伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2020年06月

應典院・コモンズフェスタ2000 どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生(3)

どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生  (3)

 應典院の本堂ホールに大勢の人が集まってくれたコモンズフェスタ2000のイベントでの話を、日本吃音臨床研究会の月刊紙「スタタリング・ナウ」2001年1月20日、NO.77から紹介します。つづきです。

 
「あのあのあの・・・とほほ」

 「君は言語不明瞭やからラジオ向きやない。持っている雰囲気はおもろいから、君を町へぱーっとほりだす」と、ディレクターからはっきり言われました。ABCのわいわいサタデー、今から20年近く前のテレビ番組です。
 町の人が、何を考え、何を探り、どんな人生を歩んでいるかを、徹底的に掘り下げて聞くという番組ですが、レポーターって大嫌いでした。乾浩明アナウンサーや上岡龍太郎さんが司会でした。僕は、いつも「あのあのあの・・・」とやってると相手は向こうへ行ってしまう。一回もまともにインタビューできなかったんです。ところが、それを見た松本おさむというプロデューサーが、ラブアタックを作って成功し、今の探偵ナイトスクープを作った人ですが、「文福さん、おもろいわあ。インタビューできんでも、町へ出ていっておろおろしてな、あれ、おもろいわあ」。
 普通は、「ちゃんと人の話、聞いてこんかい」と怒るのが当たり前でしょ。町へ行って「ちょっとあの、すんまへん、・・・あのあの、とほほ」。インタビューできなかったら、ディレクターが横で、おもろいでとパチパチ拍手している。この「とほほ」というギャグが一世を風靡し、それから結構僕の知名度が出ました。失敗したら「とほほ」というのが流行った。
 「とほほ」は、僕にとってはギャグじゃなくて、単なる口癖です。何か喋ってて、うっとどもってことばが出ない時、ごまかすために、「とほほ」。どもりをごまかすギャグが当たったんやろね。
 僕は、当時しょっちゅう家でも「とほほ」と言っていた。困ったときには、「とほほ」。これを見い出してくれたプロデューサーはえらいと思ってね。
 いっときそれを前面に出せと言われ、インタビューをして、向こうへ行ってしまったのをカメラが僕をアップで撮り、「とほほ」ですわ。これを、10年くらいやったから、その勢いがあって、吉本興業を辞めても、自分でやることができたんでしょうね。吉本興業を辞めたので、今はあまりマスコミには出ないけど、当時の僕を覚えていてくれる人がいて、あっ、知ってるでと言ってくれる。その番組には感謝してます。自分が「どもりでよかったなあ」と、思い始めたのはその時からです。

どもりと河内音頭

 そやけど、やっぱりどもりのお陰というのは、河内音頭です。人のやらんことをやり出したのは、やらなしゃあなかったんです。どもりの僕が、落語家でなんとか生きていくためには何でもやらなと思っていたから。
 気の合った仲間と飲みに行くの大好きやし、カラオケも大好きですが、気の張る席は今でもしんどいですね。仕事が終わり、主催者が「師匠、一席設けてます」「そうでっか」好きやから、大体地方へ行ったら交流会とかしますしね、地元の人と懇親会して飲んだりします。舞台終わって交流会に行っても僕だけ舞台の延長で、気を張ってる。何も裏表のある人間やないけども、舞台の延長の気でおろうと思ったら楽なんです。ところが、人間って、おもろいもんで、飲んだらその気持ちもマヒしてきます。二次会、三次会になって「文福はん、なんでこんな落語の世界に入ったんですか」と聞かれると、「うううう、わわわ・・・」とすごくどもってしまう。こうなると、気を張り続けていたらよかったと、ものすごくしんどくなって、落ち込んでしまう。
 酒を飲んで、酔うて足とられるとか、酒に溺れるとかは僕はまあない。酒には強いので、そんなに正体を崩すことはないんやけど、僕は口にくる。飲んだらてきめんにひどくどもるんです。
 昨日も、舞洲で、大阪でねんりんピック2000大阪、まず一部で素人の方の名人芸の司会を僕がして、その後、大阪名物の河内音頭を僕がやる。司会やって音頭をやるという両方できる落語家がいない。大阪の市の大きな仕事、3つ4つのプロダクションが競合したんですが、こんなタレントでやりましょうとプレゼンテーションして、落札するんですが、僕、4つくらい重なったんです。それくらい僕を買ってくれるのはうれしくて、ギャラがなんぼかは関係なくて、先に声をかけてくれたところから受けた。僕もそれなりにプレッシャーかかってましたわね。こんだけいろいろなとこからみんな競合してて、その中で選ばれた舞台やから、結構自分でも盛り上がったんです。うれしかったから、終わってから文福一座のメンバー5人でだいぶん飲んだんです。家へ帰ったら、ほんまにどもって、どもって、子どもも嫁さんも「お父さん、何言うてるか分からん、酔うてるのか、どもってるのか、何言うてるのか分からん」。結局酔うたらほんまに意識はしっかりしてても、口がついていきませんね。ほんまに。

伊藤 高座とか、緊張してるときは、まあまあ喋れるけど、地が出たりするとどもるという。僕の場合もそうなんですよ。大勢の人の前で喋ったり、この前の、NHKテレビの『にんげんゆうゆう』の収録のときもほとんどどもらないんだけれど、仲良くなったり気が楽になってくると、とたんにすごくどもり始める。

文福 分かってくれてるグループやったら楽しいでしょ。僕は吉本興業を辞めたでしょ。平成元年の秋ですが、嫁はんや、ファンの人も、当時は心配してくれましたね。でもね、大きなとこやったら、○日に新大阪に○時に集合といったら、なんぼええ人でも気を使ってしまう。その人と2時間一緒に新幹線に乗っていくとなると、なんかそこからちゃんと喋らなあかんとなると辛い。3日間同じ旅館に泊まらなあかんとなると、なんかしんどい。でも、今は吉本興業を辞めて、自分が座長をやってるから、特に遠い地方に行くとなったら、まず一杯飲んでて楽しいメンバー、気の合うメンバーを自分で選べるでしょ。だから、気は楽なんです。だから、その連中と車で6時間7時間走ったってその間、楽や。「あわわあわわ・・・」とやっても、みんな分かってくれてるから。
 伊藤さんからもろた、今度のイベントのチラシをみんなに見せたったら、みんな爆笑やったですよ。「どもりを個性に? わーっっ」って。今までやったら僕の講演の演題は、「真の笑いは平等な心から」とか、「私と落語と大相撲」、「人生落語修行」、そういうタイトルやった。なのに今回は、「どもりを個性に!〜桂文福ユニークな落語家人生を語る」でしょ。みんな笑ろた笑ろた。ついにやったね。
 カミングアウト、カミングアウトですよ。「俺はどもりですから。みんな見に来てよ」、そんなのは今までなかったですからね。そんなのは今回初めてですね。まあ、一種のカミングアウトですよ。いい機会を与えてもろたと思います。

伊藤 そうですか、それはうれしいです。それだけ人前で喋り、話芸ということでやってこられても、やっぱりどもりというのは消えないですか。治らないですか。

文福 まあ、僕ね、伊藤さんの本を読ませてもらって、テレビも見せてもらって、おっしゃってましたね。初め、どもりは治らないと言ったとき、そのときものすごく反発あったでしょ。僕も駅で「どもりは必ず治る、赤面症、対人恐怖症」の看板を見ると、どきっとするわね。僕はそんな看板嫌いですが、一番何が嫌いかって、薬の《ドモホルンリンクル》あれは嫌やね。「あんなん、誰が買うか!」。再春館製薬、あれ、腹立つ。なんであんな名前つけるねん、「ドモホルンリンクル」。(大爆笑)本を読んだとき、どもりが治らないということがすぐ理解できた。結局、どもりは治らんでも、うまいこと、つき合おうてたらいいんです。確かにどもりでうつ病になってる人とかいろいろカウンセラーのとこへ行ってる人もいるやろうけど、どもりはほんまに、どもりの矯正所で「ア・イ・ウ・エ・オ」と練習したりして、その場所では「こんにちは」「どうもありがとう」と言えても、「じゃ先生ありがとうございました」。「田中君、よくどもらずに喋れてかったねえ。またがんばってね」。「はい、明日もがんばります」と外に出た途端、「ちょっとすんません。駅にはどういったらいいんですか?」と尋ねられたら、途端に「あわあわあわ・・・」となるでしょ。そういうもんでしょ。だから、どもりは治らんというのは、本当にそうでしょうね。どもりは治らへんやないかい、和歌山弁も結局なまってもええんです。なまりは国の手形やしてよなー、おいやん(紀州弁)。
                「スタタリング・ナウ」2001年1月20日、NO.77


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/06/10

應典院・コモンズフェスタ2000 どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生(2)

どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生  (2)

 應典院の本堂ホールに大勢の人が集まってくれたコモンズフェスタ2000のイベントでの話を、日本吃音臨床研究会の月刊紙「スタタリング・ナウ」2001年1月20日、NO.77から紹介します。
 
 
「てんてんてんまりてんてまり」、紀州の殿様のお囃子にのって桂文福さんが登場。それだけでもう笑いのモードに入っている。文福さんは多くの著作の中で、「対人恐怖や赤面症」については書いておられるが、どもりについては全く書いておられない。
 NHK教育テレビの『にんげんゆうゆう』を見なければ、「皆さんが、私のどもりについて、話にきて欲しいと言われても、来なかったかもしれない」と言われる。
 大勢の人の前で、自分のどもりについて話すのは初めてで、これは私のカミングアウトだとおっしゃった。そして随分とどもりについて話して下さった。会場は常に爆笑の渦で、「どもりも悪くないなあ」との、温かい大きな笑いが広がっていった。
 
 よくどもる電話

伊藤 文福さんが僕のところに電話を下さいましたでしょう。あのとき、実は、どもる人の相談の電話がかかってきたのかなあと思ったんです。僕がどもりだから安心してですか。

文福 いやあ、そうじゃないです。相手によらず電話の場合は特にどもります。104で電話番号を聞くときなんかも、自分が聞きたいところの名前が出ないんです。應典院の「お」も「おおお・・」となる。むこうが「もしもし、」「はー」となると、いたずら電話と思われる。こっちが声が出ないのに、相手に腹が立って、「ええかげんにせえ」と切ったこともあります。こっちが普通に喋っていると思っているのに、向こうが「何ですか。どうしたんですか」とせっついて言われたら「もうええわ」となったこともある。
 僕は、「わ」がなかなか出ないんです。「師匠はどこの出身ですか」と言われると、「わかやま」と言いにくいから、「紀州ですわ」と言う。
 電話でおもしろかった話がひとつあります。
 僕の『ふるさと寄席』のメンバーの桂勢朝君と電話する時、たいてい、ぼけたりしてしょうもないギャグを言う。いくら互いにあほなことを言い合っていても、肝心な用事は正確に言わなあかんでしょ。
 「明日行くとこは、神戸の須磨の水族館の近くの・・・、今言いにくいんやわ、焼き肉のわわわ・・」「わかまつ」が言いにくい。勢朝君が「えー?」っとなって、「もしもし、うー・・」となんべんやっても一緒です。しまいには、「うまい焼き肉やがあってね、そんでその場所はね・・」「おい、どこやった?」と弟子に聞くと、側にいた弟子が大きな声で「わかまつ!」と言う。「今の聞こえたか。そう、そこが仕事の場所や、分かったか」それを聞いて勢朝君が笑った笑った。永久保存版です。
 それを彼が、楽屋で桂米朝師匠や兄弟子の枝雀さんやざこばさんに話す。「それは、しゃれてるなあ」とか、「粋やな」、とか、「おもろい奴や」とか言って笑う。楽屋でそれを言われるとうれしいんです。ところが、それをあんまりおもろいからと、彼が落語会の舞台で、まくらで喋った。ほんならお客も笑いますわな。それは、ごっつう腹立つんです。そんなんは、お客さんには言うて欲しくない。そんなんで笑うギャグは腹が立つ。気持ち、分かるでしょう。それをネタにして、笑ってるお客は、ひょっとしたら俺をばかにしてるんちゃうかいなと、コンプレックスがわいてくる。後で、彼は、「いやあ、すんませんでした。僕、ちょっと勉強不足でした」と謝ってくれた。そういうの、すごく微妙ですね。楽屋とか、身内が分かってる場ならいいが、一般のお客さんにはそう思われたくないという気持ちはものすごく強い。それは今でもあります。

伊藤 ということは、高座ではできるだけどもらないように、コントロールされているのですか。

文福 コントロールというよりも、僕の口調になってますから。僕だって、はっきり喋ろうとしてるんですよ。昔、うちの師匠(五代目文枝)から、「お前、出だしはおもしろいが、途中になったらなんであかんようになるねん」と言われた。古典落語をやる時は、はっきり喋ろうとするとよけいにボロが出る。ボロを出さないようにするから、おもろなくなる。僕の本来の口調とギャップがありすぎたんですね。
 「お前は気にせんと、まくらと同じような口調で古典をやったらええんちゃうか」師匠がそう見てくれましてね、僕はいっとき古典落語しばらくせんとこと思って、新作とか漫談調のをやっていた。そこで、ある程度、自分の文福流ができたと思ったので、今度は古典落語を、僕がやったらこうなりますよというのを、僕流にやっていくと、これは結構受けました。
 自分の師匠の自慢をするのもなんやけど、うちのおやっさん(師匠)は太っ腹のところがあるから、桂三枝、きん枝、文珍という人気者や、小枝もあやめちゃんという女の子もいるし、個性的なメンバーがいます。師匠がそれぞれの個性を大事にしたんだと思うんです。
 「お前、だめやないか。もういっぺんやり直し。もっとはっきり喋れ」と言われたら、僕は萎縮して多分だめだった。師匠が認めてくれたんです。だから僕のこの落語は、僕の弟子も真似できないと思う。もちろん弟子に稽古はちゃんとつけますよ。でも、後は自分でやらんとね。僕の独特の《間》なんかは他人が真似はまずできへん。僕も師匠の真似はやってませんしね。確かに伝統芸能だから、伝えていく話や、芸の精神とか芸人としての心構えなんかは教えますが、口調は自分だけのものやから。

伊藤 とってもよく分かります。きちっと喋れ、ちゃんと喋れ、ということを最初にかなり言われていたら、落ちこぼれるか、自信をなくしたでしょうね。

文福 そうですね。でも、落語で舞台に出るようになってからも悔しいことはありましたよ。我々舞台に出る前は、各楽屋の先輩や後輩にあいさつに行く。「失礼します。お先に勉強させていただきます」。終わったら、「お先にどうもありがとうございました」と言うのがまあルール、仁義です。ところが、挨拶に行こうと、戸をノックして、ぱっと部屋の戸を開けた時、緊張する人や人気者がいると、「うーっ」となって次のことばが出ない。「おおお・・」と、そしたら相手も「どどど・・・」、こっちも「ああああ・・」。そこで、腹立てて怒ったらちょっと大人気ない、芸人らしくないと言われますから、「おおお、どどど、きゃきゃきゃ」と歩調を合わせますが、やはり悔しい。
 「よし、絶対こいつらより俺は今日は笑いをとったるぞ」とか、「こいつらより受けたるぞ」とか、闘志がわく。舞台に出たら「わー」と、どもらずにやるでしょ。「舞台ではちゃんと喋ってのに不思議やねえ」と、言われた。僕自身は、普段どもってても舞台でちゃんと喋ってるのは、粋やと思っていました。それは円歌師匠の影響もあります。

 粋な!三遊亭円歌

文福 昔、「山のあな、あな、あな、あな」と、どもりをネタにしていた三遊亭歌奴さんがいましたね。今は東京の落語協会の会長の円歌師匠ですが、その師匠の、先代円歌師匠も、ものすごいどもりだったんですよ。ところが、新作落語は、爆笑だった。今の円歌師匠が「すいません。ででで・・・弟子にして下さい」と言うと、師匠が「いいい、いい・・よ」と受ける。ほんまこういうことがあったんですよ。それを週刊誌で読んだ時、なんともすばらしいことだと思った。当時、けいこ中、どもったりしたら豆つぶがぴしっと飛ぶ。一席終わったら「豆、拾え、拾った数だけお前はどもったんや」。20何回とかね。だんだん豆の数を少なくしていったという。
 僕は、小学校、中学校の時、どもってたし、高校もそうだった。ただ柔道や相撲で発散してましたから、決して暗い子やなかった。やっぱり話す仕事はあこがれで、絶対自分にはできっこないと思ってた。田舎の子にしたらラジオをよく聞いたり落語の本を読んだりして結構よう知ってた方です。その中で円歌師匠の本を読んで、普段、どもってもええやないか、舞台で喋ったら格好ええ、これは粋やと思った。ところが、時代が違った。
 円歌師匠の時代は、高座だけうまくやったら、うまい噺家といわれる時代。僕らは、マスコミの時代。プロデューサーとかディレクターとか、花月の支配人も事務員さんも、若手の勉強会なんか来ないで、普段修行としての付き人をやっている姿を見て、この子はおもろいな、いけるなと判断する。僕らは、地域寄席を作って、例えば阿倍野青年センターの田辺寄席なんか、27年も続いているんですが、そんなんは見に来ない。その落語会では、ちゃんと喋っているつもりでも、楽屋で、「あああわわわ」と言ってるのを見て、あいつは絶対だめや、あの子は絶対落語できへんと、ずうっと思われていた。長いこと、僕はテレビやラジオの出番がなかった。まして花月の舞台もない。普段のフリートークで判断される時代だったんです。
 早い子で3年で花月の舞台をもらう子もいるけど、僕は10年くらいかかった。だいぶ出遅れたんです。 あの当時は、普通はラジオでおもしろいとテレビに出られる。僕はテレビからです。
              「スタタリング・ナウ」2001年1月20日、NO.77


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/06/09

應典院・コモンズフェスタ2000 どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生

どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生  (1)

 2000年6月放送のNHKの福祉番組「にんげんゆうゆう」を息子さんが録画し、それを見た桂文福さんが、前回紹介したFaxをすぐに下さり、それから、文福さんとのつきあいが始まりました。
 そして、2000年秋、僕が再建当初からつきあいのあった、大阪市天王寺区の「人と人とが出会う、参加型寺院」として有名な、應典院の年に一度のコモンズフェスタというイベントがありました。僕たちは、そこに、桂文福さんに来ていただくことを企画しました。その案内ビラに「どもりを個性に、桂文福オリジナルの落語家人生」と勝手に僕がタイトルをつけました。そのビラを見て文福さんはびっくりしたそうです。それまで、どもりも吃音も全く関係なく過ごしてきたからです。でも、怒るよりも、それで、これからは「どもり」をカミングアウトしていこうとの覚悟ができたと、後日、家族で大笑いした話をして下さいました。
 應典院の本堂ホールに大勢の人が集まってくれたイベントでの話を収録した、日本吃音臨床研究会の月刊紙「スタタリング・ナウ」2001年1月20日号を紹介します。
 まず、その号の僕の巻頭言から紹介します。

   
価値観が広がる
      日本吃音臨床研究会 代表 伊藤伸二

 180度の価値観の転換、逆転の発想、マイナスをプラスに、などのことばが流行ったときがある。プラス思考で生きれば脳内に革命が起きる、との陳腐な本が大ベストセラーにもなった。
 人が変わるとは、どういう道筋を辿るのだろうか。実際に180度の価値観の転換ができて、その人が生きやすくなるのであれば、それはそれでいい。しかし、価値観の転換にどうもついていけない感じがするのは、今在る自分を否定する、あるいは自分が否定されることへの抵抗感、嫌悪感からだろう。
 私がどもりに悩み、苦しみ、将来の展望が全くもてずに堂々めぐりをして悩んでいた21歳の頃から、それなりの自己肯定への道を歩み始めたその道筋は、180度の価値観の転換、どもりをプラスに、などというものでは決してなかった。どもりを治したいと、精一杯治す努力をしたが治らず、「まあしゃあないか」と事実を認めたところから出発したように思う。どもりながらも、隠さずできるだけ逃げない生活を続けて数年後、ふと立ち止まったとき、数年前の自分とは随分変わっていることに気づいた。価値観の転換をし、成長を目指して取り組んだことは何一つなかったから、自分の変化に気づかなかった。おそらく傷が癒えるときに薄皮ができ、その薄皮が1枚1枚はがれるようなものであったような気がする。
 昨秋、應典院で開かれたコモンズフェスタで、桂文福さんがどもりについて語って下さった。
 桂文福さんの落語家としての半生は、涙と笑いに満ちたものだった。どもりでシャイで対人恐怖で赤面症だった文福さんが、個性派の落語家として歩んでいく道は、最近CDとしてリリースされ、全国でヒット中の『和歌山LOVE SONG21』にも似て、『どもりラブソング』そのものだった。

和歌山ラブソング 『和歌山LOVE SONG21』の歌詞を少しだけ紹介すると…、
   いつでも大阪の日影になって 時には岡山と間違えられて
   そやけどこれだけは分かってほしい 大阪のとなりにあるんやで
   紀伊半島の西海岸ウエストコーストで 言うたら日本のカリフォルニア
   和歌山ラブソング … 岡山じゃないぜ和歌山



 しかし、どもるがゆえに起こる数々のできごとは、今は笑いとして話され、聞く方もつい大笑いしてしまうが、その真っ只中にいた頃は、不安、恐れ、悔しさ、腹立たしさ、様々な思いがうずまいていたことだろう。その後、どもるがゆえに失敗するテレビのインタビュー番組で「とほほ・・・」のギャグが大受けする。
 「そうか、どもって立ち往生し、『とほほ・・・』となるのも、ありか?!」
 どもっている自分をそのままに、少しだけ価値観が広がったということだろう。
 価値観の転換などという大袈裟なことではなく、今の自分を否定しないで、自分のできることに誠実に取り組む。そのプロセスの中で、人はいろいろな人やできごとと出会い、結果として価値観が広がっていくのではないだろうか。
 桂文福さんの落語家としての30年の道のりは、古典落語だけを目指すのではなく、どもっているどもりはそのままに、河内音頭、相撲甚句などと出会い、新しい世界が広がっていった。
 文福さんは落語をするときはどもることはほとんどない。しかし、高座から下りて、どもりについて私と話す時、その後の打ち上げ会での酒席で、文福さんは楽しく自然にどもっておられた。そのどもり方は私たちにはとても心地よく、仲間意識が一段と深まった。なんかほっと安心する。笑いと、あたたかい雰囲気がその場いっぱいに広がっていった。
 私たちが相談会や講演会を開くと、「私はこうしてどもりを治した、軽くした。私もこれくらい喋れるようになったのだから、みんなも努力してどもりを軽くし、そして治せ」と言う人が現れる。その言動はどもりに悩む人たちへは励ましよりも大きなプレッシャーを与える。
 文福さんは違う。どもりを打ち負かして話すプロになったのではない。どもりに勝てなくても、少なくともどもりに負けへんでと、取り組んできたから今の文福さんがあるのだろう。
 「どもってもええやんか。そやけどな、どもっていても、おいやん(おじさん)のように、噺家のプロにもなれるんやで。プロになっても悔しいこと、悲しいこと、いっぱいある。けどな、負けへんで」
 悲しみも苦しみもあっていい。あるからこそ喜びが味わえるのだ。その日、遠く広島から、福井から、和歌山などから来た小学生が前の席にずらりと並んでいた。その子どもたちに、ちょっと太った一茶さんが優しく話しかけていた。
 「痩せ蛙 負けるな 一茶ここにあり」
                「スタタリング・ナウ」2001.1.20 NO.77


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/6/8

桂文福さんとの出会いは、NHKの番組「にんげんゆうゆう」

 桂文福さんとの出会い

6.5  全景 毎年4月の初めに、その年度の大阪吃音教室の開講式を行うのですが、新型コロナウイルスの影響で中止になり、2ヶ月後の2020年6月5日、この日が、大阪吃音教室の今年度の開講式のようなものでしたが、「桂文福独演会」のようになりました。
 どもる文福さんが、なぜあえて「話す仕事を選んだのか」「いじめられたことはなかったか」などの参加者の質問に、丁寧に自分の吃音体験を話して下さいました。そのいくつかを紹介します。

 バラエティは苦手だけれども、落語はひとりでできる
 舞台に何人か芸人さんが並んで、パッパッと思い浮かんだことをしゃべっていくのはとても苦手。おもしろいことが浮かんだ、と思った瞬間、別の人が言ってしまったり、タイミングよくことばが出てこず、次の話に移ってしまったりするからです。発言した人より、よほど面白いことを言おうとしたのにと残念に思ったことはたびたびある。どもらない人の間に入ったら、とても太刀打ちできない。その点、落語は、ひとりでできるので、どもっていても、なんとかなると思った。

6.5 いじめられたことは?
 いじめられたということはないけれど、小学校のときのいい思い出はほとんどない。仲間と一緒に食事をするなどの運動会なども嫌いだった。中学校、高校に行ってからは、くやしい思いをしたことはあるけれど、体が大きく、柔道をしていて、強かったので、ばかにした友だちを柔道の時間に投げ飛ばして、スカッとしていた。

しゃべるのは上手ではない、その代わり書くことは好きだし、得意
 しゃべるのは苦手だったけれども、小さいときから、書くことは好きだった。今でも、文章はよく書いている。「一門しんぶん」も、イラスト入りで、出している。本も三冊出版しています。話すことが苦手だから、何か別の表現手段を持ちたいと思い、書くことが好きになったのだと思う。

師匠のこと
 桂文枝(当時は桂小文枝)には、本当にお世話になりました。今あるのは全部師匠のおかげです。落語を聞いて、すぐに「弟子にしてほしい」とすごくどもりながら言いに行ったら「いね(帰れ)」と言われた。それでもなんとか弟子にしてもらって、稽古もつけてもらっているうちに、古典落語は難しいけれども、絶妙な間がいいので、その間を生かすような、得意な相撲甚句や河内音頭を取り入れた自分だけの落語をしたらどうかと言ってもらった。こんなことを言ってくれる落語の師匠はいないと思う。

 このほかたくさんの話をして下さいましたが、後で文福さんと僕との対談で紹介することにして、今日は、桂文福さんとの出会いを紹介します。

 2000年6月22日放送のNHKの福祉番組、「にんげんゆうゆう」がきっかけでした。その日の番組は、シリーズ「仲間がいるから乗り切れる」の最終回で、ゲストとして、伊藤伸二と、社会福祉の立場からセルフヘルプグループを研究している上智大学助教授の岡知史さんがスタジオ出演をしました。。大阪吃音教室の様子の映像と共に話し合う番組でした。
 番組放送の数日後、一通のFaxが入りました。

 
私は落語家の桂文福と申します。先日、テレビを見せていただきました。仕事の旅に出ておりまして、帰ってきましたら、家族がビデオをとってくれていました。
 実は私も小さい頃から「どもり」でした。本名がノボルなのに「ドモル」と呼ばれたりしました。でも、相撲や柔道で身体を使って発散していましたのであまり気にはしませんでした。こんな私が「話芸」といわれる落語家になり、しかも29年もこの世界でメシを食い、弟子も数名かかえて、落語家を職業として家族を養っていけてること自体、時に不思議に感じます。
 私は落語どころか人前でしゃべるのも苦手で対人恐怖、赤面症でした。それだけに一人でしゃべって多くの方を笑わせ、泣かせ、感動させられる落語にものすごくあこがれ、聞くことが大好きでした。(もちろん、田舎なのでラジオ、テレビ等で…)でも、大阪に印刷製本工として出てきて、生の高座を聞くにつけ無我夢中でこの世界に飛び込みました。
 大学の落語研究会出身者やクラスの人気者だった方は「プロで有名になる」「売れてもうける」「スターになる」等の野心がありますが、私は師匠桂文枝(当時、小文枝)に付かせてもらうことで「何とか人前でしゃべれるようになれる」との思いの入門でした。
 伊藤会長のお話で「立て板に水のごとくしゃべっても、話の中味がなければ…」あのことばは胸に残りました。
 私が普通にペラペラしゃべれていたら、今頃そつのない平凡な落語家になっていたでしょう。自分で言うのもなんですが、相撲甚句や河内音頭(東西600人近い落語界で唯一の河内音頭取り)や体験談(ふるさと和歌山の農村の話等)を生かしての新作落語でユニークな独特のムードの落語家になれたことは、吃音だったおかげと、今は感謝しています。
 皆でバラエティ的にしゃべりあいすると、おもろいギャグ、トンチが浮かんでもすぐことばに出なかったり、悔しいこともありました。でも、音頭やかえ唄などは即興でスラスラと文句が出てきて盛り上がります。あえて厳しい所へ、皆さん(田舎の親、きょうだい、親戚、会社の仲間、上司)の心配をふりきって飛び込んだのも自分の勝手な行動なので、苦労を乗り越えたとか、どもりで辛かったとかはあまり人には言いません。
 しかし、先日の番組を見せてもらい、仲間で取り組んでいる会合を見て、乱筆ながらペンをとりました。歩き方、しゃべり方、人それぞれの個性です。私も障害者の友だちがたくさんおりますが、お互いにええとこ、あかんとこを心から話し合っています。今後の貴会のご発展を仲間の一人としてお祈りしています。ご自愛下さい。


 このFaxをいただいて、すぐに文福さんに電話をし、そこから交流が始まりました。もう20年ものおつきあいになることになります。その後、人が出会うお寺として有名な應典院でのイベントで僕が聞き手となって、いろんなことを話していただきました。
 次回、その内容を紹介します。笑いと涙のエピソード満載です。ご期待下さい。
 
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/06/07

吃音を個性に−桂文福のオリジナルな落語家人生

人前でしゃべりたかったです

 人間性心理学研究論文を紹介してきました。その中で紹介した大阪吃音教室は、あの論文を書いたときからもずいぶんと進化しています。変わらないのが、いつもの時間に、いつもの場所で吃音について真剣に考えている人たちが出会っているということです。
6.5  全景 2020年6月5日、金曜日、長年通い慣れた應典院から代わった、新しい会場、アネックスパル法円坂で、2020年度大阪吃音教室がスタートしました。
 セルフヘルプグループの例会活動の基本は、会い続けることです。それまで毎週顔を合わせていたのに、突然、2ヶ月も会うことができなくなりました。当たり前だった日常がなくなることの不安を多くの人が感じていたようです。久しぶりにいつものメンバーと再会し、お互いに無事を確認していたところに、突然、飛び入り参加の桂文福さんが入ってこられ、みんなびっくりでした。
 
 桂文福さんから電話があったのは、3日前でした。このブログでも紹介したように、文福さんから、「皆さん、コロナ、大変でしょうね。噺家も大変ですが、〈たぬき小屋から福もろ亭〉のYou Tubeを始めました」との連絡をいただいていました。「私たちも2020年度の開講式がまだで、6月5日の予定です」とお返事したのですが、それを覚えていて下さって、「6月5日、行ってもいいですか」との電話でした。みんなには、事前には知らせないで、サプライズに来たことにしましょうということでした。

6.5  文福 大きなからだの文福さんが会場に入ってこられたときから、はなやかというか、にぎやかというか、どこからか、「てんてんてんまり、てんてまり…」という文福さんのお囃子が聞こえてきそうでした。知らなかった人たちは当然びっくりです。
 参加者は、17名。今日が初日だったので、一人ずつ、近況報告をすることから始まりました。みんなテレワークの話など、家で過ごしていた日常を話しましたが、ひとり、このコロナ騒動の中で、入籍をしていた人がいました。吃音親子サマーキャンプに高校生の時から参加していた女性です。みんなが閉じこもっていたときに、このように、出会いがあり、新しい人生をスタートさせる人もいるということに、なんだかほっとしました。家族といる時間が増えて、料理の腕を披露した男性、子育てに参加できてラッキーだったという男性など、これまでとは違うひとりひとりの生活を垣間見ることができました。
 
 全員が近況報告した後、文福さんは、「にんげんゆうゆう」の番組が伊藤伸二と出会うきっかけだったこと、大阪吃音教室をひとつの舞台にしたNHKの「ハートネットTV」出演の話、栃木県宇都宮市のことばの教室の子どもたちとの交流など、吃音との縁を大切にして下さっていることが分かる話をして下さいました。僕たちと出会うまでは、吃音とは全く無関係に過ごしていた文福さん、でも、僕たちと出会ってしまってからは、どもりでよかった、世界がどんどん広がっていったと言って下さいます。
 コロナの影響で、イベントや高座がキャンセルになる中、仕事があることのありがたさを感じている、今できることをしていきたいと、前向きに語って下さいました。
 「今日は、〈どもだち〉に会いにきた、〈ドモラー〉とも言うけど」と、僕たちのことをいつも仲間と思って下さっている文福さんです。

 〈たぬき小屋から福もろ亭〉のYou Tube、すでに25ほどがアップされているようです。
 家族としか話していなかったので、「人前でしゃべりたかったです」と最後に話されました。そのことば通り、全体で2時間ほどの教室の、最初の30分はみんなが近況を語りましたが、残りの90分は、20年前の出会いからの長いおつきあいの話や落語家になった話、参加者からの質問に答えたり、参加者の感想を聞いたりして、「桂文福独演会」のような趣でした。最後に一人一人が文福さんの話に対する感想を話しましたが、それに対しても反応し、にぎやかな、大阪吃音教室の幕開けとなりました。
 そのときの話はまた、覚えている限り紹介しますが、今回はひとつだけ特に印象に残ったエピソードを紹介します。

 初舞台
 初舞台の話は初めて聞きました。文福さんの初舞台は、大阪の太融寺でした。師匠は桂小文枝(後の5代目桂文枝)でしたが、おかみさんが、和歌山のお母さんに初舞台を知らせて下さったようで、客席には、お母さんがおられました。そうでなくても、緊張するタイプで、初舞台で緊張しているのに、母親の姿を見た文福さんの緊張は最高に達し、途中までは順調に進んでいたのが、あるところでつまずいて、忘れてしまい、さんざんな初舞台になったそうです。お母さんも、これはもう話にはならんと思って、落ち込んで、帰ろうとすると、これから和歌山に帰るのは遠いから泊まっていくようにと師匠に言われて泊まったそうです。
 翌朝、お母さんは、師匠に「すみません、息子には噺家は無理です。どもるし、滑舌は悪いし、おまけに和歌山なまりもあるし、今から和歌山に連れて帰ります」と頭を下げたそうです。そのとき「まあまあ、そんなこと言わんと」と止められました。文福さんを弟子として育てた、もうすでに亡くなられた5代目桂文枝師匠のおおらかさに、僕たちは感謝しないではいられませんでした。そんなにどもりながら、落語家の夢を諦めなかった、初舞台のエピソードは、今日の参加者の心に残り続けることでしょう。
 文福さんとの出会いは、20年前になりますが、その話は次回に。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/06/06

セルフヘルプグループ言友会27年の軌跡−「吃音を治す」から「吃音とつきあう」へ

人間性心理学研究論文(5) 

 前回、どもる人のセルフヘルプグループ活動の例会として、当時の大阪言友会の吃音教室を紹介しました。この活動は、現在も発展して続いています。
 今日、2020年6月5日、コロナの関係で延びていた2020年度の最初の大阪吃音教室でした。4月開講の予定だったのが、2ヶ月も遅れました。落語家の桂文福さんが飛び入りで参加して下さり、参加者17名で、賑やかな会になりました。その様子は明日紹介します。
 全国各地の言友会が例会を開いていますが、大阪吃音教室のような、様々な領域から学んだものを、講座の中心に据えて、「学びと対話」の例会をしているところはおそらくないでしょう。日本だけでなく世界的にも極めて珍しいミーティングだと思います。
 論文の考察として「セルフ・ヘルプ・グループとしての言友会活動の意義」として書いていますが、言友会活動の意義ではなく、大阪言友会改め、NPO法人大阪スタタリングプロジェクトの「大阪吃音教室」に限定した活動の意義ということになるでしょう。
 僕たちは、創立からの歴史の流れで見てきたように、「吃音を治す・改善する」を目指さずに、「吃音と共に豊かに生きる」道こそが、どもる人のセルフヘルプグループのあり方として、多数派、主流ではないけれど、本流だとの自負をもって取り組んでいます。
 
 論文が長いため、5回に分けて紹介しました。そのため、分かりにくいところもあったかもしれません。全文を通して、まとめて読んでいただくと、流れも分かりやすくなるのではないかと思います。
 では、論文の最後、考察を紹介します。

VI考察
1 セルフ・ヘルプ・グループとしての言友会活動の意義
 吃音は、言語障害のひとつであり、言語病理学からの研究、臨床がなされている。どもる人やどもる子どもが訪れる病院や、公立小学校の「ことばの教室」の多くが、「治るものなら治したい」と、吃音症状の消失および改善を目指している。
 一方、言友会は、スローガンにみる活動の変遷でみてきたように、「吃音を治す」から、「吃音とつきあう」へと、27年間の活動を通して変化してきた。
 吃音の治療者、研究者がその立場にのみ立てば、吃音を治そうとして、治らなくても、大きな痛手とはならないが、吃音を治したいと、切実に願うどもる人にとっては、治る、治らないは、大きな問題である。治そうとして費やされてきた、金銭的、時間的、精神的エネルギーの損失は大きいものになっている。だから、治療者、研究者以上に吃音を直視する目が真剣なものになるのは、当然のことといえる。1万人を越えるどもる人が集まり、どもる人の実態がどもる人自身の手で明らかにされていくと、当然、どもる人自身の側から、どもる人にとって何が大切なのか、何が吃音の問題解決に必要かを考え始める。

☆治療を受ける、受けないにかかわらず、治っていないどもる人が多い。
☆多くのどもる人にとって有効な治療法はまだ確立されていない。
☆どもる人の吃音に対してもつ意識や受ける影響に大きな個人差がある。

 これらの事実を踏まえ、言友会では、「吃音とつき合う」ということばに集約されるような結論にいたった。これは、当事者であるどもる人の数多い参加と、国際大会などを通しての情報交換、吃音教室などでの実践なしには、得られなかったであろう。つまり、スローガンの変化は、多くのどもる人の声の結集であり、当事者だからこそできたことだといえる。
 以上のことから、多くの当事者によって、「吃音を治す」から「吃音とつき合う」へ変化させてきたところに、セルフ・ヘルプ・グループ言友会の意義を見い出すことができる。

2 言友会の問題と今後の課題
 言語障害の専門家は、吃音を治す方向での研究、臨床を続けている。言友会のように、「どう治すかではなく、どう生きるか」とする、「吃音とつきあう」方向での実践は、残念ながら現在は、言友会独自の取り組みでしかない。当事者であるどもる人の主張がより多くの人々に理解されるよう努力をする必要があろう。
 また、大阪言友会の「吃音教室」の良かったとする点だけを取り上げて紹介したが、内容が難しい、吃音を治したいとの要求も大切にすべきだ、新人への対応が不十分だ、などの批判もある。吃音教室をよりよいものにしていく努力も必要だろう。また、セルフ・ヘルプ・グループの存在を知らない人、知っていても、参加できないずに引きこもる人の存在もある。いかにすれば、吃音に悩む人が言友会の例会や活動に参加し、自らの問題解決ができるまで定着するか。いかにすれば、自己の問題を解決したどもる人が、同じ悩みをもつ吃音の後輩への援助のために会の活動の運営に参画するようになるかなど、解決すべき課題は少なくない。
 言友会を、単に吃音克服の場としてでなく、《生涯学習の場》と位置づけるどもる人が増えつつあることは、明るい未来を感じさせる。明るい未来を確実なものにするために、言友会のなすべきことは多いように思われる。

文献
伊藤伸二 吃音問題の歴史 大阪教育大学紀要(第IV部),23,131-136.1974
伊藤伸二 吃音者宣言−言友会運動十年 たいまつ社 1976
伊藤伸二 成人吃音者のセルフ・ヘルプ・グループ 内須川洸編「吃音の心理臨床」(福村出版,135-154.1984
Levy,L.H.Self-helpgroups:Typesandpsy-chologicalprocesses.Journalofappliedbehavioralsciences,12(3),310-322.(村山正治・上里一郎編「セルフ・ヘルプ・カウンセリング」(福村出版),13.1979)
村山正治・上里一郎編「セルフ・ヘルプ・カウンセリング」福村出版1979
高松里 成長志向的Self-HelpGroupの研究 人間性心理学研究, 2,98-109.1984
高松里 日本のSELF-HELPGROUPに関する文献と研究の現状 人間性心理学研究,4,84-96.
対馬忠 吃音者のグループ・アプローチ 多田治夫・上里一郎編「集団心理療法」(福村出版),78-95.1977

謝辞
 本論文は、1991年九州大学で行われた、第10回日本人間性心理学会での発表に加筆して作成したものである。4年前に、九州大学の村山正治教授から、言友会の活動についてまとめて「人間性心理学研究」に投稿してはとお勧めいただいたが、筆者の事情でそのままになっていた。この度は、福岡大学の野島一彦教授から、学会での発表を論文としてまとめてはとお勧めいただき、本論文を作成した。言友会活動に関心をもって下さり、論文作成までお勧めいただいたお二人に感謝申し上げたい。論文をまとめるにあたっては、村山正治教授、野島一彦教授、九州大学の高松里先生にご指導いただいた。名古屋音楽大学の村久保雅孝講師には貴重なアドバイスをいただいた。ここに記し、感謝申し上げたい。
(1993.1.19受稿,1993.4.24受理)
人間性心理学研究 1993年第11巻第1号 日本人間性心理学会


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/06/05

セルフヘルプグループ言友会27年の軌跡−「吃音を治す」から「吃音とつきあう」へ

人間性心理学研究論文(4) 
   
 1986年夏、世界で初めてのどもる人の世界大会が、世界11か国40名近い海外代表を含め400名が参加して、京都国立国際会議場の大ホールで行われました。世界大会は、どもる人だけでなく、吃音研究者、臨床家にも加わってもらい、共に吃音について考えたいとの意図から、「第一回吃音問題研究国際大会」と名付けました。この世界大会については、後日また紹介したいと思います。
 そのとき僕は、大会会長として基調講演やシンポジウムなどで、「吃音はどう治すかではなく、どう生きるかの問題だ」と提案をしました。「吃音を治す・改善する」しか頭になかった世界の人たちも、僕の主張は理解しましたが、普段のセルフヘルプグループのミーティングやどもる子どもの指導はどうすべきかとたくさんの質問を受けました。「どう生きるか」の後は、各自が主体的にその道を探すだろうと考えていたのですが、具体的にプログラムを示せと言われて、僕は考えました。
 東京言友会での7年間の活動の後、僕は、大学の2つの学部卒業と同時に大阪教育大学の言語障害児教育教員一年課程で学び、その後、大阪教育大学の教員になって大阪で生活をしていました。全国言友会連絡協議会事務局は大阪に移り、僕はそこで会長として活動していたものの、当時の大阪言友会の例会にはまったく参加していませんでした。世界大会で、具体的なプログラムの提示を求められ、僕は、大阪言友会の役員にお願いし、土曜日や日曜日に開催していた例会を金曜日にしてもらい、年間45回の例会を講座制にして、一年間全ての例会を担当させて欲しいとお願いしました。そこで、僕が考える、吃音治療・改善を全く目指さない例会のモデルを作ろうと考えたのです。
 当時は、大阪教育大学を退職し、カレー専門店のオーナーシェフをしていたので、大変でしたが、仕事の合間に毎回資料をつくりました。僕がそれまで学んできたいろんな領域の知識と理論を、みんなと一緒に学び直そうとしました。新しい試みは大きな共感を得て、日曜日だったら10名前後だった参加者が40名近く集まり、毎週、学習を中心に話し合いを盛り込むというスタイルにしました。
 鞠後は本来のセルフヘルプグループ活動に戻し、世話人が僕の資料や書籍を読んで担当者になり、今では、大阪吃音教室での僕の担当は3回程度になっています。以後、全国言友会連絡協議会からの離脱に伴って、大阪言友会から、NPO法人大阪スタタリングプロジェクトに名前を変え、「大阪吃音教室」として毎週金曜日にミーティングが続いています。現在はさらに学び続けたものを反映させてプログラムは変わってきていますが、基本的な方針は変わっていません。

 人間性心理学研究論文のつづきを紹介します。

IV 吃音とつきあうためのプログラム:「吃音教室」
 言友会では、どもる人自身が自らの吃音に直面し、問題解決の考え方を知り、自らの問題を解決する道筋をともに学ぶ。
 全国にある22か所の言友会では、それぞれ特徴ある活動を展開している。その中のひとつ大阪言友会を紹介したい。それは、「吃音教室」という名称で、週に1回、金曜日の午後6時45分から開かれる。心と体と声をひらくレッスンや近況報告のスピーチに続いて、吃音講座およびディスカッションがもたれる。参加人数は、20〜30人である。
 その中の中心である吃音講座(表2)は次の3つに分かれている。

表2 吃音講座内容

講座1 吃音に関する基礎講座
◎吃音とうまくつきあうために ◎吃音の原因と治療の歴史 ◎アメリカの治療法の紹介◎吃音の予期不安・場面恐怖・吃語恐怖 ◎セルフヘルプの考え方 ◎吃音問題解決の新しいアプローチ
講座2 コミュニケーション能力を高めるための講座
◎吃音者のコミュニケーションの諸問題 ◎吃音者の話し方教室・文章教室・朗読教室 ◎発声訓練について
講座3 自分を知り、自分を高めるための講座
◎交流分析 ◎論理療法 ◎アサーティブ・トレーニング ◎ゲシュタルト・セラピー ◎サイコドラマ ◎森田療法

1 吃音に関する基礎講座
 なぜ、どもるようになったのか? 原因は何なのか? と素直な疑問をもつのはどもる人として当然だが、吃音の原因について正しい知識を持っている人は、それほど多くはない。いたずらに不安を持ったり、適切でない治療法にのめりこまないために、吃音の正しい知識を持つことは必要不可欠なことだといえる。

2 コミュニケーション能力を高めるための講座
 話しことばの障害である吃音は、人とのコミュニケーションに大きな影響を与える。人とのコミュニケーションがうまくいかないと嘆くどもる人が、広く深くコミュニケーションについて知り、学ぶことは必要なことだといえる。かつて私たちは、コミュニケーションといえば、話すことにのみあると思い込み、どもることによって人とのコミュニケーションがうまくいかないと嘆いた。どもりを治す、また軽くすることがコミュニケーションを向上させる唯一の道だと信じてきた。コミュニケーションの他の要素、「聞く」「読む」「書く」に目を向けることがなかった。「話す」要素以外にも目を向け、アプローチしていこうとするのが、この講座、コミュニケーション能力の向上ということである。

3 自分を知り、自分を高めるための講座
 吃音のために楽しい人間関係が結べないと嘆く人がいる。吃音が治ればよりよい人間関係ができるかといえばそうではなく、吃音でなくても多くの人が楽しい豊かな人間関係を結べずに悩んでいる。どもるどもらないにかかわらず、本当にすばらしい人間関係を職場や家庭、グループの中で作るのは難しいことだといえよう。人間関係がうまくいかない原因にはいろいろあろうが、自分自身へとまた他者への気づきが少ないことも大きな原因の一つである。自分自身が本来持っている能力に気づき、その能力の発揮を妨げている要因を取り除いて、本当の自分の可能性を実現して生きていくための講座である。

V参加体験分析
 1991年2月、大阪言友会の運営委員と会のメンバー20数名で、例会を考えるための合宿が行われた。「例会で良かったこと」をテーマに、フリートークで話し合った。出された発言は全てカード化され、KJ法でまとめた。
 KJ法の図解を文章化したため、ぎくしゃくした文章になっているが、発言者の全ての声がまとめられているので、そのまま紹介したい。
 高松の提起「セルフ・ヘルプ・グループについて、心理学的な立場からの細かな考察が必要だ。グループがどのように始まり、どのように展開していくのだろうか。どのような要因がそのプロセスに影響するのだろうか。参加者は何を求めてくるのか。そこで得られるものは何なのか」に若干の資料を提供できると思われる。

1.例会は中身で勝負
1)魅力のある講師がいる
 吃音教室の講師は言友会の会員が担当する。講師は、言友会歴25年の人から、まだ2年しかたっていない人、職業は公務員、会社員、自営業などで、性格も楽天的で社交的な人や、繊細で物静かな人など、また年齢も25歳から60歳とバラエティに富んでいる。そして、一人一人が講座を担当するにあたって、工夫や努力をしている。
 次に、運営委員がしっかりしている。全スケジュールの中で、この講座はこの講師が適任であると講師の持ち味を引き出す。運営委員が講師を引き受けたメンバーに、適切なアドバイスを与える。
 もう一つの魅力は、言友会外から特別講師を招いたことだ。演出家の竹内敏晴さん、ジャーナリストの高橋徹さん、森田療法の宇佐晋一さん、ユーモアについての専門家である演芸作家の織田正吉さん、障害者問題の牧口一二さんなどである。

2)自分が講師をすることによって勉強になる
 講義を充実させるために、いろいろな所に出かけて、学んだ。例えば、心理療法の講義に関して言うと、ゲシュタルト療法、交流分析、森田療法、論理療法、サイコドラマなどである。講師の責任を果たすための準備は、楽なものではない。交流分析のビデオを購入し、何度も見る。図書を数冊買い求めて、読破する。自分が講義でしゃべる一言一句をワープロ原稿で用意する。説明用のビラを何枚も作る。ゲシュタルト・セラピーや、サイコドラマのワークショップに何度も参加する。
 しんどい作業であるが、講義をやり終えてみると、充実感が残り、講師を引き受けて良かったと思う。責任を分担することによってヤル気も出、自分が分担した部分の内容の理解が深まる。また、準備を含む講師の努力を、他人から褒められて意欲が湧いてくる。
 これまでどもるため人前で話をするのは苦手で、できるだけ避けてきた。そんな自分でも、講師ができたということは、大きな自信につながる。
 また、同じようにどもりながらも講義をしている仲間の話を聞き、私にもできるかもしれないと思うようになる。そのようにして、全ての人が講師になり得ることが分かった。

3)資料が良い
 講座の配布資料で良いものが多い。講義の時間内に把握し切れなかった内容も、家に帰ってから資料を読み直すことで、詳細が理解できる。
 資料を作成するために、図書10冊を読み、吃音問題を考える上で有効な項目を抜粋し、関係する吃音事例を適宜、紹介する。このために、資料の内容が充実し、かつ、分かりやすくなっている。
 また、何回も講師をしていると、前回よりも良い資料を提供しよう、という講師の意気込みが反映され、資料の内容がより深まっている。

2.例会は私の期待にこたえてくれる
1)個人の悩みに対応できる
 個人の悩みが出された時、予定の講座を中断して、その悩みの解決に当たる。また、繰り返し、個人の問題を優先していることを伝え、悩みや困ったことが出やすい雰囲気をつくることを心がける。「吃音の受容」については、個人の悩みに沿って何度も話し合いがもたれた。この他にも、個人の問題を例会で取り上げ、考えたことは少なくない。サイコドラマでの「夫婦のやりとりでの気づき」、ゲシュタルト療法での「異性に与えるイメージの改善」、交流分析での「他人を喜ばせうというドライバーの気づき」などである。例会には、個人の問題を素直に出せる雰囲気がある。自分を見守ってくれる人の存在を感じる。決して慰め合いの場ではない。出した問題に対して、時には厳しい指摘をしてくれる人がいること、そしてその厳しい指摘に耳を傾ける信頼関係があることも見逃せない。

2)押し付けがない
 発言を強要されることはなく、黙っていても、負担を感じなくても良い。思っていないことまで言う必要はなく、過剰にしゃべらされることがない。例会の初めに「何でもスピーチ」と称して近況報告、例会の感想、個人の問題などを発表する時間を設けているが、この時の発言も、全く自由意志によっている。仲間の発言を聞きながら、触発されて、発言したくなるのを待つ。
 その一方で、職場や家庭とは違い、吃音の悩みを本音で自由に出せる。吃音教室に入るのも自由、出るのも自由。このような雰囲気の中で、毎週の例会が行われている。

3)幅広い友人ができた
 例会には実習が多く導入され、みんなで話し合う時間がたくさんある。そのため、各人がどのように吃音問題に取り組んでいるか、参加者一人一人の考えを聞くことができて参考になる。共感を覚えたり、新しい気づきを発見したりした。吃音というテーマを通し、心を通じ合うことができ、多くのどもる人と知り合いになれた。
 幅広い友人ができるのには背景がある。年齢や性別でクラス分けしていないのも、老若男女が幅広くいるのも良い。いろいろの職業の人と会えるし、年齢の違う人と話し合えるのも良い。

4)明るく、楽しく、元気が出る
 みんなが一つの目標に向いている。みんなが頑張っているのを見ると、触発され、元気が出る。知的緊張の楽しさがあり、刺激が与えられ、エネルギーが出る。同年代の人に対し、良い意味でのライバル意識がある。他人の吃音に対する考え方、取り組み方に刺激を受ける。自分のこれまで全く知らなかった心理療法を学べる。
 吃音を治すことにとらわれていないので、どもっても、失敗しても、受け入れてもらえる安心感がある。家庭や学校で分かってもらえない吃音の悩みを分かってくれる。落ち込んだとき、ここへくると元気が出る。安心してみんなの顔を見られる。
 この他に、ユーモアのある人がいる。男女のバランスがとれていることも、明るく楽しい雰囲気を作り出している。

3 例会に来て良かった
1)吃音の知識がついた
 吃音を含めていろいろなことを教えられた。吃音に関する正しい知識を学んだことで、漠然としていた不安が減った。

2)心理療法はどもる人に役立つ
 会社でどもって笑われても、耐えられるようになったのは心理療法のおかげだ。夫婦関係の改善のために役立った。サイコドラマで、大勢の参加者から妻の立場で、各種の台詞を言われてみて、夫として思いやりに欠けるのに気づいた。
 行動に踏み出すときの勇気が得られた。職場の重要会議で、初めて発表するに際し、吃音への不安や恐れが拡大したが、この感情のべ一スにある非論理的な考えを、論理療法を用いてリストアップし、粉砕することによって、不安や恐れを軽減できた。
 言友会の会員の様々な体験は、例会の場で、機関紙の中で紹介された。例えば、論理療法が影響を及ぼしている様子が紹介されている。吃音に悩むのも解決するのも、人間関係の中であり、心理療法の果たす役割は大きいことが理解できる。

3)吃音に対する考えや行動が変わった
 どもりながらも朝礼を続けている。会社で逃げなくなった。会社で笑われるのが怖くなくなった。どもる自分を許せるようになった。吃音に対する考え方が変わった。どもっている人の顔をじっと見られるようになった。みんなの意見を聞いて、自分の考えの修正ができた。自分の問題に気づくことができ、自分自身のことがよく分かった。吃音を考える上でキーワードを多く持てた。一つの問題を真剣に考えるようになった。どもりながらも、自分のしたいこと、しなければならないことをし、頭の中だけでなくて、行動を通して、吃音を受容できるようになった。
人間性心理学研究 1993年第11巻第1号 日本人間性心理学会


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/6/4

セルフヘルプグループ言友会27年の軌跡−「吃音を治す」から「吃音とつきあう」へ

人間性心理学研究論文(3)
 
 今回は、スローガンにみる言友会の変遷です。他の多くのセルフヘルプグループは設立当初からのスローガンや目標が変わることはあまりないでしょう。アルコール依存症の断酒会や、アルコーホーリックアノニマス(AA)、森田療法の学習グループ生活の発見会などをみても、多少の路線の変更はあっても、大きくは変わっていません。ところが、言友会は全く別のグループであるかのように変わってきています。
 1965年11月、設立当初の正式名は「日本吃音矯正会」でした。「吃音を治す」を目的にしていたのです。しかし、言語訓練をしながらも、徹底的に、自分自身について、吃音について、大勢の人と対話を続けました。自分たちの事務所をつくり、仲間と寝泊まりして、東京正生学院に勧誘に行き、治療のために全国から来ていた人を事務所に誘って、その人たちとも話し合いました。そこから、言友会は、大阪、京都へと広がっていったのです。あれだけ苦しめてきた吃音について話し合い、仲間がどんどんでき、全国に広がっていく。毎日が楽しくて楽しくて、明日が来るのが待ち遠しかった印象があります。また、理論部を作って海外の文献を翻訳し、専門書を読んで、吃音の勉強をしました。それらをもとに、とことん話し合い、どんどん考え方が変わっていくのは、新しい発見を続けているようで、とても楽しいことでした。僕のそれまでの人生の中で一番、活動的で、華やぎ、充実した日々でした。

《力を合わせてどもりを治そう》1965〜1967年
《団結の力で吃音を克服し、全国の仲間を解放しよう》1967〜1970年
《若者の明日を築こう》1971年
《どもりを語ろう》1972年
《どもりは治らないかもしれないことを考えよう》1973年
《治す努力の否定》1974年
《吃音を持ったままの生き方を確立しよう》1976
〈吃音者宣言〉
《世界にとべ、吃音者たち》1986年
《吃音と上手につき合う》1987〜1991年

人間性心理学研究の論文の続きを紹介します。

掘.好蹇璽ンにみる言友会の変遷
 各地言友会の機関紙や年次大会、全国的な吃音情報紙や全国大会などで、その時折のスローガンがかかげられる。それは、言友会のグループとしての成長の軌跡でもある。スローガンによって、言友会の27年の活動を振り返る。

《力を合わせてどもりを治そう》1965〜1967年
 当初、言友会は日本吃音矯正会とも名乗っていたように、会創立の目的は、吃音を治すことにあった。公的な専門機関が全くない中で、当時、隆盛を極めていた民間矯正所で大勢のどもる人が治療を受けた。しかし、「どもりは必ず治る」と宣伝する民間矯正所ではほとんどの人の吃音は治らなかった。
 当然、どもる人は民間矯正所に反発する。その反発が会創立のエネルギーにもなった。反発し、その治療法に疑問を持ちつつも、民間矯正所で習った治療法を例会の柱とするしかなかった。例会のほとんどは、発声、呼吸訓練にあてられた。

《団結の力で吃音を克服し、全国の仲間を解放しよう》1967〜1970年
 週に1度の例会で、大勢のどもる人が発声・呼吸法等熱心に取り組んでも吃音が治らない現状の中で、吃音の矯正から吃音克服へと視点が変わった。これまでは、治らないのは治療法に問題があるのではなく、どもる人自身の努力が足りないからだと、考えられていた。しかし、大勢のどもる人が言友会に集まり、真剣に努力しても治らない現実の中で、一般に考えられているようには、吃音は簡単には、治るものではないことに気づき始める。吃音矯正よりも、吃音克服にウエイトがおかれてきた。吃音を治すために、また学生として、東京に来ていたどもる人が全国各地へ帰り、言友会は全国へと広がっていった。

《若者の明日を築こう》1971年
 言友会は発声訓練などの例会活動だけでなく、青年運動や障害者運動に目を向け始め、「吃音が全て」という生活から脱皮していく。年間3つの行事(文化祭、創立祭、夏季合宿)を新しく入った人を中心とした実行委員会で企画・運営する中で、どもりながらも行動する人が育った。どもる人間である前に青年であり、社会人であるとの自覚が芽生えた。障害者運動、青年運動、公害運動に取り組む若者にも広く呼びかけ、「若者の明日を築こう」のスローガンで、言友会創立5周年記念祭を400名の人々と共に開いた。グループの枠を超えたプログラム内容だった。

《どもりを語ろう》1972年
 吃音を理論的に研究し、どもる人の実態を調査する理論研究部が設立され、同時に海外の出版物や専門書から学ぶ姿勢が定着した。
 吃音の専門誌『ことばのりずむ』が吃音の研究者、臨床家の協力のもと創刊された(現在11号まで発行)。また、どもる子どもを持つ両親、どもる子どもを指導することばの教室の教師、行政関係者などに呼びかけ、吃音問題研究全国集会を開催した。自らのどもりをさらけ出し、それについて真剣に語っていこうとした。

《どもりは治らないかもしれないことを考えよう》1973年
 『ひょっとすると、今まで私は、どもりそのもので悩み苦しむより、どもりを言い訳にして意に反した行動をしてきたことに対して思い悩んできたことの方がはるかに多かったかもしれない。でも、そこから一歩も踏み出せないまま、その悪循環の中にどっぷり浸っていた。どもりについて真剣に考えてこなかった気がする…』このような体験が出され、さらに多くのどもる人の体験が整理され、それをもとにした全国リーダー会議がもたれた。
 「吃症状の程度に関係なく、どもりの悩みが深いのは、どもりは治るんだという考えを意識下に根強く持っているからであろう。そのため、どもりが治ったら〜しようということしか考えられない」また「治すことを目標にし、また治すべく努力していたのでは、本当の吃音克服はあり得ないのだなあ」とのリーダーの感想や意見が出された。
 これまで、吃音症状に目を向けていたのを、吃音を持ったその人、どもる人自身への洞察が進み、どもる人の消極的な、問題と直面するのを避ける行動パターンに検討が加えられた。吃音そのものに対する関心から、どもる人の人生に対する関心へと大きな転換がなされたのである。

《治す努力の否定》1974年
 吃音が治りにくいものであることを自覚しつつも、全国各地の言友会で行われている例会は、相変わらず吃音症状の消失、および改善という目標を捨て切れなかった。その中で、吃音を治そうとする姿勢が、どもる人としての自覚ある生活に一歩踏み出せない要因であることに注目し、吃音を治そうとする意識、行動のエネルギーを自らを成長させるために転換していこうと呼びかけた。これまで誰もが信じて疑わなかった吃音を治すという前提をどもる人自身の手で、言友会が初めて取り去ったのである。表現がセンセーショナルであったため、どもる人自身からも、ことばの教室の教師からも、一部反発が出された。

《吃音を持ったままの生き方を確立しよう》1976年
 「吃音はどう治すかではなく、どう生きるかにつきる」という問題提起を持って、北海道から九州まで全国35都道府県・38会場で、筆者が全国を巡回して吃音相談会を開いた。どもる人432名、ことばの教室の教師87名、どもる子どもを持つ両親72名と吃音問題について語り合った。言友会の中だけで議論してきた私たちの考えが、言友会も治療機関もない全国各地の一人で悩むどもる人に、受け入れられるかどうかを検証する全国巡回の旅でもあった。少ない会場で10名程度、多い会場では80名程度、個人で、グループで、参加者の規模や要望によって様々な型をとりながら、じっくりと吃音について語り合った。予想外に私たちの主張が確かな手ごたえとして伝わった。その旅の中で、吃音に悩み、左右されている人と多く出会った一方で、どもりながらも明るく建設的に生きている人と多く出会った。自らの体験から、どもっていればそれに悩み、人生が左右されているはずだと信じてきた従来の先入観が破られた。また言友会の活動の中からどもりながらもより良く生きる人が育ったことを評価し、言友会創立10周年の記念大会で〈吃音者宣言〉(表1)が採択された。

表1   吃音者宣言
 私たちは、長い間、どもりを隠し続けてきた。「どもりは悪いもの、劣ったもの」という社会通念の中で、どもりを嘆き、恐れ、人にどもりであることを知られたくない一心で口を開くことを避けてきた。
 「どもりは努力すれば治るもの、治すべきもの」と考えられ、「どもらずに話したい」という、吃音者の切実な願いの中で、ある人は職を捨て、生活を犠牡にしてまでにさまざまな治すこころみに人生をかけた。
 しかし、どもりを治そうとする努力は、古今東西の治療家・研究者・教育者などの協力にもかかわらず、充分にむくわれることはなかった、それどころか自らのことばに嫌悪し、自らの存在への不信を生み,深い悩みの淵へと落ち込んでいった。また、いつか治るという期待と、どもりさえ治ればすべてが解決するという自分自身への甘えから、私たちは人生の出発(たびだち)を遅らせてきた。
 私たちは知っている。どもりを治すことに執着するあまり悩みを深めている吃音者がいることを、その一方、どもりながら明るく前向きに生きている吃音者も多くいる事実を。
そして、言友会10年の活動の中からも、明るくよりよく生きる吃音者は育ってきた.全国の仲間たち、どもりだからと自分をさげすむことはやめよう。どもりが治ってからの人生を夢みるより、人としての責務を怠っている自分を恥じよう。そして、どもりだからと自分の可能性を閉ざしている硬い殻を打ち破ろう。
その第一歩として、私たちはまず自らが吃音者であることを、また、どもりを持ったままの生き方を確立することを、社会にも自らにも宣言することを決意した。どもりで悩んできた私たちは、人に受け入れられないことのつらさを知っている。すべての人が尊重され、個性と能力を発揮して生きることのできる社会の実現こそ私たちの願いである。そして私たちはこれまでの苦しみを過去のものとして忘れ去ることなく、よりよい社会を実現するために生かしていきたい。
 吃音者宣言、それは、どもりながらもたくましく生き、すべての人びとと連帯していこうという私たち吃音者の叫びであり、願いであり、自らへの決意である。
 私たちは今こそ、私たちが吃音者であることをここに宣言する。

               1976年5月1日言友会創立10周年記念大会にて採択

《世界にとべ、吃音者たち》1986年
 〈吃音者宣言〉を世界のレベルで検証する機会がやってきた。法人格も財政的基盤もない言友会が、海外10か国から34名、日本から360名の成人のどもる人、研究者、臨床家が参加した世界で初めての吃音問題での国際大会を開催した。
 吃症状にとらわれるのでなく、どもりながらも明るくより良く生きることを提唱する言友会ならではの事業であり、言友会のこれまでの活動の成果が問われる大会でもあった。また、会に入って新しい人や、〈吃音者宣言〉は頭では分かるが、実際に行動できない人が頭での理解から経験を通して学び直す好機でもあった。
 成果はどうであったか。職場の同僚全員にカンパを訴えた人がいた。多くのどもる人が自分の両親、友人、知人に言友会の活動を、吃音のことを、国際大会のことを語った。大口カンパの全くない中で、言友会が集めたカンパ総額は1100万円に達した。大勢の会員が〈吃音者宣言〉を実践した証しであった。国際大会は、大成功を収め、どもる人、吃音研究者の国際的な交流が必要だとの気運を作った。その後、1989年に第2回大会がドイツのケルンで、昨夏、第3回大会がアメリカのサンフランシスコで開かれた。参加国も20か国に達している。

《吃音と上手につき合う》1987〜1991年
〈吃音者宣言〉以降の言友会は、吃音を持ちつつより良く生きるために幅広く学ぶ歴史だった。禅僧、アナウンサー、俳優、国語学者、オペラ歌手、心理学者、医師、演出家、シナリオライター、映画監督など、幅広い講師陣が、全国規模の吃音ワークショップ、リーダー研修会等で協力して下さった。言友会が学んできたのは次のようなものである。
 自分史作り、表現よみ、民話の語り、自己形成史分析、交流分析、論理療法、サイコドラマ、竹内レッスン、構成的エンカウンター、アサーション・トレーニング、生きがい療法(森田療法)、ゲシュタルト・セラピー、べ一シック・エンカウンター、など。
 言友会は今、これらのものから学びながら、吃音と上手につき合うための独自のプログラムを作りつつある。
人間性心理学研究 1993年第11巻第1号 日本人間性心理学会


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/06/03

セルフヘルプグループ言友会27年の軌跡−「吃音を治す」から「吃音とつきあう」へ

人間性心理学研究論文(2)

人間性心理学研究の論文を紹介しています。前回は、
 はじめに
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  1. 民間吃音矯正所/2.治療グループ/3.セルフ・ヘルプ・グループ
を紹介しました。引き続き、日本人間性心理学会の論文を紹介します。

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 言友会は以前、障害者団体と位置づけられていたが、自らをセルフ・ヘルプ・グループと位置づけ始めたのは最近のことである。これは、それまでセルフ・ヘルプ・グループの概念を知らなかったからでもあるが、会そのもののが団体としての要求より、メンバー個人のよりよい生き方を探るという、内容の変化も影響していると考えられる。

1.セルフ・ヘルプ・グループの定義
 セルフ・ヘルプ・グループは、第二次世界大戦後、アメリカで急速に発展した。まず、障害児を持つ親のグループが、そして障害を持つ本人のグループが次々と結成された。
 レヴィ(1976)は、次の5つの条件を満たしているものをセルフ・ヘルプ・グループとしている。
1)目的 相互援助を通して、メンバーの問題を改善し、よりよい生き方を求める。
2)起源と発足 起源と発足がグループ・メンバー自身にあり、外部の専門家や専門機関によるものではない。
3)援助の源泉 メンバーの体験、知識、技術、努力、関心が援助の主要な源泉であり、専門家がグループの集会に参加しても、補助的な役割しか果たさない。
4)メンバー構成 抱えている問題を共通に体験している人たちで構成される。
5)統制 組織の構造や活動のスタイルなどを規定するのはグループのメンバーが中心になっている。

2.言友会の活動
言友会は、レヴィの5つの条件を全て満たしており、セルフ・ヘルプ・グループと規定することができる。断酒会、生活の発見会、失語症友の会など日本にもセルフ・ヘルプ・グループはあるが、多くは医師など専門家が深くかかわっている。専門家との連携はあっても、専門家が深くかかわってはいない点で、言友会は際立った存在だといえよう。
 さらに、創立時の目的、活動内容が大きく変化してきているのも珍しいであろう。この変化を、専門家の指導を受けずどもる人自身の手でやりとげたところに、言友会のセルフ・ヘルプ・グループとしての面目があるといえよう。
 全国22か所に言友会があり、それぞれが独立して独自の活動している。東京、大阪等の大都市では、25〜40名が参加する週1度の例会が、地方の都市では、5〜15名が参加する月に1度から2度の例会がもたれる。
 緩やかな連合体として、全国言友会連絡協議会が組織されている。全国のレベルでは、年に1度100名ほどが集まる「吃音ワークショップ」、年に数度の「リーダー研修会」が開かれる。月1回発行する吃音情報紙『吃音とコミュニケーション』は会員外に、ことばの教室の教師など200名の読者をもつ。その他、不定期に雑誌や小冊子を発行している。どもる子ども、両親を対象には「吃音親子サマーキャンプ」が開かれる。また、3年に1度は「国際大会」が開かれている。第1回は日本の言友会が中心になって京都で開催した。第2回がドイツ・ケルン、そして第3回はアメリカ・サンフランシスコで開かれた。現在は20か国のどもる人のグループと交流がある。
 現在会員数は、東京250名、大阪150名の他、全国では1000名が組織されている。吃音に悩んだ人が活動を通して自らの吃音問題を解決すれば、言友会から離れていく。そのため、活動する会員数は常に流動的である。言友会の活動の成果があがればあがる程、言友会の会員数は減ることになる。
 過去27年間には、1万人以上のどもる人が参加している。
         人間性心理学研究 1993年第11巻第1号 日本人間性心理学会


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/6/2

セルフヘルプグループ言友会の27年の軌跡−「吃音をなおす」から「吃音とつきあう」へ

人間性心理学研究論文(1)

 部落解放同盟の「水平社宣言」が、僕が起草文を書いた「吃音者宣言」の原点だと、ずっと思っていたのですが、先日行った大阪人権博物館に、島崎藤村の『破戒』の初版本が展示されているのを見て、「吃音者宣言」の原点は『破戒』にあったのだと気づきました。
 あんなに苦しんだ吃音の悩みから解放され、思いがけずに76歳まで生きてきた今、言友会の創立者であり、「吃音者宣言」の起草者である僕には、なぜ「吃音者宣言」を書いたのか、そこに至るプロセス、「吃音者宣言」に結実していった流れを記しておく義務があるのではないかと感じるようになりました。そこで、5月初めから毎日書き続けているブログの6月は、「吃音者宣言」に関連したものを紹介することにしました。
 興味のある方はお読みいただければ幸いです。ひとつのセルフヘルプグループの歴史をたどることになります。まず『人間性心理学研究』に掲載された論文から紹介します。長年、僕たちの活動を見守って下さっていた、九州大学・村山正治教授の勧めで書いたものです。きっかけを作って下さった村山先生にはいつも感謝しています。
 僕は言友会の創立者で、長年リーダーとして活動をしてきましたが、事情があって、1994年5月に全国言友会連絡協議会から、大阪と神戸の仲間と共に離脱し、その後、日本吃音臨床研究会を設立し、セルフヘルプグループの活動としては、NPO法人大阪スタタリングプロジェクトで活動し、大阪吃音教室でミーティングを続けています。
 事情を知らない人にとってはややこしいのですが、現在は言友会とは一切関係がありません。今回紹介する論文は、1993年、まだ僕が言友会で活動している時に書いたものです。過去の文章なので、言友会の名称がそのまま出てきますが、歴史的な事実として、当時活動をしていたところとご理解下さい。 

     
人間性心理学研究 1993年第11巻第1号 日本人間性心理学会
    セルフ・ヘルプ・グループ言友会の27年の軌跡
       −「吃音を治す」から「吃音とつきあう」へ−

                      伊藤伸二 
要約
 言友会は、吃音に悩む人の「吃音を治そう」の願いのもと、13人の仲間によって東京で創立された。7年間の活動は、専門家との連携はあっても、指導を全く受けず、常にグループメンバーによって運営されてきた。グループ活動を通して、理論的立場や価値観が変化しているが、これもメンバーの努力、技能、知識、関心が源泉になっている。
 これらのことは、Levy(1976)のセルフ・ヘルプ・グループの定義にあてはまり、分類としては、TYPE兇砲覆襦メンバーは共通の障害をもつことによって、ストレス状況におかれている。そのためグループの目標は、相互援助を通して、障害への対処法を共に学びあうことになる。
 言友会活動は日本各地に広がり、現在22の都市に言友会がある。それが、全国言友会連絡協議会として組織されている。また、1986年、京都で第一回吃音問題研究国際大会を開き、国際的視野にたった活動も展開している。その3年後、ドイツで第二回大会が、1992年にはアメリカの吃音者のグループNSPが第三回大会を開いた。
 言友会がどのような活動を27年間展開してきたか、また、理論的立場や価値観がどのように変化してきたか、時折出されるスローガンの変遷を通して振り返る。また、グループのひとつである大阪言友会(現在は、NPO法人大阪スタタリングプロジェクト)の例会「大阪吃音教室」のプログラムを紹介し、参加者は何を求め、何を学び、何を得たのかを、メンバーの生の声を聞くことによって探る。

キーワード:セルフ・ヘルプ・グループ、吃音とつきあう、吃音者宣言

はじめに
 セルフ・ヘルプという用語は最近聞かれるようになったが、まだ一般的にはゆきわたってはいない。明確な定義もまだなされていないようである。言友会でも、セルフ・ヘルプ・グループと言い始めたのは、最近のことである。
 「言友会とは何ですか?」と問われ、「どもりの人たちのサークルです」と答えると、「何をしているのですか?」と問われる。写真やダンスなどの趣味や親睦だけのグループでもなく、障害者団体のように生活と権利を守る闘いをする運動団体でもない。
 村山(1979)の次のような説明がふさわしい。
 『人間はさまざまな困難に出会い、苦悩するが、それを専門家の援助を受けることなく、自分の責任で、自分の力で、あるいは非専門家のサポートを受けながらそれを解決する、この過程をセルフ・へルプと呼ぶことにしたい』
 成人吃音者のグループ言友会は、筆者伊藤が12名の吃音者と共に、1965年秋、創立した。1966年4月3日に正式に発会式を開いている。創立以来、筆者は常にリーダーとして活動し、全国組織である全国言友会連絡協議会の会長を長年にわたって務めている。セルフ・ヘルプ・グループ言友会の27年を、活動を推進してきた当事者の立場から、時折のスローガンをもとに振り返る。また、筆者の所属しているグループ、大阪言友会(NPO法人大阪スタタリングプロジェクト)の例会「大阪吃音教室」を例に取り、参加者は何を求め、何を学び、何を得たかを、メンバーの生の声を聞く。これらのことによって、言友会活動の意義と課題について探るのが本論の目的である。

  機ゝ媛擦悗留臀のありかた
 どもる人全てが吃音に悩んでいるわけではない。周囲からはひどくどもっていると思われても、臆することなく自己を主張し、吃音に自分の行動や人生を左右されずに生きている人がいる。一方、どもることを嘆き、不安や恐れをもち、自らの殻に閉じこもり、不本意な生活を送る人がいる。吃音に強く影響を受ける人とそうでない人がいることが、実はどもる人の問題解決を遅らせ、吃音に関わる人々を惑わせてきた一つの要因でもあった。
 どもりながらも、明るく積極的に生きている人と接する機会の多い人々は、吃音に悩む人を前にしても、「たかが吃音ぐらいで」と、吃音問題を軽視する。反対に吃音に悩み、そのために、家から出られないような消極的な生活をおくる人の悩みを聞く機会の多い人々は、「吃音さえ治れば」と必要以上に吃音を意識し、その吃音だけに焦点を当てる。吃音問題への軽視と、過度の吃音への拘泥の中で、悩みの中にあるどもる人は自己の吃音を扱いかねている。

☆わたしは29歳の男性です。どもります。5月までは仕事に行ってましたが、今は部屋に閉じこもっています。生きていくのが辛いです。どもりのために不自由な生活を送ることに疲れました。もうどうしたらよいか分かりません。今は自分の弱さに腹を立て、人生を恨み、世間を妬み、毎日のように両親を責め立てています。ほとほと自分が嫌になり、死んだ方がましと思いますが、死ぬ勇気もありません。(後略)
☆私の吃音は軽い方だと思います。でも症状は軽くても悩みは大きいのです。就職して4年目に結婚しました。主人には私の吃音のことは話しておりません。高校の同級生ですので、もう知り合ってから16年たつのですが、気がついていないようです。私が極力隠すように努めているせいかもしれません。子どもができてから悩みは一段と大きくなりました。"もし、この子がどもりだしたらどうしよう"こんな心配をしていると、やはり2歳頃からどもり出しました。長い人生、まだまだこれからです。私のようにこんな辛い、苦しい苦労はさせたくありません。(後略)
☆私の主人と息子はどもります。私が一番心配していることは、息子も結婚適齢期30歳になり、お世話して下さる方も沢山いらっしゃるのですが、息子の吃音が分かり、そしてその父親もとなると、いくら本人がやさしく、仕事にも熱心であってもお見合いして体裁よく断られるのではないかと大変怖いのです。今までにも何回かお世話をいただき、駄目だったこともございます。これだけが原因とは思いたくないのですが、本人も本当のことは言ってくれませんし。(後略)

 吃音の問題は、一般に考えられている以上に、その人を悩ませ、人生を狂わせる場合がある。この3通の手紙に見られるような、藁をもすがる思いで書いたであろうと察せられる手紙がしばしば筆者等に寄せられる。吃音は必ず治ると、30万円以上もするインチキな器具を販売する業者も後を断たない。どもる人にどのような援助があるのか。

1. 民間吃音矯正所
 日本の吃音治療は、1903年、東京は小石川に伊沢修二が設立した、楽石社に端を発する。それ以降は、この楽石社で治療を受け治ったという人か、独自の方法で治った人が吃音矯正所を設立し、治療にあたった。
 かつて民間吃音矯正所以外に利用できる機関がなかった中で、多くのどもる人が矯正所を訪れた。「吃音は必ず治る」と宣伝する矯正所では、伝統的ともいえる呼吸訓練、発声訓練が行われている。これらの治療法は、「どもらずに話す」ことを強調し、どもることを罪悪視する。そのため、吃音が治らない場合、どもる人は自らの吃音を否定し、悩みは更に深まる。必ず治るとする、これらの治療法は実際はほとんど効果がない。
 だからといって矯正所に利点がないかといえばそうではない。矯正所に行って良かったという点に絞れば、多くのどもる人は次のように言う。

1)吃音に悩んでいるのは自分一人だと思っていたが、自分と同じような人が大勢いることを知り、安心した。
2)初めて吃音のことを話題にできた。
3)吃音のことを話せる友達ができた。

 どもる人は、矯正所を訪れるまではあまりにも孤立しすぎていた。親にも、教師にも、友人にも、吃音の悩みは話せなかったという人は多い。矯正所で初めて自分以外のどもる人と知り合い、吃音について語り、悩みを出し、初めて他人に受け入れられる。この体験はどもる人にとって、問題解決への出発点でもある。
 しかし残念ながら、ほとんどの矯正所では、このどもる人の体験を重視せず、矯正所で芽生えた人間関係を発展させる対策を全く取っていない。打ちとけて話し合えたどもる人同士の関係は、矯正所を終了するとほとんどなくなってしまう。その後、個人が互いに連絡し合うことはあっても、グループとして形を成していくことはない。
 矯正所を出た後、どもる人はまた孤立した生活を続けていくのである。

2.治療グループ
 言語病理学、心理臨床の専門家のもとで、自律訓練、カウンセリング、行動療法などを用いた吃音治療に取り組むグループがある。言語障害課程のある教員養成大学や臨床心理学の研究室、聴覚・言語障害センター等の専門家が、中心に行っている。
 このグループにおいては、民間の矯正所とは異なり、どもる人の気持ちの解放や人間関係が尊重されている。また専門家から吃音についての情報を得ることができ、自分の吃音を客観的に見つめ直すことができる。このグループの益するところは大きい。
 しかし、消極的な生活を続けてきたどもる人は、誰かに「治してほしい」という気持ちが強く、専門家や治療方法を絶対視し、依存しやすい。そのため、自主的にグループを運営したり、お互いが自分の問題解決をはかり、そのために行動するという態度が育ちにくい。またグループは、ある程度の目標−気持ちの解放、自己分析、若干の吃症状の改善−が達成された時点で解散する場合があり、その後に起こってくる問題への対処は難しい。
治療の結果、吃症状に改善がみられても、再発することはある。また、吃音に対する不安が減り、どもることにこだわらなくなっても、何かのきっかけで元に戻ってしまうことは、吃症状の再発と同様決して少なくない。

3.セルフ・ヘルプ・グループ
 筆者も経験した、いわゆる専門家による援助について、その利点と限界を述べた。では、この限界を克服する援助はないのか。
 対馬忠は、どもる人のグループ・セラピーの数多い経験から、どもる人のサークル活動をすすめている。対馬は「このようなサークルづくりを彼らにすすめた根拠は、それが正式のグループ・セラピーほどではなくても、必ずやかなりの治療効果を発揮することが予測できたからである」と述べている。実際そのすすめによって、サークル「京大デモステネス会」ができ、成果を上げていた。そして対馬は、そのサークルを次のように評価している。「同じ吃音という悩みを持った者同士がサークル活動を通じて得るものは大きい。例えば、同じ程度の難発、連発を持っていても、自分の方がその同程度の他の人よりも深く悩みすぎていると知っただけで一つの内省が生まれ、どもりについてとらわれる自己の変革が徐々に実現し、どもりについての認知構造が変わってくる」。
 対馬は、どもる人のサークル活動は、正式のグループ・セラピーほどではなくても効果があると述べているが、グループ・セラピーでは得られない大きな効果が、むしろサークル活動の中でこそ得られると思われる。それは前述の矯正所や治療グループの限界を乗り越えられるものをサークル活動が持っていると思うからである。吃音は人口の1%の発生率があり、吃音に悩む人たちは多い。個人の専門家や数少ない治療機関が努力しても、援助できる吃音者の数には限界がある。
    人間性心理学研究 1993年第11巻第1号 日本人間性心理学会


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/6/1
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