伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2016年05月

神山先生の カバン持ち生活−雑用に強くなれ


 前回の続きです。

 「伊藤さん、あんな怖い先生と、よく毎日一緒にいられるね」
何人もの人に、そう言われました。

 卒寿のお祝いの会のスピーチが、年代によって違うのがおもしろかった。神山先生が大阪教育大学の教授に赴任した時に出会った人たちや、その前のアメリカへの留学を終えて、国立聴覚言語障害センター言語課長に赴任した時代からのつきあいのある人たちは、一様に厳しかったと話します。次の次の時代に神山先生と出会った人たちは、神山先生のことをとても優しい人だと言います。

 そのどちらも神山先生なのですが、僕には他の人以上に厳しく指導をして下さいました。
 大阪教育大学の駐車場に、「白いフォルクスワーゲン」が停まっていると、神山先生が朝早くから研究室に来られていることになります。車を見てあわてて研究室に入ります。雑誌や論文など必要なものを切り取っておいて、僕に整理するよう、またそれについて調べるよう、指示があります。「Mr I 」と書かれた紙切れの下には、今日私がすべき仕事が山積みです。今から思えば、たくさん抜けたところはあったにせよ、よくやれたものだと思います。年間の言語障害児教育課程のカリキュラム、非常勤講師のスケジュール管理、非常勤講師への連絡、当日のお世話。おかげで、たくさんの人と親しくなりました。

 神山先生からよく言われたのが、「雑用に強くなれ」でした。雑用を素早く処理をしなければ、大切な、本当にしなければならない本仕事ができません。「雑用に使われるな。雑用は雑用だが、おろそかにするな」。この教えは今の僕にはもうだいぶ薄れてしまいましたが、いろんな雑事の手順を考え、何をどうすれば早く確実にできるか、仕事にとりかかる前に、ちょっと考える習慣がつきました。今は、雑用に強いなんてとても言えませんが、当時はそれなりに、膨大な仕事をこなせていたのだろうと思います。

 とても良い勉強にはなったけれども、神経の休まることのない、しんどい一年でした。半ば辺りから「白いホルクスワーゲン」が停まっていない時は、ほっとしました。今日一日少し楽ができる。やり残した仕事に取りかかれる。研究生、教務補助の一年が半分以上過ぎた頃、「おまえが行きたいところを推薦する。東京都の身障センターのスピーチセラピストか、新しく新設される「特殊教育特別専攻科」の教員の増員を文部省が認めたので、その教員として採用もできる」と言われました。これまでの労が報われるうれしい提案でした。僕は躊躇せず、大阪教育大学の教員になる道を選びました。

 高校2年生の時、国語の音読が怖くて、不登校になり、国語科の教師に音読の免除を願い出て、免除されたことで高校に行けるようになって、やっと高校を卒業した僕が、まさか、大学の教員になるとは、思いもよらないことでした。何事に対しても自信がなかった僕ですが、浪人生活を大阪で一人で新聞配達店に住み込んで、なんとかやりきったこと。どもる人のセルフヘルプグループを創立し、会長の陰の力があったにせよ、21歳で幹事長というナンバー2になり、自分よりもかなり年上の30代、40代の人にも臆せず、リーダーシップを発揮していたことが、知らず知らずに、やればなんとかなるとの自信になっていたのでしょう。また、好きに障害児教育、言語障害児教育関係、吃音のことなら、勉強を続けたいと思い、傲慢にも大学教員になれると思ったのでしょう。28歳で僕は初めて就職することができました。国立大学の文部教官助手という、きちんと仕事を続けていけば、大学教授を約束されたポジションです。

 大学院を出ていない僕が、教授会の選考委員会を通るには、ある程度の実績が必要です。その手順を熟知している神山先生は、次々と論文を共著で書くことを指示しました。書籍の編集構成などの仕事も割り振って下さり、それをなんとかこなすのに、研究生の残り半分を費やしました。そこで、文章の書き方を徹底的に指導されることになるのです。   つづく

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/05/10

神山五郎先生の卒寿の祝い 2

大阪教育大学の1年間

 ふとしたことから大阪行きをきめたものの、学費は安いものの生活費がありません。準備して動くのではなく、いつも突発的に動いて後から考えるのが、僕の人生のくせです。さて、どうするか。僕の家はとても貧乏だったので、4人の子どもが大学へ行くのはたいへんだったろうと思います。東京の大学へ行ったのも、何も明治大学に行きたかったわけではなく、「どもりを治したい」の思いばかりで、「どもりは必ず治る」と宣伝し、子どもの頃から新聞や雑誌に載っていた「東京正生学院」に行くのが目的でした。

 どもりの悩みに支配されていた僕は、高校時代勉強をまったくしませんでした。当然2浪します。しかし、家は貧しい。三重県の津市から近鉄で大阪に出て、上本町についてから朝日新聞を買い、新聞配達の求人を見つけて、電話して、豊中の曽根駅の近くの新聞配達点に住み込みました。その時の話はいろいろとあるのですが、省いて、一年間新聞配達をして試験料、入学金をそこで工面しました。そして、今度は東京の明治大学の近くの新聞配達点店から、僕の大学生活がスタートするのです。吃音に悩み、どもっていた僕に出来る生活費を稼ぐ道は、黙って仕事ができる新聞配達しかなかったのです。

 こんなわけで、東京での大学生活の全ての費用は自分で稼いでまかないました。新聞配達は、東京正生学院の寮にはいるまでの夏休みまでで、1か月の寮生活の後は、小さなアパートで、ありとあらゆるアルバイトをして大学生活をおくりました。その時、言友会も作っていて、必死に活動をしていましたから、アルバイト生活と、セルフヘルプグループ言友会の活動にほとんどのエネルギーがそがれていましたので、大学で勉強をしたという意識はあまりありません。

 しかし、大阪教育大学では、好きなどもりの勉強、障害児教育、心理学などの勉強なので、過去7年間の大学生活のように、アルバイトはしたくない。大学の勉強に専念したいと思いました。さて、どうするか。父親にたのむことにしました。7年間で子どもたちは成長し、親の方も生活が少し楽になっているとおもったので、生活費を出して欲しいと父親に頼みに行きました。

 27歳、もうすぐ28歳になる男が、就職をしないで、また一年勉強したいからお金を出して欲しいと言う。「いい年して、いいかげんにしろ」と言われても仕方がありません。しかし、父親は何の苦情も言わず、「おまえが本当にしたい勉強があるのなら、出してやる」とあっさりと言ってくれました。7年自分で生活してきたのですから、きっと親父は許してくれる。僕は親父を信じていたのだと思います。

 そして、大阪教育大学の生活です。小学校2年生から、ほとんど勉強らしいことをしてこなかった僕は、勉強する薪(まき)がまだたくさん残っていたのでしょう。現職教員の内地留学の過程だったため、ほとんどが、小学校の教員でベテランの先生です。その中で、村上さんと僕とあと3人ほどが若い人間でした。神山先生のことば通り、毎日がエキサイティングの連続で、緊張感あるものでした。いきなり、ゴールデンウィークに大学に寝袋をもちこんでの合宿です。アイディアあふれる神山先生の教育スタイルに魔法がかかったようにのせられて、夜遅くまで研究室で激論し、論文を書き。毎日がお祭りのような、楽しく、充実した1年でした。教授陣もいまから考えてもすごい人たちが、大阪教育大学平野分校の障害児教育講座には集まっていたのです。

 卒業し、就職をするころになって、神山先生から、1年間研究生として残れと言われ。僕は研究生としてもう一年、神山研究室の教務補助として、少し給料をもらって残ることになりました。ここから、神山先生と濃密なつきあいが始まり、僕の人生も大きくかわっていくことになるのです。   つづく

 これまで、このようなことは書いたことはないのですが、折角神山先生の90歳のお祝いにたちあつたことをきっかけとして、書き始めたら、こんな文章になっていきました。少しつづきも書いていこうと思います。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/05/09




神山五郎先生 卒寿を祝う会

 神山先生90歳誕生祝い

  2016年4月30日 神山五郎先生の90歳を祝う会が東京上野の水月ホテルで開かれました。
 神山先生は、私の恩師ですが、それ以上の存在です。私が現在吃音について発言し、本を書き、大学や専門学校で講義が出来ているのも、全て神山先生のおかげです。その報告でこのブログを書き始めたのですが、神山先生との出会いをまず書きたいと思い始めましたので、それを書きます。

 東京言友会で活動していた時、後輩の村上英雄さんが、大阪教育大学の言語障害児教育教員養成課程で勉強したいと、大学卒業ごの進路を僕に話しました。当時、大阪教育大学教授だった神山先生とは、言友会創立当初からいろいろと学ばせてもらっていたので、大阪にゆきたいなら是非紹介したいと、横浜のご自宅にお伺いしました。ただ単に、後輩を紹介しに行っただけで、僕は大阪に行くつもりは全くありませんでした。ところが、この横浜のご自宅を訪問したことが私の運命を変えました。

 後輩だけでなく、僕もその3月二つ目の大学、明治大学政治経済学部を卒業します。二年間の浪人生活で明治大学文学部に入り、その後学士入学で政治経済学部に行ったものの、今後どう生きていくのか、定まっていません。その時27歳になっていました。大学を卒業したらほとんどの大学生が就職した時代です。社会に出るのか怖かったわけではないのですが、学童期・思春期とあまりにも吃音に悩みすぎて、勉強もせず、将来への夢も希望もまったくもてないままに、日々を過ごしていたのでしょう。いまから考えれば、将来をどう考えていたのか、どう生きようとしていたのか、あまりにも自分自身に無責任な態度に、驚くばかりです。21歳の夏には吃音と向き合い、吃音の悩みからは完全に解放されていたにもかかわらずです。

 神山先生は、大阪教育大学では、こんな勉強、こんなことをすると熱く語って下さいました。その話を聞くうちに、今までまったく考えもしなかった、僕も大阪に行きたいとの思いが膨らんできました。村上さんと神山先生のご自宅を後にして、帰る道中で、行きたいの思いが、僕も一緒に大阪に行く、に変わっていました。もし、後輩が大阪に行きたいと僕に話さずに、大阪に行っていたら、今の僕はありません。人との出会いは、不思議な偶然の積み重ねです。「もし、あのとき、何々でなかったら」が、人生というもでしょうが、僕はあまりにも計画がなさ過ぎました。まさに、「風に吹かれるまま」生きている。その人生の始まりでした。
 長くなりますので、今日はこれくらいで。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/05/08  

岡山で吃音相談会

岡山相談会2016



 毎年この時期に、岡山で吃音相談会をしています。当時、民間吃音矯正所と言われていた「東京正生学院」で知り合った11名の仲間と、1965年の秋に創立した言友会。20年以上も前に離脱し、言友会とは全く関係がなくなったのですが、唯一、ずっと僕を講師に相談会を開催してくれているのが、岡山言友会です。

 昨年は、中国・四国地区の言友会の集まりにも僕を呼んでくれました。会を離れて20年以上がたつと、随分変わるもので、吃音に対するとらえ方が、大きく違ってきたように思います。その中で、岡山が僕との関係を持ち続けて下さっていることが、とてもありがたいことです。

 今年は、発達障害支援法について話さなくてはならないでしょう。この新しい流れに、どもる僕たちがどう向き合うか、50年のセルフヘルプグループの歴史の真価が問われると、僕自身は考えています。初めて相談会に参加する人たち、岡山の人たちとどんな話ができるか、今からとても楽しみです。

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/05/07

大阪吃音教室はすごい


 自分の吃音課題を分析する

 全くの新人の初めての講座担当。その応援の意味もあってか、いつもより若い人の参加が多いように感じました。前回説明したように、吃音のチエックリストをみんなが記入し、グループに別れて話し合います。ただ吃音について話し合うのではなく、各自が記入した吃音チエックリストをもとにした話し合いは、いつもですが、焦点が自分の成長の軌跡の話し合いになり、吃音のもんだいだけでなく、自分の人生へも話が発展して、とてもおもしろい話し合いにります。複数回このチェックリストをしている人は、どんどん変化していく自分を確認できるばでもあります。与えられた検査ではなく、自分自身の課題を自分が分析して、自分の課題を発見していく。大阪吃音教室にとって、とても大切な講座になっています。

 昨年は、吃音のとらわれが〇〇点だつたのが、このように変化したなど、自分の変化を、日常生活の具体的な場面を紹介しながら話すことができます。一年前の自分とは違うと話す人たちは誇らしげです。参加者の成長を確認できるこの講座が、僕は大好きです。

 世話人のメーリングリストに、講座が終わった後、ふたりからメールが来ていました。
 

 「昨日の吃音教室、お疲れ様でした。昨日の初登板、落ち着いて堂々と進められていてすごいな〜〜〜〜と思って見ていました。初参加の人も多いなか、用意された内容を自分のペースで進められ、終了の時間まできちんと考慮していたところも、とても初めてとは思えなかったです。
 「運営委員が初めて講座を担当した時のこと」という、新鮮な切り口の質問を始め、Kさんのアレンジが効いた講座でした。
 私は初めて講座を担当した時の緊張がどれほどだったかは覚えていませんが、数年間は緊張しすぎて講座中に頭が真っ白になっていました。(今も!?)。しかも私は、あれもこれも…と膨大になってしまうので、自分用の本番レジメもボリューミーになりがちですが、あれだけシンプルにすっきりとご自分用のレジメを用意されていて感心しました。
 進行用の原稿を丁寧に作られていたましたが、慣れてくると自分用の原稿にプラスして、その時のご自分の言葉で話せるようになるのでは、と思います。昨日は、丁寧に準備されたことが伝わり、私も背筋が伸びる思いでした。次は来年度、どんな講座を担当されるか楽しみですね」


 「昨日はとても楽しい例会でKさんが、例会後の喫茶店での帰り間際にすごい満ち足りた顔をしていたのが印象的でした。初講座ということで多くの方が応援の意味を込め集まってくださり、普通なら怖じ気づくところを、うまく自分のペースを乱さず、逆に引き込んでいたように感じました。どれだけ勉強したのか想像もつきませんが、やるだけのことはやったという自負が、グループのちからがそうさせたのだと思います。
 初参加者の方々も最後のほうでは大阪吃音教室に溶け込んでいたようで、とても緊張していた人も、あの雰囲気ではきっとまた来てくれると思います。それぞれの初参加者の感想には「これからはきっと良くなる」という
想いがこめられていて、この幸せな時間をビン詰めできたらいいのにと勝手に思っていました。
 大阪吃音教室に参加し始めて、年月の浅い、若い人たちは、特にめざましい変化をしているのではないかと、私は身近にいて感じていますがみなさんはどうでしょうか。私は自分を変えようと通っているうちに、いつしか変えさせてもらっているんだと最近気づきました。たった300円の参加費で、これだけ人生が変わるなら大阪吃音教室はなんて値打ちがあるんだと思います。みんなが言うように関西圏に住んでいてこれほど良かったと思うことはありません」

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/05/03

吃音検査法批判から生まれた 自己チェック


 大阪吃音教室の「自分のどもりの課題を分析する」の由来


 1981年、日本音声言語医学会の検査法試案が出されたとき、どもる状態を吃音症状として、こんなに細かく検査された結果を、親や子どもが見たらどんな気持ちになるだろうとまず思いました。そして、検査結果の学会の指摘する症状に応じた治療方法を提示できるほど、治療方法が確立されていないのにどうするのだろうと、強い疑問をもちました。私は糖尿病ですか、血液検査の結果は治療に反映されます。厳しく生活指導をされる、薬を変えられる、それでもだめならインシュリン注射などと。

 吃音は吃音症状だけの問題ではないと、ジョンソンが言語関係図で、シーアンが氷山説で強調してきたにも関わらず、検査が症状に終始し、現在の生活態度、吃音についての意識、これからの人生についてほとんど関心がない。このような検査法を、ことばの教室の教師や言語聴覚士などが使ったら困るとの強い危機感をちました。

 日本音声言語医学会検査法〈試案1〉はこう説明しています。
 「重症度を測定し、予後を推定するのに役立つ尺度を構成するための資料、相互に比較可能な症例追跡資料が十分にはない。とくに問題の核となる吃音行動の分類・命名・記述について統一がない。資料蓄積のためにも、症状の適切な把握・記述に基づいた、統一した検査法が必要」

 そこが僕が不思議に思うのは、英語と日本語はどもり方も似ているようで微妙に違います。日本語でどもる人の状態を徹底的に分析して、検査法をつくるのならともかく、安易に、アメリカ言語病理学の英語でどもる人の検査法をそのまま翻訳して作ったのです。この検査法で、適切な状態把握が可能かどうか、検査器具を購入して、私たちは検査法を実際に試用し検討しました。

 大阪吃音教室に新しく参加した10人に実施し、2か月後同じ10人に再度実施しました。生活で変化はないのに、検査場面では、たった2か月の時間差なのに、3人に著しい差がみられました。検査場面で検査するために、どもる人の「生きた現実場面」のどもる状態の把握は難しいのです。被検者10人全員が検査場面と日常生活の場面は全然違うといいました。当然です。本来吃音の検査などできないのです。私の糖尿病なら、誰が検査しても、その人の状態は変わりません。吃音は検査する人が、怖い人か、優しい人が、男か、女かでも違うでしょう。その人の体調でも大きな変化があります。

 検査に、信頼性がないだけでなく、検査による弊害があります。検査をされれば、この症状項目はどうすればよいのか、治るのかと期待してしまいます。また、吃音に深く悩んでいる人なら、検査結果を見せられて。ますます吃音への劣等意議を強めることになるでしょう。検査者もこのどもり方はどの分類に入るのかなどとその判断にとまどい、意識を集中し、どもる状態にとらわれなければこの検査は実施できないのです。検査者と被検者が共にどもる状態にふり回される危険性を、吃音検査はもっているのです。
 記録に時間がかかり、吃音の全体像がつかみにくいだけでなく、細部にわたるどもる状態の分類や重症度に信頼性がなかった検査法は、まったく意味がないのです。

 1983年、筑波大学で行われた、第28回日本音声言語医学会総会で、私たちはその結果を発表し、日本音声言語医学会の検査法を批判しました。
 すべての検査は、その後の臨床に結びついてこそ意味があるのです。細かにどもる状態だけを検査するこの検査法が、ことばの教室や、臨床家が使い、吃る人や吃る子どもが振り回されたら困る。この検査法がなくなることを願って、強い危機感をもって批判しました。批判するからには、代案を示さなければならないと、私たちの吃音評価を提案し、日本音声言語医学会の学会誌に掲載されました。興味のある方は、その論文全部を、日本吃音臨床研究会のホームページにアップしていますのでお読みください。

 私たちの主張する「吃音と上手につきあう」の視点に立ち、その後の臨床に結びつく吃音評価をつくりました。
 私たちはどもる人の吃音意識、生活実態を調査を整理し、「吃音のとらわれ度」50項目、『日常生活での回避度」30項目、『人間関係の非開放度』30項目の調査項目を決定し、どもる人100人に実施しました。項目ごとに配点を変えました。

 この評価法をつくるために私たちは何度も合宿をし、最終合宿は内須川洸・筑波大学教授との2泊3日の個人旅行でしました。わいわいがやがや、みんな温泉でくつろいだ後の集中した話し合いはもとても楽しいものでした。私たちは常に、楽しみながら、遊び感覚で、しかし真剣にまじめにが特徴です。こうして出来あがつた吃音評価法を、吃音チェックリストとして、「自分の吃音の課題を分析する」として、現在も大阪吃音教室のもっとも重要な講座として受け継がれているのです。

 「吃音のとらわれ度」
 (満点155点〉最高点151点、最低点6点、平均点62.8点
「たとえ内容がよくてもひどく吃った後には、気がめいる」の質問に「ハイ」と回答した人が一番多く56%。「私は吃るのが嫌さに買物にはほとんど行かない」が一番少なく2%でした。しかし100人中2人の回答は注目に価します。

 「人間関係の非開放度」
(満点83点)最高点63点、最低点5点、平均点30.5点
 人間関係が全く開放されていないとする回答の割合は多くはないのですが、「時々」という回答を加えると、職場での人間関係や親戚とのつきあい等の項目で非開放度は高い得点となりますが、これはその人の性格や、ライフスタイルの好みでもあり、吃音が必ずしも影響をしているわけではありませんが、吃音が影響しているとしたら、どうするか、大阪では今、まじめに取り組む吃音教室だけでなく、レクレーション活動も重視しています。

 「日常生活での回避度」
 (満点111点)最高点111点、最低点0点、平均点31.2点
 「結婚式でスピーチを頼まれた時、引き受けるか」に「いつも避ける」が一番多く25%。「避けることが多い」、「時々避ける」も加えると職場、学校での研究発表、職場会議での発言、公式な場での自己紹介などが回避度が高い結果がでました。
 吃音評価法の使い方
 どもる子ども、どもる人の指導に直接生かせることを目指してこの評価法は作成されました。一番変容が困難なものは吃音へのとらわれです。「吃音を意識するな」と指導されても、長年の吃音に対する否定的な感情は消えるものではありません。しかし、日常の生活態度を把握し、問題点を整理し、行動を変えていくことは可能です。どもるのが嫌さに日常生活のさまざまな場面を回避することをある程度明らかにし、自分の行動パタンを知る。具体的に把握した回避の行動を徐々に回避しないようにする。日常生活の回避度を減らし行動する中で、かつて「たとえ内容がよくてもひどく吃った後は気がめいる」に「はい」とつけていた人が次の調査では「いいえ」と回答するようになることがあります。どもる人は次のように循環しながら成長していくのである。

  日常生活で回避しない → 吃のとらわれから解放される → 人間関係を開放する
→日常生活を回避しない と循環していきます。
  『吃音評価の試み−吃音検査法の検討を通して』  『音声言語医学Vol.25,No.3』P243〜P260(1984年)      
 この吃音評価法は成人のために作られたものですが、子ども版をつくり、全国のことばの教室で実施してもらい、事情に合わない項目を削除し、修正を何度も加えたものを紹介したのが、「親・教師・言語聴覚士が使える吃音ワークブック」(解放出版社)に掲載されています。まだ改良の余地がありますが、この自己チェックを使っていただき、情報交換しながらよりよいものにしていきたいと考えています。名称は、大人版と子ども版では次のように変わっています。
 「吃音へのとらわれ度」→吃音に対する気持ちや考えのチェックリスト
 「人間関係非開放度」→対人関係や人間関係のチェックリスト
 「吃音の回避度」→行動のチェックリスト

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/05/01
 
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