伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2020年06月

吃音の著名人 その生き方から学ぶ(4)

 1996年10月25日の大阪吃音教室の講座の続きを紹介します。

坪内寿夫さん どんなにどもっていても、商売のために喋っていったことが、経営にも人間としても成功した人
 
【大阪吃音教室だより】
 がらりと変わりますが、坪内寿夫という人、知ってますか。吃音と闘った人の中に入りますが、吃音を言語訓練などの治療法で治そうとは一切していません。持ち味の強烈なエネルギーで、精一杯生きる内に、吃音の方が「負けました」と逃げていったのかもしれません。一時とても有名だった経営者です。
 四国の松山の映画館主から、世界一の造船王といわれた人ですが、会社の再建王とも言われていました。銀行、ホテル、海運業など、倒産して再建をもちこまれた100社ほどを再建させたのですが、とりわけ佐世保重工の再建が有名です。この彼が、すごい吃音だったというのです。倒産寸前の企業を数多く再建させた手腕から、一時はマスコミによって「再建王」、また船舶・造船・ドック会社を多数抱えたことから「船舶王」、四国を中心としたグループ形態から「四国の大将」とも称されました。

坪内寿夫 経営とはこうするんや 彼の自伝ではないのですが、内藤国夫という人が『経営とはこうするんや』でこう書いています。

 『坪内君はね、若い時は大変なドモリで、人前では話もようできんかった。だけど本当に感心するほどの努力家で、いつの間にかドモリを克服しよった。坪内ちゅうのは、そういう男ぞ、とよく人にも言うんです」

 坪内寿夫とは義理の兄弟、来島どっく専務・石水煌三が、ドモリであったことを肯定する。

 『昭和35・6年までは、話をするのに、普通の人の3倍はかかりました。私らが船の注文に歩いて、来島どっくです言うても、“来島って、どこにある島や”と相手にされなかった時代です。あれからわずかに20余年。坪内企業グループは信じられんほどに大きくなったけど、それ以上に坪内寿夫個人の方がより大きく成長しています。ドモリの克服なんて小さなことです』
      『奇跡を呼ぶ男 坪内寿夫 経営とはこうするんや』内藤国夫 講談社

 経営者にはどもる人がいっぱいいます。ベンツで有名なヤナセ自動車の社長が、どもりで悩んだことを、日本経済新聞の『私の履歴書』で書いています。
 どもりという辛さや劣等感をバネにして必死に生き、商売のために吃ってでも喋っていったことが経営そのものを成功させたし、人間としても成功させたということになるのでしょう。会社の経営者にどもる人はたくさんいるようです。

 
間直之助さん どもりのために自分の生き方を変えた人

 間直之助さんのことは、5月の初めのブログに何回か書いています。吃音と闘うことなく、自分の生き方を変えた人です。以前書いたものとダブルところがあるかもしれませんが、大阪吃音教室で話したことを紹介します。経営者として生きることを運命づけられていたが、別の違う生き方を選んだ人です。

 【大阪吃音教室だより】
 これはあまり知らないと思いますが、間組って知ってますか。大手の建設会社ですが、そこの御曹司として生まれた彼は、将来社長として経営陣として生きることを、本来運命づけられた人なんですが、彼はすごいどもりであった。彼は、間直之助といいます。建設会社という、一般の会社よりは荒っぽい感じがしますが、どもりで悩んで苦しんだ彼には、性に合わない。やさしさと弱さをいっぱい持っている人です。大きな建設会社を継ぐなんてことは自分にはできないと、自分の生き方を変えました。
 その彼のことを遠藤周作が『彼の生き方』という本で書いています。遠藤周作が書いた小説ですが、彼の自伝とも言えると思います。一平という名前ででてきます。
 一平(間直之助)は、試験を受けるんですが、面接試験のときにすごくどもるんです。

 『受験生の二人が口頭試問を受ける部屋にすいこまれた後、残った者はやっと小声で話し始めた。「胸がどきどきしよるなあ。どんな質問しよるんやろか。まさか、これ以上、学科のことを訊ねへんやろうな」、一平はどもりを隠すため、首を振って返事に変えた。・・・ひとりの試験官が質問する間、他の連中は黙って一平をみつめていた。「お、お、お」一平は吃った。「お、黄疸に、か、か、かかりました」「あなたは吃るのですか」と別の試験官が薄笑いを浮かべた。首を必死にのばして発音しようとする一平の姿がおかしかったのであろう。「は、はい」「困ったね。それで授業を受けるのに差し支え、ありませんか」「あ、あ、ありません。だ、だ、大…大丈夫です」「君は大学に行けば何科に進みたいですか」「ま、まだ、き、決めていません」』
 
 彼は、建設会社の経営なんてできっこないと考えて、猿の研究に入りました。東京大学理学部で動物学を、京都大学文学部で哲学を専攻した後、父親が作った建設会社「間組」入社しますが、日本モンキーセンターの終身研究員となりニホンザルの研究に余生を捧げました。日本猿の餌付けの草分け的な存在です。彼が猿と共に生きる決心をする最後のエピソードなんですが、自分が餌付けしている猿を撃ったり、つかまえようとしたりする人たちに対して彼はこういうことを言って、猿の世界に入っていきます。

 『「さ、猿が、あんたたちに、ど、どんな悪いことをしたというんや。さ、猿が人間に、ど、どんな害を、あ、与えたというんや。さ、猿はものが言えん。人間のようにものが言えん。し、しかし、ものが言えんでも、猿かて…か、悲しみはあるんや。さ、猿かて・・・悲しみはあるんや。ぼ、ぼくが、つ、つれていってやるさかい。ボスのかわりに、ぼ、ぼくが、つれていってやるさかい、も、もう人間の手の、と、とどかん場所に行こ。人間の汚れが、ち、近づかぬ場所に行こ」

 吃音をなんとか治そうとか克服しようとかする人がいる反面、自分の弱さの中で、自分を生かそうと、持って生まれた自分の宿命というか、大きな会社の経営陣の道を捨て、自分の持っている人格というか特性の方に生かすという生き方があります。
 私は、吃音の著名人の中では、彼が一番好きです。
    (NPO法人大阪スタタリングプロジェクト機関紙「新生」1996年12月号より)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 20200/6/20

吃音の著名人の生き方から学ぶ(3)

真継伸彦さん 自分の消極性を克服するための講演活動

 大阪吃音教室では、金鶴泳さんに続いて真継伸彦さんの話になります。
 金鶴泳さんも真継伸彦さんも、大阪吃音教室の講座だけでは説明しきれないので、今回は、とりあえず大阪吃音教室で話されたことだけにしておき、後日、金鶴泳さん、真継伸彦さんについては、詳しい紹介をしたいと思います。では、前回の続きです。

【大阪吃音教室だより】
 真継伸彦さん知ってますか。この人も有名な作家ですが、彼も吃音を嫌悪し、ものすごく悩んだ人なんです。自伝的な小説でこう書いています。
 『僕が吃音に代表される消極性、自分には人並みのことができないという不安につきまとわれ、先天的な消極性と極度の羞恥とは彼の性格を作っている。彼は幼少時から自分を持ちきれないことがしばしばだった。そして心のあり方を変えたいと何度も思った。そして、周囲の迷惑を顧みずにその小心を変えるために消極性を変えるためにかなり無鉄砲な行為を繰り返した。酒を飲んで酔って酔ったふりをしながら人にくってかかったりということをしてきた』

 しかし、なかなか消極性は変わらない。そこで、彼がしたのは、自分の吃音を公表することでした。そうしないといつまでたっても自分の人生を生きることはできない。そのきっかけとなったことは、
 『非情になること、つまり感情を無にすることによって、彼は些々たる感情となってあらわれ自分を翻弄する自分の本質、すなわち翼々たる小心を変えることができるのではないかと期待したのである』

真継伸彦 林檎の下の顔 自分の消極性を克服するために彼がやったことは、講演です。

 『大学卒業後に関心を抱き始めた仏教などの専門的な話題のほかに信条である反戦主義を説くことを義務と定めていた。彼は嫌がる自分を無理やりに公衆の面前に引き出し、強引に話させるという荒治療によって、吃音を治していこうとした。話そうとして話せぬ苦悩のさまが画面に映し出されるテレビの出演は、講演よりはるかにおそろしかったが、彼はあえて引き受けた。荒治療は百回をとうに越しただろう。しかし吃音は治るどころか放っておけばますます悪化する一方であると思われた。講演に失敗して失望し聴衆の気配を背後に感じながら演壇をひきさがるとき、彼はとんだデモステネスだと自嘲することがあった。彼はこの古代ギリシャの雄弁家の名を吃音矯正学院に通い始めた小学三年生の頃から知っていた。吃音矯正学院の教科書にはどもる子どもたちを励ますために、毎日のように海辺へおもむき、小石を口にふくんで演説の練習を続けて吃音を克服したデモステネスの逸話がのっていた。彼はそれ以上にデモステネスの伝記を知らず、知りたくもなかった。が、この雄弁家の内心には同胞に語るべきこと、告知するべき独自のことが満ちあふれていたに違いないと思われた。ぜひとも語らなければならないという内からの衝迫が、吃音をも克服させたのだろう』
             『林檎の下の顔』 真継伸彦 筑摩書房

 この真継伸彦さんの、デモステネスに対する見解は私も同じです。要するに、小石をはさんで発声練習をしたよりも、国民に聴衆に語るべき内容、ことばが彼にとっていっぱいあったから雄弁家になれたのであって、そのトレーニング方法だけがクローズアップされていることに、どうかな、そうではないのではと、真継伸彦さんは思った。だから、自分も内心にぜひとも語らなければならないことがあるだろうかということを問いかけていきます。真継さんは、親鸞の研究者としても知られている人ですが、作家として、仏教学者として活躍しています。
       NPO法人大阪スタタリングプロジェクト機関紙「新生」1996年12月号


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/06/19

吃音の著名人の生き方から学ぶ(2)

吃音と共に豊かに生きる著名人(2)

 大阪吃音教室では、吃音の著名人のことが話題になることがあります。今回の大阪吃音教室で4つにジャンル分けをしました。まず、,痢吃音と闘い勝利した数少ない人です。紀元前300年代のデモステネスと、必死で闘ったけれど、デモステネスのようにはならなかった、小説家・金鶴泳さんを紹介します。

   ゝ媛擦鬚覆鵑箸治そうとして闘った人
 こんな本があるんです。『デモステネス』この本、古本屋でみつけたものですが、かびが生えているようですが、1942年に発行されたものなので、僕の生まれる前です。日本人は知らない人もいますが、欧米人でどもる人含めて、吃音研究者・臨床家で、デモステネスを知らない人はいないほどで、「デモステネス・コンプレックス」という言語病理学では専門用語があるくらい有名な人です。この本の中には、『全世界の英雄のうちでも、第一人者としてデモステネス』と書いてあります。彼は国を救う雄弁家、弁論家だったんですが、彼の作った演説の草稿が残っています。デモステネスは、小さい頃からは孤独で非社交的でした。雄弁家になって政治家になるなんて思いもよらなかった。彼はひどい吃音だったようです。本の吃音について書いてある部分をちょっと読んでみます。

 『雄弁家は、単にその草稿を完全に作るだけでなく、それを述べることを習わなければならない。ここに、デモステネスの大きな困難があった。彼は、舌に縺れる(もつれる)弱い音声と呼吸切れを直す練習を始めた。彼は特に「R」という字がやっかいだった。現在残っている彼の像では、上唇と下唇よりも突き出ていて、明快なる発音にはほど遠い欠陥が見られる。彼は、これらの身体上の欠陥を克服しようとして、口に小石を入れて演説の練習をしたり、フアレロムの海岸で、波の音に打ち勝つ練習をしたり、小山を駈け上りながら暗唱をしたり、オヂセイの一行を幾度となく繰り返して発音したり、数行の文章を一呼吸の間に言ってしまうことを習ったり、その姿勢を矯正するために、鏡の前で演説をしたなどという話がある』


 彼はこのような、ものすごい努力をして、当代随一と言われる演説家になって、英雄になりました。だから、努力をすればデモステネスのようになれるだろう、デモステネスのように流暢に話せる人間になりたいと憧れる人が出てきます。でも、吃音を直接治そうと闘った人で成功した人は、ほとんどいません。闘い疲れて結局は諦めるというのが、日本でも、世界でもほとんどです。だから、「デモステネス・コンプレックス」ということばさえ、生まれたのです。東京大学にも、京都大学にも、学生が作った会がありましたが、その会の名前は「デモステネス会」でした。

凍える口 デモステネスのようになりたいと、必死で吃音との闘いを挑んで失敗した人がいます。
 〈金鶴泳さん〉という作家、知ってますか。彼は、将来を嘱望され、何度も芥川賞の候補になった実力ある作家でしたが、残念ながら自死をしました。僕たちとも手紙でのやりとりがあった人ですが、吃音のことを小説で書き切った後に、吃音の苦しみから解放されたと言います。救われたと言うんです。どもりのことを小説に書くことによって、どもりを客観的にみつめるようになり、作家としての自信も生まれてきて、どもりにあまり悩まなくなります。そして、治そうと必死に訓練していた時は、全く変化しなかったのが、自伝的小説で吃音をオープンにしたことで、あまりどもらくなっていきます。僕たちと金鶴泳さんとの交流を知った、国立特殊教育特別研究所が、吃音について講演を依頼しました。金さんは、吃音を忘れた生活をしていたのに、吃音について話したことをきっかけに、再び吃音を意識するようになったそうです。小説『凍える口』の中で、どもることに対する悩みや辛い体験を赤裸々に描写しています。

 『このところ、僕の神経を弱らせているのは、単にその吃音のせいばかりではない。いよいよ今日に控えた恐怖の時間のことをたえず気にかけ、その時間のために、悩まされてきた。その恐怖の感情は、まったく不随意なものだった。意志の力ではどう抑えようもなく、神経の方で勝手に戦慄し、恐怖し、胸を苦しめ、そのために、僕はたえず胸中に不安を抱いていなければならないのだった。それは、研究会に対する不安であった。研究室の今日の研究会で、僕はこの3ヶ月間の研究報告をすることになっており、不安とはその報告のための言葉に対する不安のことであり、煎じ詰めれば、結局、吃音に対する不安であった』

 吃音に対する不安が大きく、彼は吃音を治すために一生懸命練習をします。

 『〈ああ、どもりでさえなかったら・・・〉闇をみつめながら、僕は思う。思うことを思うとおりになめらかに話すことができたら、と考える。そうすれば、僕の心はどんなに軽くなることだろう。青々と、胸のすくほどに澄んだ秋の空のように、晴れ晴れとすることだろう。胸の怖さを感じながら、僕は長い間、静かな雨足の音に耳を傾けていた。やがて意識がおぼろになっていき、僕は再び眠りに落ちていった』


 彼は結局は亡くなりましたが、自分の吃音について文章に書き、自分をオープンにしていくということでかなり克服していった人だろうと思います。彼は、5年間、どもりを治すための日課として訓練を続けたことをこう書いています。

 
『茶を飲み終わり、新聞にひととおり目を通すと、僕は吃音矯正練習にとりかかる。起床後の30分の矯正練習は、この5年来の僕の日課なのである。5年−と僕はふと思う−考えてみれば僕はもうこれを5年以上続けているのだ。それほど続けておりながらも、しかし吃音は依然として、僕の全身にへばりついているのだった。徒労−そんな思いが胸をかすめないでもない。だがそれはもはや全く習慣化されてしまっており、それを済ませぬと、たとえば歯を磨き忘れた朝のように、何となく気持ちが落ち着かないのだ。習慣化しているということは、言い換えればマンネリ化しているということかもしれない。マンネリ化しているゆえに、それは徒労事なのかもしれない。また、一日に30分程度の矯正練習では、20年近くの歳月をかけた身につけた吃音の癖を、矯めることはできないのかもしれない』

 彼も、デモステネスのことを書いています。これだけやってもデモステネスのようにはなれないという辛さを書いています。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/06/18

吃音と共に豊かに生きた著名人に学ぶ(1)

1996年10月に、僕が担当した大阪吃音教室の講座の紹介

間直之助の碑 ネットから コロナウイルス感染拡大による自粛前に出かけた比叡山ドライブウェイで、偶然に出会った、日本ザル研究者・間直之助の碑をきっかけに、間直之助、映画監督・羽仁進、そして、大阪吃音教室の開講式に飛び入り参加して下さった落語家・桂文福さんと、吃音と共に生きた人を3人、シリーズのように紹介してきました。
羽仁進16.5  文福 この「吃音と共に豊かに生きた著名人に学ぶ」は、大阪吃音教室の講座のひとつとして、行われてきましたし、『親、教師、言語聴覚士が使える、吃音ワークブック』(解放出版社)にも、どもる著名人として36名の紹介もしています。
 吃音との向き合い方は、人それぞれです。僕たち自身の生き方は、NPO法人大阪スタタリングプロジェクトが制定している、自分史を綴る「ことば文学賞」で分かち合ってきました。自分以外のどもる人の人生を知ることは、自分を検討することにもなり、新しい発見と、自分への勇気づけにもなっていました。実在の著名人の生き方を知ることは、今、自分の生き方を考える上で、参考になるでしょう。ことばの教室で、子どもと一緒に勉強することもできそうです。
 そこで、1996年10月に、僕が担当した大阪吃音教室の講座「吃音と共に生きた人に学ぶ」の報告を紹介します。講座で話しているそのままを再現していますので、ライブ感覚でお読み下さい。

大阪吃音教室だより  吃音と共に生きた人に学ぶ
                    10月25日 担当:伊藤伸二

 1996年10月25日の大阪吃音教室
 先輩のどもる人に出会って、あっ、こういう生き方もあるのか、こんなふうに悩みとうまくつきあっていたのかと、直接に具体的な見本から影響を受けることがあります。セルフヘルプグループの大きな役割は、具体的に目の前に見本となるようなどもる人がいて、直接出会えることです。夏の吃音親子サマーキャンプでも、小学生、中学生、高校生、大学生、社会人と全年代のどもる人がいるから、小学校の子どものお母さんは、すぐ中学生の子どもと話すことができる。就職が不安と思ったら、大学を卒業して就職した人に話を聞くことができる。いろいろな年代の人と直接会って、どんなことで困っていたり、どんなことを考えたりしているかを聞けるいい機会になっています。
 今日は皆さんと一緒にちょっと有名人、僕らよりかなり頑張っている人のことを紹介し、皆さんからも、知っている吃音の有名人を教えてもらいながら、そこからどういうことが生きるヒントとして得られるだろうかを考えてみる大阪吃音教室にしてみようと思います。ここに、たくさん吃音を生きた人が、吃音について書いている本を持ってきましたが、これらを読んでみると、今現在活躍している人であっても、学童期、思春期の頃、吃音の独特の辛さ、悩みをいっぱいもっています。喋れない、対人関係がうまくもてない、消極的になって、自己否定になって自分が嫌いになっている。ほとんどの人がそれらの経験を経て、それぞれの生き方をしていますが、大胆に4つにわけてみました。それぞれについて思い浮かぶ人を挙げて下さい。

 ゝ媛擦鬚覆鵑箸治そうとして闘った人
 一生懸命治そうとがんばった人、そして、ある程度治ったり、治らないまでもほとんど分からないくらいまで克服した人です。紀元前300年代の古代ギリシャの政治家・大雄弁家として知られる、〈デモステネス〉がトップでしょうか。日本の首相の〈田中角栄さん〉、週刊朝日の編集長だった、評論家の〈扇谷正造さん〉、現在も現役のアナウンサーの〈小倉智昭さん〉などがそうです。

◆ゝ媛擦里匹發蠅里燭瓩棒犬方を変えた人
 弱点、短所として自分がとらえた吃音とは闘わないで、どもりながら、自分のもっている、やさしさや、弱さを正真に認め、それに沿うた生き方をしようとしてきた人達がいます。運命として定められた道は、どもっていたり、弱さや優しさをもち過ぎるとできないだろうと、その道はあきらめた人です。皆さんも、あまり知らないよね。後で紹介します。

 吃音とは関係なく、自分の生き方を貫いた人
 確かに吃音に悩んだことはあったけれど、吃音に自分の人生を影響されずに、自分のやりたいこと、自分のしたいことがみつかり、そのことを追求していった人ですが、作家が多いです。作家でどもったことのある人、知ってますか。〈井上ひさしさん〉〈大江健三郎さん〉〈藤沢周平さん〉がそうですね。マンガ家では『土佐の一本釣り』を書いた〈青柳裕介さん〉、映画監督の〈羽仁進さん〉などです。

ぁゝ媛擦任茲ったと言う人
 「吃音でよかった、吃音はいいことがあるんやで、どもりは得をするんやで」と言っている人がいます。これは後で紹介します。
             大阪スタタリングプロジェクト「新生」1996年11月号 


 大阪吃音教室では、このように吃音の著名人を分けて、紹介していきました。
 次回から紹介していきます。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/06/17

映画「彼らは生きていた」の退役軍人の、生のことばの表現力

反戦少年が観た映画「彼らは生きていた」

彼らは生きていた_0001 友人のすすめで、今日、宝塚市の映画館、シネ・ピピア2で、「彼らは生きていた」を観てきました。すごい映画でした。僕は映画は大好きですが、基本的に暴力、ハードアクションは好きではなく、戦争映画もほとんど観ません。しかし、ヒットラー関係の映画はよく見るので、戦争映画は観ないのではなく、迫力ある戦闘シーンを売り物にした戦争映画は観ない、観たくないということなのでしょう。
 僕は、戦争そのものが絶対に許せないのです。僕の最初の戦争映画体験は、小学1年生か、小学校入学前かに観た「きけわだつみの声」でした。そのときの強烈な印象が、僕をそのときから現在にいたる、反戦少年にしたのです。
 戦闘シーンを売り物にしない、いわゆる「反戦映画」は観ています。今回の「彼らは生きている」は子どもの頃観た「きけわだつみの声」に匹敵するものでした。戦場でどのようなことが起こり、そのとき兵士はどんな気持ちと考えをもったのか、これまでの映画では描ききれなかったものを、退役軍人のインタビューの音源をナレーションのような形で構成し、映像と音声の合成で、今、撮影したのかと思える臨場感ある、ドキュメンタリー映画として表現していました。映像とインタビューをナレーターが進行する通常のドキュメンタリー映画とは全く違うものになっています。全編を通して、退役軍人のひとりひとりの言葉が、戦争のもつ本質をえぐり出していきます。フィクションの役者のセリフでは、絶対に表現できないリアリティーがありました。迫力ある戦闘シーンが売り物の劇場映画では絶対に表現できないリアリティーです。
 今の世界は紛争が絶えず、日本も戦争と無縁ではなくなりかねない現代、若い人たちにこそ、この映画を観て欲しいと思います。映画の冒頭、15歳の少年が兵士となることへの思いを語るところは、胸に迫ります。次第に激しくなる戦場で、若い兵士たちが母の名を叫び倒れるように死んでいきます。戦死した仲間を埋葬するシーンは、新型コロナウイルスで亡くなった人を埋葬するシーンが重なりました。
 第一次世界大戦の様子が、生々しくスクリーンに蘇ります。退役軍人の言葉をもう一度確認するために、もう一度観なければならない映画になりました。
 映画紹介のサイトの文章と、1995年に書いた「反戦への思い」という文章を紹介します。大阪吃音教室の「自分史を書く」の講座の中で書いたものです。

彼らは生きていた_0002
 「イギリスの帝国戦争博物館に保管されていた第一次世界大戦の記録映像を『ロード・オブ・ザ・リング』ピーター・ジャクソン監督が再構築し、ドキュメンタリー映画として蘇らせた。2200時間にも及ぶモノクロの映像を修復・着色し、バラバラなスピードだった映像を1秒24フレームに統一させ、リアルさを追求した。撮影当時はセリフを録音する技術がなかったため、イギリスBBCが保存していた600時間もの退役軍人のインタビュー音源をナレーションの形で構成し、映像と音声を合成した。また、足音や爆撃音など、効果音を加え、一部の兵士の声は新たにキャストを起用し、読唇術を用いて当時のなまりのある話し方まで再現した。戦場での兵士の戦闘だけでなく、休憩時や食事の風景など日常の様子も盛り込み、これまで誰も見たことのなかった鮮やかでリアルな戦争記録映像を再構築した」


       
反戦への思い
                       伊藤伸二
 ♪春の小川はさらさらいくよ…♪
 この歌を聞くと、今でも胸がキュンとなって独特の思いが一瞬浮かぶ。
春を待ち、春が来たよろこびの思いではない。
 「戦争は嫌だ! 絶対に嫌だ! どんな戦争にも僕は絶対に反対する。刑務所に入ろうとも僕は絶対に戦争には行かない」
 この童謡を聞く度に、口ずさむ度に私はこう自分に叫んでいる。この童謡は、私の反戦思想の原点なのだ。
 小学校一年生の時、学校なのか、役場だったのか、映画館のない田舎で観た映画「きけわだつみの声」は私に大きな影響を与えた。
 小学校一年生の時だから、ストーリーがそれほど分かっているとは思えない。しかし、山中で上官が部下の口の中に、自分の長靴をねじこんで、気絶するまでなぐり倒していたシーン。戦争に行った父親が無事に帰るのを待ちわびながら、小さい子どもが二人手をつないでこの童謡を歌いながら、小川にかかる小さな橋を渡っているシーンは今でも私のスクリーンから離れない。
 人間を人間として扱わない軍隊の上官への怒り、家族を引き裂く戦争への怒り。この映画ひとつで私は戦争絶対反対論者となった。
 『憲法第九条遵守』『非武装中立』という政策だけで、私は長い間日本社会党を一貫して応援してきた。しかし、その社会党はどんどん変わっていく。「きけわだつみの声」の映画を原点とした私の変わらぬ反戦思想を今後どういう形で表現していけばよいか、立ち止まり、困っている。
 映画「きけわだつみの声」が敗戦五十年の今年、再映画化された。まだ観ていないが必ず観るつもりだ。上官が靴を口にねじこんでなぐりつけたシーン。春の小川の歌を歌っているシーンははたしてあるだろうか。四十年前の恋人に出会えるような気分だ。
 この映画を観て、若い人たちが〈戦争は絶対にいけない〉という思いを持ってくれるだろうか。ぜひ持ってほしいと思う。映画はそれだけ大きな影響を若い人たちに与えると思うからだ。アメリカ映画、たとえば「プラトーン」「7月4日に生まれて」などのベトナム戦争の映画は、日本の若い人にも大きな影響を与えていると思う。私が幼い頃に観た映画にいまだに影響されているように、阪神大震災にいち早くボランティアとして動いた若い人たちも、映画や小説などで、いろんな人の人生に出会った人たちなのではないかと勝手に思い込んでいる。映画の力は大きい。
                  (1995.6.23.「書くトレーニング」より)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/6/16

どもる子どもやどもる人に勇気と希望を与えてくれた、文福さんの話

どもる子どもやどもる人に勇気と希望を与えてくれた、文福さんの話

 明るくどもる人に、人は勇気をもらえるようです。
 どもることは避けられないのだから、できるだけ明るくどもりたいと僕も思います。僕が大阪教育大学の教員だった時、ひとりの、とてもどもる女子学生が新入生として、僕の研究室に挨拶に来ました。僕に会いたくて、大阪教育大学を選んだのだと言います。かなりどもる彼女が、後になって、教員になれるとは、当時の彼女の姿からは想像もできませんでした。僕が1万人以上のどもる人に出会っている中で、よくどもる人のベスト5に確実に入る人です。彼女は後に島根県の教員になり、定年近くまで勤め上げ、昨年の第8回親・教師・言語聴覚士のための吃音講習会にゲストとして参加してくれました。僕との対談で「伊藤さんは、私の目を見て堂々とどもっていました。それが強烈な印象として強く残っています」と話していました。どもる僕たちの社会貢献は、「相手の目をしっかり見て、素直にどもること」だと思います。僕の場合、文福さんのよう明るくはどもれませんが、平気ではどもっています。文福さんのどもる姿、どもりながらの楽しい話に魅了された人の感想を紹介します。
  
 優しさに包まれ、パワーを吸収した
      坂田 俊子(どもる子どもの保護者 福井県)
 桂文福さんの講演録を読み、再びあの優しさに包まれたお人柄を思い出しています。本当に親子3人で出席してよかったです。息子は小学5年生ですが、子どもにたくさんのメッセージをいただき、帰ってきてからの1カ月は、文福さんのパワーを十分に吸収した様子でした。まずしばらくは「気持ちがむちゃくちゃ楽になった」と言って、毎日「学校で今日は何回発表した」と私に報告していました。機関銃のように勢いよくしゃべる子どもを横目に“おいおい、そんなに早く治るなよ”と寂しいような感情がわいてきたのですが、誰に報告するともなく、しばらく様子を見ることにしました。
 そして、やはり効果は1カ月足らず、尻すぼみで、またどもるかっこ悪さを自覚しながら日々戦っているようです。定期的に大阪のみなさんのところへ通えたらいいだろうなと切実に思いました。でも、昨年、吃音ショートコースに参加できたおかげで、子どもの将来を少し客観的に考えることができるようになり、親としての心構えは準備OKのような気がします。皆さん、お年を召される順に魅力的だと思いました。うちの子は、まだ笑うしかない状態でどもっちゃっていますが、あたたかく見守っていこうと思います。

 文福さんから貰った大きな力
        大森 正之(僧侶 和歌山県・高野山)
 私は現在、僧侶として和歌山県の高野山に住んでいる。11月6日。待ちに待ったその日は、あの和歌山が生んだスーパースター、桂文福さんに会えるというので朝からウキウキワクワク。一日中落ち着かず、仕事を少し早目に切り上げて大阪へ向かった。
 少し早目に出発したが、5分の遅刻。もう既にお弟子さんの“桂ちゃん好”さんの前座トークがはじまっていた。しかし文福さんの登場はまだ、ギリギリ間に合ったという感じだ。少しすると、派手なピンクの羽織姿で文福さんの登場。
 よ、待ってました!
 前半は文福さんの落語、後半は文福さんと伊藤さんの対談という形であったが、落語も対談も、とにかく文福さんの話はおもしろかった。中でも和歌山弁ネタの話は、和歌山の高野山に住む私にとっては、とても可笑しく久しぶりに腹を抱えて笑った。さすが文福師匠、やっぱり一流の噺家さんである。
 和歌山の人はザ行の音が発音できず、ザ行を含む音はどうしてもダ行になってしまう。ぞう(象)がドウ、ぞうきん(雑巾)がドウキン、れいぞうこ(冷蔵庫)がレイドウコというふうにである。文福さんも故郷を離れ、落語界に入門された頃には、この和歌山弁のせいで随分困ったそうだ。そんなことをおもしろ可笑しく話していただいた。
 実は私自身も高野山に住み始めた頃には、和歌山弁には随分と困った。私の場合、文福さんとは全く反対で、和歌山弁が聞き取れなくて困ったのである。更に、私は島根県出身なので言葉は田舎丸出しの出雲弁、それもどもりながら話すのであるから全く意味不明になってしまう。そんな私も和歌山高野山に住むようになって、はや20年、今ではすっかり和歌山の人間である。高野山が好きで、熊野の森が好きで、有田の海が好きで、和歌山全体が好きだ。そして和歌山の人たちが大好きだ。文福さんはその和歌山が生んだスーパースターなのである。
 伊藤さんとの対談の中で、文福さんは自分の吃音についていろいろと話して下さった。そのお話の中で、文福さんも私たち同様、子どもの頃から吃音に悩み苦しまれていたことを知った。しかし、さすが文福さんである。吃音のことについて話していても、決して重たい暗い雰囲気にはならず、会場から笑いの声が途絶えることのない楽しいものであった。まるで文福さんと伊藤さんの漫才のような対談であった。
 文福さんは不思議なことに高座の上で落語をされている時は全くと言っていいほど、どもらない。私も今まで文福さんがどもる人だなんて知らなかったほどだ。でも、高座を降りて普段の会話になると、よくどもるという。伊藤さんが初めて文福さんから電話をもらった時は、吃音の相談の電話だと勘違いしたぐらい、電話では特にどもるそうである。そんな文福さんが30年近くも落語を続けてこられ、ついには弟子を持ち、“師匠”と呼ばれるようになるには並大抵の努力ではない。文福さんは“努力”の人である。文福さんを常に支えていたものは「落語が誰よりも大好きだ」という一途な思いである。人は誰しも決して諦めずに、自分の心の中に、強い信念を持ち、そして自分自身に絶対的な自信を持ち、目標へと向かってゆくことが大切なのだろう。
 話芸の達人、落語家としての文福さんの成功は、私たち吃音を持つ者に大きな勇気と希望を与えてくれた。私たちは誰しもが文福さんのようになれる。それは決して落語家になれるという意味ではない。あらゆる分野において成功しうる可能性を誰しもが持っているということである。私は今回の吃音を通じての文福さんとの出会いに心から感動した。吃音を受け入れ、吃音と上手につきあっている文福さんは、決して吃音を芸風にしたり、売り物にしたりはしない。それが文福さんの魅力だ。
 私はこの4月、住み慣れた和歌山高野山を去る。兵庫県の湯村温泉の近くの過疎の村の、今まで住職のいなかった小さな村の小さな寺に住職として入寺する。これから先、いろいろと大変だと思うが、がんばってみるつもりである。
 “寄席”とは、どんなものでも決して排除せず、全てのものが寄り集まる処であると文福さんは云う。お年寄りも若い方も子どもたちも、そして動物や小鳥までもが寄り集まる処。それが寄席なのである。お寺も同じであると私も思う。私のお寺も、そんなみんなが寄り集まるような寺にしたい。多くの人が持ち帰っていただけるような、お寺にしたい。それが私の夢である。
今回、文福さんからは、笑いとともに大きな力を貰った。文福さんに心から感謝する。そして、私を20年間、育ててくれた愛する和歌山高野山に心から感謝する。
              「スタタリング・ナウ」2001年2月17日、NO.78


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/6/15

吃音の落語家から、どもる子どもへのエール

應典院・コモンズフェスタ2000  どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生(7)

桂文福1 50 今回のイベントは、日本吃音臨床研究会が企画したので、僕たちの月刊紙「スタタリング・ナウ」で紹介しました。そのため、小学生のどもる子どもとその保護者が何組か、福井や広島など遠いところから参加していました。僕と文福さんが対面しているとき、客席の一番前に、その人たちは陣取っていました。楽しそうに笑ってくれています。
 「どもりを治さないと大変な人生になる」と、小学生のころの僕は思っていました。その当時の僕が、この会場にいて文福さんの話を聞いていたら、あのような惨めな、小学生、中学生、高校生時代を送らなかっただろうと確信します。どもりながら、落語家として活躍し、吃音のことを楽しそうに話している。僕が生きた学童期・思春期には考えられないことでした。「吃音の悲劇」ばかりが情報として流れ、「どもっていても大丈夫」と言い切る大人は誰一人いなかったのですから。吃音を全肯定する僕たちの活動や、どもりながら豊かに自分らしく生きているという見本を示す意義は大きいと思います。
 今回で、桂文福さんの講演記録は終了です。最後に、子どもたちへのメッセージがあります。
ここまでよう来たな

文福 今日はこういう『どもりを個性に』というテーマやからいろいろ言わせてもらったけれど。結局、誰かがひとりでも痛みを感じたら、笑いにはならん。
 和歌山の芸人の県人会を作ったとのも、おととし、カレーの事件がきっかけです。和歌山の園部地区に、テレビのワイドショーが話を広げて、レポーターや記者を送り込んでくる。見てる人は初めは園部地区に住んでいる人がかわいそうやと思ってたけど、だんだんマヒして、連続ドラマみたいになって来る。あるとき、「文福さん、僕、和歌山の出身ですと、和歌山市園部となっている名刺を出したら、あの園部かとえらい話が盛り上がって、商談とかまとまってね」と言った人がいた。「ああ、そうかい」と言って、僕はその名刺をびりっと破った。こんなん和歌山の恥や。
 それで、なんとか芸人として和歌山のイメージアップせないかんという、僕のコメントが新聞に3つか4つ出たんです。それを読んだ和歌山の出身の芸人が「文福さん、一緒にやりましょう」と言ってくれて去年できました。神戸の地震でもコントなんかすると受けるけど、やっぱり当事者はええ気せんからね。誰かのことを押さえ付けて、笑いをとったりするのはもってのほかやと思います。だから、話の中では悲惨な事故や事件は扱わんとこと思ってます。新作落語をつくるときもやめとこと思ってます。そういうポリシーはあるんです。どもりのお陰で、多少人の痛みがあるから、そういう発想をするんやと思うんですけどね。
 僕は緊張したら目がチック症になるんです。シャイとか照れ屋からきたんでしょう。ビートたけしさんもそうやけど、シャイなんです。ぼんちおさむさんもやし、結構います。チック症も心の病気とまではいかんかもしれんけど、まあどもりと通じるものがあるんでしょうね。なんでそうなったんか、今だに原因も分からないし、親のせいにしたことない。この世界に飛び込んで、初めはみんなびっくりしたし、心配もかけたけど、今はもうようやってるやないかと思ってくれてる。僕としては29年間振り返ったら、まあここまでよう来たなと思います。うまい落語家だとか立派な師匠とか、そんな気は全然ないけど、来年30年になるけど、よう30年間もこの世界におったなと思います。

伊藤 あっという間に2時間15分が、笑いと涙の2時間15分が過ぎてしまいました。ありがとうございました。

文福 今回は、もう仕事っていう気は全然ありません、仲間という気で来ています。伊藤さんとはなんべんも電話で喋っているのに、つい会ったら、どもりについて、なんでもあれもこれも喋ってしまわないかんような気がして、ひとり喋り過ぎました。

どもる子どもたちへのメッセージ

伊藤  今日は、前の方にどもる子どもや、どもる子どもの親が参加されています。文福さんからその人たちへのメッセージをお願いします。

文福 周りがもっと理解せなあかんでしょうね。僕も授業中に、「この問題、分かる人?」て言われて、一応分かってるから手を挙げる、でも、手を挙げてる子が多いと、どもると自分で分かってるから手をそうっと下げる。先生が「お前、いっこも手をあげへんな。分かってるんか。お前、いっこもよう答えへんな」とよく言われた。ちくしょうと思っていました。周りが理解して、ひとりで悩まないで、どもってもええんちゃうかと思えばいい。喋り方でも歩き方でも特徴があって、みんなそれぞれや。みかんはみかん、桃は桃で味が違う。みかんとりんごとどっちがおいしいと言ったって、それ人によって違う。みんなそれぞれ自分の特徴や個性やと思って。足を引きずったのもそういう歩き方やしね。喋るのも僕はそういう喋り方をするんだ。これが私なんだ。確かに本もちゃんと読みたいと思うし、はきはき喋りたいと思うけれども。きれいに読んでも心がこもらんと読んでも何もならんし。つまりながらも一所懸命で説得力があったらそれでええんであってね。
 自分のことばに自信をもって。腹から声を出す。心から喋る。ただ、どもったりすると周りが変に笑うでしょ。相手が笑ってると、笑わしてるわ、受けてるわと勘違いをする連中がいる。うちの一門に頭の毛の薄い子がいて、芸名がこけ枝というんやけど。「私、こけ枝でございまして」と言ったらみんな笑う。ほんまこけしみたいにまるい円満な顔をしている。「師匠、よかったですわ、僕落語の世界で」と言う。大学や普通の会社へ行ったら慰安会なんかでもこの頭やったら受ける。慰安会で受けても何の得にもならない。
 弟子のちゃん好なんか男前の部類です。逆に男前やということでコンプレックスがあった。鏡の前で顔をこうやって、こうやって、そんなんせんでも自然にやっているうちになってくるんやと言った。その点、こけし君なんかは、何もせんでも、「えー」と言ったらみんな笑ってくれるし、お客さんが和む。プロになってよかった。
 池のめだかさんも、小さいのをギャグにしてるけど、自分が小さいのは構へんねん、プロやからね。百も承知や。そやけど、学校で小さい子に「めだか、ちび豆」とあだ名をつけたりして、また職場ではげの人を笑い者にしても、なんぼ周りで笑っても、その人本人は他人を笑わす気はないからね。僕らは、プロやから笑ってもらってかまへんけど、皆さんの場合は、10人おって9人が笑っても、一人が後でちくしょうと泣いてたとしたら、その小学校の教室はほんま寂しい教室やね。みんなが10人とも笑わんとあかんよね。
 周りの理解も大事やし、本人も仮に笑われたって負けない、「かまへんわ、これは俺の特徴や」と強い気持ちを持ってもらわんとしゃあないね。落ち込んでしゅんとなるより、「僕はどもるけど、その代わり心優しいんだ、ハートをもってるぞ」と言い聞かせてね。心をこめてこれを言うたんだという気持ちを持ってたらいいと思う。今日は、ほんま小学生の君らが来てくれてうれしいね。

伊藤 遠いところは、広島から、福井から、来てくれました。

文福 ほんま、いやー、うれしいね。伊藤さんがこういう会を作ったおかげで、みなさんも何かを学んでいこうというのができてるでしょ。どもりを治す、矯正するところじゃなくて、「どもってもええよ、僕もそうやったんよ、楽しくやってるよ、キャンプにおいで」。そういうのを作ったのがすごいことやし、そこに来れる子どもさんは立派なもんや。どもりをどうしよう、どもりの子を持ってどうしようという親もいるだろうけれど、来てくれて、うれしい。
 今日は僕ばっかり喋ってもたけど、自信をもって、まあ和歌山弁では、おいやんっていうんやけど、こんなおいやんでもどもってたけど、今なんとか人前で喋る仕事をやってますし、自分で探したら自分を生かせる道があると思う。何も喋る仕事が立派とは違うんだよ。どんな仕事でもいいよ。自分を生かせる道を探して下さい。自分を生かせる道で自信を持って、これは俺や、これは私や、これは私の特徴だと。さっきの伯鶴さんみたいに、目が見えないことをハンディやと言わず、個性だ、キャラクターだ、私はそういうキャラクターを持っている人間だと思ってね。えらい長時間、ありがとうございました。

伊藤 ありがとうございました。

 あっという間の2時間15分でした。紙上採録のため、テープを何度か聞きましたが、また、笑わせてもらいました。温かいお人柄が伝わるとうれしいです。
「スタタリング・ナウ」2001年2月17日、NO.78


 今回で、お話は終了です。お話を聞いた人の感想があるので、次回、紹介します。            

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/6/14

應典院・コモンズフエスタ2000 どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生(6)

どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生  (6)

 應典院での僕の桂文福さんへのインタビューも、テンポよく進み、佳境に入っていきます。吃音とお酒の話が出て来ますが、お酒が入ると気分が大きくなるのか、なめらかになる人がいます。一方、お酒が入るとますますしゃべれなくなる人がいます。これが吃音のおもしろいところです。文福さんは、お酒を飲むとすごくどもります。應典院の催しの後、僕たちの仲間と飲みに行きました。飲むほどに、酔うほどに、僕たちの仲間の中には、流暢になる人がいたのですが、反対に文福さんは、ますます「吃音」が快調になっていきます。7人ほどいたどもる人の中で、際だってどもっていたのが文福さんでした。その人が、話すことを職業にしている、有名な落語家だとは。とてもおもしろい経験でした。
 では、前回の続きです。

 
どもりを恨んだこと

文福 これもおもろい話やけど、大横綱の北の湖関。あの人は強すぎて人気ないと言われたけど、ハートのあったかい人で、大好きな人です。北の湖関に一回会いたいなあと、北の海関の稽古を見終わって、喫茶店に行ったら北の湖関がいた。その時、ABCの乾アナウンサーが「文福ちゃん、わしな、北の湖関の後援会の人、よう知ってるんや。こんど飲みに行くけど、一緒にけえへんか。好きやろ」「お願いします」で飲む席に行ったんです。
 いきなり「横綱」と声をかけられなくて、一緒に来られていた闘竜関と、「文福さん、まあ一杯飲もう」「俺、相撲好きやねん。闘竜も好きやねん」「なんや、あんた。口がうまいな」「ほんまでっせ、加古川出身で、宝殿中学校出て、本名、田中賢二やろ」「わあ、よう知ってくれてる」「わあ、乾杯」と、闘竜関とは盛り上がってわーと飲んだんです。
 「文福ちゃん、横綱の横へ行こ」という頃には、こちらはもうべろべろです。緊張してるのとべろべろで。僕は横綱と同じ28年生まれやから、28が誇りですと言おうとしたんやけど、「ににににににぱちぱちぱち・・・」。そしたら横綱が「師匠、もうちょっと落ち着いて」、で話にならなかった。
 情けのうて、情けのうて。何も言えなくて、帰ってから、ほんまに落ち込んだ。
 「今日ほどどもりを恨んだことはない。せっかく北の湖関と出会ったのに、どもって何も喋れんかった」と嫁さんに話した。次の日、乾アナウンサーに会ったら、「よかった。横綱、大喜びやったで」「なんででっか」「河内音頭やってくれて、音頭で横綱の生い立ちをやって、横綱の奥さんの名前もおりこんでやってくれて」と言んです。僕、酔うてたから、無意識に河内音頭をやったんですね。北の湖関の生い立ちをざあっとやって、そういえば途中でなんか手拍子でやったのを少しは覚えているけど、べろべろに、酔うてるから、横綱と飲むなんてめったにないことやから、何も覚えてない。横綱が喜んでくれたことを知ったから、朝、駅前でお酒買って稽古場へ行って、「横綱、昨日はどうも」とお礼に行こうと思ったら、また、闘竜関が、「よう来てくれた」と出てきてくれたけど、また僕の方は「あわあわあわあわ・・・」ですわ。(爆笑)

 ここで河内音頭を『本日、お越しの皆様へ〜 日本吃音臨床研究会 その名、会長の伊藤さん〜、皆様方の気持ちがひとつに 今日は楽しい集会で〜笑う門には福来る 笑う門には文福で〜、皆様方もがんばろう〜みかんはみかんで、柿は柿〜メロンはメロン トマトはトマト それぞれに味があるからうれしいんだ〜みんなの味を大切に 仲良く元気に 歩んでいこう〜』

 こんなんです。いろいろありますが。極度の緊張とかね、小学校、中学校のときもね、これはもう誰のせいとも言えませんしね。伊藤さん、どもりになったのは、誰かのせいだというのはありますか。

伊藤 親父がどもりでしたね。でも、そのせいだと思ったことはありません。

文福 身内とかご兄弟とかは。

伊藤 兄弟は誰もどもりません。僕だけです。

文福 うちも兄弟どもりませんしね。お袋はばーっと喋るし、親父は、極端なシャイでものあんまり言わん。そのシャイなところが似たのかな。ほんで、ぐわーと思うところがおかんに似たのかな。両方とってますんやけどね。どもるというのは周りになかった。ただ、昔、砂塚秀夫さんの主演で「俺はども安」という番組があった。

伊藤 あれ、僕も見ていましたが、嫌でしたね。「どどっとどもって人を斬る!!」という初めのセリフが。

文福 「ててててまえ、しししし生国・・・・俺はども安! チャチャチャーン」。当時は、テレビであれができたんやね。今は、どもりとかめくらとかちんばとか放送コードにひっかかるから。古典落語の中にはそんなん多いんです。おしとかいうことばもね。そんなんは、僕らはせんとこと思って。何もわざわざそんな話をせんでも他になんぼでもいろんな話があるのにね、あえて、「これは放送ではできへんから、今日の寄席で、そうっとやっとこうやんか」。僕は、そうっとやるという根性が嫌いなんです。ここだけはええというのはちゃうでと。あえてこんなんやらんでもええ。目の不自由な人の話をやって、最後まで聞いたらええ話というのは、あるんです。景清という、戦国時代の武将が自分の目が見えると義経を目の仇にするというので、目をくりぬいて、清水さんに奉納したという逸話があったんです。あるとき目の不自由な職人が清水さんに行って、景清公の目を観音さんから与えてもらって、目があいて、という落語があるんです。最後まで聞いてると、観音様のおかげで目があいて、という目がないとこから目ができて、誠におめでたいお話でした。ハッピーエンドに終わる話なんやけど、途中ではえらい目に合うシーンがないと話にならん。「どめくらが!」とか、そんなシーンがあってこんちくしょうと思う、そんな場面があるばっかりに放送ではできません。でも、全部聞いたらそれなりにええ話なんやけど、落語などには人の欠陥を言うのが多いんです。古典とか文化とか伝統とかいうのを隠れみのにしてはびこってる場合が多い。あえてせんでもええんちゃうかと僕らは思ってる。どもりを扱った小咄も、あるんですよ。

伊藤 あるんですか。

文福 あるんですよ。どもりの道具屋と言うてね。おもしろいですよ。「道具屋、のこぎり見せてくれ」と言うときに、「おおおおい、どどどど道具屋、ののののののこぎり、みみみみみ見せてくれ」「ままままま真似すな」というおもしろいんですけど。受けるけどね、僕自身もやっぱりやるの嫌ですね。
             
 どもってて笑える話

文福 どもってて笑えるのは、桂文珍さんから聞いた話にこんなんがあります。文珍さんが梅田から阪急に乗った時に、たまたま同級生に会った。その人もどもるらしい。「おい、お前、久しぶり」そしたら、文珍さんは有名になってるし、よけいに「ううう・・」となった。「お前、どこに住んでるねん」と言われても声が出ない。「どこ、住んでるねん。遊びに行くわ。俺、武庫荘、武庫荘。お前、どこや?」「ううううっ・・・」。車掌がその時、「十三、十三」。「ここや!」。ずっと一駅の間、十三が出えへんかったんやね。そこに助け舟の「十三、十三」。笑えるけど、どもりの僕らにはちょっと悲しいね。
 そうかと思うと、もうひとつの話。阪急で梅田から京都へ行くとき。もう電車のドアがもう閉まるというときに、「たばこ買うて来い。ピースやピース」と言われた人が、ピースのピが出ない。売店で、力んで大きな声で「ピピピピ、ピー」と言うたら、電車が出ていった。それも聞いたとき、作り話やろけれど、笑った。ピピピとどもったのはほんまの話やろけど、後は芸人がつくったんでしょうが、よう出来てるでしょ。
 そんな話はようけあるんですわ。今、みなさん、笑ってるけど、ほんまに笑えない人がいたらあかん。だから、僕らがやっている「真の笑いは平等の心から」というモットーに反するわね。
            「スタタリング・ナウ」2001年2月17日、NO.78


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/6/13

應典院・コモンズフェスタ2000 どもりを個性に 桂文福オリジナルな落語家人生(5)

どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生  (5)

 文福さんは、一週間前の大阪吃音教室に、飛び入りで参加されたのですが、参加者のみんなが疑問に思ったのが、かなりどもる文福さんが、なぜ、落語の世界に入ったのかということでした。僕のことで言えば、社会人になって就職している自分を想像できず、仕事ができるかどうか、不安をもっていました。だから、文福さんがなぜ、落語の世界に入ったのかは、とても興味のあることでした。今回はその話が中心になります。
 前回の続きです。


伊藤 今こうして僕と話している間、文福さんはようどもりはりますが、子どもの頃のどもりってどんな状態だったんですか。

文福 僕ね、いつからどもったかという意識はあんまりないんです。赤面症というか対人恐怖症というか、あんまり喋れへんかった子ですね。僕は3月31日生まれで、一番早行きで、体も小さかった。生まれた時逆子やったし、健康は健康やったけど、小さかったりして、あかんたれというか、小学校1年まではあかんたれだったですね。人前に行くと、まず顔がガーと赤くなってよう喋らんかった。結局学校嫌やったんでしょうね。運動会も嫌やったし、学芸会も嫌やった。小学校のときの思い出は一個もええのが浮かんできません。不思議やけど。トラウマとまではいかんけど。

伊藤 特にからかわれたり、いじめられたりということはなかったんですか。

 相撲が僕を救ってくれた

文福 まあ、いじめられたことはそうなかったんですけど。うちの中学校は相撲部が強くて、1年先輩に相撲部の子が、無理やりからだが小さかったのに、相撲部に引っ張られたんです。僕は小学校のときは走るのも遅いとかソフトボールもよう投げんとか、運動神経ももひとつやし、勉強もできんし。ところが、嫌だったけれど相撲部に入った。相撲そのものは好きで、よくテレビで見てましたから、イメージトレーニングになってたのか、勝つことが出来たんですね。それが自信になった。嫌やったけど、辞めないで、3年間続けて、3年のとき郡の大会で5勝1敗で準優勝しました。それでまた、ものすごい自信がついた。
 主将だと、全校生徒の前で成績発表会がある。普通やったら例えば「野球部ですけど、みなさんご声援ありがとうございました」とか「がんばります」とか言う。ところが僕は、「あのあの、あのあの、4対1とか」それだけ言っただけで後は何も言わんかったです。そやけど、何か自信がついた。その勢いで、高校へ入ったときは、レスリング部と柔道部からひっぱられた。これも嫌やったけども、結局柔道部に入って、辞めないで3年間やって、一応黒帯になった。だから中学校、高校は楽しい思い出がある。高校になったらもう楽しかったです。それでもどもってました。
 例えば柔道をやっていて、先輩と話していて、「先輩、あのあのあの・・・」と言うと、「おい、誰か通訳してくれ」と言われる。むやみにけんかなんかしませんよ、その先輩を柔道の稽古の時にびゅーんと投げ飛ばす。俺をばかにした奴はきっちり柔道でしめあげる。だんだん身体も大きくなってきたし、相撲にものめりこんでいった。相撲が僕を救ってくれたんですね。
 就職で大阪へ行くときは、落語のことなんか考えてません。その頃、万博の頃ですが、「仁鶴、可朝、三枝」が人気で、和歌山の田舎でも落語の研究会ができたくらいです。ただ大阪へ行きたい。絵が好きだったから。大日本印刷の会社に入って、印刷の仕事をしてました。

 落語界に入る

文福 ところが、その当時、大阪へ来たら、落語がブームやから、生で見に行った。生で見に行ったらやっぱりお客さんの若い層の熱気、今ではそうでもないけれど、いっぺん聞いたらまた聞きたいなあと、極端な話、5,6分落語を聞いたら、楽屋に行って、「師匠、弟子にして下さい」と言いに行く人がいたくらいです。僕もそのムードにのせられて、入ってしまった。ところが後でしまったと思ったんですが、同期の連中、鶴瓶君、仁福君、二代目の森々福郎君らは、みんな落語研究会でそれなりにやってきた人ばかりなんです。学生の頃からのばりばりです。みんなは、俺はプロで力を試すんだとか、俺はおもろいから芸人になるんだと。僕の場合は、どもりでも、人前で喋れるようになるかな、小文枝師匠の所に行ったら喋れるようになるかな、ですもんね。売れたいとかテレビに出たいとか、有名になりたいとか、全然あらへん。人前に出て、喋れるようになれればいいという、まあ喋り方教室みたいなもんやね。

伊藤 柔道で自信がついたけれど、その自信はどもりにはそれほど大きな影響はなかったんですか?

文福 なかったですね。でも、どもっても人前に出ていくという自信はありました。大日本印刷を辞めるときに、みんな心配してくれた。
 「のぼる、お前絶対無理ちゃうか。お前、どもるやんか」今でもつきあいさせてもらってるけど。ほんまに心配したみたいやね。だから、誰にも相談せずに落語の世界に入った。何年かたって、「オオあいつちゃうか」と知って驚いていました。親は知ってたけど、親戚には言わなかった。

伊藤 ただ人前で喋れるようになればいい。仕事にならなくてもよかったんですか。お金を稼ぐという。

文福 まあ、なった以上はね、人前で喋って落語家になって、笑ってもらいたい。でも、お金を稼ぐとまでは思わなかったですが、落語家になってからですね、なったからには、なんとかしてがんばっていかないかんなあとは思いました。3年間、師匠のとこで修行して、桂文福として、だんだん師匠のもとを離れて、年もとり、結婚もして子も生まれ生活がかかってくる。なんとかがんばらあかん。その時に、宴会に行ったりすると、宴会の席で、河内音頭なんか好きやったから、音頭なんか歌うと、ことばはなんぼでもぱーと出る。河内音頭をやったのはどもりを隠すためというか、宴席で場をもたすために、手拍子や節なんかやったりするとなんぼでも声が出る。結局どもりやったから、河内音頭をやるという、特徴のある落語家になれたんでしょうね。相撲甚句もやりますしね。
 普通に喋れたら、恐らく平凡な、そつのない落語をしとるでしょうね。自分がどもりやったおかげで、変わっとんなあ、ユニークやなあと言われるようになった。そういう点ではどもりでよかったと今では思います。
     「スタタリング・ナウ」2001年2月17日、NO.78


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/6/12

應典院・コモンズフェスタ2000 どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生(4)

どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生  (4)

 桂文福さんは、以前から、よく「人権講演会」の講師として話をされていました。「であい、ふれあい、わきあいあい」というのぼりを立てて、全国を回って講演活動をされています。僕たちと出会ってからは、自分の吃音の話もするようになったそうです。
文福人権講演DVD 「人権」は、文福さんが大切にされているテーマです。その人権講演会のドキュメンタリーを撮った田中幸雄監督からいただいた文福さんのDVDが僕の家にあります。タイトルは、「桂文福 ふれあい人権噺 真の笑いは平等な心から」です。若い文福さんが、落語や河内音頭を通して、全国を回って聞いた人権にまつわるいい話をされています。そのDVDに登場する露の新次さんと文福さんとの対談、「落語家から見た笑いと差別」も、紹介したいなあと思っています。
 田中幸雄監督とは、部落差別をテーマにした映画「ラストから始まる」に吃音の中学生が登場するが、どう描けばいいか相談にのってもらえないかと、桂文福さんの紹介で知り合いました。その話も紹介できたらいいなあと、どんどん思いは広がっていきます。
 そんなことを思いながら、今日は、コモンズフェスタでの話の続きです。

 
全盲の噺家

文福 話、変わりますが、この應典院の本堂ホールの舞台は2回目なんです。「笑福亭伯鶴の会」で出してもろたんです。全盲の噺家です。落語は、目をつぶって聞いている方が状況が浮かんできたり、想像が広がったりして、結構便利な芸なんです。例えば、「わー、ここは生魂の境内か?こんな祭りやってるのか、あっ、タコ焼きやがあるな、おっ向こうに風船売ってるな」、と広がる。ところが、実際芝居で舞台でしようと思ったら、その全部そろえるわけにいかんし、セリフで言うことしか観客は分からへん。やっぱり視覚に訴えるのは限界がある。落語はどないにでもなる。
 伯鶴君は目が見えないけれど自分の世界から絵ができています。えらいんです。松鶴師匠も太っ腹やね。大抵は、目の不自由な者は落語なんか無理無理と断ろうとしたんやけど、松鶴師匠も足が不自由で、落語家になった人やから引き受けたんでしょうね。
 「俺は、ほんまは歌舞伎や芝居が好きやったが、足が悪いから芝居は無理や。そやから、俺は落語家になったんや。だから、何かあったからといって諦めるということに対してひっかかっていたんや。お前は目が悪いからといって諦めるのはあまりにもかわいそうや、弟子にしたろ」全盲の落語家は珍しいから入門当時結構テレビでも取り上げられた。そのとき、松鶴師匠はえらいと思いました。
 「おい、伯鶴、お前、目が見えないからといって、これを利用したらあかんぞ。お前はたまたま今テレビに出てるけど、たまたま目が見えないから取り上げられただけであって、お前の力と違うで。こんなんが落語の修行風景やなんて、ただ、お前がたまたま目の見えない子やから取り上げてるけど、それを利用して売れてるなんて思ったら承知せえへんぞ」 と、ぽーんと言われた。だから、伯鶴もよう分かってて、彼は目が見えないなんて思えへんくらい、普通なんです。例えば、「伯鶴師匠は目が不自由ですね」「不自由ちがいます、不便なだけですわ」「ハンディ違います。これは個性ですわ」とかね。彼は、ホノルルマラソンも走りに行くし、「昨日見た映画、よかった」と映画見に行くし、山にも登る。
ライトハウスにも行って、ボランティアの人に対面朗読してもらう。伯鶴さんは新聞読むためにだけやったら嫌やと。対面朗読してくれた女の子に、ちょっと一緒にお茶行けへんかって誘う。そんなのが彼は自然なんです。
 落語が終わって一杯飲んだ時です。遅くなってタクシーで帰らなあかんことになって、「兄さん、ちょっとうちへ先に回ってから後で兄さんとこへ」と一緒に乗った。車が動き出したとたんに、運転手さんに、そこ行ったら富士銀行、左に行ったら居酒屋があってと指示する。彼はその飲み屋から自分の家までの道を全部覚えてるわけですね。5分走ったらどこへ行くとかね。ところが、運転手さんがそれを真剣に聞いてなかったんで、途中で分からんようになった。ほんで僕が怒って、「ちゃんと道を言っているのにどう思ってるねん」と。運転手さんもその時初めて目の見えない人やったんやと気づいて、「すんませんでした」と言って。もういっぺん現場へ戻らないと、帰れない。
 彼は目が不自由やから、確かに使いにくいですわな。本人は、「ふるさと寄席」連れて行ってやーと言うんですけど、「伯鶴さんって目の不自由な人でがんばってますねん」と前もって言うて、講演やってもらうことはあっても、普通の席で、急に、黒いサングラスかけて出ていくと、ちょっとお客さんには違和感がある。ちょっと気を使って使いにくいことがある。だから、大きな劇場からお声がかからないことがある。ところが、松鶴師匠が亡くなって13回忌・追善興業のとき、一門が日替わりで出演し、伯鶴さんもとうとうやっと浪花座に出ました。
 「伯鶴師匠、やっと大きな舞台に出た」と見に行った知り合いの人がびっくりした。大きなところやから、まずチャカチャンチャンと鳴って出ていって舞台にちゃんと座れるかが心配です。ところが、チャカチャンチャンと鳴って、袖から出て来て、ぴたっと台の上に乗って、落語を一席やってすっと降りてきた。彼は、ちゃんと幕が開く前になんべんも歩いて、歩数を数えてやってたんですね。
 これくらいの角度で回って足を挙げてと、それをみんなが見てる前でやると、いかにもあいつはがんばってるなあと思われるのが嫌で、人が見てないときやから、うんと早い時間に楽屋入りしてきて、そういう努力している。ところが、こんなことがたまにある。前、ある映画館で、伯鶴君と一緒に仕事をしたんです。準備ができたからと喫茶店でお茶を飲んだ。後から聞いたら悪気はないんやけど、他のメンバーが舞台が始まる段になって、「ちょっと、これ低いんちゃうか。お客さん、見にくいで。ちょっと上げよか」と2段ほど上げた。それをスタッフが彼に言うのを忘れたんやね。そしたら、伯鶴さんの出番です。チャカチャンチャン、出たら台の高さが違うから難儀した。ざぶとんを敷く子が、さーっと出てきて、伯鶴さんの手を引いて座らせた。あの時、彼は絶対悔しかったと思う。若い子に手を引いてもらってそんなのをやってもらいたくないのにと悔しかったけど、そういう失敗談がたまにあります。
 彼は、ほんとに目が見えないのは、自分の個性やと言うてる。僕、伯鶴君のそう言うたとき、逆に励まされますね。どもりくらいなんやと思うときある。ただ、障害の大きい小さいに関係なく、そういうふうに頑張っている人がいるからいい。
 車椅子の友達もようけおりますけどね。仕事に行ったら、手話の人がいます。要約筆記の人も。要約筆記って大変やね。しゃべったことをばーっと書いて。僕が講演したとき大変だった。「あわわわわわっ・・・」てなるからね。却ってその人を意識して合わそうとすると、間が狂うしね。
 ある講演に行ったとき、教育委員会の世話人さんが、「今日は手話通訳させてもらうんです」。「ああ、お願いしますわ」。手話ってなんべんもやってるから大体分かってますやんか。ところが、その方が手話通訳の人にこんなことを言う。「君ら、今日は大変やで。今日の師匠、早口やから、手話やるのん大変やで」。もう、ぶちっーですわ。
 「私は舞台はね、ちゃんと喋れまんのやあ!!」先方としては、冗談かなんか知らんけどね。そんなん言われたらええ気しませんわな。楽屋で雑談してるときに、どもってへんでも、早口やと思ったんやろね。「始まったら、ちゃんと喋れまんのや!!」。半分けんかを売ってるみたいやけど。そんなん、ようありますよ。
「スタタリング・ナウ」2001年1月20日、NO.77

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/6/11
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