まれる人は集まりませんか。伊藤も、細心、最大の注意をして、消毒、マスクなど個人でできることは徹底してしますので、皆さんも会場の換気と、三密にならないようにしていただければ可能かと思います。不安な人もいるでしょうから、参加者はかなり減ると思いますので、その人のために、また今後のみなさんの研修のために、「動画を作成する」目的で、少人数でも集まるとの提案です。
 日本吃音臨床研究会のホームページにいくつかの「動画」をアップしています。あれは、二人で話しているのではなく、聴衆の前で話をして、その反応も意識しながら話しています。一人、カメラを前に話すのとは全く違います。
 今回、お話しようと予定していた「健康生成論的アプローチ」は、今後の特別支援教育、ことばの教室の教育にとって、今、私が考えている最新の、かつ、今後の教育について不可欠なテーマです。保育、教育、家庭での取り組みについて話したいと計画しています。
 「with コロナ」のストレスの大きな時代に、ストレスへの対処力となる、健康生成論、レジリエンスはとても大きな視点を提供してくれます。それを「動画」にして、今後の研修に、皆さんで活用していただくことはどうでしょぅ。予定していた参加者が集まらなくても、聞いてくれる人がいる場として、少人数でも集まっていただければ、今回の企画は成立すると考えたのです。
 ZOOMは、仲間で経験し、その環境はありますが、私は苦手です。いろいろな事情があるかと思います。私の勝手なお願いというか、考えをお伝えしました。
 延期や中止も含めて、ご検討下さい。     

【研修会担当者からメール】
 研修会の件、伊藤先生のお気持ちを担当者一同ありがたく受け取りました。研修会は計画通り、開催することに決めました。移動の心配はつきませんが、私たちの研修会のために、いらしてください。ただ、日々事態は変化していますので、先生の方でご心配が大きくなりましたら、ご遠慮なくおっしゃってください。こちらも、準備をしっかり整えたいと思います。ご提案いただいた、動画の撮影も有り難くさせていただきたいと思います。

 こうして、研修会は、予定どおり、開催されました。
伸二のスマホから静岡研修写真 
 【研修会後、僕の仲間たちへの報告メール】
 昨日、研修を無事に終え、帰ってきました。ビデオ撮影者と、後は少人数の参加かなと思っていましたが、午前中の保護者の時は40名、午後の教員の時は、まだ夏休みに入っていなくて、学校の授業がある日にもかかわらず、50名ほどが参加してびっくりしました。これまでと同じ、通常の研修会でした。消毒、マスク、換気は徹底していました。みんな真剣に聞いてくれました。今年は、第9回親・教師・言語聴覚士のための吃音講習会が中止になったので、せめて話ができるところではと思い、一所懸命話しました。ここの地区のことばの教室の教員には少し伝わったと思います。

 【研修会翌日、研修会担当者からのメール】
 昨日は、1日ありがとうございました。お疲れはとれたでしょうか?
 伊藤先生のお話にことばの担当者達は、勇気づけられたり方向性を示していただいたりし、明日からの指導に生きるお話をいただきました。ことばの担当者以外の教員達は、どもらないように話せるようになることがその子のためと考えていたことが、そうではないという考えを知って、意識が変わったなどの声が聞こえてきました。先生にお越しいただいて、直接お話を聞けて本当に良かったです。
 また、アンケートや撮影したものを、お送りします。
 これから、暑くなり、コロナの心配も尽きませんが、ご自愛くださいませ。本当にありがとうございました。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/7/31

吃音と電話 6

 吃音と電話の悩みを論理療法で考える

 別の日の大阪吃音教室は「論理療法」がテーマでしたが、その時に出された、電話でどもったら、「バカ」と言われ、みじめになったという人の話を、論理療法で考えることにしました。話題提供者は、その時のことを思い出して、少し興奮気味に話し始めました。その日も、電話3段階活用法で話し合いました。彼は、ふんまんやるかたないといった感じで、一気に話します。電話はどもる人が一番苦手にしていることで、多くの人が苦い経験をもっています。大阪吃音教室では、彼の体験に共感しながらも、論理療法の、みじめになった思いの基になっている、非論理的思考を探すというよりも、自分の体験を話していきます。

 出された経験 電話でのみじめな思い

 得意先のある係の電話番号を知りたくて、総務の番号案内に電話したが、どもってことばが出なかった。電話口の女性から「バカ」と言われて電話を切られた。屈辱的だった。気を取り直しもう一度電話したが、結果は同じだった。仕方なく同僚に頼んで電話してもらった。悔しさに会社から帰って泣いた。もうあんなみじめな思いは嫌だ。

◎バカと言われて電話を切られるのは大変きつい体験だが、私の場合は、そのようなことはたびたびなので、そのたびに怒ったり、落ち込んでいたら、からだがもたない。いたずら電話とよく間違えられるので、ある時同じ人に数度かけ続け、やっといたずら電話ではなく私がどもるからだと分かってもらえた。論理療法的には、『いかにどもっても、いたずら電話と間違えるなんてあってはならないことだ』との考え方をもつとしんどい。

◎他人にバカとしか言えないなんて、かわいそうな人だなと思う。そういう人には、同情こそすれ、自分がみじめになるのは損だ。『人がどもった時、バカにしたりからかったりしては絶対いけない。すべきではない』と、私たちは当然のことと考えてしまうが、それで自分が得をするか。バカにされて落ち込むのは自分だ。どもった時相手がとる態度は、こうあってほしいとは願ってもいいが、相手のことだからどうしようもない。こういう態度をとるべきだ、は相手への不当な要求ではないか。僕たちは自分の考え、行動を変えることはできても、他人を変えることはできない。電話でどもってどもって話をしても、じっと聞いてくれる人もいるし、ガチャンと切る人もいる。さまざまな人がいるのが現実だ。その社会で生きているかぎり、自分の要求に固執していると、いつまでも腹立ちをもち続けることになる。からかわれたり切られたりすると、当然、不快感もあるし、嫌なことだけれども、それで自分自身がダメになってしまうわけではない。

◎同僚に電話を頼んだことで、屈辱感を味わったというが、自分で電話したいというのは、社会人として当然だけれども、仕事をまっとうするためには同僚に電話を頼むということもあり得る。電話を頼んだだけであって、ほかの仕事は自分一人でこなしているのだから、給料を貰うに十分値する。自分でするにこしたことはないけれども、相手に頼んだからといって、自分自身がダメ人間ということではない。しんどい時は人にものを頼むのは一つの手だ。

◎みじめな思いをした体験そのものは消えないし、どもって電話をかけるということも、これから起こって来る。その時、怒ったり落ち込んだり屈辱感を味わわなくてもすむように、自分を助けるためにはどう考えればいいか、皆で考えよう。

 この発言をきっかけに、電話とどうつき合うかを話し合い、皆で苦手な電話への対処法を整理していきました。そして、次のように三つの段階に分けて対処法を皆でまとめました。

電話をかける前
 かける前にもっているのは「どもるかもしれない」という強い不安だ。電話をかけなければならなくなったらすぐにかけることだ。ややこしい内容の場合はメモを書いて整理しておくなどの準備が必要だが、そうでもない場合は、用意なんてしないでいきなり、ピッポッパッとプッシュしてしまう。すぐにしないと、「いつ電話をしよう」、「またどもって失敗したら嫌だ」と、ぐずぐすしているとなかなかかけられない。強い不安が起こる前にすぐに行動を起こすのだ。どもったらどもったまでのことだ。

電話をしている最中
 電話している最中は、相手が聞き取れず、何度も聞き返されたことがある。どっちみち聞き返されるのであれば、最初からふだんよりもかなりゆっくり言う。会って話をしている時は、非言語でカバーできるから早口でも通じることがあるだろうが、電話の場合は音声だけだから、ゆっくり言ったほうがいい。電話では日常の会話よりも話す速度をかなりゆっくりとしたほうがいい。どもる私たちは、ゆっくりを意識して言うと、比較的話しやすい。ということは、どもる人間にとっては電話のほうが有利だ。
 名前を聞かれても住所を聞かれても、一音一音ゆっくり言うと相手には聞き取りやすい。込み入った説明の時は紙に書いて、それをゆっくりと読み上げるようにする。していい準備としなくてもいい準備があるのだ。また、どもって聞き直されたら、「チャンスでありがたい」と考えて、できるだけゆっくり話す。聞き返されたのだから、いくらゆっくり話しても相手は不自然に思わない。聞き返されることにびびらないで、むしろチャンスたと考えると、聞き返されることが嫌でなくなる

電話をかけた後
 世の中にはいろいろな人がいる。ひどくどもった時、早く言えとあせらせる人。ほかの人に代われと言う人。ガチャンと切る人。ゆっくりと聞いてくれる人。その人によって対応はさまざまだ。また、実際にいたずら電話の被害は世間に多いのだから、どもる人にあまり出会っていない人がいたずら電話と勘違いするのは仕方がないことだ。
 たとえどんなことが起こっても、落ち込まないことだ。だって、電話でどもっても用は果たせているのだし、用が果たせなかったら、メールでもファックスでも、直接出向いてでも、やり直しはきくのだ。電話で失敗したからといってその後の仕事がダメになるわけではない。失敗にくよくよし、いつもビクビクしていたら自分が損だ。電話するのが楽しくなるように、たくさん電話をかけて慣れていこう。

 論理療法がテーマの大阪吃音教室でしたが、吃音と電話に話が終始しました。大勢の人が、電話では本当に苦労をしていました。一方で電話のほうが楽だという人もいました。いろいろと工夫してきたことなど、電話にまつわる体験がどんどんと話されます。この後、その日の大阪吃音教室は、電話への対処方法を話し合って終わりました。

 論理療法を学んでおくと、吃音だけでなく様々な日常生活での困難への対処に役立ちます。論理療法の本はいくつかありますが、吃音をテーマとした本を紹介します。
 『やわらかに生きる〜論理療法と吃音〜』石隈利紀・伊藤伸二 金子書房

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/7/30

吃音と電話 5

  どもる人の電話とのつき合い方

 これは、日本に限らず世界中のどもる人のテーマです。大阪吃音教室では、「吃音と電話」のテーマはいつも話し合われますが、「電話とのつき合い方の3段階活用」として、僕たちの中では定着しています。

 第1段階の電話をかける前は、森田療法の活用。
 第2段階の電話をかけている最中は、「竹内敏晴からだとことばのレッスン」で学んできた日本語レッスンの基本を生かすことです。
 第3段階の電話をかけた後、ひどくどもったり、失敗したと思ったときは、自分を助けるための対処法として、論理療法や認知行動療法が有効です。
 では、大阪吃音教室で話された、第2段階と、第3段階を紹介します。

 
大阪吃音教室報告
《かけている時→どんな工夫ができるだろう》

◎立ってする方がいい。体を動かしてする方がいい。
◎普段話しているスピードよりは、かなりゆっくり目に話している。音声だけなので、電話は「ゆっくり目に話す」ことがマナーだと考えている。
◎第一声が出ないから、ペンを持ち、字を書きながらだったら比較的出やすい。ペンを持ったら出るという安心感がある。
◎周りがシーンとしていて聞かれているのが一番プレッシャーだから、ざわついている所でする。ウォーミングアップとして、肩のはらない相手にまずかけてみてからする。
◎電話というものは、相手も半分喋るのだから、まずしっかり聞くことに集中する。相手が話したとき、「ハイハイ」を多用する。聞いているのだということを相手に伝えることになるし、自分も声を出していることになる。
◎立って電話をすることが多く、喋るのに時間がかかることより、どもるために足を踏ん張って電話する姿がおかしいとよく言われるのが気になる。
◎そういうことには慣れた。人から見たら、なんで足をトントンしているのかと思われるけど、私はこんなんやということが分かったら気にならなくなる。
◎メモをとるようにしている。書きながら電話するのがいい。「切らないで」と言って電話するなど、とにかくまずは声を出そう。

《かけた後→気持ちをどう立て直すか》

◎次の用事をみつけて、すぐにその用事をする。失敗したことを考えないようにする。目の前の仕事をさがすようにしている。
◎電話をし終わると、汗をかくから、まず手を洗い、ついでに顔も洗ってすっきりさせる。体をすっきりするさせたついでに、気分もすっきりさせる。
◎電話を10回しようと思ううちの1回くらいしか実際にはできなくても、1回でも電話できたということで、いい気分になる。
◎どもって、どもって話したことは事実だけど、目的はそれなりに達成できたことで、満足する。100%流暢に伝えなければいけないと目標を定めるとだめだけど、流暢性の水準をかなり落とすと随分楽になる。
◎どもりなんだから、どもって電話をするのは、当たり前だと考える。
◎嫌な気分を跳ね返すために、気分転換をする。
◎嫌な気分を立て直さないと、次の《かける前》にいかない。また、電話をとろうという気持ちになるよう、どもった後の「みじめ」をうまく処理をする必要がある。これには論理療法が役立つ。どもったからといって、切られたからといって会社をクビにはならない。「電話くらいまともにできないのか」などと周りの人に言われた言葉に縛られているのだから、言葉には言葉で対抗したい。電話に関係する、自分を支える言葉を作っていきたいと思う。
◎どもって喋るのは嫌だ。親からも、否定的な考え方を言われ、人前でどもって喋るなと言われた。喋らない方がいいと思ってきた。しかし、社会人になって生活していくうちに、どもってもつまっても、喋らないといけなくなった。喋らなくてもいいという状態に自分を置けば簡単だけど、それでは進歩はない。どうなってもいいから、喋っていかなくては。18歳から19歳の頃に、考え方を変えた。どんどん喋っていこうと変えた。きっかけは、自分は何もない人間だけど、何かないかなあと考えた。喋ることは好きだったので、人に受けるかな、おもしろくなるかなと、笑いの方にいった。ギャグの方に自分をもっていった。不安でいっぱいなんだけど、自分をだんだんと訓練していった。

◎質問です。吃音を病気とみるか、癖とみるかについてです。癖として自分もみて、相手にもみてもらうと楽なんですが、こういう考え方はどうでしょうか。
◎癖と思いたい。思ってしまえば、そこでどもりの悩みは解決したといえるのではないか。自分も相手も受け入れていればね。癖ってそういうものでしょう。
◎ジョーク、ユーモアを武器として使っていくのも素晴らしい。
◎癖というよりか、どもることが自分の本質だと思ってしまえばいい。癖なら、まだ自分の横に置いているみたい。どもる人間そのものが自分だと思えたら受け入れたことになるのではないか。癖というより個性だな。
◎どもりをマイナスのものと考える癖がいけない。世間の目や自分の思惑にしばられている癖がいけない。どもりの症状の癖よりも、みっともないとか、弱点と思うことがしばられていることが癖だろう。それをなんとかとっていきたい。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/7/29

吃音と電話 4

大阪吃音教室〜どもる人の、電話とのつきあい方

 どもる人にとって、困りごとの一番が電話です。大阪吃音教室でも、毎年の講座スケジュールに「どもる人の、電話とのつきあい方」はかならず入ります。NPO法人大阪スタタリングプロジェクトの機関紙「新生」に、そのときの様子が掲載されていましたので、2回に分けて紹介します。大阪吃音教室では電話を次の3段階に分けて考えています。

 1 電話をかける前 2 電話をしている最中 3 電話をし終わった後
 

大阪吃音教室だより〜電話とどうつき合うか〜(1)

 電話が苦手だという人は多い。それは、どもる私たちだけでなく、就職したばかりの新人の会社員の多くが、電話で困っているということからも分かる。かといって、今、ここにおもちゃの電話機をもってきて、電話の練習をいくらしてもまったく意味がない。
 また、電話は日本人だけでなく、世界中のみんなが困ってきた。あの著名な言語病理学者であるチャールズ・ヴァン・ライパーも電話がとれないため、困ったという。イギリスではどもる人に、長距離電話料金の割り引きをするべきだとの主張が国会で取り上げられ論議された。割り引きは実現しなかったが、どもる人の電話に対する恐れや、不利な点は、理解がすすんだのではないだろうか。
 今日の講座では、《電話をかける前》《かけている時》《かけた後》の3つに分けて、その対処法をみんなで考えていきたい。

☆アンケート調査  参加者26人
・かける前、不安だなと思う人…参加者のほぼ全員
・かけたいと思ったけど、避けたことのある人…13人
・かけなければいけない時、避けたことのある人…4人
・相手に切られたことのある人…10人
・相手にどなられたことのある人…4人
・かけている時、聞いている周りの人から苦情を言われたことのある人…8人

☆相手にどなられた時の様子について
・「お前、誰や。何言うてるんや」と言われて、なおさら声が出なくなった。「すみません」と言って切ったと思う。
・「何言うてるねん」と言われて、向こうから切られた。
・20歳頃、「電話くらいちゃんと喋らんかい。誰や、名前くらいちゃんと言え」と言われた。

☆相手に切られた時の様子について
・相手はクール。「もしもし」と言っても声が出ないからプチンと切ってしまう。

 現代の世の中、電話は避けられないので、どうつき合うか、みんなで知恵を出し合おう。

《かける前→不安や恐れとどうつき合うか→森田療法の考え方で》

◎ずっと電話は怖かったけど、今は電話を一日10本くらいしている。森田療法を学んだおかげで、何も考えず、受話器をとるようにしている。もし、一度切られたとしても3回くらい続けてかければ、相手も「どもる人間」からの電話だとわかり、それが何回かあると、僕がどもっているのを分かってくれ、聞いてくれる。とにかくめげないこと。
◎どもることを自分の弱点と考えていたら、電話はできない。弱点ではないと自分に言い聞かせる。そうすると、なんとか喋れる。暗示を与えるということ。
◎久しぶりに、父と母とに最近電話したとき、母から「最近ひどいなあ」と言われた。普通の会話と電話と、交互に周期があるようだ。自分はどもりじゃないんだと言い聞かせ、全く考えないで白紙にして電話をするようにしている。
◎周りが静かな所でかけるようにしている。周りがうるさいと大きな声を出すから、かえって力が入るから。
◎僕は、周りがざわついている方が電話しやすい。
◎やかましい所だと、自分がどもってもそれをごまかすことができる。最近の携帯電話は便利だ。固定電話よりずっと話しやすい。
伊藤 電話が鳴ったら、まず話すチャンスだと思って、即とる、と決めておく。どもったからといって、話す内容がちゃんと伝われば、仕事に差し障りはないし、首になるわけじゃないとか、考え方を整理しておくといい。
◎予期不安で思い描いている最悪の状態というのは、ガチャンと切られることだ。しかし、現実にはそうされることはそれほど多いことではない。多少、出にくくても、なんとかなるもんやと考えていいのでは。
◎自分が、伝えなければならないこと、伝えたいことからは逃げないこと。
◎電話を好きになることだと思う。電話のいい面をいっぱい認めていくことだ。
伊藤 相手がどもっていたら切るという人は、イラついて待つことができない人だ。仕事のできない人だと思えばいい。サービス業や電話交換手など、電話を受けることを仕事にしているような人は相手がいくらどもっても切らないと思う。切られることを恐れることはない。森田療法の考えを取り入れて、不安があっても恐れがあっても、電話をしたいとき、しなければいけないことはするということが大事。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/7/28

吃音と電話 3

電話をしなければいけないときには、どもってでもする

 電話にまつわるエピソードは、たくさんあります。
 タイトル「もういーよ」が意外で、はじめ、電話に関することとは思いませんでした。読み進めていくと、どもる人にとって、電話は一番の関心事で、悩みの代表的なもののひとつだと改めて思いました。3年前の失敗は笑えるものではありません。電話でどもって笑われて嫌な思いをした、という類いのものではなく、どもるのが嫌さに電話をするのが遅れ、大変なことに発展してしまいます。筆者は、その失敗を繰り返さぬよう、その後は対応しています。
 そこへ、新入社員が登場します。マニュアルどおりの対応に苦笑いをしながら、新入社員を気遣うところにも、余裕とユーモアを感じさせる体験です。
 どもりながらも、電話をしなければならないときにはするという、社会人として当たり前のことを、電話に悩む多くのどもる人に、ぜひ読んでもらいたいと思います。自分史を書き続けるモチベーションとして、NPO法人大阪スタタリングプロジェクトが制定している「ことば文学賞」への応募作品ならではの、ユーモアあふれる作品です。

       
もういーよ
                         椿谷 昌史

 「はい、○○社です。」
 僕が一番緊張する瞬間だ。本当は社内で事務処理を片付けたいのに、電話での会話を聞かれたくないのでいそいそと外出する。当初の予定より1時間早く会社を出た。そして、人気のない場所を探して携帯電話とにらめっこ。
 嫌だなぁ、電話したくないなあ。そんな事を考えながら、いつも同じ事を思い出す。
 あれは3年前の事だった。当時、難発が急にひどくなり、電話で話す最初の言葉が全く出なくなっていた時期だった。お昼過ぎに外出中の僕の携帯にメールが入った。
 『○○会社の××様から連絡を頂きたいとのことです。』
 そして人気のない場所を探して携帯の画面とにらめっこ。電話帳からその会社の番号を画面に出してしばらく考え込む。思い切って通話のボタンを押しても、すぐに停止のボタンを押す。いったい何回繰り返しただろう。場所を変えてもただ同じ事を繰り返した。まるで壊れたロボットのように。
 そうしているうちに夕方になった。明日にまで持ち越すのは絶対嫌だという気持ちが出てきた。この思いでやっと電話をかける事が出来た。

 内容は当時、猛威をふるっていたウィルスにパソコンが感染し、次々と大切なデータを破壊していった。僕と連絡のつかなかったユーザーは、他社に助けを求めて何とか夕方には復旧したとの事だった。思ってもみなかった大事にただただ驚いたが、この時の僕は被害が少なく復旧した事にほっとしていた。この後に起こることなど想像もしていなかった。

 それから数ヶ月後、保守契約の更新のハンコを貰いにその会社を訪問した。毎年の事なので、手続きは早々に済ませ、社長の奥さんと事務担当の方と家庭の話や子供の話などをするのがいつもの事だった。お客さんと一定の距離を取る僕にとってはめずらしい、仕事以上のつきあいのある数少ないお客さんだった。
 ただ、その日は違った。椅子に座るなり、お二人から「ごめんなさい」と切り出された。前のトラブルの事が問題になり、すぐにトラブル対応が可能なもっと大きな会社に保守をお願いした方がいいと会議で議題にあがったと説明してくれた。
 「何でも話せて頼みやすかったので、私達は反対したんですけど」
とフォローして頂きながら、ただ謝られるのをこちらも前回の対応の不手際を謝るしかなかった。
 客先を出たが、しばらく何も考えられなかった。ボーっと大切な物を失った喪失感のなか、あの時、電話出来ていたら…と何度もつぶやいて後悔した。
 この事を思い返すと電話をする勇気がわく。もう二度とあんな想いはしたくない。もう大事なものを失いたくない。

 僕は会社名を名乗るのが苦手だ。一番出にくい『オ』から始まるからだ。めずらしい苗字のおかげで会社名を名乗らなくても通じる事が多く、段々と会社名を名乗らなくなっていった。
 「パソコンの件で電話しました○○ですけど」
 「会社名をお願いします」
 「○○と言います」
 「会社名をお願いします」
 普段なら、会社名を名乗らなくても押し切ると大体は取り次いでくれるのに。今日はやけにしつこいなと思っていると、ふと気づいた。もうそんな時期かと。それは夏前にやってくる恐怖、研修を終えた新入社員が電話を取りはじめる時期だ。希望と正義感に溢れている新入社員は、何とか会社名を名乗らせようと何度も繰り返す。何度かやりとりを繰り返して、ついに諦めるしかなさそうだ。吐くまで許してもらえそうにない。ここは警察の取り調べか?
 決心して会社名を伝える。「えっーと、あの、あっ、あっ、あの、おっ、おっ、あの、おっ、オー△△の○○です」
 受話器の向こう側が凍りついてしまったようだ。電話越しに新入社員の動揺がはっきり分かった。『教えられた通りに会社名を聞いただけなのに。無理に聞き出して、悪いことをしてしまった』という感じだろうか? いつも通りにどもった僕は、受話器の向こうとは対照的に冷静に思う。『無理やり言わせるからやん。ほらな、そうなるやろ。』
 「しょ、少々、お待ち下さい」
 気丈にそう言ったが、担当者にちゃんと取りつげてるだろうか? 逆に心配してしまう。
 担当者との話が終わり電話を切ると、先ほどの新入社員の事を考える。
 『社会には聞かない方がいいこともあるんだよ。いい勉強をしたな、お嬢さん』


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/7/27

吃音と電話 2

吃音と電話 2 苦手から得意に

 どもる人にとって、電話は苦手なもののひとつだと、昨日、書きました。でも、苦手な電話だからこそ、その特徴を生かして、電話モードに切り替えて、苦手から得意にしてしまった人の体験を紹介します。目の前に相手がいないからこそできる工夫であり、秘訣のようです。

   
電話が得意になるまで
                 西田 逸夫

 横の机の電話が鳴る。急ぎの仕事を中断させられて、少しムッとした気分になる。
 2回目の呼び出し音が鳴る。頭の中で、やりかけの仕事を強引にフリーズする。顔を上げ、受話器に向き直る。キーボードとマウスから手を離し、メモ用紙の束を引き寄せる。シャーペンを手にして、深呼吸を一つ。
 3回目の呼び出し音で、受話器に手を伸ばす。その頃にはほとんど、さっきまで頭を占領していた仕事のことは忘れている。自然に口角が上がり、顔には笑顔が浮かんでいる。この、「電話モード」の時の自分を、私は結構気に入っている。落ち着いて話していられ、ほとんどどもることがない。そう、私は電話が得意なのだ。

 実を言うと私は、しばらく前まで電話が大の苦手だった。
 中学3年から高校1年に進む春休み。この短い期間に、私の吃音症状は一気に悪化した。電話のせいでそうなったと、今でも自分で思っている。
 もうすっかり忘れてしまった、何かの理由があったのだろう。中学時代に通っていた学習塾の連絡係を、その時の私は引受けた。毎日のように何本も掛って来る電話を受け、何人もの相手に電話を掛けた。毎回、先ず自分の名を告げるところで難渋し、回を重ねるごとに電話への苦手意識が強まった。「わわわわわ、私は」という連発性の吃音症状がひどくなったのはもちろん、ことばが完全にブロックする難発性の症状が、この時期に初めて出た。
 難発性の吃音症状は、その後の1年間ほどで電話以外の場面にも広がり、やがて人との会話の全場面に出るようになった。こうして、高校から大学にかけての時期、私は重い吃音症状に悩まされ続けた。その後、社会人になって経験を積み、話すことの場数を踏むにつれ、私の吃音症状は徐々に和らいだけれど、電話だけはずっと、苦手のままだった。何と言っても、吃音症状悪化の大きなきっかけになった電話を、私は好きになれなかった。

 そんな私の苦手意識が改善する最初のきっかけは、今から10年ほど前にやって来た。当時私は、土木設計の会社に勤めていた。その会社の新しい得意先になった社長さんは、独特の電話の使い方をする人だった。
 その社長さんは、どんな差し迫った用件の時でも、落ち着いた口調で電話を下さった。若い頃は一時プロの歌手だったという声は、低音が良く響いた。その声で、ゆったりとした口調で話されるので、その社長さんの電話は、とても聞き取りやすかった。
 仕事の打合せで面と向かって話す時は、その社長さんも普通の口調だった。と言うより、人一倍滑舌が良い分、むしろ早口に話されることが多いくらいだった。それでも、そんな打合せの最中に電話が掛って来ると、低音でゆったりした口調にサッと切り替えて、受話器に話されるのだった。
 この社長さんの電話の使い方に、私は大いに感化された。自分でも電話では、思い切りゆっくり話すように心掛けた。電話が、少し楽になった。それでも、苦手意識はなかなか抜けなかった。掛ってきた電話に出たり、自分から電話を掛けることはなるべく避けた。その社長さんほど模範的な電話の使い方は、私には身につきそうにないと思っていた。ただ、電話口では普段と口調を変えるということだけは、自分にも出来ることだった。
 2つ目のきっかけは、6年前に通い始めた大阪吃音教室だった。論理療法を知って、吃音や電話に限らず、人生のあらゆることに対する自分の態度を柔らげることが出来た。竹内敏晴さんのレッスンを何度か受けて、一音一拍の話し方が時々は出来るようになった。2004年度の吃音ショートコースで諸富祥彦さんのワークショップに参加し、常に自分のどこかに「心のスペース」を確保しておくことの大切さを学んだ。吃音教室の常連の仲間には電話が苦手なメンバーが多く、電話の具体的な対処法を何度も一緒に話し合った。

 2005年の春、職場の近くで大きな鉄道事故が起こった。阪神地域の広い範囲に住む人達が、被害者やその家族、遺族として、事故に巻き込まれた。職場は阪神大震災の復興ボランティアから出発した団体で、すぐに近隣地域の幾つかの団体と共に、事故被害者支援のネットワークを立ち上げた。ネットワークを構成する10余りの参加団体で、常駐スタッフの陣容が一番充実していると思われた私の職場が、事務局を引受けた。その年の6月から12月まで、私の職場では電話回線のひとつをこのネットワーク専用と決め、事故被害者からの相談受信や、団体間の事務連絡に充てた。
 実は私の職場では、ちょうどその年の春から、ある大型事業を始めることになり、スタッフの大半はそちらに従事していた。ネットワークの事務局を引き受けたということは、掛ってくる電話への対応が、ほとんど私一人に任されたということだった。何かほかの作業に取り掛かっている最中でも、私はその電話に最優先で対応せざるを得なかった。どんなに急ぐ仕事の最中だろうが、どんなに込み入った仕事の最中だろうが、一旦その受話器が鳴れば、すべてをなげうって電話に集中することが必要だった。期間の途中からは事務局スタッフが増えたが、その電話には私が出ることが多かった。
 実際には、我々のネットワークの活動は余り広く知られるには至らず、掛って来る電話の9割方は、同じネットワークに属する団体スタッフとの打合せや、マスコミによる取材などだった。とは言え、事故の被害者ご本人やご家族からの電話が、いつ掛って来るか分からなかったし、掛って来ればその内容は、身の引き締まるようなものだった。それに、ネットワーク団体間の連絡の電話も、話題は悲惨な事故被害に直接間接に関わる内容だった。電話の直前まで携わっていた作業のことはほぼ完全に念頭から消し、と言うより、自分に関わる事情の一切をほぼ完全に念頭から消し、電話の内容をひたすら聴き取る姿勢が、いつの間にか身についた。その受話器を手にした私は、もはや急ぎの仕事に気を取られた私ではなかった。その受話器を手にした私は、もはや電話が苦手で吃音を気にする私ではなかった。

 その翌年、長らく海外に暮らしていた知人が日本に戻って来た。帰国に当り、私はパソコンの買い換えと設定の相談に乗った。メールと長い電話でのやり取りを何度か繰り返した後、帰国後の知人宅でパソコンの配線や設定を手伝った。お礼に誘ってくれた夕食の席で、知人は不思議そうに言った。
 「西田君、電話ではどもらんようになったのに、普段の会話では相変わらずどもるんやね」
 このことばに、私は本当に驚いた。電話口でほとんどどもらずに話せているということを、この知人に指摘されるまで、自分では気付いていなかった。
 知人の指摘を受けた翌日から私は、職場で電話を使う時、自分がどんな風に話しているかを観察した。確かに、電話口ですらすら話せていると気付いた。時には長電話で、込み入った話題になるなどして普段の会話口調に戻っていることがあり、そうなれば吃音が出始めることも分かった。そんな時でも、意識して自分を「電話モード」に切り替えると、またすぐに楽に話せるようになった。一方で、面と向かって相手と話すときには、以前と同様よくどもっていることにも、改めて気付いた。
 電話を使う時の自分をよく観察すると、相手の話を聞く時、全身が耳になって聴くことに集中できている。電話では、声以外の情報が遮断されるけれど、逆に言えば、電話回線という1本の細い管の向こう側で、電話の相手が懸命に話し、また、聞き耳を立てている。電話が苦手な頃は、声だけしか伝えられないということをひどく不便に感じたけれど、今ではこの不便さが、雑念なく相手に話し掛けるのにちょうど良いくらいに感じられる。

 今日も電話が鳴る。忙しい仕事の最中だと、一瞬ムッとすることが今でもある。
 しかし、呼吸を整え、「電話モード」で受話器を手にする頃には、私の顔には自然と笑顔が浮かび、掛ってきた電話を大いに歓迎する気分になっている。
 電話をしているときには、最近あまりどもらないということも、歓迎する気分の中にはある。しかしそれ以上に、電話回線という1本の管を通してなら、相手と確かにつながっている手応えを、感じることができるからである。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/7/26

吃音と電話

  吃音と電話

 目の前に相手がいない電話は、多くのどもる人にとって、苦手なことのひとつのようです。僕の開設している吃音ホットラインにも、「第一声が出なくて困っている」「会社の名前が言えない」「周りに人がいると電話ができない」など、電話にまつわる相談がよくあります。吃音相談会などでも、困っていることのベスト3の中に、電話が出てきます。携帯電話が普及したので、昔と比べると、苦手意識はずいぶん下がったようですが、それでも、吃音と電話は、どもる人の永遠のテーマです。しばらく、吃音と電話について、考えてみます。第一回の今日は、出産という大事な場面で、電話と格闘した人の話です。

  
一大イベント
                   
 「もうすぐ生まれますよ!」
 妻がとても苦しそうになってきた。その妻が陣痛の辛さに耐えながら、僕をベッドに呼び、「生まれたら、実家の両親にすぐに電話してね」と言った。陣痛の妻に付き添って昨晩からあまり寝ておらず、特に僕の頭は、もうろうとしていた。しかし、妻のさっきの一言で、急に頭がさえてきた。それは、この出産という一大イベントを、夫として感動的に迎える心構えのためではなく、ただ自分のどもりがそれ以上に気がかりだったためだ。妻の両親に電話をする。それはなんでもない事であり、どもりでない人であれば、この一大イベントの時には、感動を共有できる夫としての大切な役割であろう。しかし、この時の僕は、そんなことよりも、ただただ自分が、どもらずに電話をし、うまく妻の両親に伝えることができるかどうかが、一番気がかりだったのである。
 なんとも自己中心的な、なんとも頼りない、なんとも心の小さな男であろうか。
 「だんなさん! もう頭が出てきましたよ!」
 そんな助産婦さんの言葉なんて、どうでも良かった。ただ、もうすぐ電話をしなければならない、という嫌悪感のみが僕の頭でうずまいていた。
 「だんなさん!おめでとうございます!元気な女の子です!」
 喜びとは逆に、「ついに来た! 電話をしなきゃ!」という思いで頭は真っ白。体はコチコチ。妻にお疲れの声をかける間もなく、疲れ果てた妻に目もくれず、一目散に電話に走った。心の中では、「くそう! 電話かけたくない!」と叫んでいた。
 それからの記憶はない。上手く伝えられたのかも、覚えていない。ただ、電話越しで、ありがとう! ありがとう!と妻の父が喜んでいた。
 一大イベントである、妻の出産を終えての感想は、どもりで緊張して困った、ということだ。今でも、妻に悪いと思っている。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/7/25

障害の娘から教わった、障害を生きる極意〜水上勉さんの話より〜

もう少し、水上さんが詳しく話して下さったことを紹介します。
 
 
3年間東京の家をはなれて、別府の国立病院にいた娘が、治療を終えて戻ってきました。2歳の時に、腹這いにはなれるが、這うこともできなかったのだが、3年たって小さな松葉杖を手にして戻ってきました。母親の骨を両足に移植して、50メートルくらいは、根気よく歩ける脚になって戻ってきたんです。
 娘は、生まれながらの脊椎損傷による障害児でした。両足先が死んでいる上、大小便に関係する神経がなかった。0歳で、脊椎の大手術を受け、4歳で、骨の手術を受け、子どもながら2度の大手術に耐え、自分で歩ける力を得たわけです。家の庭の芝生に出て、嬉々として歩く姿を見て、私は思わず涙ぐんでしまいました。世の中には、うちの娘のように、先天性の障害を背負っている子も多い。大病院に入院して、大手術を受ける費用もなく、生涯、歩けないままに、生を終わらねばならない子どもたくさんいる。そのことを考えると、娘は恵まれているわけですが、庭を歩いてみせる子の姿を見ていて、私は、教えられるものがありました。
 2歳のとき、別府へ出かける日、娘は、肩を丸めて、首が落ち、障害をこの子ひとりが、背中に背負ったような哀れな姿でした。それが3年後に見る姿はちがいます。背中はのびて、腹が出ているが、バランスがくずれていない。しっかりと腰がすわり、腹に何か抱いたような安定感が感じられました。両足先は、相変わらず萎えたままで、死んでいるはずですが、両足をひきずるための訓練を、3年間がんばってきた。死んだ足を助けるために、腹と腰が、立派に成育しているのです。
 3年間、別府に付き添ってきた妻は、
 「あの子は、もう障害を背負ってなんかいませんよ。抱いていますよ」
と言った。そうかもしれない。子は背中に障害を負う時代から、一歩前進して、障害を抱いて生きる人間になっていたのです。そう思うと、芝生の上を歩いてみせる娘は病人ではなかった。ひとりの健康人です。欠陥はあるが、ひとなみな歩みを続ける子だ。
 私はそのとき、障害は背負うものではなく、抱くものだなと考えました。抱くことが、生きることだと考えました。私は体には障害はないが、小さいときに親と別れて、僧院で暮らさねばならなかった。精神的には、ある意味で欠陥があった。僧院は禅宗の寺で、修行が厳しくて、毎日泣いてばかりいました。当時は、別れた母のことばかり考えていました。なぜ、寺に来て、坊主になんかならねばならなかったのか。不満と憎悪で、仏門の修行が身についたことはなかったのです。私は、この当時のことを思い出すと、今でも、背中を丸めて、いつも泣いていたことが頭に浮かびます、もし、あの当時、私に、娘のように、運命を抱く勇気があったら、破門もされないで、一人前の僧となり、どこかのお寺の住職になっていたかもしれないと悔やまれるのです。
 人間には、体の障害もあれば、心の障害もある。それぞれ、表面に現れない障害を早く抱く練習をした方が勝ちなのではないか。背中で受けずに腹で抱くことが、生きることの秘訣だと、障害の娘が私に教えてくれました。
「いつからあんなに腰がすわってきたのかね」
「手術に耐えてからですよ」
「手術後に変わったのか」
「死んでいる部分を、生きているところが助けるのよ。あの子の腰は、私たちよりも肉が硬いのよ。足の分を腰が働くんだから」
生きる日々 こちらです 足のつけ根のあたりまでの肉はもりあがっています。死んだ足先の部分は、やせ細って、ぶらぶらしているけれど、腰から腹、それに、松葉杖を脇にするので、肩の肉のもりあがりもある。よく見ると、松葉杖をつかんでいる掌は尋常なにぎりこぶしではない。
 「娘は、ようやく、自分の生命をとりもどしたのだ」と、私は思いました。涙ぐみながら見ている私の前を、子は、キャッキャッ言いながら歩き回っています。
 来年は小学校に入るが、歩行未熟の子を入学させてくれる学校の選択で、私たちは、また頭を悩ませねばならない。しかし、親の心配をよそに、子は、喜々として、一歩一歩歩いてみせる。
 「障害は腹に抱け」と娘が言っているようです。「背負ってちゃ、いつまでも病人なんだ」と私はひとりつぶやくのです。
          参考 『生きる日々 障害の子と父の断章』(ぶどう社)
 

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/7/24

水上勉さんの言葉「障害は腹に抱け。背負っていちゃ、いつまでも病人だ」

水上勉さんとの出会い

 毎日書いてきました「ほぼ日刊 吃音伊藤伸二新聞」ですが、残念ながら昨日は時間がありませんでした。信州、鹿教湯温泉を中心にした旅の最終日で、しなければならないことが多くて、お休みしたのは、この2か月ほどで初めてです。毎日続けるというのは、いつかは途切れるので、これで少し気が楽になりました。今回の旅で思いがけずに出会った「無言館」の館長・窪島誠一郎さんが、小説家の水上勉さんの息子さんだったことを知ったことで、今回、僕たちと水上勉さんとの出会いを紹介します。
 
 小春日和に恵まれた1987年11月下旬の連休、私たちは、かねてからの念願であった水上勉さんの若州一滴文庫を訪れた。実在のどもる青年僧を主人公にした小説、『五番町夕霧楼』『金閣炎上』を書いた水上勉さんに、私たちのグループで話をして欲しいと何度も依頼したが、日程が合わずに実現していない。若州一滴文庫
 「若狭まで来ませんか。お会いし、お話しましょう」のことばを頼りに若狭へと向かった。手紙は前もって出していたものの、「会いましょう」との確約の返事をいただかないままに、とりあえず出かけた。だから、お会いできるとは思っていなかった。
 紅葉の美しい山を背にして建つ一滴文庫。その門をくぐり、少し歩くと茅舎の農家が見えてくる。やわらかい陽射しのあたる縁台にすわって、長靴をはいた柔和な顔のお百姓さんらしい人がひなたぼっこをしている。
 「あっ! 水上さんだ」(思わずかけよって話しかけた)
 「成人のどもる人のセルフヘルプグループですが、覚えていて下さいますか」
 「覚えていますよ。何度も呼んでいただきながら行けなくてすみませんね」
 一滴文庫のロビーのような所で、水上さんを囲んでしばらく語り合った。
 「この絵を見て下さい。素晴らしい絵でしょう。これはみんな小学校の子がここに来て描いたんですよ。こんな色、大人にはなかなか出せませんよ……」
 今、若狭でしている仕事、つき合っている子どもたちのこと、公害のこと、教育のことなど、淡々と、しかし熱っぽく語られた。話が少しとぎれたところで、以前からお聞きしたかったことを質問した。水上さんご自身の、障害のあるお子さんについて書かれている本にあった「障害を抱く」ということばの底に流れるものに共感したので、ぜひ聞いてみたかったのである。
 「水上さんは以前、『生きる日々』という本の中で「障害を抱く」ということを書いておられましたが、そのことについてもう少し詳しくお話していただけませんか」
 私たちの質問に水上さんはこう話して下さった。

 『障害を背負っていたら重かったけれども、障害を抱く、抱くとそれが楽になるというふうなことを私は書きました。それは、それを背負ったんじゃしんどいから抱いただけだよ。背負うということには逃げる姿勢がある。背負ってしまうと、子どもの表情が見えんもんな。そういう感じ、あるな。カンガルーは子どもをいつも抱いているから、子どもが風邪ひいたのがすぐ分かるんじゃないかな。動物というのはそういうもんなんだ。人間だって子どもがぶっ倒れたときにはまず抱くやないか。まず背負う人はいない。必ず抱くものなんだ。それを忘れて障害の子でもやっぱり背負ってしまう。そういう運命を背負ってしまう感じの受け止め方というのは、抽象的にはあるよね。そうじゃなくて、背負ってしまったのを、抱き直さないと、そうせんと一緒に生きていけんようなところありますよ。僕はそう思いますね。だから、一緒になって何かを作るということですね。
 あなたたちも、どもりという障害を持ってて、それを背負ってたらとても大きな問題だと思う。けれども、抱くと、どもりを持ったままで生きていけるのじゃないかな。私の書いた『金閣炎上』のモデルになった林養賢は、どもったものだからみんなに馬鹿にされて、それで屈折していくんですね。それが金閣寺を崩壊させる大きな動機の一つになるんですけれども、彼はかわいそうに肺病で獄死しました。彼はどもりを抱くところまでいかなかったですね。実際、彼に会えば、私は彼に「どもりをいつも対立的に考えるな」と言うただろうと思うのですよ。
 私も歩けない子が生まれたとき、女房と二人でアホなこと考えた。こうやなかったらとか、いつかみな対立的に考えるんだよ。だから抱けん。生まれてしまったのに、そんなこと考えてもしようがない。背負っているのはまだ対立的だな。対立的じゃなくて同化しちゃうわけよ。そういうことは言えるよな。だから抱くと障害でなくなっちゃうんだよ。一緒に生きるということになってしまうんだよ。転換するってことかな。
 あんたたちは、ことばに障害持ってて、こういう私は第三者で流暢に口が回るから勝手なことを言うというところがあるけれども、それはそれぞれの生き方なんだ。障害は腹に抱け。背負っていちゃ、いつまでも病人だ』
                           1987・12・20


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/7/23

偶然に出会った「無言館」

 明日からGo Toキャンペーンが始まるというのに、二転三転、確かな政策立案できないのは、どういうことなのでしょう。茶坊主政治の典型で、思いつきだけで事を進める。旅行業者も、国民も、振り回されています。先を見通せない政府の対策には本当に情けなくなります。
 Go Toキャンペーンには反対ですが、観光業界の窮乏は想像を絶するものでしょう。その支援には賛成ですが、時期が悪すぎます。コロナ感染拡大対策と両立させる政策立案には相当の検討が必要なのに、支援に哲学が感じられません。政府の政策には反対ですが、旅が大好きな僕は、観光業界のことが心配で、車で長野県・鹿教湯温泉に来ました。
 鹿教湯温泉には、傷ついた鹿が温泉につかってその傷を治したという、まあよくある話が言い伝えられています。全国のかなりの数の温泉に行っていますが、鹿教湯温泉は初めてです。一度は行ってみたいと思っていた温泉です。コロナのせいだけではないのかもしれませんが、少しさびれている気がしました。梅雨空が続き、すっきりと晴れることはないのですが、それでも、不思議と、傘の出番はありません。毎日の日課の食後のジョギングも、今日は雨で休めるかと少し期待するのですが、ちゃんと食後には雨はやんでいて、走ることができるのです。
無言館 昨日は、車で、近くの別所温泉まで行きました。町全体はこじんまりとしていて、別所温泉の方がにぎやかでした。観光案内所で聞いたとおりに町を巡り、おすすめの温泉にも入り、ホテルに戻ろうというときに、帰り道で「無言館」という看板をみつけました。
 「無言館」は、長野県上田市にある戦没画学生慰霊美術館です。樹木希林さんが亡くなられたとき、「無言館」とのつながりについて取り上げられていました。名前に惹かれて覚えていました。たまたま、通りかかり、看板をみつけたので、訪ねました。

    口をつぐめ、眸(め)をあけよ
  見えぬものを見、きこえぬ声をきくために  −窪島誠一郎−

 「無言館」館主 窪島誠一郎さんのあいさつを紹介します。

 戦争中、数多くの若い生命が戦地に駆り出され、戦場のツユと消えました。
 そうした中には、画家になることを一心に夢み、生きて帰って絵を描きたいと叫びながら死んでいった一群の画学生たちがおりました。当時の東京美術学校(現・東京藝術大学)、現在の武蔵野美術大学、多摩美術大学にわかれる前の帝国美術学校に在籍していた学生、あるいは独学によって絵を学んでいた前途ある絵描きの卵たちです。これらの学生たちは、厳しい飢餓と死の恐怖にさいなまれながらも、最後まで絵への情熱と、生きることへの希望をうしなわず、その思いを一冊のスケッチ帖、一枚の画布にきざんで死んでゆきました。そこには、絵筆を銃に替えて生きねばならなかったかれらの無念と、同時に、人間にとって絵を描くということがどれだけ至純な歓びにみちた行為であるかを物語る、ひたむきな生の軌跡があったと思います。
 この戦没画学生慰霊美術館「無言館」は、そうした画学生たちがのこした作品と、生前のかれらの青春の息吹きをつたえる数々の遺品を末永く保存、展示し、今を生きる私たちの精神の糧にしてゆきたいという希いをもとに、1997年5月1日「信濃デッサン館」の分館として開設されたものです。どうか、このささやかなる施設において、少しでも多くのかたがたの眼に、かれらの初々しい熱情にあふれた作品がふれることをねがってやみません。


 展示されている絵の多くは、華やかなものはなく、どちらかといえば暗く、地の底、水の底に、深く、重く沈殿しているように思いました。それでいて、生への思いが今にもほとばしり出るような力強さを感じました。絵に添えられている作者の紹介やエピソードからは、亡くなったひとりひとりに、生きていた、もっと生きたいと思っていた物語がありました。静かな美術館は、戦争は絶対にだめだと訴えています。

 2013年に、全国難聴言語障害教育研究協議会の全国大会・鹿児島大会の後、知覧特攻平和会館に行きました。特攻隊員として若い生命を絶たれてしまった無念さをひしひしと感じました。あどけない笑顔の写真が、より一層悲しみを増しました。無言館でも、知覧で感じたことと同じことを思いました。
 1950年に製作された、学徒兵の遺書を集めた遺稿集をもとにした映画「きけ、わだつみの声」を、小学校1年生くらいの時、小学校の校庭で、白い布をスクリーンにして見たのが僕の映画初体験です。その中のいくつかのシーンが、いまだに思い出されます。その時から僕は、「反戦少年」になりました。それは今も全く変わっていません。今、とんでもない世界のリーダーが複数いて、第三次世界大戦の危険も危惧されています。今の世界は、日本は、戦争の始まる前とよく似ていると、戦争の体験者が言います。繰り返してはいけないと強く思いました。
 これまで全く知らなかった場所「無言館」と、偶然出会えたことはうれしいことでした。そして、館主の窪島誠一郎さんが、小説家・水上勉さんの息子であったと知ったときは、驚きました。水上さんは、『五番町夕霧楼』『金閣炎上』で金閣寺に放火した吃音の若い僧・林養賢を取り上げたこともあって、仲間と会いに行ったことがあります。その時、いろいろと話して下さった話を、後日紹介したいと思います。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/7/21
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