2018年度の終わりの日に〜ゲシュタルトの祈り〜
今日は、3月31日。2018年度が終わり、明日からは2019年度が始まります。どこかに勤めているわけではないので、年度末など何の関係もないのですが、仲間のことばの教室の担当者にとってはひとつの節目であり、僕もほんの少しひとつの区切りを感じています。
このブログも、更新に波がありました。コンスタントにと思いつつ、仕事が立て込んでくると、なかなかそうもいきませんでした。ときどき、「ブログ、読んでますよ」と伝えていただくと、ありがたいと思いますし、誰が読んで下さっているか分からないけれど、見えない誰かひとりに向かっても、僕の今の気持ちを伝えていくことは悪くないと思います。
ただ、最近の、吃音に対するネガティヴなイメージを拡散させる新聞記事、テレビのドキュメンタリーなどメディアでの取り上げられ方には、少々、いえ、かなり、鬱々としたものを感じています。「100万人のどもる人がいて、100万人が悩んでいる」とのキャッチフレーズのようなとらえ方には、違うだろうと、声をあげたくなります。確かに発生率は1%だとすると、100万人のどもる人がいるのかもしれません。でも、その人たち全てがどもりを恨み、悩み、自分らしく生きていないのではないのです。どもりながらも、自分らしく、豊かに生きているどもる人、どもる子どもを、僕はたくさん知っています。その人たちの存在が消えてしまう一方的な報道に、なんともいえない絶望感に襲われます。仕事としての言語聴覚士のために、患者としての悩むどもる人が必要なのではないかとさえ思ってしまいます。このように考えると、心晴れ晴れとはしないのです。
今から14年も前になりますか、2005年10月16日、民間放送で東京局のTBSが「報道の魂」と名付けた、ドキュメンタリー番組を始めました。東京方面だけの番組なので、大阪にいる僕には、今、その番組がどうなっているのか知りませんが。
その「報道の魂」の番組宣伝には、次のように書かれています。
視聴率を気にしないでドキュメンタリーを作るというその番組の放送第一回に放送されたのが「吃音」でした。当時TBSのディレクターだった斉藤道雄さんが、東京から僕の自宅にまで来て下さり、3時間ほど話をして、記念の第一回に吃音を取り上げて下さいました。その時、編集をしながら斉藤さんのおっしゃったことばが思い出されます。
「吃音親子サマーキャンプや大阪吃音教室、伊藤さんの大学での講義など取材をして、編集をしていますが、どの場面をきりとっても、吃音のポジティヴな面しか、浮かんできません。吃音に今、悩んでいる人もいるだろうと考えると、このまま放送していいいのかと、ちょっと考えてしまいました」
今、吃音のネガティヴな面だけを強調するような報道に接すると、とても不思議な気がします。せっかくなので、その時の様子など、次回から少し紹介します。
嘆いてばかりではいられません。僕が50年以上、どもりにかかわり続け、ここまでたどり着いたものを「吃音哲学」として、発信していかなければいけないと思っています。
さあ、明日から、新しい2019年度が始まります。奮い立たせて、今、できることをしていきたい、そう思っています。ちょっと湿っぽくなりました。まあ、こんな日もありということで、これからもよろしくお願いします。
今の僕を励ましてくれる、ゲシュタルト療法の創始者、フレデリック・パールズ(フリッツ・パールズ)の「ゲシュタルトの祈り」の詩を紹介します。落ち込んだとき、僕を常に勇気づけてくれます。倉戸ヨシヤ先生の専門家養成の250セッションのワークショップの修了証書として英文のものをいただきました。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/3/31
今日は、3月31日。2018年度が終わり、明日からは2019年度が始まります。どこかに勤めているわけではないので、年度末など何の関係もないのですが、仲間のことばの教室の担当者にとってはひとつの節目であり、僕もほんの少しひとつの区切りを感じています。
このブログも、更新に波がありました。コンスタントにと思いつつ、仕事が立て込んでくると、なかなかそうもいきませんでした。ときどき、「ブログ、読んでますよ」と伝えていただくと、ありがたいと思いますし、誰が読んで下さっているか分からないけれど、見えない誰かひとりに向かっても、僕の今の気持ちを伝えていくことは悪くないと思います。
ただ、最近の、吃音に対するネガティヴなイメージを拡散させる新聞記事、テレビのドキュメンタリーなどメディアでの取り上げられ方には、少々、いえ、かなり、鬱々としたものを感じています。「100万人のどもる人がいて、100万人が悩んでいる」とのキャッチフレーズのようなとらえ方には、違うだろうと、声をあげたくなります。確かに発生率は1%だとすると、100万人のどもる人がいるのかもしれません。でも、その人たち全てがどもりを恨み、悩み、自分らしく生きていないのではないのです。どもりながらも、自分らしく、豊かに生きているどもる人、どもる子どもを、僕はたくさん知っています。その人たちの存在が消えてしまう一方的な報道に、なんともいえない絶望感に襲われます。仕事としての言語聴覚士のために、患者としての悩むどもる人が必要なのではないかとさえ思ってしまいます。このように考えると、心晴れ晴れとはしないのです。
今から14年も前になりますか、2005年10月16日、民間放送で東京局のTBSが「報道の魂」と名付けた、ドキュメンタリー番組を始めました。東京方面だけの番組なので、大阪にいる僕には、今、その番組がどうなっているのか知りませんが。
その「報道の魂」の番組宣伝には、次のように書かれています。
泥つき大根の青臭さをかんじさせる番組です!
「つくらず、かざらず、そのままに。しかし、力をこめてぶつける」というのが合言葉です。小奇麗に形を整え、香水をふりかけたような野菜をビニールパックするのでなく、土まみれの大根を古新聞でガザっとくるんだだけ。そんなイメージでネタの素材感を生かします。
日々のニュース制作の反復の中で、おさまりきらない部分を大切にします。わかりやすく、そしてポイントを強調してつくることで、事実の複雑さが、剪定されてしまうことってありませんか? 現場で記者が感じた主体的な思い、怒り、悲しみが、情報パッケージにしていくとどこかに消えてしまうもどかしさ・・・。
「報道の魂」はそんなもやもやを吹き飛ばすような解放空間でもありたいと考えます。
ちょっと時計の針を戻したような…
「アナクロ」あるいは「レトロ」がもうひとつのキーワードです。かつてのニュースは今ほど映像表現が豊かではありませんでした。イメージ、再現、過剰なまでに説明するナレーションと画面を覆い尽くすSP、流れるような構成等々は、勿論視聴者ニーズに応えてのことでした。しかし、もうちょっと他の作り方をしたいと考える時、素朴でストレートで、無骨で不器用であったかつての表現がちょっと新鮮に感じられます。
視聴率を気にしないでドキュメンタリーを作るというその番組の放送第一回に放送されたのが「吃音」でした。当時TBSのディレクターだった斉藤道雄さんが、東京から僕の自宅にまで来て下さり、3時間ほど話をして、記念の第一回に吃音を取り上げて下さいました。その時、編集をしながら斉藤さんのおっしゃったことばが思い出されます。
「吃音親子サマーキャンプや大阪吃音教室、伊藤さんの大学での講義など取材をして、編集をしていますが、どの場面をきりとっても、吃音のポジティヴな面しか、浮かんできません。吃音に今、悩んでいる人もいるだろうと考えると、このまま放送していいいのかと、ちょっと考えてしまいました」
今、吃音のネガティヴな面だけを強調するような報道に接すると、とても不思議な気がします。せっかくなので、その時の様子など、次回から少し紹介します。
嘆いてばかりではいられません。僕が50年以上、どもりにかかわり続け、ここまでたどり着いたものを「吃音哲学」として、発信していかなければいけないと思っています。
さあ、明日から、新しい2019年度が始まります。奮い立たせて、今、できることをしていきたい、そう思っています。ちょっと湿っぽくなりました。まあ、こんな日もありということで、これからもよろしくお願いします。
今の僕を励ましてくれる、ゲシュタルト療法の創始者、フレデリック・パールズ(フリッツ・パールズ)の「ゲシュタルトの祈り」の詩を紹介します。落ち込んだとき、僕を常に勇気づけてくれます。倉戸ヨシヤ先生の専門家養成の250セッションのワークショップの修了証書として英文のものをいただきました。
ゲシュタルトの祈り
私は、私のことをする
おまえは、おまえのことをする
私は何も、おまえの気に入るために
この世に生まれてきたわけじゃない
おまえは私の気に入るために生きているわけじゃない
おまえはおまえ 私は私
もしも我々が お互いに出くわすなら
それはすばらしいことだ
しかし もしも出くわさなかったら
そりゃあ 仕方のないことさ
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/3/31