2016年10月
対話とは何かに気づく旅ー自分との対話、他者との対話ー
映画監督の土井敏邦さんのこのコラムとともに、土井幸美さんが紹介してくださった、ドキュメンタリー映画を、10月1日、第七藝術劇場へ、大阪吃音教室の仲間5人で見に行きました。喫茶店で感想を話し合っていたら2時間30分ほどたっていました。映画を一緒に見て、その直後に話し合うことは初めてでしたが、どんどんと話は広がり、ともおもしろかったです。映画を見ていない人には、何のことか分からないかも知れませんが。まだ上映をしているところがありますので、是非見て下さい。
その時のメモなので正確なものではありませんが、こんな話をしていました。
溜 「あなたがコミュニケーションができないのは、耳が聞こえないからではなく、スキルがないからだ」と言われるところなど、自分と重なる。思い込みが強いところも似ている。周りの人はきっと私をこう見ていると勝手に思い込んで、それを確認する作業を怠ってきた。伴走者のせいにしたら、あるいは昔こんなことがあったというせいにしたら、楽になるというのも似ている。自分ではなく、相手のせいにしていたら楽だ。私はずっとどもりや相手のせいにしてきた。今、楽になってきたのは、一番厚い壁がとれたから。いじめられたことを、ずっと自分の苦しみの原因だとしてきた。いじめられたことが隠れ蓑になっていた。いじめにあったことと、どもりがごっちゃになっていた。いじめられたことについては、何回も言っているけれど、表面的なことしか言っていない。本当のことを言ったら、周りから責められると思った。浅いつきあいの方が楽。だから、今村彩子監督はすごいと思った。
藤岡 とてもよかった。伊藤さんに紹介してもらった、映画を薦めてくれた土井さんの文章を読んで観に行きたいと思った。監督の今村さん自身が、コミュニケーションが苦手な自分をなんとかしたいと日本縦断をした。かっこ悪い自分、見せたくない自分をスクリーンで出すってどんな感じなんだろうと興味を持った。
耳が聞こえないのと吃音とは違うけれど、コミュニケーションが苦手なところなど共感するところは多かった。監督は私が思っていた以上にダメな人で、身近な人、遠くない人になった。監督というと、ちょっと身構えてしまうけれど、私たちと同じだと思った。コミュニケーションが苦手で、自分のだめなところが分かっている。勇気がなくてできないところとか、葛藤しているところに共感した。居酒屋のシーンで、楽しそうにしゃべっているところに入りたいけれど、入れない。「耳が聞こえないせいではないでしょう」と言われて、いろいろ言い訳をしている態度や心理は、映画では見せないところだろうにと思うのに、すべてをさらけ出していた。私自身にもある部分を見せられて、ドキッとした。
伊藤 伴走者、撮影する人がいたからできた映画なので、哲さんがいたからできた映画だが、対話者としての哲さん抜きにはできなかった。別の伴走者なら、この映画は成立しない。哲さんはよく辛抱して最後までつきあってくれるものだと思う。哲さんには対話する力がすごくある。監督にダメな部分を遠慮なく指摘しているが、それが、見ている僕にはちょっとも嫌みに感じられなかった。攻撃的のようでいて、攻撃的でなく、カウンセラーのような、セラピストのような存在だった。監督のダメっぷりが良かったからだと思う。
ところどころで、ろうの仲間と出会っていたが、旅の途中で苦しいとき、仲間とばかりつきあっていたのでは、楽だろうけど、逃げにもなってしまう。しかし、自分のダメな部分が浮き彫りになる、57日の過酷な旅のところどころで仲間に出会うからよかった、それはオアシスみたいになっていた。同じような生きづらさ、困難さをかかえる仲間と出会って、自分を立て直し、息を吹き返しているようだった。
溜 コミュニケーションが苦手だと、監督は言うけれど、人間関係が広いなと思った。だって、仲間が全国にいる。泊めてくれるような親しい人がいる。本当のコミュニケーションの苦手な人にそんなことはできないし、監督という仕事もできない。
伊藤 見知らぬ人や初めての人とはコミュニケーションがとりにくいけれど、自分にとって大切な人とはコミュニケーションがとれている人なのだろう。監督は、コミュニケーションをとりたくて旅に出たとあったが、彼女はどんなコミュニケーションをとりたかったのだろうか。旅の途中で出会う人とコミュニケーションをとりたかったのか。でも、そんなコミュニケーションは人生にとって本当に必要なコミュニケーションではない。
僕も3か月間、日本一周の一人旅をした。九州の与論島から北海道の礼文島まで行ったけれど、その中でいろんな人に出会って、そして別れていった。最初の5日間ほどは、誰とも話せずに一人旅をしていたが、一人でいることにむなしさを感じて、思い切って、一人の人に話しかけたことで、後の旅はとても楽しいものになった。どもりながらでも、新しい人と出会えることに自信はもったけれど、そんなコミュニケーションよりも、普段日常生活の中でのコミュニケーションの方がずっと大事だと思った。
今村監督は、それは十分にできている人だと僕には思えるけれど、彼女は、どんなコミュニケーションを求めていたのだろうか。
藤岡 聞こえないから、紙に書いてほしいと言ったらいいのに言えない。見知らぬ人に言えるようになる旅なのかな。言いたいけれど、止めてしまう自分に歯がゆさを感じ、なんとかしたかったのかも。旅の途中からはそれを突破し、自分の問題を直視できるようになった。映画のラストで、私は何も変わっていないと言っていたけれど、たくさんの葛藤と気づきがあっただろうと思う。
伊藤 57日間の旅は自分に気づく旅だったんだろうね。変わるのはこれから。変わっていたことはおぼろげながら自分には分かっていたけれど、いろんな人に出会い、浮き彫りにするための旅だったといえる。57日目、北海道に到着したのは、到達点ではなく、スタートラインにやっと立てたと自分自身が言っている。だから映画のタイトルも、「スタートライン」にしたんだね。大げさなことに気づいたわけではなく、「耳が聞こえない」というベールを取り去ったとき、一人の人間としての問題が浮き彫りになり、マイナスだったのがゼロになった。コミュニケーションとは何か。それは、技術的なことではなく、誠実さであり、思いやりであり、パンクしている人をみたら通り過ぎるのではなくすっと動けることであると。哲さんとの対話を通して気づいていったんだ。
哲さんが、パンクをして困っている人に、「何ができるかどうか、聞いてみたらいい」と言っていたのが印象的だった。監督は自分との対話はできているけれど、他者に対しては対話ができなかった。それに気づき、これから、つらいけれども対話を続けたいと思えた旅だったと僕は思う。「想像するな、確かめろ」と、僕たちが学んできたゲシュタルトセラピーではよく言うが、想像して、手順をとばしてしまうと対話なき社会になってしまう。耳が聞こえないから、どもるから、何でもすることが遅いから、というのは、隠れ蓑であり、それはつまりアドラー心理学でいう劣等コンプレックスに陥っていることは、僕たちも気づいてきたことだよね。
溝口 キーワードとして5つ。まず、<正直>。彼女は、本当に正直な人。自分のかっこ悪いところ、見せたくないところをそのまま出している。<対等>哲さんがなぜこの旅に同行することになったのかよく分からないけれど、「耳が聞こえない」ことに、何も遠慮していない。対等に話している。その対等さが気持ちいい。対等は対話を生む。対話が成立していた。<出会い>旅の中でいろいろな人に出会っている。そのどれもが彼女にたくさんのことを気づかせている。特に、最後の、オーストラリアから来たウィル。日本語がうまくない、しかも聴覚障害という、あまりにもできすぎた人との出会いは、彼女にとって大きかった。<確認>自分のコミュニケーションについて、うすうす気づいていたことの確認の旅だったといえるのではないか。<語り>旅の途中では、哲さんが監督にいろいろと厳しいことを言うシーンが多かったが、最後の方で彼女が自分で気づいたことを話すシーンがあった。そのとき、哲さんは、ただ黙って、表情はとても穏やかに、うんうんとうなずきながら聞いていた。彼女が自分のことばで自分を語っていた。哲さんは、本当にすごい人だと思った。
伊藤 哲さんには、遠慮しておこうというのはなく、ストレートに話していた。哲さんと彼女の対話の旅だったといえる。そして、監督の自分自身の内面との対話。この2つの対話がおりなす対話の旅。ようやくスタートラインに立てたということになる。ラストシーンで、2人が並んで立っていたところ、2人の向いている方向が違っていたのが象徴的だった。
峰平 僕と行動が似ていると思った。たとえば、パンクしているのを見たとき、僕もきっと素通りする。冷たい男だなと思いながら。また、監督は、話してみたらいいじゃんと言われて、人とコミュニケーションする場面があるが、話していることは、「どこから来ましたか」など、表面的なことしか聞いていない。会話しようと努力はしているけれど、楽しく会話していない。僕も職場で、他の人たちが楽しそうに会話しているのを見る。本人たちは楽しいのだろうけれど、僕はつまらないなと思う。
僕はどもる上に、滑舌が悪くてよく聞き返される。監督は、訓練して、会話を続けてきたのだろう。情報伝達のことばは楽しくない。パンクのときも、パンクした人の背中に「私はろう者です」とあったら、同じ仲間として、監督も声をかけていただろう。ろう者同士の会話では楽しそうだったけれど、そうじゃない人とは、努力して、コミュニケーションしなければと臨む会話は楽しくない。会話を楽しんでいない。話しかけないといけないと言われて、話しかけているように僕には思えた。
伊藤 ねばならないというコミュニケーションは、相手に対しても失礼だ。僕も、どもりを治すために、たくさんの人と話さなければならないと思って話しかけていたとき、それが大学の仲間であっても練習台にしてしまっていたことがあった。申し訳ないと思いながらしていたことを思い出した。
峰平 笑福亭鶴瓶と明石家さんまは、よくしゃべる人の典型だけど、鶴瓶は本当に会話を楽しんでいる。
伊藤 監督は、すごい言語訓練をしてきた人で、訓練としてのコミュニケーションの優等生だったと思う。訓練としての会話の必要性を感じて、他のろう者よりは、耳の聞こえる人と会話してきていると思う。でも、コミュニケーションは訓練によって得られるものではない。話したいなあという気持ちがわき上がってくるのが大事。コミュニケーション論としてこの映画を観るのはおもしろい。
訓練して得たコミュニケーションを、57日間やってみたけれど、だめだった。しかし、監督という、仕事上でのコミュニケーションはできているはずで、そのコミュニケーションができていればいい。何も、初対面の人と盛り上がらなくてもいい。そんなものは、たいしたコミュニケーションではない。なくてもいいものだ。哲さんとオーストラリア人が英語でしゃべっているところでは、監督は話に入っていけないことは苦にならず、平気だったところがおもしろい。でも、日本語となると、胸騒ぎが起こってしまうところが、僕にはとてもよくわかる。
これが、話し合ったすべてではありませんが、一応ここまでで。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年10月9日
その旅の動機を今村自身は映画パンフレットの中にこう書いている。
「一昨年、私にとって大きな存在である母と、ずっと暖かく見守り続けてくれた祖父の二人を短い間に失いました。『悲しい』という感情を感じると自分が壊れてしまうため、意識的にコントロールしてきました。祖父の四十九日が終わると、張り詰めていた緊張の糸が切れ、映画を作りたいという思いも生きる希望も持てなくなりました。そんなある日のこと、自転車に乗って風を受けた、その気持ち良さにハッとしました。目が覚めたような感じ・・・。『このままではいけない、前を向いて生きていくために、自転車で日本縦断の旅に出よう。そして、自分が苦手なコミュニケーションをテーマに、カメラを回して映画を作ろう!』そう決意したのは、母の死から半年近く経った頃です。ひとりの人として、また映画監督として次に進むためにも、これまで直視することを避けてきた『コミュニケーション』と正面から向き合おうと心に決めたのでした」
−この映画は、その日本縦断の旅の過程を、伴走者・堀田哲生と今村自身のカメラで記録した作品である。ただその旅は平たんなものではなかった。自転車旅行そのものの過酷さと共に今村を意気消沈させ精神的に疲弊させたのは伴走者・堀田の遠慮ない厳しい叱咤だった。交通ルールに無知で信号や周囲の車両に気づかず暴走する今村に、堀田は厳しい口調で注意する。心身共に疲労困憊し、出会う人々とのコミュニケーションを実践する余裕さえ失い、「相手の言葉が理解できないのではないか」という恐怖心から会話を避ける今村を、「この旅の目的は、コミュニケーションではなかったのか!」と激しく叱責する。健聴者の堀田が居酒屋で出会った客と歓談する中、「耳の聞こえない」今村はぽつんと取り残される。不満をぶつける彼女を堀田は、「あなたが会話に入れないのは耳が聞こえないからじゃない。会話が下手だからだ」と突き放す。映画のラストで、今村は「伴走者に叱られた回数 500回以上」「ホメられた回数 2回」と告白している。−
映画監督の土井敏邦さんのこのコラムとともに、土井幸美さんが紹介してくださった、ドキュメンタリー映画を、10月1日、第七藝術劇場へ、大阪吃音教室の仲間5人で見に行きました。喫茶店で感想を話し合っていたら2時間30分ほどたっていました。映画を一緒に見て、その直後に話し合うことは初めてでしたが、どんどんと話は広がり、ともおもしろかったです。映画を見ていない人には、何のことか分からないかも知れませんが。まだ上映をしているところがありますので、是非見て下さい。
その時のメモなので正確なものではありませんが、こんな話をしていました。
溜 「あなたがコミュニケーションができないのは、耳が聞こえないからではなく、スキルがないからだ」と言われるところなど、自分と重なる。思い込みが強いところも似ている。周りの人はきっと私をこう見ていると勝手に思い込んで、それを確認する作業を怠ってきた。伴走者のせいにしたら、あるいは昔こんなことがあったというせいにしたら、楽になるというのも似ている。自分ではなく、相手のせいにしていたら楽だ。私はずっとどもりや相手のせいにしてきた。今、楽になってきたのは、一番厚い壁がとれたから。いじめられたことを、ずっと自分の苦しみの原因だとしてきた。いじめられたことが隠れ蓑になっていた。いじめにあったことと、どもりがごっちゃになっていた。いじめられたことについては、何回も言っているけれど、表面的なことしか言っていない。本当のことを言ったら、周りから責められると思った。浅いつきあいの方が楽。だから、今村彩子監督はすごいと思った。
藤岡 とてもよかった。伊藤さんに紹介してもらった、映画を薦めてくれた土井さんの文章を読んで観に行きたいと思った。監督の今村さん自身が、コミュニケーションが苦手な自分をなんとかしたいと日本縦断をした。かっこ悪い自分、見せたくない自分をスクリーンで出すってどんな感じなんだろうと興味を持った。
耳が聞こえないのと吃音とは違うけれど、コミュニケーションが苦手なところなど共感するところは多かった。監督は私が思っていた以上にダメな人で、身近な人、遠くない人になった。監督というと、ちょっと身構えてしまうけれど、私たちと同じだと思った。コミュニケーションが苦手で、自分のだめなところが分かっている。勇気がなくてできないところとか、葛藤しているところに共感した。居酒屋のシーンで、楽しそうにしゃべっているところに入りたいけれど、入れない。「耳が聞こえないせいではないでしょう」と言われて、いろいろ言い訳をしている態度や心理は、映画では見せないところだろうにと思うのに、すべてをさらけ出していた。私自身にもある部分を見せられて、ドキッとした。
伊藤 伴走者、撮影する人がいたからできた映画なので、哲さんがいたからできた映画だが、対話者としての哲さん抜きにはできなかった。別の伴走者なら、この映画は成立しない。哲さんはよく辛抱して最後までつきあってくれるものだと思う。哲さんには対話する力がすごくある。監督にダメな部分を遠慮なく指摘しているが、それが、見ている僕にはちょっとも嫌みに感じられなかった。攻撃的のようでいて、攻撃的でなく、カウンセラーのような、セラピストのような存在だった。監督のダメっぷりが良かったからだと思う。
ところどころで、ろうの仲間と出会っていたが、旅の途中で苦しいとき、仲間とばかりつきあっていたのでは、楽だろうけど、逃げにもなってしまう。しかし、自分のダメな部分が浮き彫りになる、57日の過酷な旅のところどころで仲間に出会うからよかった、それはオアシスみたいになっていた。同じような生きづらさ、困難さをかかえる仲間と出会って、自分を立て直し、息を吹き返しているようだった。
溜 コミュニケーションが苦手だと、監督は言うけれど、人間関係が広いなと思った。だって、仲間が全国にいる。泊めてくれるような親しい人がいる。本当のコミュニケーションの苦手な人にそんなことはできないし、監督という仕事もできない。
伊藤 見知らぬ人や初めての人とはコミュニケーションがとりにくいけれど、自分にとって大切な人とはコミュニケーションがとれている人なのだろう。監督は、コミュニケーションをとりたくて旅に出たとあったが、彼女はどんなコミュニケーションをとりたかったのだろうか。旅の途中で出会う人とコミュニケーションをとりたかったのか。でも、そんなコミュニケーションは人生にとって本当に必要なコミュニケーションではない。
僕も3か月間、日本一周の一人旅をした。九州の与論島から北海道の礼文島まで行ったけれど、その中でいろんな人に出会って、そして別れていった。最初の5日間ほどは、誰とも話せずに一人旅をしていたが、一人でいることにむなしさを感じて、思い切って、一人の人に話しかけたことで、後の旅はとても楽しいものになった。どもりながらでも、新しい人と出会えることに自信はもったけれど、そんなコミュニケーションよりも、普段日常生活の中でのコミュニケーションの方がずっと大事だと思った。
今村監督は、それは十分にできている人だと僕には思えるけれど、彼女は、どんなコミュニケーションを求めていたのだろうか。
藤岡 聞こえないから、紙に書いてほしいと言ったらいいのに言えない。見知らぬ人に言えるようになる旅なのかな。言いたいけれど、止めてしまう自分に歯がゆさを感じ、なんとかしたかったのかも。旅の途中からはそれを突破し、自分の問題を直視できるようになった。映画のラストで、私は何も変わっていないと言っていたけれど、たくさんの葛藤と気づきがあっただろうと思う。
伊藤 57日間の旅は自分に気づく旅だったんだろうね。変わるのはこれから。変わっていたことはおぼろげながら自分には分かっていたけれど、いろんな人に出会い、浮き彫りにするための旅だったといえる。57日目、北海道に到着したのは、到達点ではなく、スタートラインにやっと立てたと自分自身が言っている。だから映画のタイトルも、「スタートライン」にしたんだね。大げさなことに気づいたわけではなく、「耳が聞こえない」というベールを取り去ったとき、一人の人間としての問題が浮き彫りになり、マイナスだったのがゼロになった。コミュニケーションとは何か。それは、技術的なことではなく、誠実さであり、思いやりであり、パンクしている人をみたら通り過ぎるのではなくすっと動けることであると。哲さんとの対話を通して気づいていったんだ。
哲さんが、パンクをして困っている人に、「何ができるかどうか、聞いてみたらいい」と言っていたのが印象的だった。監督は自分との対話はできているけれど、他者に対しては対話ができなかった。それに気づき、これから、つらいけれども対話を続けたいと思えた旅だったと僕は思う。「想像するな、確かめろ」と、僕たちが学んできたゲシュタルトセラピーではよく言うが、想像して、手順をとばしてしまうと対話なき社会になってしまう。耳が聞こえないから、どもるから、何でもすることが遅いから、というのは、隠れ蓑であり、それはつまりアドラー心理学でいう劣等コンプレックスに陥っていることは、僕たちも気づいてきたことだよね。
溝口 キーワードとして5つ。まず、<正直>。彼女は、本当に正直な人。自分のかっこ悪いところ、見せたくないところをそのまま出している。<対等>哲さんがなぜこの旅に同行することになったのかよく分からないけれど、「耳が聞こえない」ことに、何も遠慮していない。対等に話している。その対等さが気持ちいい。対等は対話を生む。対話が成立していた。<出会い>旅の中でいろいろな人に出会っている。そのどれもが彼女にたくさんのことを気づかせている。特に、最後の、オーストラリアから来たウィル。日本語がうまくない、しかも聴覚障害という、あまりにもできすぎた人との出会いは、彼女にとって大きかった。<確認>自分のコミュニケーションについて、うすうす気づいていたことの確認の旅だったといえるのではないか。<語り>旅の途中では、哲さんが監督にいろいろと厳しいことを言うシーンが多かったが、最後の方で彼女が自分で気づいたことを話すシーンがあった。そのとき、哲さんは、ただ黙って、表情はとても穏やかに、うんうんとうなずきながら聞いていた。彼女が自分のことばで自分を語っていた。哲さんは、本当にすごい人だと思った。
伊藤 哲さんには、遠慮しておこうというのはなく、ストレートに話していた。哲さんと彼女の対話の旅だったといえる。そして、監督の自分自身の内面との対話。この2つの対話がおりなす対話の旅。ようやくスタートラインに立てたということになる。ラストシーンで、2人が並んで立っていたところ、2人の向いている方向が違っていたのが象徴的だった。
峰平 僕と行動が似ていると思った。たとえば、パンクしているのを見たとき、僕もきっと素通りする。冷たい男だなと思いながら。また、監督は、話してみたらいいじゃんと言われて、人とコミュニケーションする場面があるが、話していることは、「どこから来ましたか」など、表面的なことしか聞いていない。会話しようと努力はしているけれど、楽しく会話していない。僕も職場で、他の人たちが楽しそうに会話しているのを見る。本人たちは楽しいのだろうけれど、僕はつまらないなと思う。
僕はどもる上に、滑舌が悪くてよく聞き返される。監督は、訓練して、会話を続けてきたのだろう。情報伝達のことばは楽しくない。パンクのときも、パンクした人の背中に「私はろう者です」とあったら、同じ仲間として、監督も声をかけていただろう。ろう者同士の会話では楽しそうだったけれど、そうじゃない人とは、努力して、コミュニケーションしなければと臨む会話は楽しくない。会話を楽しんでいない。話しかけないといけないと言われて、話しかけているように僕には思えた。
伊藤 ねばならないというコミュニケーションは、相手に対しても失礼だ。僕も、どもりを治すために、たくさんの人と話さなければならないと思って話しかけていたとき、それが大学の仲間であっても練習台にしてしまっていたことがあった。申し訳ないと思いながらしていたことを思い出した。
峰平 笑福亭鶴瓶と明石家さんまは、よくしゃべる人の典型だけど、鶴瓶は本当に会話を楽しんでいる。
伊藤 監督は、すごい言語訓練をしてきた人で、訓練としてのコミュニケーションの優等生だったと思う。訓練としての会話の必要性を感じて、他のろう者よりは、耳の聞こえる人と会話してきていると思う。でも、コミュニケーションは訓練によって得られるものではない。話したいなあという気持ちがわき上がってくるのが大事。コミュニケーション論としてこの映画を観るのはおもしろい。
訓練して得たコミュニケーションを、57日間やってみたけれど、だめだった。しかし、監督という、仕事上でのコミュニケーションはできているはずで、そのコミュニケーションができていればいい。何も、初対面の人と盛り上がらなくてもいい。そんなものは、たいしたコミュニケーションではない。なくてもいいものだ。哲さんとオーストラリア人が英語でしゃべっているところでは、監督は話に入っていけないことは苦にならず、平気だったところがおもしろい。でも、日本語となると、胸騒ぎが起こってしまうところが、僕にはとてもよくわかる。
これが、話し合ったすべてではありませんが、一応ここまでで。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年10月9日
吃音を豊かに生きる 落語家・桂文福さんが、NHKの番組で紹介されます。僕たちとの付き合いも紹介したいと、9月30日、大阪吃音教室に取材が入りました。この日はたまたま大阪吃音教室の休みの日だったのですが、文福さんがこの日しかスケジュールがとれずに、急きょ会場をとり、参加できる人だけでもと参加を呼び掛けたのですが、30名を超える人が参加しました。楽しい、温かい時間を過ごしました。
翌日の留守番電話には、文福さんの「久しぶりに、楽しくどもりました」のメッセージがありました。
文福さんが編集する「いちもん新聞」の一部を紹介します。
五代目桂文枝 いちもん新聞
発行 いちもん新聞編集部
ホームページ 文福部屋 www.katsurabunbuku.com
平成28年9月 第102号
ぽんぽ娘ピーのポンポコナー
師匠に入門して丸十年。もともと色物として8年間浅草で活動していた私にとって修行期間の3年間は非常に辛いものがあった。ただ思えば、辛いと思う事自体、過去のプライドを捨てきれずにいる。自分自身の小ささが原因だった。それを見抜いていた師匠は、プライドを捨てることがいかに大事か、身をもって私に教えてくれていた。例えば落語。師匠はどんな大ネタでも小ネタに作り替え、大ネタの凄さを感じさせない。また、素人落語家がプロのように振る舞う中、素人のようなプロとしてブレずにやり続けている。人に尊敬する部分を与えさせない。プライドのかけらも感じさせない。本当にすごい師匠だ。ただ、修行の足りない私はこうはなりたくない。
文福のおいやんストーリー
私、久しぶりの全国ネットのテレビに登場します。
え?時々NHKの画面で見るって?それは大相撲見物の時、砂かぶりで映ってるだけでんがな!!
なんとNHK、Eテレの「ハートネツトTV」オンエアは11月14日の夜8時と翌週の昼に再放送もあります。なぜ私が出れるのか、今回のテーマは「吃音」トホホー。生まれついてのどもる男があえて話芸の落語家に!!吃音をのりこえた男として…すでに楽屋雀は「のりこえてるか?」「まだまだ進行中」てボロクソや!!
少し前に福山雅治さんと藤原さくらちゃん主演の「ラブソング」というドラマがあり、ヒロインの女の子が吃音。車の整備工場で働いているヒロインがお客様に「この車いつ納車?」と聞かれ「日曜です」というところ「ニ、ニ、ニ…」と出ぬくいと「土曜の次の日!!」と答えたり、得意のギターを弾いて歌うと、言いたい事がスラスラ〜。そんな「吃音あるある」に感動してた事を、うちの嫁はんがブログに書いたことがNHKの三輪さんという美人ディレクターの目にとまり、わざわざ東京から私めに会いに来られ、密着取材となりました。
まるで芸能人みたい。あっ、芸能人か!!「ふるさと寄席文福一座」で伊賀のかしき村や堺のお寺、繁昌亭等の様子をカメラにおさめてくれたり、我が家での弟子達との夕食シーン。「日本吃音臨床研究会」の方々との座談会や私のインタビュー等しゃべりまくったけどほとんどカットやろな〜。しかし約45年前、師匠五代目文枝(当時小文枝)は、どもる私に「お前には独特の間(ま)があるんや。それを大事にせえ!!それに音頭や甚句にのせたらどんどん言いたい事が言えるやろ。それをのばせ!!」その大きな心で育ててくれた。吃音のおかげでこんなけったいな噺家になれたんや!!ハンディを個性に!!ピンチをチャンスに変えて前向きにがんばろうとのメッセージが伝わればそれでええか!!
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年10月8日
これで、2000年に開かれた講演記録は終わりです。9月30日の話は、また報告したいと思います。
伊藤 あっという間に2時間15分が、笑いと涙の2時間15分が過ぎてしまいました。
文福 もう仕事っていう気は全然ありませんから、仲間という気で来ていますからね。伊藤さんとはなんべんも電話で喋っているのに、つい会ったら、なんでもあれもこれも喋ってしまわないかんような気がして、ひとり喋り過ぎました。もっと小出しにしたらええのに。
東野 どもる子どもさんとか、どもる子どもをもつ親の方が参加されているので、文福さんからその人たちへのメッセージをお願いします。
文福 周りがもっと理解せなあかんでしょうね。僕も授業中に、「この問題、分かる人?」て言われて、一応分かってるから手を挙げる、でも、手を挙げてる子が多いと分かると、どもると自分で分かってるから手をそうっと下げる。先生が「お前、いっこも手をあげへんな。分かってるんか。お前、いっこもよう答えへんな」とよく言われた。ちくしょうと思っいました。周りが理解して、ひとりで悩まないで、どもってもええんちゃうか、喋り方でも歩き方でも特徴があって、みんなそれぞれや。みかんはみかん、桃は桃で味が違う。みかんとりんごとどっちがおいしいと言ったって、それ人によって違う。みんなそれぞれ自分の特徴や個性やと思って。足を引きずったのもそういう歩き方やしね。喋るのも僕はそういう喋り方をするんだ。これが私なんだ。確かに本もちゃんと読みたいと思うし、はきはき喋りたいと思うけれども。きれいに読んでも心がこもらんと読んでも何もならんし。つまりながらも一所懸命で説得力があったらそれでええんであってね。
自分のことばに自信をもって。腹から声を出す。心から喋る。ただ、どもったりすると周りが変に笑うでしょ。相手が笑ってると、笑わしてるわ、受けてるわと勘違いをする連中がいる。うちの一門に頭の毛の薄い子がいて、芸名がこけ枝というんやけど。「私、こけ枝でございまして」と言ったらみんな笑う。ほんまこけしみたいにまるい円満な顔をしている。「師匠、よかったですわ、僕落語の世界で」。大学や普通の会社へ行ったら慰安会なんかでこの頭やったら受ける。慰安会で受けても何の得にもならない。弟子のちゃん好なんか男前の部類ですわな。逆に男前やということでコンプレックスがあったんです。鏡の前で顔をこうやって、こうやって、そんなんせんでも自然にやっているうちになってくるんやと。その点、こけし君なんかせんでも、「えー」と言ったらみんな笑ってくれるし、お客さんが和む。プロになってよかった。池のめだかさんでも、小さいのをギャグにしてるけど、自分が小さいのは構へんねん、プロやからね。百も承知や。
そやけど、学校で小さい子に「めだか、ちび豆」とあだ名をつけたりして、また職場ではげの人を笑い者にしても、なんぼ周りで笑っても、その人は笑わす気はないからね。僕らは、プロやから笑ってもらってかまへんけど、皆さんの場合は、10人おって9人が笑っても、一人が後でちくしょうと泣いてたとしたら、その小学校の教室はほんま寂しい教室やね。みんなが10人とも笑わんとあかんよね。周りの理解も大事やし、本人も仮に笑われたって負けない、かまへんわ、これは俺の特徴やと強い気持ちを持ってもらわんとしゃあないね、これは。落ち込んでしゅんとなるより、僕はどもるけど、その代わり心優しいんだ、ハートをもってるぞと言い聞かせてね。心をこめてこれを言うたんだという気持ちを持ってたらいいと思う。今日は、ほんま来てくれてうれしいね。
伊藤 遠いところは、広島から、福井から、来てくれました。
文福 ほんま、いやー、うれしいね。伊藤さんがこういう会を作ったおかげで、みなさんも何かを学んでいこうというのができてるでしょ。これは、どもりを治す、矯正するところじゃなくて、「どもってもええよ、僕もそうやったんよ、楽しくやってるよ、キャンプに行ってるよ」。そういうのを作ったのがすごいことやし、そこに来れる子どもさんは立派なもんや。どもりをどうしよう、どもりの子を持ってどうしようという親もいるだろうけれど、来てくれて、うれしい。今日は僕ばっかり喋ってもたけど、自信をもって、まあ和歌山弁では、おいやんっていうんやけど、こんなおいやんでもどもってたけど、今なんとか人前で喋る仕事をやってますし、自分で探したら自分を生かせる道があると思う。何も喋る仕事が立派とは違うんだよ。どんな仕事でもいいよ。自分を行かせる道を探して下さい。自分を生かせる道で自信を持って、これは俺や、これは私や、これは私の特徴だと。さっきの伯鶴さんみたいに、目が見えないことをハンディやと言わず、個性だ、キャラクターだ、私はそういうキャラクターを持っている人間だと思ってね。えらい長時間、ありがとうございました。
伊藤 いやいや、ありがとうございました。
「スタタリングナウ 78号 2001年2月17日」
ここで河内音頭を
『本日、お越しの皆様へ〜 日本吃音臨床研究会 その名、会長の伊藤さん〜、皆様方の気持ちがひとつに 今日は楽しい集会で〜 笑う門には福来る 笑う門には文福で〜、皆様方もがんばろう〜 みかんはみかんで、柿は柿〜メロンはメロン トマトはトマト それぞれに味があるからうれしいんだ〜 みんなの味を大切に 仲良く元気に 歩んでいこう〜』
こんなんです。いろいろありますが。極度の緊張とかね、小学校、中学校のときもね、これはもう誰のせいとも言えませんしね。伊藤さん、どもりになったのは、誰かのせいだというのはありますか。
伊藤 親父がどもりでしたね。でも、そのせいだとは言えないけれど。分かりませんね。
文福 身内とかご兄弟とかは
伊藤 兄弟は誰もどもりません。僕だけ。
文福 うちも兄弟どもりませんしね。お袋はばーっと喋るし、親父は、極端なシャイでものあんまり言わん。そのシャイなところが似たのかな。ほんで、ぐわーと思うところがおかんに似たのかな。両方とってますんやけどね。どもるというのは周りになかった。ただ、昔、砂塚秀夫さんの主演で「俺はども安」という番組があったなあ。
伊藤 あれ、僕も嫌でした。「どどっとどもって人を斬る」という初めのセリフが。
文福 「ててててまえ、しししし生国・・・・俺はども安! チャチャチャーン」
当時は、テレビであれができたんやね。今は、どもりとかめくらとかちんばとか放送コードにひっかかるから。古典落語の中にはそんなん多いんです。おしとかいうことばもね。そんなんは、僕らはせんとこと思って。何もわざわざそんな話をせんでも他になんぼでもいろんな話があるのにね、あえて、「これは放送ではできへんから、今日の寄席で、そうっとやっとこうやんか」。僕は、そうっとやるという根性が嫌いなんです。ここだけはええというのはちゃうでと。あえてこんなんやらんでもええ。目の不自由な人の話をやって、最後まで聞いたらええ話というのは、あるんです。
景清という、戦国時代の武将が自分の目が見えると義経を目の仇にするというので、目をくりぬいて、清水さんに奉納したという逸話があったんです。あるとき目の不自由な職人が清水さんに行って、景清公の目を観音さんから与えてもらって、目があいて、という落語があるんです。最後まで聞いてると、観音様のおかげで目があいて、という目がないとこから目ができて、誠におめでたいお話でした。ハッピーエンドに終わる話なんやけど、途中でえらい目に合うシーンがないと話にならん。「どめくらが!」とか、そんなシーンがあってこんちくしょうと思う、そんな場面があるばっかりに放送ではできません。でも、全部聞いたらそれなりにええ話なんやけど、落語などには人の欠陥を言うのが多いんです。古典とか文化とか伝統とかいうのを隠れみのにしてはびこってる場合が多い。あえてせんでもええんちゃうかと僕らは思ってる。自分がどもりやからと言うて、確かにどもりを扱った小咄も、あるんですよ。
伊藤 あるんですか。
文福 あるんですよ。どもりの道具屋と言うてね。おもしろいですよ。「道具屋、のこぎり見せてくれ」と言うときに、「おおおおい、どどどど道具屋、ののののののこぎり、みみみみみ見せてくれ」「ままままま真似すな」というおもしろいんですけど。受けるけどね、僕自身もやっぱりやるの嫌ですね。
どもってて笑えるのは、桂文珍さんから聞いた話ですけど。文珍さんが梅田から阪急に乗った時に、たまたま同級生に会った。その人もどもるらしいです。「おい、お前、久しぶり」そしたら、「ううう・・・」となった。文珍さんやし、有名になってるし、よけいに「ううう・・」となった。「お前、どこに住んでるねん」と言われても声が出ない。「どこ、住んでるねん。遊びに行くわ。俺、武庫荘、武庫荘。お前、どこや?」「ううううっ・・・」。車掌がその時、「十三、十三」。「ここや!」。ずっと一駅の間、十三が出えへんかったんやね。そこに助け舟の「十三、十三」で「ここや」
笑えるけど、どもりの僕らにはちょっと悲しいという。
そうかと思うと、もうひとつの話。阪急に乗った。梅田から京都へ行くとき。もう電車が閉まる、ドアがもう閉まるというときに、「たばこ買うて来い。ピースやピース」と言われた人が、ピースのピが出ない。売店で、力んで大きな声で「ピピピピ、ピー」と言うたら、電車が出ていった。それも聞いたとき、作り話やろけれど、笑った。ピピピとどもったのはほんまの話やろけど、後は芸人がつくったんでしょうが、よう出来てるでしょ。
ピピピ、ピーと言ったら電車が出ていった。そんな話はようけあるんですわ。今、みなさん、笑ってるけど、ほんまに笑えない人がいたらあかん。だから、僕らがやっている真の笑いは平等の心からというモットーに反するわね。誰かが笑えなかったら、あかん。
今日はこういう『どもりを個性に』というテーマやから言わせてもらったけれど。
結局、誰かがひとりでも痛みを感じたら、笑いにはならん。和歌山の芸人の県人会を作ったというのも、おととし、カレーの事件がきっかけです。和歌山の園部地区に、テレビのワイドショーが話を広げて、レポーターや記者を送り込んで、もっと何か新しい話題を探せとか言って、見てる人は初めは園部地区に住んでいる人がかわいそうやと思ってたけど、だんだんマヒして、連続ドラマみたいになって来る。あるとき、「文福さん、僕、和歌山の出身ですと、和歌山市園部となっている名刺を出したら、あの園部かとえらい話が盛り上がって、商談とかまとまってね」と言った。「ああ、そうかい」と言って、僕はその名刺をびりっと破った。こんなん和歌山の恥や。
それで、なんとか芸人として和歌山のイメージアップせないかんという、僕のコメントが新聞に3つか4つ出たんです。それを読んだ和歌山の出身の芸人が「文福さん、一緒にやりましょう」と言ってくれて去年できました。神戸の地震でもコントなんかすると受けるけど、やっぱり当事者はええ気せんからね。誰かのことを押さえ付けて、笑いをとったりするのはもってのほかやと思います。だから、話の中では悲惨な事故や事件は扱わんとこと思ってます。新作落語をつくるときもやめとこと思ってます。そういうポリシーはあるんです。多少人の痛みがあるから、そういう発想やと思うんですけどね。
僕は目が、緊張したら、チック症になるんです。シャイとか照れ屋からきたんでしょうけど、緊張したときなる。ビートたけしさんもそうやけど、シャイなんです。ぼんちおさむさんもやし、結構います。チック症も心の病気とまではいかんかもしれんけど、まあどもりと通じるものがあるんでしょうね。なんでそうなったんか、今だに原因も分からないし、親のせいにしたことないし、今やったらこの世界に飛び込んで、初めはみんなびっくりしたし、心配もかけたけど、今はもうようやってるやないかと思ってくれてると思うし、 まあ僕としては自分を29年間振り返ったら、まあここまでよう来たなと思います。うまい落語家だとか立派な師匠とか、そんな気は全然ないけど、来年30年になるけど、よう30年間もこの世界におったなと思います。
伊藤 あっという間に2時間15分が、笑いと涙の2時間15分が過ぎてしまいました。何かお二人くらい質問ありましたら。
文福 もう仕事っていう気は全然ありませんから、仲間という気で来ていますからね。伊藤さんとはなんべんも電話で喋っているのに、つい会ったら、なんでもあれもこれも喋ってしまわないかんような気がして、ひとり喋り過ぎました。もっと小出しにしたらええのに。 つづく
「スタタリングナウ 78号 2001年2月17日」
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年10月7日
文福さんは、話すことが命の落語の世界で、弟子を多く育てた第一線で活躍する落語家ですが、僕がどもる仲間だと安心してかもしれませんが、僕と話しているときはとてもよくどもります。今は、とても楽しそうにどもっておられますが、落語家になり、人気者になつたがゆえのつらさもあったように思います。今回は、どもりを恨んだ時のことに話がすすみます。
伊藤 今こうして僕と話している間、文福さんはようどもりはるけど、子どもの頃のどもりってどんな状態だったんですか。
文福 僕ね、いつからどもったかという意識はあんまりないんです。赤面症というか対人恐怖症というか、あんまり喋れへんかった子ですね。僕は3月31日生まれで、一番早行きで、体も小さかった。生まれた時逆子やったし、健康は健康やったけど、小さかったりして、あかんたれというか、小学校1年まではあかんたれだったですね。人前に行くと、まず顔がガーと赤くなってよう喋らんかった。結局学校嫌やったんでしょうね。運動会も嫌やったし、学芸会も嫌やった。小学校のときの思い出は一個もええのが浮かんできません。不思議やけど。トラウマまではいかんけど。
伊藤 特にからかわれたり、いじめられたりということはなかったんですか。
文福 まあ、いじめられたことはそうなかったんですけど。うちの中学校は相撲部が強くて、1年先輩に相撲部の子がおって、無理やりからだが小さかったのに、相撲部に引っ張られたんです。でも、嫌やったけど、それまで小学校のときは走るのも遅いとかソフトボールもよう投げんとか、運動神経ももひとつやし、勉強もできんし。ところが、相撲部に入って、相撲が好きで、よくテレビで見てましたから、イメージトレーニングになってたのか、勝つことが出来た。それが自信になった。嫌やったけど、辞めないで、3年間続けて、3年のとき郡の大会で5勝1敗で準優勝しました。それでまた、ものすごい自信がついた。
主将だと、全校生徒の前で成績発表会というのがある。僕は何も言われへんかった。普通やったら例えば「野球部ですけど、みなさんご声援ありがとうございました」とか「がんばります」とか言う。「あのあの、あのあの、4対1とか」それだけ言っただけで後は何も言わんかったです。そやけど、何か自信がついた。その勢いで、高校へ入ったときは、レスリング部と柔道部からひっぱられた。嫌やったけども、結局柔道部に入って、辞めないで3年間やって、一応黒帯になった。だから中学校、高校は楽しい思い出がある。高校になったらもう楽しかったです。それでもどもってました。
例えば柔道をやっていて、先輩と話していて、「先輩、あのあのあの・・・」と言うと、「おい、誰か通訳してくれ」と言われる。その先輩を柔道の稽古の時にびゅーんと投げ飛ばすけれど、むやみにけんかなんかしませんよ。俺をばかにした奴はきっちり柔道でしめあげると。だんだん身体も大きくなってきたし、相撲にものめりこんでいった。相撲が僕を救ってくれたんですね。就職で大阪へ行くときは、落語のことなんか考えてません。その頃、万博の頃ですが、「仁鶴、可朝、三枝」が人気で、和歌山の田舎でも落語の研究会ができたくらいです。ただ大阪へ行きたい。絵が好きだったから。大日本印刷の会社に入って、印刷の仕事をしてました。
ところが、その当時、大阪へ来たら、落語がブームやから、生で見に行った。生で見に行ったらやっぱりお客さんの若い層の熱気、今ではそうでもないけれど、いっぺん聞いたらまた聞きたいなあと、極端な話、5,6分落語を聞いたら、楽屋に行って、「師匠、弟子にして下さい」と言いに行く人がいたくらいです。僕もそのムードにのせられて、入ってしまった。ところが後でしまったと思ったんですが、同期の連中、鶴瓶君、仁福君、二代目の森々福郎君ら、みんな落語研究会でそれなりにやってきた人ばかりなんです。学生の頃からのばりばりで、みんなは、俺はプロで力を試すんだとか、俺はおもろいから芸人になるんだと。僕の場合は、どもりでも、人前で喋れるようになるかな、小文枝師匠の所に行ったら喋れるようになるかな、ですもんね。売れたいとかテレビに出たいとか、有名になりたいとか、全然あらへん。人前に出て、喋れるようになれればいいという、まあ喋り方教室みたいなもんやね。
伊藤 柔道とかで自信がついたけれど、その自信はどもりにはそれほど大きな影響はなかったんですか?
文福 なかったですね。でも、吃っても人前に出ていくという自信はありました。大日本印刷を辞めるときに、みんな心配してくれた。
「のぼる、お前絶対無理ちゃうか。お前、どもるやんか」
今でもつきあいさせてもらってるけど。ほんまに心配したみたいやね。だから、誰にも相談せずに落語の世界に入った。何年かたって、オオあいつちゃうかと知って驚いた。親は知ってたけど、親戚には言わなかった。
伊藤 ただ人前で喋れるようになればいい。仕事でなくてもよかったんですか。
文福 まあ、なった以上はね、人前で喋って落語家になって、笑ってもらいたい。
伊藤 お金を稼ぐという。
文福 そうですね。お金を稼ぐとまでは思わなかったですが、落語家になってからですね、なったからには、なんとかしてがんばっていかないかんなあと。3年間、師匠のとこで修行して、桂文福として、だんだん師匠のもとを離れて、年もとり、結婚もして子も生まれ生活がかかってくる。なんとかがんばらあかん。その時に、宴会に行ったりすると、宴会の宴席で、河内音頭なんか好きやったから、音頭なんか歌うと、ことばはなんぼでもぱーと出る。河内音頭をやったのはどもりを隠すためというかね。宴席で場をもたすために、手拍子や節なんかやったりするとなんぼでも声が出る。結局どもりやったから、河内音頭をやるという、特徴のある落語家になれたんでしょうね。相撲甚句もやりますしね。
普通に喋れたら、恐らく平凡な、そつのない落語をしとるでしょうね。自分がどもりやったおかげで、変わっとんなあ、ユニークやなあと言われるようになった。そういう点ではどもりでよかったと今では思います。
どもりを恨んだこと
これもおもろい話やけど、大横綱の北の湖関。あの人は強すぎて人気ないと言われたけど、ハートのあったかい人で、大好きな人です。北の湖関と一回会いたいなあと思って、ずっと北の海関の稽古を見に行って、終わって、喫茶店に行った。はー、北の湖関やと思っていたら、ABCの乾アナウンサーが「文福ちゃん、わしな、北の湖関の後援会の人、よう知ってるんや。こんど飲みに行くけど、一緒にけえへんか。好きやろ」「お願いします」で、ほんで行ったんです。
いきなり「横綱」と声をかけられなくて、一緒に来られていた闘竜関と、「文福さん、まあ一杯飲もう」「俺、相撲好きやねん。闘竜も好きやねん」「なんや、あんた。口がうまいな」「ほんまでっせ、加古川出身で、宝殿中学校出て、本名、田中賢二やろ」「わあ、よう知ってくれてる」「わあ、乾杯」と、闘竜関とわーと飲んだんです。
「文福ちゃん、横綱の横へ行こ」という頃には、こちらはもうべろべろです。緊張してるのとべろべろで。僕は同じ28年生まれやから、僕は28が誇りですと言おうとしたんやけど、「ににににににぱちぱちぱち・・・」。そしたら天下の横綱が「師匠、もうちょっと落ち着いて」、で話にならなかった。
情けのうて、情けのうて。何も言えなくて、帰ってから、ほんまに落ち込んだ。
「今日ほどどもりを恨んだことはない。せっかく北の湖関と出会ったのに、どもって何も喋れんかった」と嫁さんに話した。次の日、乾アナウンサーに会ったら、「よかった。横綱、大喜びやったで」「なんででっか」「河内音頭やってくれて、音頭で横綱の生い立ちをやって、横綱の奥さんの名前もおりこんでやってくれて」と言んです。僕、酔うてたから、無意識に河内音頭をやったんですね。北の湖関の生い立ちをざあっとやって、そういえば途中でなんか手拍子でやったのを少しは覚えているけど、べろべろに、酔うてるから、横綱と飲むなんてめったにないことやから、何も覚えてない。横綱が喜んでくれたことを知ったから、朝、駅前でお酒買って稽古場へ行って、「横綱、昨日はどうも」とお礼に行こうと思ったら、また、闘竜関が、「よう来てくれた」と出てきてくれたけど、また僕の方は「あわあわあわあわ・・・」ですわ。 つづく
日本吃音臨床研究会の機関紙 スタタリングナウ 78号 2001年2月17日
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年10月6日
前回の続きです。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年10月5日
全盲の噺家
話、変わりますが、この應典院の本堂ホールの舞台は2回目なんです。「笑福亭伯鶴の会」で出してもろたんです。全盲の噺家です。落語は、目をつぶって聞いている方が状況が浮かんできたり、想像が広がったりして、結構便利な芸なんです。例えば、「わー、ここは生魂の境内か?こんな祭りやってるのか、あっ、タコ焼きやがあるな、おっ向こうに風船売ってるな」、と広がる。ところが、実際芝居で舞台でしようと思ったら、その全部そろえるわけにいかんし、セリフで言うことしか観客は分からへん。やっぱり視覚に訴えるのは限界がある。落語はどないにでもなる。
伯鶴君は目が見えないけれど自分の世界から絵ができています。えらいんです。松鶴師匠も太っ腹やね。大抵は、目の不自由な者は落語なんか無理無理と断ろうとしたんやけど、松鶴師匠も足が不自由で、落語家になった人やから引き受けたんでしょうね。
「俺は、ほんまは歌舞伎や芝居が好きやったが、足が悪いから芝居は無理や。そやから、俺は落語家になったんや。だから、何かあったからといって諦めるということに対してひっかかっていたんや。お前は目が悪いからといって諦めるのはあまりにもかわいそうや、弟子にしたろ」
全盲の落語家は珍しいから入門当時結構テレビでも取り上げられた。そのとき、松鶴師匠はえらいと思いました。
「おい、伯鶴、お前、目が見えないからといって、これを利用したらあかんぞ。お前はたまたま今テレビに出てるけど、たまたま目が見えないから取り上げられただけであって、お前の力と違うで。こんなんが落語の修行風景やなんて、ただ、お前がたまたま目の見えない子やから取り上げてるけど、それを利用して売れてるなんて思ったら承知せえへんぞ」 とぽーんと言われた。だから、伯鶴もよう分かってて、彼は目が見えないなんて思えへんくらい、普通なんです。例えば、「伯鶴師匠は目が不自由ですね」「不自由ちがいます、不便なだけですわ」「ハンディ違います。これは個性ですわ」とかね。彼は、ホノルルマラソンも走りに行くし、「昨日見た映画、よかった」と映画見に行くし、山にも登る。
ライトハウスにも行って、ボランティアの人に対面朗読してもらう。伯鶴さんは新聞読むためにだけやったら嫌やと。対面朗読してくれた女の子に、ちょっと一緒にお茶行けへんかってを誘う。そんなのが彼は自然なんです。
落語が終わって一杯飲んだ時です。遅くなってタクシーで帰らなあかんことになって、「兄さん、ちょっとうちへ先に回ってから後で兄さんとこへ」と一緒に乗った。車が動き出したとたんに、運転手さんに、そこ行ったら富士銀行、左に行ったら居酒屋があってと指示する。彼はその飲み屋から自分の家までの道を全部覚えてるわけですね。5分走ったらどこへ行くとかね。ところが、運転手さんがそれを真剣に聞いてなかったんで、途中で分からんようになった。ほんで僕が怒って、「ちゃんと道を言っているのにどう思ってるねん」と。運転手さんもその時初めて目の見えない人やったんやと気づいて、「すんませんでした」と言って。もういっぺん現場へ戻らないと、帰れない。
彼は目が不自由やから、確かに使いにくいですわな。本人は、「ふるさと寄席」連れて行ってやーと言うんですけど、「伯鶴さんって目の不自由な人でがんばってますねん」と前もって言うて、講演やってもらうことはあっても、普通の席で、急に、黒いサングラスかけて出ていくと、ちょっとお客さんには違和感がある。ちょっと気を使って使いにくいことがある。だから、大きな劇場からお声がかからないことがある。ところが、松鶴師匠が亡くなって13回忌・追善興業のとき、一門が日替わりで出演し、伯鶴さんもとうとうやっと浪花座に出ました。
「伯鶴師匠、やっと大きな舞台に出た」と見に行った知り合いの人がびっくりした。大きなところやから、まずチャカチャンチャンと鳴って出ていって舞台にちゃんと座れるかが心配です。ところが、チャカチャンチャンと鳴って、袖から出て来て、ぴたっと台の上に乗って、落語を一席やってすっと降りてきた。彼は、ちゃんと幕が開く前になんべんも歩いて、歩数を数えてやってたんですね。
これくらいの角度で回って足を挙げてと、それをみんなが見てる前でやると、いかにもあいつはがんばってるなあと思われるのが嫌で、人が見てないときやから、うんと早い時間に楽屋入りしてきて、そういう努力している。ところが、こんなことがたまにある。前、ある映画館で、伯鶴君と一緒に仕事をしたんです。準備ができたからと喫茶店でお茶を飲んだ。後から聞いたら悪気はないんやけど、他のメンバーが舞台が始まる段になって、「ちょっと、これ低いんちゃうか。お客さん、見にくいで。ちょっと上げよか」と2段ほど上げた。それをスタッフが彼に言うのを忘れたんやね。そしたら、伯鶴さんの出番です。チャカチャンチャン、出たら台の高さが違うから難儀した。ざぶとんを敷く子が、さーっと出てきて、伯鶴さんの手を引いて座らせた。あの時、彼は絶対悔しかったと思う。若い子に手を引いてもらってそんなのをやってもらいたくないのにと悔しかったけど、そういう失敗談がたまにあります。
彼は、ほんとに目が見えないのは、自分の個性やと言うてる。僕、伯鶴君のそう言うたとき、逆に励まされますね。どもりくらいなんやと思うときある。ただ、障害の大きい小さいに関係なく、そういうふうに頑張っている人がいるからいい。
車椅子の友達もようけおりますけどね。仕事に行ったら、手話の人がいます。要約筆記の人も。要約筆記って大変やね。しゃべったことをばーっと書いて。僕が講演したとき大変だった。「あわわわわわっ・・・」てなるからね。却ってその人を意識して合わそうとすると、間が狂うしね。
ある講演に行ったとき、教育委員会の世話人さんが、「今日は手話通訳させてもらうんです」。「ああ、お願いしますわ」。手話ってなんべんもやってるから大体分かってますやんか。ところが、その方が手話通訳の人にこんなことを言う。「君ら、今日は大変やで。今日の師匠、早口やから、手話やるのん大変やで」。もう、ぶちっーですわ。
「私は舞台はね、ちゃんと喋れまんのやあ!!」先方としては、冗談かなんか知らんけどね。そんなん言われたらええ気しませんわな。楽屋で雑談してるときに、どもってへんでも、早口やと思ったんやろね。「始まったら、ちゃんと喋れまんのや!!」。半分けんかを売ってるみたいやけど。そんなん、ようありますよ。
日本吃音臨床研究会の機関紙「スタタリングナウ 77号」2001年1月20日
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年10月5日
前回の続きです。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年10月5日
どもりと河内音頭
そやけど、やっぱりどもりのお陰というのは、河内音頭です。人のやらんことをやり出したのは、やらなしゃあなかったんです。どもりの僕が、落語家でなんとか生きていくためには何でもやらなと思っていたから。
気の合った仲間と飲みに行くの大好きやし、カラオケも大好きですが、気の張る席は今でもしんどいですね。仕事が終わり、主催者が「師匠、一席設けてます」「そうでっか」好きやから、大体地方へ行ったら交流会とかしますしね、地元の人と懇親会して飲んだりします。舞台終わって交流会に行っても僕だけ舞台の延長で、気を張ってる。何も裏表のある人間やないけども、舞台の延長の気でおろうと思ったら楽なんです。ところが、人間って、おもろいもんで、飲んだらその気持ちもマヒしてきます。二次会、三次会になって「文福はん、なんでこんな落語の世界に入ったんですか」と聞かれると、「うううう、わわわ・・・」とすごくどもってしまう。こうなると、気を張り続けていたらよかったと、ものすごくしんどくなって、落ち込んでしまう。
酒を飲んで、酔うて足とられるとか、酒に溺れるとかは僕はまあない。酒には強いので、そんなに正体を崩すことはないんやけど、僕は口にくる。飲んだらてきめんにひどくどもるんです。
昨日も、舞洲で、大阪でねんりんピック2000大阪、まず一部で素人の方の名人芸の司会を僕がして、その後、大阪名物の河内音頭を僕がやる。司会やって音頭をやるという両方できる落語家がいない。大阪の市の大きな仕事、3つ4つのプロダクションが競合したんですが、こんなタレントでやりましょうとプレゼンテーションして、落札するんですが、僕、4つくらい重なったんです。それくらい僕を買ってくれるのはうれしくて、ギャラがなんぼかは関係なくて、先に声をかけてくれたところから受けた。僕もそれなりにプレッシャーかかってましたわね。こんだけいろいろなとこからみんな競合してて、その中で選ばれた舞台やから、結構自分でも盛り上がったんです。うれしかったから、終わってから文福一座のメンバー5人でだいぶん飲んだんです。家へ帰ったら、ほんまにどもって、どもって、子どもも嫁さんも「お父さん、何言うてるか分からん、酔うてるのか、どもってるのか、何言うてるのか分からん」。結局酔うたらほんまに意識はしっかりしてても、口がついていきませんね。ほんまに。
伊藤 高座とか、緊張してるときは、まあまあ喋れるけど、地が出たりするとどもるという。僕の場合もそうなんですよ。大勢の人の前で喋ったり、この前の、NHKテレビの『にんげんゆうゆう』の収録のときもほとんどどもらないんだけれど、仲良くなったり気が楽になってくると、とたんにすごくどもり始める。
文福 分かってくれてるグループやったら楽しいでしょ。僕は吉本興業を辞めたでしょ。平成元年の秋ですが、嫁はんや、ファンの人も、当時は心配してくれましたね。でもね、大きなとこやったら、○日に新大阪に○時に集合といったら、なんぼええ人でも気を使ってしまう。その人と2時間一緒に新幹線に乗っていくとなると、なんかそこからちゃんと喋らなあかんとなると辛い。3日間同じ旅館に泊まらなあかんとなると、なんかしんどい。でも、今は吉本興業を辞めて、自分が座長をやってるから、特に遠い地方に行くとなったら、まず一杯飲んでて楽しいメンバー、気の合うメンバーを自分で選べるでしょ。だから、気は楽なんです。だから、その連中と車で6時間7時間走ったってその間、楽や。「あわわあわわ・・・」とやっても、みんな分かってくれてるから。
伊藤さんからもろた、今度のイベントのチラシをみんなに見せたったら、みんな爆笑やったですよ。「どもりを個性に? わーっっ」って。今までやったら僕の講演の演題は、「真の笑いは平等な心から」とか、「私と落語と大相撲」、「人生落語修行」、そういうタイトルやった。なのに今回は、「どもりを個性に!〜桂文福ユニークな落語家人生を語る」でしょ。みんな笑ろた笑ろた。ついにやったね。
カミングアウト、カミングアウトですよ。「俺はどもりですから。みんな見に来てよ」、そんなのは今までなかったですからね。そんなのは今回初めてですね。まあ、一種のカミングアウトですよ。いい機会を与えてもろたと思います。
伊藤 そうですか、それはうれしいです。それだけ人前で喋り、話芸ということでやってこられても、やっぱりどもりというのは消えないですか。治らないですか。
文福 まあ、僕ね、伊藤さんの本を読ませてもらって、テレビも見せてもらって、おっしゃってましたね。初め、どもりは治らないと言ったとき、そのときものすごく反発あったでしょ。僕も駅で「どもりは必ず治る、赤面症、対人恐怖症」の看板を見ると、どきっとするわね。僕はそんな看板嫌いですが、一番何が嫌いかって、薬の《ドモホルンリンクル》あれは嫌やね。「あんなん、誰が買うか!」。再春館製薬、あれ、腹立つ。なんであんな名前つけるねん、「ドモホルンリンクル」。(大爆笑)
本を読んだとき、どもりが治らないということがすぐ理解できた。結局、どもりは治らんでも、うまいこと、つき合おうてたらいいんです。確かにどもりでうつ病になってる人とかいろいろカウンセラーのとこへ行ってる人もいるやろうけど、どもりはほんまに、どもりの矯正所で「ア・イ・ウ・エ・オ」と練習したりして、その場所では「こんにちは」「どうもありがとう」と言えても、「じゃ先生ありがとうございました」。「田中君、よくどもらずに喋れてかったねえ。またがんばってね」。「はい、明日もがんばります」と外に出た途端、「ちょっとすんません。駅にはどういったらいいんですか?」と尋ねられたら、途端に「あわあわあわ・・・」となるでしょ。そういうもんでしょ。だから、どもりは治らんというのは、本当にそうでしょね。どもりは治らへんやないかい、和歌山弁も結局なまってもええんです。なまりは国の手形やしてよなー、おいやん(紀州弁)。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年10月5日
前回の続きです。今回三遊亭円歌さんのことがでてきます。まだ吃音に悩んでいた時、「山のあな、あな、あな、あな」と、どもりながら音読している、自分の体験をもとにした三遊亭歌奴さんの落語は、大人気でした。はじめは嫌だったのですが、だんだんそれが面白くなりました。当時、言友会の人たちと、円歌さんと話したことがありました。上野に行ったら、鈴本演芸場によく落語を聞きに行くのですが、時々円歌さんがでています。当時国鉄の「新大久保」の駅の名前が言えなかった人とはとてもおもえません。口座ではまったくどもっていません。
さて、文福さんの物語 2です。
さて、文福さんの物語 2です。
粋な!三遊亭円歌日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年10月5日
昔、「山のあな、あな、あな、あな」と、どもりをネタにしていた三遊亭歌奴さんがいましたね。今は東京の落語協会の会長の円歌師匠ですが、その師匠の、先代円歌師匠も、ものすごいどもりだったんですよ。ところが、新作落語は、爆笑だった。今の円歌師匠が「すいません。ででで・・・弟子にして下さい」と言うと、師匠が「いいい、いい・・よ」と受ける。ほんまこういうことがあったんですよ。それを週刊誌で読んだ時、なんともすばらしいことだと思った。当時、けいこ中、どもったりしたら豆つぶがぴしっと飛ぶ。一席終わったら「豆、拾え!拾った数だけお前はどもったんや」。20何回とかね。だんだん豆の数を少なくしていったという。
僕は、小学校、中学校のときどもってたし、高校もそうだった。ただ柔道や相撲で発散してましたから、決して暗い子やなかった。やっぱり話す仕事はあこがれで、絶対自分にはできっこないと思ってた。田舎の子にしたらラジオをよく聞いたり落語の本を読んだりして結構よう知ってた方です。その中で円歌師匠の本を読んで、普段、どもってもええやないか、舞台で喋ったら格好ええ、これは粋やと思った。ところが、時代が違った。
円歌師匠の時代は、高座だけうまくやったら、うまい噺家といわれる時代。僕らは、マスコミの時代。プロデューサーとかディレクターとか、花月の支配人も事務員さんも、若手の勉強会なんか来ないで、普段修行としての付き人をやっている姿を見て、この子はおもろいな、いけるなと判断する。僕らは、地域寄席を作って、例えば阿倍野青年センターの田辺寄席なんか、27年も続いているんですが、そんなんは見に来ない。その落語会では、ちゃんと喋っているつもりでも、楽屋で、「あああわわわ」と言ってるのを見て、あいつは絶対だめや、あの子は絶対落語できへんと、ずうっと思われていた。長いこと、僕はテレビやラジオの出番がなかった。まして花月の舞台もない。普段のフリートークで判断される時代だったんです。
早い子で3年で花月の舞台をもらう子もいるけど、僕は10年くらいかかった。だいぶ出遅れたんです。
あの当時は、普通はラジオでおもしろいとテレビに出られる。僕はテレビからです。
「あのあのあの・・・とほほ」
「君は言語不明瞭やからラジオ向きやない。持っている雰囲気はおもろいから、君を町へぱーっとほりだす」と、ディレクターからはっきり言われました。ABCのわいわいサタデー、今から20年近く前のテレビ番組です。
町の人が、何を考え、何を探り、どんな人生を歩んでいるかを、徹底的に掘り下げて聞くという番組ですが、レポーターって大嫌いでした。乾浩明アナウンサーや上岡龍太郎さんが司会でした。僕は、いつも「あのあのあの・・・」とやってると相手は向こうへ行ってしまう。一回もまともにインタビューできなかったんです。ところが、それを見た松本おさむというプロデューサーが、ラブアタックを作って成功し、今の探偵ナイトスクープを作った人ですが、「文福さん、おもろいわあ。インタビューできんでも、町へ出ていっておろおろしてな、あれ、おもろいわあ」。
普通は、「ちゃんと人の話、聞いてこんかい」と怒るのが当たり前でしょ。町へ行って「ちょっとあの、すんまへん、・・・あのあの、とほほ」。インタビューできなかったら、ディレクターが横で、おもろいでとパチパチ拍手している。この「とほほ」というギャグが一世を風靡し、それから結構僕の知名度が出ました。失敗したら「とほほ」というのが流行った。
「とほほ」は、僕にとってはギャグじゃなくて、単なる口癖です。何か喋ってて、うっとどもってことばが出ない時、ごまかすために、「とほほ」。どもりをごまかすギャグが当たったんやろね。
僕は、当時しょっちゅう家でも「とほほ」と言っていた。困ったときには、「とほほ」。これを見い出してくれたプロデューサーはえらいと思ってね。
いっときそれを前面に出せと言われ、インタビューをして、向こうへ行ってしまったのをカメラが僕をアップで撮り、「とほほ」ですわ。これを、10年くらいやったから、その勢いがあって、吉本興業を辞めても、自分でやることができたんでしょうね。吉本興業を辞めたので、今はあまりマスコミには出ないけど、当時の僕を覚えていてくれる人がいて、あっ、知ってるでと言ってくれる。その番組には感謝してます。自分が「どもりでよかったなあ」と、思い始めたのはその時からです。
9月月21日に、「大阪吃音教室は、この日は休みですが、桂文福さんが来て下さることになり、臨時で特別の大阪吃音教室を開きます」と紹介しました。そのとき、僕の書いた巻頭言を紹介したのですが、そのブログを読んで、何人もの方から電話があり、文福さんの話をぜひ紹介してほしいといわれました。
9月30日の「どもりについて、桂文福さんと語ろう」の会には、日程は休みなので多くの人には連絡できず、10人でも参加してくれればいいとおもっていたのが、32名も参加し、会場は爆笑と共感の、温かい空気が流れました。翌日文福さんから、「楽しかった、久しぶりに楽しくどもりました」と留守番電話が入っていました。
9月30日の様子は後日紹介しますが、天王寺区の應典院で開かれた「コモンズフェスタ2000」の催しで文福さんが話して下さったことを紹介します。どもりについてたくさん話してくださいました。とても長いので、数回に分けて紹介します。
ひとりの落語家の物語です。
てんてんてんまりてんてまり
紀州の殿様のお囃子にのって桂文福さんが登場。それだけでもう笑いのモードに入っている。文福さんは多くの著作の中で、「対人恐怖や赤面症」については書いておられるが、どもりについては全く書いておられない。
NHK教育テレビの『にんげんゆうゆう』を見なければ、「皆さんが、私のどもりについて、話にきて欲しいと言われても、来なかったかもしれない」と言われる。
大勢の人の前で、自分のどもりについて話すのは初めてで、これは私のカミングアウトだとおっしゃった。そして随分とどもりについて話して下さった。会場は常に爆笑の渦で、「どもりも悪くないなあ」との、温かい大きな笑いが広がっていった。
よくどもる電話
伊藤 文福さんが僕のところに電話を下さいましたでしょう。あのとき、実はどもる人の相談の電話がかかってきたのかなあと思ったんです。僕がどもりだから安心してですか。
文福 いやあ、そうじゃないです。相手によらず電話の場合は特にどもります。104で電話番号を聞くときなんかも、自分が聞きたいところの名前が出ないんです。應典院の「お」も「おおお・・」となる。むこうが「もしもし、」「はー」となると、いたずら電話と思われる。こっちが声が出ないのに、相手に腹が立って、「ええかげんにせえ」と切ったこともあります。こっちが普通に喋っていると思っているのに、向こうが「何ですか。どうしたんですか」とせっついて言われたら「もうええわ」となったこともある。
僕は、「わ」がなかなか出ないんです。「師匠はどこの出身ですか」と言われると、「わかやま」と言いにくいから、「紀州ですわ」と言う。
電話でおもしろかったのがひとつあります。
僕の『ふるさと寄席』のメンバーの桂勢朝君と電話する時、たいていぼけたりしてしょうもないギャグを言う。いくら互いにあほなことを言い合っていても、肝心な用事は正確に言わなあかんでしょ。
「明日行くとこは、神戸の須磨の水族館の近くの・・・、今言いにくいんやわ、焼き肉のわわわ・・」
「わかまつ」が言いにくい。勢朝君が「えー?」っとなって、「もしもし、うー・・」となんべんやっても一緒です。しまいには、「うまい焼き肉やがあってね、そんでその場所はね・・」「おい、どこやった?」と弟子に聞くと、弟子が大きな声で「わかまつ!」と言う。「今の聞こえたか。そう、そこが仕事の場所や、分かったか」
それを聞いて勢朝君が笑った笑った。永久保存版です。
それを彼が、楽屋で米朝師匠や兄弟子の枝雀さんやざこばさんに話す。「それは、しゃれてるなあ」とか、「粋やな」、とか、「おもろい奴や」とか言って笑う。楽屋でそれを言われるとうれしいんです。ところが、それをあんまりおもろいからと、彼が落語会の舞台で、まくらで喋った。ほんならお客も笑いますわな。それ、ごっつう腹立つんです。そんなんは、お客さんには言うて欲しくない。そんなんで笑うギャグは腹が立つ。気持ち、分かるでしょう。
それをネタにして、笑ってるお客は、ひょっとしたら俺をばかにしてるんちゃうかいなと、コンプレックスがわいてくる。後で、彼は、「いやあ、すんませんでした。僕、ちょっと勉強不足でした」と謝ってくれた。そういうの、すごく微妙ですね。楽屋とか、身内が分かってるのはいいが、一般のお客さんにはそう思われたくないという気持ちはものすごく強い。それは今でもあります。
伊藤 ということは、高座ではできるだけどもらないように、どもらないようにコントロールされているのですか。
文福 コントロールというよりも、僕の口調になってますから。僕だって、はっきり喋ろうとしてるんですよ。昔、うちの師匠(五代目文枝)から、「お前、出だしはおもしろいが、途中になったらなんであかんようになるねん」と言われた。古典落語をやる時は、はっきり喋ろうとするとよけいにボロが出る。ボロを出さないようにするから、おもろなくなる。僕の本来の口調とギャップがありすぎたんですね。
「お前は気にせんと、まくらと同じような口調で古典をやったらええんちゃうか」
師匠がそう見てくれましてね、僕はいっとき古典落語しばらくせんとこと思って、新作とか漫談調のをやっていた。そこで、ある程度、自分の文福流ができたと思ったので、今度は古典落語を、僕がやったらこうなりますよというのを、僕流にやっていくと、これは結構受けました。
自分の師匠の自慢をするのもなんやけど、うちのおやっさん(師匠)は太っ腹のところがあるから、桂三枝、きん枝、文珍という人気者や、小枝もあやめちゃんという女の子もいるし、個性的なメンバーがいます。師匠がそれぞれの個性を大事にしたんだと思うんです。
「お前、だめやないか。もういっぺんやり直し。もっとはっきり喋れ」と言われたら、僕は萎縮して多分だめだった。師匠が認めてくれたんです。だから僕のこの落語は、僕の弟子も真似できないと思う。もちろん弟子に稽古はちゃんとつけますよ。でも、後は自分でやらんとね。僕の独特の《間》なんかは他人が真似はまずできへん。僕も師匠の真似はやってませんしね。確かに伝統芸能だから、伝えていく話や、芸の精神とか芸人としての心構えなんかは教えますが、口調は自分だけのものやから。
伊藤 とってもよく分かります。きちっと喋れ、ちゃんと喋れ、ということを最初にかなり言われていたら、落ちこぼれるか、自信をなくしたでしょうね。
文福 そうですね。でも、落語で舞台に出るようになってからも悔しいことはありましたよ。我々舞台に出る前は、各楽屋の先輩や後輩にあいさつに行く。「失礼します。お先に勉強させていただきます」。終わったら、「お先にどうもありがとうございました」と言うのがまあルール、仁義です。ところが、挨拶に行こうと、戸をノックして、ぱっと部屋の戸を開けた時、緊張する人や人気者がいると、「うーっ」となって次のことばが出ない。「おおお・・」と、そしたら相手も「どどど・・・」、こっちも「ああああ・・」。そこで、腹立てて怒ったらちょっと大人気ない、芸人らしくないと言われますから、「おおお、どどど、きゃきゃきゃ」と歩調を合わせますが、やはり悔しい。
「よし、絶対こいつらより俺は今日は笑いをとったるぞ」とか、「こいつらより受けたるぞ」とか、闘志がわく。舞台に出たら「わー」とどもらずにやるでしょ。「舞台ではちゃんと喋ってのに不思議やねえ」と、言われた。僕自身は、普段どもってても舞台でちゃんと喋ってるのは、粋やと思っていました。それは円歌師匠の影響もあります。
つづく
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年10月4日
9月30日の「どもりについて、桂文福さんと語ろう」の会には、日程は休みなので多くの人には連絡できず、10人でも参加してくれればいいとおもっていたのが、32名も参加し、会場は爆笑と共感の、温かい空気が流れました。翌日文福さんから、「楽しかった、久しぶりに楽しくどもりました」と留守番電話が入っていました。
9月30日の様子は後日紹介しますが、天王寺区の應典院で開かれた「コモンズフェスタ2000」の催しで文福さんが話して下さったことを紹介します。どもりについてたくさん話してくださいました。とても長いので、数回に分けて紹介します。
ひとりの落語家の物語です。
てんてんてんまりてんてまり
紀州の殿様のお囃子にのって桂文福さんが登場。それだけでもう笑いのモードに入っている。文福さんは多くの著作の中で、「対人恐怖や赤面症」については書いておられるが、どもりについては全く書いておられない。
NHK教育テレビの『にんげんゆうゆう』を見なければ、「皆さんが、私のどもりについて、話にきて欲しいと言われても、来なかったかもしれない」と言われる。
大勢の人の前で、自分のどもりについて話すのは初めてで、これは私のカミングアウトだとおっしゃった。そして随分とどもりについて話して下さった。会場は常に爆笑の渦で、「どもりも悪くないなあ」との、温かい大きな笑いが広がっていった。
よくどもる電話
伊藤 文福さんが僕のところに電話を下さいましたでしょう。あのとき、実はどもる人の相談の電話がかかってきたのかなあと思ったんです。僕がどもりだから安心してですか。
文福 いやあ、そうじゃないです。相手によらず電話の場合は特にどもります。104で電話番号を聞くときなんかも、自分が聞きたいところの名前が出ないんです。應典院の「お」も「おおお・・」となる。むこうが「もしもし、」「はー」となると、いたずら電話と思われる。こっちが声が出ないのに、相手に腹が立って、「ええかげんにせえ」と切ったこともあります。こっちが普通に喋っていると思っているのに、向こうが「何ですか。どうしたんですか」とせっついて言われたら「もうええわ」となったこともある。
僕は、「わ」がなかなか出ないんです。「師匠はどこの出身ですか」と言われると、「わかやま」と言いにくいから、「紀州ですわ」と言う。
電話でおもしろかったのがひとつあります。
僕の『ふるさと寄席』のメンバーの桂勢朝君と電話する時、たいていぼけたりしてしょうもないギャグを言う。いくら互いにあほなことを言い合っていても、肝心な用事は正確に言わなあかんでしょ。
「明日行くとこは、神戸の須磨の水族館の近くの・・・、今言いにくいんやわ、焼き肉のわわわ・・」
「わかまつ」が言いにくい。勢朝君が「えー?」っとなって、「もしもし、うー・・」となんべんやっても一緒です。しまいには、「うまい焼き肉やがあってね、そんでその場所はね・・」「おい、どこやった?」と弟子に聞くと、弟子が大きな声で「わかまつ!」と言う。「今の聞こえたか。そう、そこが仕事の場所や、分かったか」
それを聞いて勢朝君が笑った笑った。永久保存版です。
それを彼が、楽屋で米朝師匠や兄弟子の枝雀さんやざこばさんに話す。「それは、しゃれてるなあ」とか、「粋やな」、とか、「おもろい奴や」とか言って笑う。楽屋でそれを言われるとうれしいんです。ところが、それをあんまりおもろいからと、彼が落語会の舞台で、まくらで喋った。ほんならお客も笑いますわな。それ、ごっつう腹立つんです。そんなんは、お客さんには言うて欲しくない。そんなんで笑うギャグは腹が立つ。気持ち、分かるでしょう。
それをネタにして、笑ってるお客は、ひょっとしたら俺をばかにしてるんちゃうかいなと、コンプレックスがわいてくる。後で、彼は、「いやあ、すんませんでした。僕、ちょっと勉強不足でした」と謝ってくれた。そういうの、すごく微妙ですね。楽屋とか、身内が分かってるのはいいが、一般のお客さんにはそう思われたくないという気持ちはものすごく強い。それは今でもあります。
伊藤 ということは、高座ではできるだけどもらないように、どもらないようにコントロールされているのですか。
文福 コントロールというよりも、僕の口調になってますから。僕だって、はっきり喋ろうとしてるんですよ。昔、うちの師匠(五代目文枝)から、「お前、出だしはおもしろいが、途中になったらなんであかんようになるねん」と言われた。古典落語をやる時は、はっきり喋ろうとするとよけいにボロが出る。ボロを出さないようにするから、おもろなくなる。僕の本来の口調とギャップがありすぎたんですね。
「お前は気にせんと、まくらと同じような口調で古典をやったらええんちゃうか」
師匠がそう見てくれましてね、僕はいっとき古典落語しばらくせんとこと思って、新作とか漫談調のをやっていた。そこで、ある程度、自分の文福流ができたと思ったので、今度は古典落語を、僕がやったらこうなりますよというのを、僕流にやっていくと、これは結構受けました。
自分の師匠の自慢をするのもなんやけど、うちのおやっさん(師匠)は太っ腹のところがあるから、桂三枝、きん枝、文珍という人気者や、小枝もあやめちゃんという女の子もいるし、個性的なメンバーがいます。師匠がそれぞれの個性を大事にしたんだと思うんです。
「お前、だめやないか。もういっぺんやり直し。もっとはっきり喋れ」と言われたら、僕は萎縮して多分だめだった。師匠が認めてくれたんです。だから僕のこの落語は、僕の弟子も真似できないと思う。もちろん弟子に稽古はちゃんとつけますよ。でも、後は自分でやらんとね。僕の独特の《間》なんかは他人が真似はまずできへん。僕も師匠の真似はやってませんしね。確かに伝統芸能だから、伝えていく話や、芸の精神とか芸人としての心構えなんかは教えますが、口調は自分だけのものやから。
伊藤 とってもよく分かります。きちっと喋れ、ちゃんと喋れ、ということを最初にかなり言われていたら、落ちこぼれるか、自信をなくしたでしょうね。
文福 そうですね。でも、落語で舞台に出るようになってからも悔しいことはありましたよ。我々舞台に出る前は、各楽屋の先輩や後輩にあいさつに行く。「失礼します。お先に勉強させていただきます」。終わったら、「お先にどうもありがとうございました」と言うのがまあルール、仁義です。ところが、挨拶に行こうと、戸をノックして、ぱっと部屋の戸を開けた時、緊張する人や人気者がいると、「うーっ」となって次のことばが出ない。「おおお・・」と、そしたら相手も「どどど・・・」、こっちも「ああああ・・」。そこで、腹立てて怒ったらちょっと大人気ない、芸人らしくないと言われますから、「おおお、どどど、きゃきゃきゃ」と歩調を合わせますが、やはり悔しい。
「よし、絶対こいつらより俺は今日は笑いをとったるぞ」とか、「こいつらより受けたるぞ」とか、闘志がわく。舞台に出たら「わー」とどもらずにやるでしょ。「舞台ではちゃんと喋ってのに不思議やねえ」と、言われた。僕自身は、普段どもってても舞台でちゃんと喋ってるのは、粋やと思っていました。それは円歌師匠の影響もあります。
つづく
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年10月4日
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