前回の続きです。
「伊藤さん、あんな怖い先生と、よく毎日一緒にいられるね」
何人もの人に、そう言われました。
卒寿のお祝いの会のスピーチが、年代によって違うのがおもしろかった。神山先生が大阪教育大学の教授に赴任した時に出会った人たちや、その前のアメリカへの留学を終えて、国立聴覚言語障害センター言語課長に赴任した時代からのつきあいのある人たちは、一様に厳しかったと話します。次の次の時代に神山先生と出会った人たちは、神山先生のことをとても優しい人だと言います。
そのどちらも神山先生なのですが、僕には他の人以上に厳しく指導をして下さいました。
大阪教育大学の駐車場に、「白いフォルクスワーゲン」が停まっていると、神山先生が朝早くから研究室に来られていることになります。車を見てあわてて研究室に入ります。雑誌や論文など必要なものを切り取っておいて、僕に整理するよう、またそれについて調べるよう、指示があります。「Mr I 」と書かれた紙切れの下には、今日私がすべき仕事が山積みです。今から思えば、たくさん抜けたところはあったにせよ、よくやれたものだと思います。年間の言語障害児教育課程のカリキュラム、非常勤講師のスケジュール管理、非常勤講師への連絡、当日のお世話。おかげで、たくさんの人と親しくなりました。
神山先生からよく言われたのが、「雑用に強くなれ」でした。雑用を素早く処理をしなければ、大切な、本当にしなければならない本仕事ができません。「雑用に使われるな。雑用は雑用だが、おろそかにするな」。この教えは今の僕にはもうだいぶ薄れてしまいましたが、いろんな雑事の手順を考え、何をどうすれば早く確実にできるか、仕事にとりかかる前に、ちょっと考える習慣がつきました。今は、雑用に強いなんてとても言えませんが、当時はそれなりに、膨大な仕事をこなせていたのだろうと思います。
とても良い勉強にはなったけれども、神経の休まることのない、しんどい一年でした。半ば辺りから「白いホルクスワーゲン」が停まっていない時は、ほっとしました。今日一日少し楽ができる。やり残した仕事に取りかかれる。研究生、教務補助の一年が半分以上過ぎた頃、「おまえが行きたいところを推薦する。東京都の身障センターのスピーチセラピストか、新しく新設される「特殊教育特別専攻科」の教員の増員を文部省が認めたので、その教員として採用もできる」と言われました。これまでの労が報われるうれしい提案でした。僕は躊躇せず、大阪教育大学の教員になる道を選びました。
高校2年生の時、国語の音読が怖くて、不登校になり、国語科の教師に音読の免除を願い出て、免除されたことで高校に行けるようになって、やっと高校を卒業した僕が、まさか、大学の教員になるとは、思いもよらないことでした。何事に対しても自信がなかった僕ですが、浪人生活を大阪で一人で新聞配達店に住み込んで、なんとかやりきったこと。どもる人のセルフヘルプグループを創立し、会長の陰の力があったにせよ、21歳で幹事長というナンバー2になり、自分よりもかなり年上の30代、40代の人にも臆せず、リーダーシップを発揮していたことが、知らず知らずに、やればなんとかなるとの自信になっていたのでしょう。また、好きに障害児教育、言語障害児教育関係、吃音のことなら、勉強を続けたいと思い、傲慢にも大学教員になれると思ったのでしょう。28歳で僕は初めて就職することができました。国立大学の文部教官助手という、きちんと仕事を続けていけば、大学教授を約束されたポジションです。
大学院を出ていない僕が、教授会の選考委員会を通るには、ある程度の実績が必要です。その手順を熟知している神山先生は、次々と論文を共著で書くことを指示しました。書籍の編集構成などの仕事も割り振って下さり、それをなんとかこなすのに、研究生の残り半分を費やしました。そこで、文章の書き方を徹底的に指導されることになるのです。 つづく
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/05/10