伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2020年03月

吃音と読書介助犬 3

エリクソンのライフサイクル論とリッカムプログラム

 今回のテーマの読書介助犬とリッカムプログラムへの危惧ですが、それにエリクソンのライフサイクル論を絡めて僕の考えを書きます。リッカムプログラムは学童期までに吃音の流暢性を形成しようとして、単純に言ってしまえば「言い直し」をさせ、言い直してどもらずに言えたら褒めて、流暢に話すことを定着させようとするものです。
 
 僕は、心理学者、エリクソン(E.H.Erikson)のライフサイクル論が大好きです。これまで講演や、大学の講義などで何度も取り上げてきました。龍谷大学の臨床福祉学科のソーシャルワーク演習では10年ほどずっとこの話をしてきました。ヘレンケラーのことばの獲得に家庭教師のサリバンがどう関わったかについて話す時、二人の関係をライフサイクル論で説明してきました。また、僕が吃音に悩んでいくプロセス、そして、そこから立ち直っていくプロセスも、よくライフサイクル論で説明してきました。

 エリクソンは人間の生涯を展望して、8つの段階に分け、その段階ごとに体験しなければならない心理・社会的発達課題を示しました。
 0歳から1歳、1歳半までの時期の課題を基本的信頼感として、課題が達成されたときに、次の段階に行きます。その次の段階が、自律性、次が自発性、学童期が勤勉性、そして思春期に自我同一性の形成へと、段階を登っていくように発達し、段階を飛び越すことはできないとしました。そして、課題のそれぞれの対立する概念も示しました。基本的信頼感の対の概念は、基本的不信感です。不信感よりも、基本的信頼感が勝ったとき、その時期の課題が達成されたとしました。
 学童期の勤勉性の対の概念は、劣等感です。勤勉性がほとんどなく、劣等感ばかりを意識した僕は、学童期の課題が全く達成されないままに思春期を迎えることになります。勤勉性というのは、勉強に限らず、何かに一生懸命打ち込むとか、何かをがんばるとか、やったぞーというような感覚を持つことです。僕はそれまでは順調に発達してきたのですが、学童期に吃音に強い劣等感をもったために、どもっているのは「仮の人生」だと、自己同一性の形成ができませんでした。学童期に吃音に対するあまりにも大きな劣等感をもってしまったため、学童期の発達課題である勤勉性がもてず、思春期の自己同一性の形成が達成できずに21歳まで深く悩んだということなのです。
 その僕が21歳から立ち直っていけたのは、基本的信頼感、自律性、自発性がもともと備わっていたからです。僕の人生を振り返っても、学童期前の基本的信頼、自律性、自発性がとても大事だと思います。それがあったから立ち直れたと本当に思います。

 ところが、前回紹介した、言語聴覚士が幼児吃音の臨床に取り入れようとしているリッカムプログラムは、保護者が、子どもにどもっていることを意識させ、どもらない話し方を教え、定着させようとします。子どもが楽しかったり、うれしかったことを母親に話そうとするとき、気持ちが急いてしまい、あわてて急いで話そうとします。どもっているということも意識しません。そんなとき「ゆっくり、そっと、やわらかく」どもらないで話そうと、子どもに話し方を意識させることは、吃音を否定し、深く悩み、「どもれない体」になっていたのが、「どもれる体」になって生きやすくなった僕にとっては、極端に言えば、虐待に近いとさえ思います。
    
 2013年、オランダで開かれた第10回オランダ大会の最初の基調講演は、幼児吃音の「環境調整」と「DCモデル」と「リッカムプログラム」の効果に差があるかどうかの研究でした。
 「環境調整」とは、親を中心とした聞き手が、「どもっても言い直しをさせたりしないで、そのままを受け取る良い聞き手になる」ように、どもる子どもの環境を整備することです。
 「DCモデル」は、親や聞き手の要求、指示などと子どもの言語能力のバランスが崩れたときにどもり始めるとする吃音の原因論から来ているもので、主に話し手が話すスピードや語彙を子どもに合わせるなど、主として間接的なものです。
 「リッカムプログラム」は、どもるとどもることを意識させ、言い直しをさせてどもらない話し方を身につけさせようとします。
 この3者には、全く効果に差がなかったというのが、このオランダの言語病理学者の基調講演の結論でした。リッカムプログラムで効果があったとする成果も、「幼児吃音の自然治癒現象」とどう違うのか、結局は分からないということでしょう。その基調講演の後、何人かの臨床家と話したのですが、リッカムプログラムは、母親と子どもの関係を悪くするという否定的な意見をもつ人ばかりでした。特に本人がどもる臨床家やセルフヘルプグループのリーダーは否定的でした。

 エリクソンの発達段階、誕生から学童期までをもう一度まとめてみます。
  
誕生〜2歳までの乳児期  「基本的信頼感/基本的不信感」
 この時期は、「基本的信頼と安全の感情」を育てる時期です。親を信じることは自分を信じることです。全面的に肯定されて、基本的信頼感が育ちます。どもっている子どものことばを受け止め、その内容に興味をもち、おもしろがって、そのまま十分に聞く。そこから、何を話しても聞いてもらえるという安心感が育ちます。おしゃべりの大好きな子どもに育てることがとても大事です。
 
2歳〜4歳の幼児期  「自律性/恥」
 自律性が育つ時期は、子どもが最初のしつけに出合う時期で、トイレを中心にしつけをされる時期です。ある意味では、こうしなければならないという、強制で、いろんなことを親は子どもに教えていくことになります。手でご飯を食べてはいけない、スプーンを使いなさい、などです。それも、早く、急いで、ではなく、根気よく伝えることがしつけの重要な部分で、それでも子どもには相当のストレスです。
  
4歳〜7歳の児童期  「自発性/罪悪感」
 好奇心や探求心が開発される時期で、想像力や創造力の基盤であり、後の学童期の勤勉性につながります。自発性を育てられることがテーマになります。自分から何か働きかけることで、失敗を恐れない、失敗してもすぐに忘れる時期です。ことばに関しても覚えたことばをどんどん使い、考える力が育っていきます。子どものあらゆる行動を根気よく認めることが、自発性を育てるための基本要件です。

 基本的信頼、自発性、自発性を育てる大事な時期に、仮に一日に15分程度であったとしても、訓練的なものを家庭の中に持ち込む、リッカムプログラムに僕は大きな疑問と、危険性を感じます。だからこそ、かつてのアメリカの言語病理学は、直接的な言語訓練は、学童期に入ってからだと、「幼児吃音は環境調整」といわれてきたのです。
 これまでの環境調整を徹底的に総括し、幼児教育、発達心理学などの叡智を集めて、リッカムプログラムが開発され、提案されたとはとても思えません。僕の親しくしている幼児教育の専門家にリッカムプログラムの話をしたら驚いていました。
わたしのそばできいていて さて、ここまできたら、僕が何を言いたいかお分かりのことでしょう。
 「読書介助犬」は、ただ黙ってそばにいるだけです。介助犬に絵本の読み聞かせをするだけで、子どもたちは音読や読書に興味をもっていきます。どもる子どもの親や、周りの人は「読書介助犬」から大きなヒントを得ることができると思います。
 前回は、『読書介助犬オリビア』を紹介しましたが、今回は、読書介助犬をテーマにした絵本『わたしのそばできいていて』(WAVE出版 リサ・パップ作 菊田まりこ訳)を紹介します。

 日本吃音臨床研究会会長 伊藤伸二 2020/3/29

吃音と子どもの心とことばの育ち


リッカムプログラムへの危惧と、読書介助犬 

 毎日新聞の社説(2020.2.25)で、幼児期の吃音の治療が取り上げられ、同じく読書介助犬(2020.2.24)のことが毎日新聞のくらしナビで取り上げられていました。社説を書いた人は吃音についてほとんど何も知らずに、ある情報をもとに書いています。すべてのことがらを徹底的に調査して記事を書くことが難しいことは理解できます。それがジャーナリズムの限界なのでしょう。
 しかし、そうなると、別の角度からの情報も必要になります。情報の取捨選択は、読んだ人がするしかありません。こんな情報が、こんな考え方が、一方にはありますよと、僕は発信を続けるしかありません。どんな情報に接するか、どの情報を選ぶかが大切ですが、判断材料は提供し続けたいと思います。

 幼児期の吃音は、長い間、子どもへの直接的介入は行わず、親の子育てへのガイダンスをもとに、環境調整が行われてきました。「言い直しをさせない」「吃音を否定しないで、良い聞き手になりましょう」が親に対する一番なされてきたアドバイスでした。
 ところが最近、大きな変化が出てきたように思います。日本でも、1997年に制定された言語聴覚士法により、言語聴覚士が専門家として吃音の臨床に携わるようになり、何かいい治療法がないかと探り始めて、状況が変わってきたといえるでしょう。
 2004年、第7回吃音世界大会がオーストラリアのパースで開かれたときのことです。言語聴覚士養成の大学院の学生と話し合う機会がありました。「吃音の自然発生率は10%だ」「放っておいたら自然に消えることはなく、幼児から吃音の治療を開始しなければならない」と大学院生が口々に言うのです。その頃、幼児吃音の70%程度が自然治癒するといわれていました。その時は不思議に思ったのですが、すぐに分かりました。
 オーストラリアのシドニー大学のリッカムキャンパスから生まれたリッカムプログラムが出てきたのです。
 3年後の2007年、第8回吃音世界大会がクロアチアで開かれました。そこで、オーストラリアのマーク・オンズロー教授による「リッカムプログラム」のワークショップを受けました。親にゆっくり話すモデルをさせ、どもったら「お母さんのように話しなさい」と言い直しをさせ、どもらずに言えたらほめる方法に強い違和感をもちました。親に子どもの指導をさせると、もしうまくいかなかった場合、親が責任を感じてしまうのではないかと、まず思ったのです。オンズロー博士のビデオでの紹介やデモンストレーションの後、「どもらないで話せたら褒め、どもると否定されないまでも、褒められないのであれば、子どもはどもることをマイナスに捉えないか?」と質問をしました。すると、オンズロー博士は、「吃音に対して否定的なセラピストはいないから大丈夫だ」と即答しました。そんなはずはないだろうとつぶやきながら、日本に導入されないことを私は祈っていました。「吃音否定」につながるリッカムプログラムで、「カメさんの話し方」のゆっくり話す練習の復活は、100年前に戻ったようです。
 僕が、リッカムプログラムが問題だと思うのは、親、または子どもの生活と深く関わる人が、治療を行い、子どもの話し方について様々な場面でコメントをしていくということです。本来、家庭は、安心・安全な場のはずです。たとえ15分程度でも、家庭の中に訓練を持ち込むことには問題があると思います。母親が、自分の話す内容ではなく話し方に注意を向けているとしたら、子どもにとって家庭は決して安心・安全な場とは言えないでしょう。幼児期に大切な、欠かすことのできない、親と子の愛着を育む場が、本来の役割を果たすことができなくなるのです。
 エリック・H・エリクソンのライフサイクル論をもとにした、リッカムプログラムへの危惧については長くなりそうなので、後日にします。
オリビア カラー
 今回は、『読書介助犬オリビア』(講談社青い鳥文庫)の中から、オリビアに宛てた子どもの手紙と、2012年に僕が書いた「リッカムプログラム」と題した文章を紹介します。


オリビアがいてくれたから、きらいな本もじょうずに読めるようになったよ。
オリビアは、ぼくがどんなに読むのがヘタでもぜったいに、わらわなかったよね。
ぼかにしなかったよね。
ぼくは、犬が大きらいだったけど、オリビアに出会ってかわったよ。
オリビアはふかふかしていて、やさしくて、ぼくの話をよくきいてくれて。
ぼくはそれがすごくうれしかったよ。
いつのまにかぼくもオリビアのことをとてもすきになっていたよ。
ともだちだとおもったよ。
たいせつにしたいとおもうようになったよ。
ありがとう、オリビア、
ぼくはオリビアのことをずっと、ずっとわすれないよ。
わすれないよ。
         『読書介助犬オリビア』(講談社青い鳥文庫) 166ページ



   
リッカム・プログラム
                               伊藤伸二
 カナダの大学院で言語病理学を学び、言語聴覚士の資格をとって、カナダの大きなセンターで、言語聴覚士として3年間仕事をされた、池上久美子さんの報告は、興味深かった。
 私は国際吃音連盟の世界大会には何度も参加し、国際流暢性(吃音)学会にも参加し、海外のセルフヘルプグループのリーダーや吃音研究者とのつきあいがある。また、『スタタリング・ナウ』では、海外文献や海外情報の掲載もしてきた。だからある程度は海外の吃音事情は知っているつもりでいた。しかし、カナダの大学院での吃音の講義内容、実際の吃音臨床を詳しく報告していただき、改めて、私たちの吃音についての視点や実践と、海外とのあまりにも大きな違いに驚いた。
 吃音は北米でも、日本でも、他の国でも現実には治っていない。治せていないのに、なぜこうも吃音に対する考え方、取り組みが違うのか。その違いはどこから来るのか、少しでもそれを知りたかった。だから、どもる人のセルフヘルプグループ、大阪スタタリングプロジェクトの大阪吃音教室に来ていただいた。池上さんがセルフヘルプグループのメンバーとともに、話し合いに加わって下さった意義は大きい。
 大阪吃音教室のメンバーが発言することで、カナダやアメリカの吃音に対する取り組みと、私たちの取り組みの違いが、さらに鮮やかに浮かび上がった。しかし、社会状況や文化の違いは理解しつつも、やはり疑問はとけなかった。この違いは、いつまでも続いていくのだろうか。それとも、新しい接点はみつかるのだろうか。
 今回は、リッカム・プログラムに触れておきたい。カナダではここ数年、どもる子どもの指導に、リッカム・プログラムが注目を集めているという。
 私がリッカム・プログラムに初めて出会ったのは、2007年、クロアチアでの第8回世界大会だった。マーク・オンズロー博士のワークショップに参加し、ビデオなどを見ながら、説明を受けたとき、強い違和感をもった。
 −親と子どもがスピーチ・クリニックに通い、親は子どもの日常生活で毎日治療を行う。吃音が改善されれば親による治療が減らされる。親は子どもがどもらずに話した場合も、明らかにどもった場合もコメントを行う。
 どもらなかった場合のコメント:
(1)どもらずに話せたことを子どもに伝える。
  例 「すらすら言えたね」
(2)どもらずに話せたことを褒める。
  例 「上手に話せたね」
(3)子どもに自分の話し方を評価させる。
  例 「つまった言葉はあった?」

 どもった場合のコメント:
(1)どもったことを子どもに伝える。
  例 「少しつまったね」
(2)子どもに言い直しを求める。
  例 「もう一度できるかな?」
 どもった場合でも、どもらなかった場合でも、直ちに言葉かけをすれば、子どもも親の言葉に耳を傾ける。明らかにどもったことを伝える場合は、親は淡々と話し、叱るような口調は避ける。どもらなかった場合の言葉かけとどもった場合の言葉かけの割合は、少なくとも5:1でなければならない。
              『スタタリング・ナウ』NO.215 2012.7.22


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/3/26

吃音と発達障害 不登校や引きこもりと「小さな援助」

 読書介助犬(2)を書く前に

 読書介助犬(1)を書いてすぐに続きを書く予定でしたが、小児科の医師会の研修会で話す講演集の原稿締め切りがあり、そちらにかかりきりでした。僕は本当に不器用な男で、一つのことが始まるとつい集中してしまい、他のことがおろそかになります。医師会では何度も話していますが、今回は大きな研修会なので、吃音について小児科の医師に知って欲しいとの強い思いがあり、気合いが入りました。肝心の提出原稿にすぐ取りかかればそんなに時間はかからないのですが、どうしてもまず、周辺の本を読んでしまいます。
 それは、読書介助犬の話とも関わるのですが、小さな援助の提案です。吃音を専門的な治療、専門的といっても「ゆっくり話す」ことしかないのですが、そのような言語訓練の専門的支援に対して、僕が提案するのは、50年以上言い続けている、間接的援助、小さな援助です。僕たちが54年考え続けてきたのは、間接的で小さな援助です。
 僕たちが夏に開催する、親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会は、毎年テーマが変わります。ベースとして流れている大きなテーマは変わらないのですが、特別に取り上げるトピックスは毎年変わっています。昨年は「健康生成論」でしたが、今年は「どもる子どものための小さな援助論」の話をしようと今のところ計画しています。医師会の講演資料も「小さな援助論」にしました。
 今回取り上げたトピックスは、児童精神科医の鈴木啓嗣さんの『子どものための小さな援助論』です。発達障害、不登校や引きこもりについて書かれた本です。2011年に読んで、とても共感したのですが、直接取り上げて話すことはありませんでした。しかし、毎日新聞の社説で、幼児吃音に成果があがっている治療法があると紹介され、また、別の紙面では読書介助犬が取り上げられていました。これはもう一度読み返さないといけないと思い、しっかりと読みました。文章が難しくなかなか進まなかったのですが、主張していることはすべて納得できることばかりなので、なんとか最後まで読み込みました。同じく読んだ、『ぼくらの中の発達障害』(青木省三・ちくまプリマー新書)に力を得て、締め切り15分前に、ぎりぎりでしたが、「どもる子どものための小さな援助論」の原稿をメールで提出することができました。

 小児科医師会の研修の講演資料のため、また、コロナウイルスの世界情勢や、政府の対応のまずさなどへの嘆きなどから、ブログがストップしてしまいました。コロナを言い訳にはできないので、読書介助犬(2)も早く書きたいと思います。
 『子どものための小さな援助論』(鈴木啓嗣 日本評論社 2011年発行)、とてもいい本です。吃音や不登校、引きこもりの問題に関わる人に是非読んで欲しい本です。

 日本吃音臨床研究会会長 伊藤伸二 2020/03/23

吃音と読書介助犬 1

再び、読書介助犬

 僕が、読書介助犬のことを初めて知ったのが、2016年1月でした。近所にある絵本カフェ「ハーゼ」で教えていただきました。同じく2016年10月に、読書介助犬をテーマに、僕はブログを書いています。
 それ以後、いろいろな講演会で、僕は、参加者に「読書介助犬って、知ってますか?」と問いかけてきました。ほとんどの方が知らないと答えます。「どんなことをすると思いますか?」と尋ねると、考え込んで、「ページをめくってくれる」とか「いい本を運んできてくれる」とかの意見が出ます。それは、どこの講演会で聞いても同じことでした。「ページをめくってくれるなんて、あり得ないでしょう」と笑いながら言うと、答えた方も笑いながら、うなずきます。正解を話すと、皆さん、なるほどと納得してくれます。

 そんな読書介助犬のことが、先日の毎日新聞(2020.2.24)に掲載されていました。
 見出しは、「音読 犬に読み聞かせて克服」とあります。冒頭には、「犬に本を読み聞かせて苦手を克服−。福祉・教育の先進国である北欧フィンランドでは、吃音や恥ずかしさなどから音読が苦手な子をサポートする『読書介助犬』が各地の図書館で活躍している」と紹介されています。
 また、毎日新聞の掲載当日の「とくダネ!」で、小倉智昭さんが取り上げていたと、仲間から連絡がありました。小さいころからどもっていた小倉さん、今もどもりますが、小さい頃は音読が苦手だったそうです。よく犬に向かって話しかけたり、本を読んだりしていたと、自分の体験と重ね合わせて、読書介助犬のことを話していたそうです。

 僕が読書介助犬を教えていただき、その後読んだ本が『読書介助犬 オリビア』(講談社青い鳥文庫)でした。本が嫌いになった子どもへの援助で、吃音については出てこなかったように記憶しているのですが、フィンランドとアメリカの違いでしょうか。
 日本での読書介助犬の広がりはまだまだのようです。吃音に限って言えば、どもって読んだことや初めの音が出ないとき、指摘されたり、叱責されたり、言い直しをさせられたりすることなく、ただ黙って聞いてくれると、安心して読むことができます。読書介助犬に頼らずとも、親や教師にもできることです。どもる子どもの周りのひとりひとりが、読書介助犬的かかわりができたらと願います。
 次回は幼児吃音の取り組み、リッカムプグラムについても書こうと思います。

 日本吃音臨床研究会会長 伊藤伸二 2020/03/08

 2016年10月25日のブログを再掲します。

読書介助犬 どもる子どもは喜ぶだろう  音読が不安で、怖くて不登校になった僕

 糖尿病の僕は、食後に、スロージョギングをしています。いつも通る道とは少し違う道を通ってみると、新しい発見があります。普通の家のように見えるけれど、「絵本カフェハーゼ」という看板がかかっていて、中に入ってみると、そこは看板どおり、カフェで、絵本がたくさんおいてありました。
 コーヒーを注文して、店の主と話をすると、お連れ合いは、幼児教育専門の先生で、糖尿病だということなど、いくつかの共通点があり、話が弾みました。しかし、その後、いろいろと忙しく、通りかかった時が、店が休みの日だったりして、半年以上行けていなかったのですが、久しぶりに通りかかったので、入りました。
 初めて行ったのが今年の1月で、それから9ヶ月も経っています。僕たちのことなどきっと覚えてはおられないと思っていたのに、覚えていて下さり、最初行ったときに会えなかったお連れ合いもおられ、研究している絵本の話や、幼児教育について、また話が弾みました。吃音について取り組みをしていると話すと、「読書介助犬」の話をして下さいました。
 盲導犬、介助犬は知っていますが、読書介助犬とは初めて耳にしました。読むのがあまり得意でない子どもが本を読むのを、そばに寄り添いながら、じっと聞いている犬のことらしいです。その温かさや安心感から、子どもは、本を読むのが苦ではなくなったという実践があり、『読書介助犬オリビア』『犬に本を読んであげたことある?』(講談社)の本もあることを知りました。さっそくその本を取り寄せて読みました。おもしろい実践です。

 音読には、いい思い出がまったくありません。言い換えのできない国語の本の朗読は、小学校から高校時代までずっと続きました。知らない漢字などひとつもないのに、順番に指名されていくときなど、自分の番が近づいてくると、ほかの人の朗読している声など全く聞こえなくなります。「次、伊藤」と指名されて、どこを読むのか分からなくなってしまい、叱られたことが時々ありました。
 高校2年生の時、よく当てる教師がいました。古文の音読が当たる日は、学校を欠席し、ついには、しばらく不登校になりました。これ以上欠席を続けると進級できなくなるというとき、その教師に音読の免除を申し出て受け入れてもらい、やっと卒業できたくらいです。

 読書介助犬の活動を知っておられるのは、ドッグセラピーのNPO法人を運営している田中理恵さんという人でした。僕の居住圏に住んでおられることを教えてもらったので、ファックスで、僕が吃音の取り組みをしていると書いて、是非お会いしたいとお願いしました。
 そうして、先日、お会いすることができました、田中さんが連れてきてくれたのは、バカラとカレンという、やさしい目をした犬でした。やんちゃらしいバカラが尾を思い切り振って歓迎してくれました。田中さんは、今、高齢者の施設や障害者施設などで、ドッグセラピーをしておられますが、その中で、認知症や知的障害、発達障害など、生きづらさを抱えている人や子どもの支援につながるのではないかと思ったそうです。効果はすぐには表れないけれど、多動の子どもが部屋から出なくなった、犬に触れられなかった子どもがさわれるようになり、一緒に寝そべることもできるようになった、いつも飛び跳ねていた子が飛び跳ねることが少なくなった、犬を見たらパニックになっていたのにそうならなくなった、など少しずつ変化をもたらしているなどの話をして下さいました。

 読書介助犬については、アメリカの図書館で実践がすすめられていますが、日本ではあまりありません。この介助犬、どもる子どもに対して、何か役に立ちそうです。どもる僕たちは、どもっていても、どもることや、仮に間違っても指摘することなく、しっかりと聞いてくれれば、とても読みやすくなります。僕が音読が嫌だったのは、どもって読む僕を笑ったり、からかったり、指摘する子がいたからです。
 どもりながら読む子どものそばに寄り添い、静かに耳を傾け、ゆっくりと聞いてくれたら、読むことに抵抗のある子どもも安心して読むことができます。好きな犬のからだのぬくもりを感じながら、読むことが苦手でなくなったり、本の好きな子に育てることができるのではないでしょうか。アメリカの図書館のように、読書介助犬がいなくても、この発想は、当然人間に使えます。親やことばの教室の担当者が、犬の代わりをするのです。

 読み聞かせというと、親や先生など大人が読んで子どもに聞かせることが多いようですが、反対に、子どもが大人に向かって読むというのもあるだろうと思います。音読練習のために子どもに読ませるのとは全く違うものとして、ことばの教室でのメニューのひとつに挙げてもいいのではないかと思いました。親や教師も読むし、子どもも読む。読んでもらうときは、ただしっかりと聞く。

 今、幼児吃音の臨床で、はやり始めた、どもると、言い直しをさせて、流暢性を形成するというリッカムプログラムとは、まったく違うものです。
 読書介助犬(リーディング・エデュケーション・アシスタント・ドッグ)の発想を生かしたいものです。
 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/10/25

国立特別支援教育総合研究所での吃音の講義

吃音についての真摯な対話〜国立特別支援教育総合研究所で

 3月2日、国立特別支援教育総合研究所の第三期専門研修の吃音の講義がありました。ずいぶん前から、毎年、呼んでいただいています。
 新型コロナウイルスによる肺炎の影響を受け、来所に不安があれば申し出てほしいというメールを事前にいただきました。いろいろなイベントが自粛されている影響でしょう。当然、不安もありませんので行きました。真剣に、言語障害のこと、吃音のことを考えていて下さる方と、少人数でじっくりと語ることのできる、僕にとってとても大切な場です。
 前日入りのため、伊丹空港から羽田に向かいました。梅田から空港へのリムジンバスの乗客は、4人。さすがに驚きました。空港も閑散としていました。乗る予定の飛行機が整備不調で遅れていますのアナウンスがあり、それはよくあることなのですが、突然「欠航になりました。キャンセルの払い戻しか、別便予約のために窓口にお越し下さい」のアナウンス。ほとんどの乗客が1時間後の次の便に乗れたということは、整備の遅れではなく、乗客が少なく、経費の関係で、1時間後の便にまとめたのだと想像します。いつものことながら、説明不足にはあきれるばかりですが、行けたことでよしとしましょう。
 
 前日、よく眠れなかったので、ホテルではしっかり寝たいと思っていましたが、また、3時頃に目が覚めてしまいました。以前は、このようなことが時々あったのですが、最近はそんなことがまったくなくなっていたのに、久しぶりのことでした。新型コロナの影響で、政府に腹が立っていたからでしょうか・・・・

 受講者は、11人。スクール形式のスタイルだったのを、机を移動してもらい、全員が顔を合わせられるような席にしてもらいました。僕の横にも受講生が座っているという、まさに、膝をつき合わせながら、丸1日の講義が始まりました。僕は、質問してもらうのが好きで、質問に答えているうちに、僕の脳が活性化していくので、今回も、「どんな質問でもいい。どんなことにも答えるから、質問してほしい」とお願いしました。
 90分ほど、最近僕が考えていることを話した後は、すべて質問に答える形ですすめていきます。ひとり4枚の質問用紙を配りました。現場での経験がある教員ばかりですから、経験に基づいたいい質問をたくさんして下さいました。僕は、たくさん本を書いていますし、講演記録や資料があります。でも、そのような、すでに書いたことを話すより、今、この場でのライブ感覚を大切にしたいと思いました。みんなが書いてくれた質問一枚一枚を読み上げ、質問の意味を確かめたいときは質問し、僕の体験、僕が出会ったたくさんのどもる人やどもる子どもたちの体験を紹介しながら、50年以上考えてきたことをお伝えしました。
 たくさんの配布資料は紹介だけして、また、用意したたくさんの枚数のパワーポイントも2枚のスライドを使っただけで、生の声で話しました。後で読んでもらえれば分かるようにしてあるので、理解して下さるだろうと思います。
久里浜集合コロナの影響で午前中の講義がなくなったからと、飛び入りで参加した別のコースの人も含めて、皆さん、熱心に聞いて下さいました。僕も、気持ちよく、話すことができました。僕の考えは、少数派です。でも、実際にお話すると、聞いてくれた人はちゃんと理解してくれます。伝わっているということを実感できます。
 書籍や冊子や文字だけでは伝わらない肉声の強みがあるのでしょう。どこかの国のリーダーは、国民に犠牲を強いるような大切なことでも、一方的な演説で終わらせ、対話することから逃げます。繰り返しになりますが、僕の吃音に対する取り組みや考えは、超少数派です。直接的な対話以外に伝わりません。大きな会場での講演も大事ですが、こうした小さな集まりで話すことの方が僕は好きです。辻説法のように続けていくしかありません。話すことがどう伝わっているか、ダイレクトに、反応として返ってきます。このように直接出会って、話すことのできる機会を今後も大切にしていきたいと思いました。
 今回、「伊藤さんは、本音で話してくれた」ということばをよく聞きました。本音でしか、というか本音しか話せないだろうと僕は思うのですが、このようなことばを聞くことは、自分の本音よりも、学術論文的な話もあるということでしょうか。これまでも、これからも、僕は、僕の体を通して考えたことを、正直に、率直に語っていこうと思います。

 国立特別支援教育総合研究所の牧野泰美さんは、講義の後、僕が新幹線で大阪に帰るぎりぎりの時間まで、居酒屋で食事をしながら受講生と話す時間を設けてくれます。今回も14名の人が参加してくれました。講義では触れなかったことを質問をしてくれ、僕にとってはプライベートなことも話せるいい時間です。みんなも喜んでくれたのか、アイドルのように、スマートフォンによる僕とのツーショットの撮影タイムもありました。

 夏の「親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会の紹介をしましたので、何人かとは再会できるかもしれません。帰りは新幹線を使いましたが、僕が乗った車両には、5人くらいしか乗っていません。いつもならほとんど席が埋まっているのに、とても不思議な感覚でした。これも新型コロナの大きな影響なのでしょう。一人一人の受講者の顔を思い浮かべながら、眠ることなく大阪に着きました。
久里浜1久里浜2久里浜 木村 1
 講義後の集合写真と居酒屋での写真を、2人の方が送って下さいました。ブログで紹介することの了解は得ています。せっかくなので、送っていただいたもの全て、使わせていただきました。


日本吃音臨床研究会会長 伊藤伸二 2020/3/4

<弱さ>は、<強さ>

  <弱さ>は、<強さ>
      
 石川県教育センターとの長いおつきあいについて、昨日、このブログで紹介しました。その石川県教育センターで、相談課長をされていた徳田健一さんが、2000年6月22日(木)放送のNHK教育テレビ『にんげんゆうゆう』の番組を見て、感想を書いて下さいました。シリーズ「仲間がいるから、乗りきれる」の第3週の番組でした。徳田さんの文章を紹介します。

      
“弱さ”は“強さ”
               石川県教育センター次長 教育相談課課長 
                              徳田健一 
            「スタタリング・ナウ」NO.72  2000年8月15日発行
【出会い】
 伊藤伸二さんとの出会いは9年前の、福岡人間関係研究会の大分県・九重高原でのべ一シック・エンカウンターグループだった。スッと自己開示ができ、自己実現のために積極的な生き方をされている姿勢が印象的だった。そこで、その次の年からずっと、石川県の教員の初任者研修や教育相談の研修会の講師をお願いしてきた。再会するたびに、吃音の話は聞いていたが、毎週金曜日のセルフヘルプグループのミーティングはNHKテレビで初めて知った。メンバーにとって、あのコミュニティはエネルギーの補給基地なのだと思った。

【私の吃音】
 私は、小学校4年生ぐらいからどもるようになり、思春期にはかなり辛い気持ちをひきずっていた。
 最も思い出したくない体験は、教師になって3年目の卒業式。担任がクラスの卒業生の名前を読みあげるという習わしの中で、鈴木君から竹内君へ移るときに「タ」を発声できなかった。卒業式は最も緊張度の高い儀式で、私にとっても生徒にとっても「失敗は許されない」という感じだ。卒業証書を受け取るために呼ばれた生徒が、壇の前で列をつくるのだが、鈴木君の後で列がとぎれてしまった。「いつ読みあげられるのか」と不安そうな竹内君や他の生徒たち。それに保護者や来客も私の方を見る。こちらは汗だくになって発声しようにも、タ行が出てこない。そこで、何度も一番の「相川」に戻り、はずみをつけてようやく「タケウチ…」と読みあげたが、「もう3年生はコリゴリ」という気持ちだった。
 伊藤さんがよく言う、寿司の「トロ」が言えないのと同様、私も「テッカ巻」は、今でも食べ損なう。今は回転鮨のお店もあり、運よくトロやテッカの回ってくる可能性は高いが…。

【吃音は個性】
 吃音で困った体験をもつ私は、教育相談の仕事を永く続けているが、心理的な側面から吃音に悩む子どもと出会う。自分自身が相談にのったり、時には言語治療教室を紹介したこともあった。しかし、あの番組を見て、治療機関では治りにくいことが初めて理解できた。伊藤さんの「日常生活の中に出よう」ということばがとても新鮮に響いた。
 そのことで思い出すのは映画監督の羽仁進さんだ。随分前になるが、かなりどもりながら2時間ほど講演されたことがあった。内容がすばらしく、一生懸命伝えようとされている誠実さも加わって吃音のことは気にならず、むしろ大きな感銘を受けたことを今でも憶えている。
 また、教師仲間でもひどくどもる人はいたが、やはりその教師の人柄のせいか、少しも生徒は気にせず、静かに授業を受けていた。
 伊藤さんの吃音も人を魅了してやまない個性だと感じてしまう。もし、突然タテ板に水の如く話し出したら、私の心の中の伊藤さんは伊藤さんでなくなってしまうだろう。それほど吃音は個性の問題として受け止めている自分に気がつく。

【大阪吃音教室】
 吃音を媒介にして一生懸命自分の人生を生きようとしているあの大阪吃音教室の人たちを見ていると、いつまでも心に感動が残り、いいかげんに生きている自分が恥ずかしくなった。「どうしても話したいと思うような、内容のある生活を送っているかどうかが問題なのです」と番組でしめくくられた伊藤さんのことばを回想すると、よけいそう思ってしまう。これは吃音の問題を抱えた人たちだけのテーマではない。人生をいきいきと生きているかどうかが私たちに問われている問題なのだ。
 もうひとつ共感できたのは「うまく話そうと思う気持ちがコミュニケーションの楽しさを奪ってしまう」と話された一人の女性のことばだ。「こうあらねばならない」「こうすべきだ」という枠組みは、その人から個性を奪い、人生を無味乾燥にしてしまう。この考え方はどの世界においても言えそうだから、どもることを自分の個性として受け容れ、それを生かしきるまでには、相当な活動の期間が必要なのかもしれない。しかし、そのような課題意識を人前に出せること自体、もうその人は吃音と対峙しているのだと思う。自分の気持ちを表現することは、自分のマイナスをプラスに変えることだと思った。

【吃音に悩む生徒】
 最近、久しぶりに吃音に悩む生徒と出会った。吃音を教師や仲間に知られたくないことから授業が苦痛になり、学校から遠ざかってしまう。教育センターの面接に来所したときもついに吃音の問題を私にも言えず、沈黙で耐え抜いた。しかし、私にとって吃音の問題よりも、彼は自分を抑制することが多く、自分を生きていないことの方が気になった。私は「同じ悩みを共有できる場に彼を誘いたい」と思い、吃音親子サマーキャンプへの参加をすすめた。最初渋っていたのをなんとか参加させたものの、彼にとってそのキャンプは不安で、いたたまれなかったと見え、途中で帰ってしまった。
 ところが、そのことでキャンプに参加していた高校生の一人が彼のことを心配し、手紙や電話でコミュニケーションをとってくれた。そして、彼の住む神戸に遊びに誘ってくれた。その出会いの中で、彼の社会化が促進され、内的世界も広がって、生きる自信を得たのであった。
 この吃音親子サマーキャンプも、あの大阪の吃音教室と同じように悩みを共有しあい、生きるエネルギーとなる安心感を提供しているのだと思う。

【弱さが人を救う】
 最後に私はこんなふうに思う。「弱さも人生に価値をそえる」と−。伊藤さんのことばで言えば、「吃音と上手につきあう知恵が身につく」ことだ。「充実した生活を目指せば人はどもってもしっかり聴いてくれる」という知見もそのひとつだろう。これは「弱さ」が「強さ」に転じる姿だ。もっともそのことに気づくのはずっと後になるかもしれないが…。
 少年期にすっかり生きる自信を失い、いつも聞かされっ放しだった私が、人生の後半になって人の話を上手に傾聴できるようになったのも、先の弱さが生かされたからだと思っている。
 「強さ」も人を救うが、「弱さ」もまた人を救うし、「弱さ」しか人を救えない場合もある。自分の置かれた状況は変わらないけれど、仲間の支えさえあれば、その辛さをひきずってでも生きることができる。「仲間がいるから乗りきれる」を見て、そんなふうに思えた。


 今、読み返しても、温かく、徳田さんらしい、素敵な文章です。
 心よりご冥福をお祈りします。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/3/1
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