伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2014年03月

少しですが、旅にでます。


 このブログ、書きたいことは山ほどあるのに、日常の仕事に追われ、昨年のいろんなことも掲載できずにいました。オオカミ少年のように「今度こそ」と毎度書いているように思います。

 今年から、少しはヒマになると思っていたのが、昨年同様忙しい一年になりそうです。少し、からだと頭の整理のために、ほんの少しですが、すべて連絡がとれないところに出ます。本当は、とれるのでしょうが。

 4月1日から、気持ちも新たに、このブログ、大切に更新していきたいと考えています。
 7日ほど休みますが、今後ともよろしくお願いします。

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/03/25

吃音ホットライン

 電話の仕事で、「ありがとうございます」が言えない

 僕が開設している、吃音の電話相談、吃音ホットラインには、毎日3件は電話相談があります。これから、その中から印象にのこった相談を、相手が特定できないよう配慮しながら、紹介していこうと思います。

 先日の相談の女性は、小学生の時、どもっているとの自覚はあったものの、悩むことも困ることもなく過ごしてきました。現在50歳で、事務や営業の仕事をしていたのが、6年前からコールセンターで仕事をしています。どもってはいたものの、これまでは不安もなく、十分に仕事ができていたのが、1か月ほど前から、急に「お電話ありがとうございます」の「ありがとうございます」がどもって言えなくなりました。
 不安がつよくなったので心療内科に行くと、精神安定剤を処方されました。それを飲むと頭がぼおっとする副作用があり、効果もありません。そこで、インターネットをみて電話をくださいました。

 1か月前に何があったのかと尋ねると、電話応対がよくて表彰され、それから、さらに良い応対をしなければとの気負いや、プレッシャーが原因ではないかと言うのです。最近はどもってうまく言えないので、上司からも注意をされます。品質向上のために、電話はすべて録音されており、それを聞き直してチェックがなされるのです。

 録音されているのはプレッシャーですね。いろいろと話しながらの僕からの提案はこうです。

 家でいくら「ありがとうございます」を練習しても役にはたちません。ネットでは「改善法」なるものが、たくさん宣伝していますが、まったく役に立たないことを、100年の吃音治療の歴史を説明してわかってもらいました。「治らない、治せない」「少しでも改善しよう」との努力も無駄だと話しました。50歳まで、ほどんど問題なく仕事ができていたのです。吃音はこのようになんらかのきっかけで変化していくものだとも話しました。

 吃音を治す、軽減ではなく、サバイバルを考えようと話しました。
 どもる僕たちは「ありがとうございました」と一音一音ちゃんと言わなければならないと思い込みすぎです。お電話までは出るので、次の「ありがとうございました」が多少流暢、明確でなくても、そんなたいしたことはないと考える必要があります。そこで、僕はいろんな言い方をしてみました。「お電話」をさっと言って「りがとうございました」と、「あ」を飛ばしました。すると滑舌が悪いと言われました。何度も、いろいろと言ってみて、結局「お電話」を明瞭に言って「りがとうございました」と「り」や「が」を大きく、強くいうなのでしてみました。

 「ありがとうございます」と一音一音明瞭でなくても、相手には十分「ありがとうございます」が伝わることを理解して下さいました。人はこれを「ごまかし」というかもしれません。僕たちは「サバイバル」と言います。「治らない、治せない」のだから、どんな手を使っても生き延びたいのです。仕事を辞めずに、あの手、この手で工夫するのです。そうしている内に、1か月前には、表彰されるくらいだったのですから、変わっていくと僕は思います。

 日本のトップと言われる首相の滑舌の悪さは有名です。「日本に元気をトリモロス」でも十分通用するのです。僕たちどもる人間はもつと自分の発音に寛容になつた方がいいと思います。彼女は、「お電話ありがとうございます」さえ、クリアーできれば、後の3分ほどの電話対応には自信があるのですから。

 最後に、これまで吃音に向き合ってこなかったから、心療内科に行くまで、仕事を変えるとかんがえるまでなんだのですから、つぎの2冊の本は是非読んでほしいとお願いしました。

 自分を助けるためには、
 「吃音の当事者研究−どもる人たちがべてるの家と出会った」(金子書房)

 ことばのサバイバル、言語訓練について詳しく書いた
 「親、教師、言語聴覚士が使える 吃音ワークブック」(解放出版社)
 
 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/03/23 






どもりが治らないと将来はないと、悩む高校生


 どもりは治らない、と断言する

 僕の開設する吃音ホットライン(072−820−8244)には、ほとんど毎日、3件以上の電話相談があります。昨夜は私たちの大阪吃音教室の金曜日の例会です。僕は基本的には個人面接はしません。グループの大きな力を信頼しているからです。成人の場合は大阪吃音教室に参加するようにすすめます。しかし、高校生、大学生で、なんとか僕に会わせたいという保護者がいます。今日は、高校一年生に会いました。

 まじめに子で、つらいながらも高校にはいっているのですが、将来がとても不安です。高校3年までにどもりが治らなかったら死にたいと母親に訴えました。そこまで悩んでいるとはしらなかった親としては当然うろたえます。子どもは、インターネットで調べた「吃音改善」のサイトのあるところでカウンセリングを受けています。

 とりあえず、僕の本を読んで欲しいと紹介したら、「吃音の当事者研究」「認知療法・認知行動療法」(金子書房)「吃音と共に豊かに生きる」(NPO法人・ことばを育む会)のパンフレット、TBSのニュースバードを収録したDVDを注文し、まず、両親が本を読み、DVDをみました。そこで僕を信頼して子どもに会わせたいと考えたそうです。

 まず、現在困っていることを聞きましたが、「べつに」とそっけない。「べつに・・」なら僕になぜ会いにきたのかと聞きました。今、自己紹介で名前が言えないことなどはあるけれど、それほど切実ではありません。将来の面接や仕事につけるかなどね将来への不安が強い。実際自分の名前をいってもらうと、ブロックでいえません。

 なかなか自分でははなしそうにないので、僕は自分の高校時代のこと,治したいと切実に思い、治す努力をしたけれど、治らなかったこと、治らなかったけれど、話す仕事について楽しく生きてきたと、はいろんな経験を話しました。彼は、自分のことのように真剣に聞いてくれました。

 高校3年生まで治らないと困るそうだけど、どもりは治らない。治らないものだけど、君はどうするかと尋ねました。すると、「治った人もいるでしよ」と言います。何を根拠に治った人もいると思うのかと尋ねると、インターネットの情報です。それはほとんどインチキで、治った人などいないよと断言しました。

 この「治らないかもしれない」ではなく、「吃音は治らない」と断言することが、このような高校生には必要だと思いました。治らなくても君の自分の人生を生きることができると、人生について語り合いました。今、熱中する好きなことがあり、将来の仕事への漠然としてではあるものの理想は持っていました。

 夢中になれる、趣味については、そのことについて、いろいろと話してくれました。自分の好きなものかあるとうのは、自分に何か自信があるということよりも、将来大きな力になります。苦しいとき、落ち込んだとき、その好きなことをすることで、心のバランスがとれるからです。1時間があっという間に過ぎました。

 「高校3年に終わりに、まだどもりが治っていなかったら死ぬ」と母親に漏らしていた彼ですが、最初会った時の表情とは随分と変わってきた姿をみて、どもりながら生きていけると確信しました。

 心残りなく、話し合いが終わったのはうれしいことでした。その後の大阪吃音教室にも参加するようすすめたのですが、今回は変えると、参加して欲しい母を促して、彼は帰りました。

 翌朝、母親から電話がありました。内容は話してくれなかったが、プラスになったと話したそうです。母親にも話していなかった,将来のことまで話した彼は、「治す」から脱却してくれると思います。その時、「治らない」と断言することが、とても大事だと僕は考えています。

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/03/15

  



どもる子ども にとっての卒業式

 どもって言っても良いし、逃げてもいい

 10日ほど前だったか、小学6年生の子どもの母親から相談がありました。卒業式の時全員で一つの文章を読み上げる時、自分のパートがどもって読めないと、ノイローゼのようになっているという話です。担任も理解があって、読みやすいところを選ばせてくれたのですが、練習をしていくなかで、読みやすいと選んだはずなのに、読めなくなったというのです。テンポよく、スピーディーに読み上げていくのは難しいでしょうね。

 どれだけのどもる子どもが、このような形の卒業式の儀式に困り、悩んでいるのかと思うと、僕はこの季節になると、クラス替えした新学年の自己紹介がとても不安で憂鬱だった時のことを思い出しました。

 冷たい風から、春の息吹を感じさせる風が空く頃、毎年とても憂鬱な気持ちになりました。この顔に当たる風を随分と長い間嫌いでした。僕は自己紹介がとても嫌でした。いつも、確実に「・・・・・いいいいいいとう」となりました。高校1年生の時、自己紹介が不安で、怖かった、どもりたくなかった、それだけの理由で中学3年間続けた、好きな卓球部をやめたのですから。

 この僕の新学年の自己紹介より、今の時代の卒業式のみんなでセリフを言う、卒業式はつらいだろうなあと思います。お母さんといろいろと話した終わりの方で、「卒業式の、そんなセリフのために、卒業式までの時間が憂鬱になり、当日も耐えられそうにないなら、子どもに、卒業式を欠席したら」と言いました。そのような、セリフをみんなで言うことで、一体感をもてることに意義を感じる、好きな子どももいるでしょうが、毎日が憂鬱で、せっかくの6年間の最後の時間を楽しめないのは、つまらないことです。

 吃音の専門家に相談したら、そのセリフを何回も練習することをすすめるかもしれません。また、どんなにどもって最後まで言い切ってこそ、達成感がもてると言うかもしれません。

 僕は、つらい程度にもよりますが、そんな、たいしたことのないことに悩むのは損だと、逃げることをすすめます。どもって言えませんとパスしてもらうのもありです。苦しければ、卒業式欠席も選択肢です。

 この話を小学校の現職の教員にしましたら、それはだめだよと言われました。子どもにとって卒業式は思い出になるし、子どももきっと参加したいよというのです。

 幸いお母さんが、おおらかな人だったので、子どもに「がんばれ」と励ますのだけははやめようということで一致しました。

 今日、母親から電話がありました。「そんなに苦しかったら、お母さんと卒業の思い出に残るような日にしようよ」と、いやなら卒業式を欠席してもいい、というところまで踏み込んで、子どもの気持ちに共感したら、子どもは、仲のいい友だちに、「私は吃音で、言えないと思うから、代わりに自分のセリフを言ってくれるか」と、頼んだそうです。すると、ともだちは「吃音はしっているよ、だったら代わりに言うよ」と、気持ちよく引き受けてくれたそうです。

 しかし、卒業証書をもらった時、自分の夢をひとこと言う課題は残っています。みんなが順番に言うのは、テンポ、リズム、勢いが必要なのだ、どもる子どもにはハードルが高いけれど、卒業証書を受け取ったときの一言は、自分のペースで言えるし、短くてもいいので、どもっても言うといったそうです。

 卒業式までのノイローゼになりそうな憂鬱な気持ちはなくなりましたと言う、お母さんからのうれしい報告でした。逃げるという選択肢をいれたことで、結局子どもは、友だちに自分のどもりについて話して、助けを求めた。理解者を先生だけでなく、友だちにも広げた。そして、出来ないことはできないけれど、出来ることはするという、選択を子ども自身でしたことになります。ひとつの大きな成長です。

 実際の卒業式がどうなったか、また報告してくれればうれしいのですが。

 新学年の自己紹介に僕は悩みましたが、今の子どもは、卒業式にも悩むのですね。

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/03/14 




 

朝日新聞 私の視点 吃音の理解


 私たちの仲間が、朝日新聞に投稿し、3月10日の朝刊に掲載されました。朝日新聞のレジタル版からコピーしたものを紹介します。


吃音への理解−「劣ったもの」ではない゙

 私は教員の仕事の傍ら、どもる人の自助グループ「大阪吃音(きつおん)教室」や「吃音親子サマーキャンプ」の運営に携わっている。

 吃音を苦に若者が自殺したとする1月28日付朝日新聞の記事に反響が続いた。多くが「吃音が社会に理解されること」が緊急の課題と論じており、それは私も同感である。

 しかしながら、記事や投書で見られた「言い終わるまで待ってあげてほしい」「生徒の心理に配慮し、無理に読ませたり言わせたりしない」という指摘は、真の意味での理解とは言えないのではないか。むしろ、どもる私たちへの無用の配慮や偏見を生むのではないかと危惧している。

 どもる人は、どの言語圏にも人口の1%程度。言葉を発しようとする時に声が思い通りに出ない不便さを抱えながら、日々の会話や仕事に向き合う人は世界中にいるのだ。

 ただ、その思いは千差万別である。声が出ない時、言い終わるまで「待ってほしい」人もいれば、そうではない人もいる。人前が苦手な人もいれば人前でしゃべりたい人もいる。中途半端な知識による「配慮」ではなく、一人ひとり違う人間として、どもる人とどもらない人が率直に対話できる関係を作りたい。

 「スラスラと流暢(りゅうちょう)に話すこと」こそが優れた言語コミュニケーション能力である、というのは誤解の域を全く出ていないとも思う。就職や進学の面接、スピーチ、商談、プロポーズ――。真剣勝負の場で、どもりながら臨んできた私たちが知り得たのは、ぎこちなく訥々(とつとつ)とでも、相手への想像力を働かせながら自身の学びや経験、夢や希望を率直に語るとき、多くの人は耳を傾けてくれるという事実だ。

 吃音の最も深刻な問題は「どもること」そのものではない。吃音を「悪く劣ったもの」と捉え、どもることを恐れ、様々な行動を回避する否定的な思考、行動、感情にこそ問題の根がある。吃音を治す方法はないが、こういった思考や行動を客観的に見つめ、変えるための学びや方法はたくさんあるのだ。

 まず、どもる自分を認める。「できれば、どもりたくない」「恥ずかしい」という思いを持つことがあっても、言いたいこと、言うべきことは自分の言葉で誠実に語る。不便さを持ちながらも、自分らしく生きようと学び続ける私たちの活動の輪には、どもらない多くの人も何かを感じ、次々と加わってくれている。吃音は豊かに生きるためのテーマとなり得るのだ。今こそ多くの人に吃音の世界への興味を持ってほしい。

 (かけたりきや 大阪府立支援学校教員)

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/03/11

第25回セルフヘルプグループセミナー



 大阪セルフヘルプ支援センターに関わりをもって25年にもなるとは驚きです。
 この週末25回目のセミナーがあるのですが、参加出来ないので、代表の松田博幸さんに、次のようなメッセージを託しました。


第25回セルフヘルプグループセミナー参加の皆さん

 1965年秋に、どもる人のセルフヘルプグループを設立し、以来現在も活動を続けている、NPO法人・大阪スタタリングプロジェクトの伊藤伸二です。

 今回25回の記念すべきセミナーに是非参加したかったのですが、私のグループの大切な行事があって、参加出ませんので、ここまで継続してセミナーを続けて下さっている、松田博幸さんを初め事務局の皆さん、参加者のみなさんに、心からの敬意と、感謝の気持ちを伝えたくて、メッセージをお送りします。

 九州大学の高松理さんに紹介され、第1回のセミナーに参加した時、1965年に自分たちのグループを作ったときと似た、「仲間と出会えた」喜びを感じました。仲間に入れていただき、定例会や信貴山での合宿などで、セルフヘルプグループのありがたさ、良さを志を同じくする人たちとの語り合いには、何ものにも代えがたい、喜びと興奮を覚えたものです。

 朝日新聞厚生文化事業団発行の『セルフヘルプグループ』の編集をさせていただき、多くのグループの経験、人生に接することができました。種類の違うフロッピーが届いての慣れない作業、直接お話しして、何度も書き直していただくなど、大変な作業でしたが、今から思えば楽しかった思い出です。
 また、中田智恵海さんと共編著の『知っていますか? セルフヘルプグループ一問一答』(解放出版社)の編集の時もたくさんのグループの人たちと一緒に作り上げることができました。セルフヘルプグループについて発信できたのはうれしいことでした。

 当時の私は、定例会だけでなく、電話当番もしていたのですが、仕事がとても忙しくなり、定例会だけでなく、グループセミナーにも参加出来なくなりました。しかし、セルフヘルプグループで育った私は、大阪セルプヘルプ支援センターが活動をずっと続けて下さっていることに、敬意と、感謝の気持ちをずっと持ち続けています。
 もうそろそろ、私も時間的な余裕がもてると思いますので、そうなれば現場復帰をしたいと思います。みなさんとお会いできますこと楽しみにしています。

 最後にひとつ宣伝させて下さい。昨年秋、精神障害の人たちのコミュニティーである北海道・浦河の「ぺてるの家」の生みの親である、ソーシャルワーカーの向谷地生良さんとの共著で『吃音の当事者研究−どもる人がべてるの家と出会った』(金子書房)を出版しました。お読みいただければうれしいです。その本の帯にはこう書かれています。

 生きづらさを豊かさに変える。いま「当事者」が主人公の時代へ

 21歳でセルフヘルプグループの活動をし始めて、この春、私は70歳になります。ひとりで吃音に悩んだ年月の3倍のセルフヘルプグループ人生を送ったことになります。 
セルフヘルプグループは、ますます重要さを増しています。私はまだまだ現役で、セルフヘルプグループの活動を続けます。皆さんと、是非またご一緒に活動をしたいと願っています。25回目のセルフヘルプグループセミナーおめでとうございます。
 
    NPO法人・大阪スタタリングプロジェクト 伊藤伸二
          
 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/03/07

どもりに悩んだ思春期 次郎物語 2


 母を恨んだ出来事


 僕は子どもの頃、母親、父親に愛されていたと確信をもっていました。苦しかった学校生活もなんとか持ちこたえていたのf温かく、安心できていた家庭があったからです。それが中学2年の夏に一変しました。

 どもりを治したいと切実に思っていた僕にとって、夏休み前に手にした、浜本正之著「どもりは20日間で必ず全治する」(文芸社)の本は宝物を手に入れたようなものでした。これであの苦しい生活から抜け出ることができる。夏休みに治して、新学期には、どもらない人間として学校へ行ける。そう信じた僕は、それから毎日2時間は、河原で、山で、町を歩きながら、「まず態度、口を開いて、息吸って、母音をつけて軽く言うこと」の発音・発声練習に取り組みました。

 一日も練習は休みたくなかったので、外へ出られなかった大型台風の日。仕方なく、母親の鏡台の前で大きな声を出して、「アーイーウー」と練習をしていました。

 その時、「うるさいわね。そんなことしても、どもり治りっこないでしょ」の母親の声が飛んできました。一瞬耳を疑いました。その本には親の協力でどもりを治した少年の写真が載っていて、協力してくれないまでも、まさか、こんなことばが母親から投げかけられるとは思いもしません。

 「親のくせに、子どもが一所懸命自分で治そうと努力しているのに、なんでそんなこと言うんや」
 泣きわめいて、風雨の強い中、私は家を飛び出しました。その日から私は母を恨み、母親とは、生活の必要最小限の会話しかしなくなりました。学校には居場所がないのは当然としても、家庭にも僕の居場所がなくなりました。その日から僕は母親が嫌いになり、家族全員ともうまくいかなくなりました。
 秋になって、どもりが治るどころか、母親を恨んで生きる生活になってしまいました。夜の食事が終わると、勉強などまったくせずに自転車で夜をうろつくようになりました。何度も警官から呼び止められたこともありました。今だったら、悪い友だちの輪の中に入り、不良少年になっていただろうと思います。

 それからは、映画館だけが僕の居場所になりました。とても貧しくて、小遣いなどなかったのですが、父親が僕に預けた「記念切手の収集帳」の切手を、一枚、二枚と売っては、それが映画代になりました。当時、記念切手の価値あるものはかなりの金額で買ってくれる店があったのです。

 当時の三重県の津市には映画館が5館ほどあり、週に2回ほど映画館にいっていました。1950年から1960年頃の外国の映画はほとんどみています。中でも、ジェーム・スディーンの「エデンの東」は何度も見ました。親への愛に飢えたデーインに自分を重ねていたのです。中学2年生のその頃に「次郎物語」を涙を流して見ていたのです。次郎は、母の死の直前に、母が自分を愛していたこと、自分も愛を求めていたことを心の底から思って、なくなった母にすがって号泣するところは、僕も泣きながら、いつか母への恨みが消え、昔のような母と子の関係にもどれるのではないかと、次郎物語の結末をからだにしみこませていたのだと思います。

 次郎のように、母親の死の直前ではなく、20歳の時に僕は母親への思いを取り戻すことができました。

 20歳まで人間不信一色になり、どもりを恨み、母を恨み、勉強も、遊びも全くしない、無気力な思春期を生きていたのが、家の貧しさのために、大阪に出て、新聞配達店に住み込んでの2浪生活が始まりました。

 将来の東京での生活のためにお金を貯めたかったので、販売店の息子さんの分まで配達させてもらっていたので、350件ほじの配達です。さすがにくたくたになり、疲れ切ったからだを狭いアパートで寝転がっていると、家族の中でいた孤立とはまったく違う、大阪という大都会のなかて、ひとりつらい生活をするなかでの孤独は、例えようもなくつらいものでした。

 大阪にきて、1か月も経たないある満月の夜、外へ出て歩いているとき、ふと、子どものころよく母に歌ってもらった、大好きな童謡を僕は口ずさんでいました。

 ♪動物園のらくださん まん丸お月さん出た時は 
         遠いお国の母さんと おねんねした夜を思い出す♪
 
 この童謡はほとんどの人がしらないと思います。母親が僕たちに歌ってくれた特別の童謡なのです。

 砂漠の母を思い出す、動物園のらくだに、僕はなっていました。たった一度の「うるさい」で私は母を恨みましたが、母は私を胸に抱いてこの童謡をよく歌ってくれました。友達にうらやましがられた運動会のお弁当や誕生日のいなりずしを作ってくれました。骨折したとき世話をしてくれました。

 母親から受けた「愛」が次から次へと思い出されました。私は一年近くをかけて、次郎が母親の看病生活の中で母との思いを通わせたように、僕も母親の愛を取り戻しました。

 次郎物語は僕にとって、特別の映画だったのです。それを50年以上の歳月を経て、再び見ることができたのはうれしいことでした。かなりのシーンを思い出せたので、食い入るようにあの頃見ていたのだと思います。こんなに鮮やかに覚えていたのは、一度だけではなく、上映期間中に何度も見に行っていたのだと思います。

 今、小津安二郎の映画をみています。子どものころはほとんど外国映画しかみなかったので、これから日本のいい映画をみてみようという気持ちになりました。

 映画や、文学の世界に僕を招いてくれたのは、どもりに深く悩んでいたからです。どもりに感謝です。

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/03/06



どもりに悩んだ思春期と次郎物語 1


 清水宏監督の次郎物語


 先日、清水宏監督の作品を1か月ほど上映している映画館で「次郎物語」をみてきました。1955年制作のこの映画を三重県の津市で見たのはいつのことか記憶がありませんが、中学2年の夏以降ではないかと思います。この映画は、僕の心にいつまでも残り続け、影響を与えた3本の映画の一つで、未だに忘れられない映画となっているのには、中学2年の秋でなければならないのです。

 僕は中学2年の夏から、母親との関係が悪くなり、母を恨んでいました。家族の中に僕の居場所がありませんでした。友だちがなく、ひとりぼっちの寂しさの中で、よく本を読み、よく映画を見に行っていました。特に僕の心にしみたのは下村湖人の「次郎物語」でした。そして、清水宏監督の「次郎物語」が公開されたのも、ちょうど、中学2年生ころだと思います。

 母に近づきたいとおもいながら、近づけない。他のきょうだいは母や祖母にかわいがられているのに次郎は、母になつけない。それが母の亡くなる直前に母も、次郎も心から親子の情愛を通わせる。おそらく、自分のことと重ね合わせて、涙をぼろぼろこぼしながら、中学2年の時次郎物語をみたのだと思います。

 それほど大きな作品ではないのでその後は上映されることはなく、全くみていません。55年ぶりに「次郎物語」を見たことになります。不思議なことに、育ててくれた「ばあや」の望月優子、次郎のするどい目、田園風景、母親が亡くなるシーン、鮮やかに覚えていました。多分。母への思いを重ねて見ていた中学2年の時もそうだあったように、今回も、ぼろぼろと泣いていました。

 母親がなくなる間際に、次郎を愛情をもって育ててくれた「お浜」に、「
 「子どもというものは、しっかりと抱いて、かわいがらないと、しっかり愛さないと、親子にはなれないのだね。私になじまない時、次郎にもお浜にも、つらくあたっていたようだ。お浜にわびたいと、ずっと思っていたのだよ。よく、来てくれたね」と、なくなる直前のか細い声で、お浜と次郎にわびるシーンは、55年前に中学生の自分が、リアルタイムで見ているような錯覚を覚えました。

 中学2年の夏の出来事は次回に紹介しますが、その前に次郎物語のあらすじを少し紹介します。

  本田家の次男として生まれた次郎は、母親が母乳がでないなどの理由で、里子として、ばあやと呼ぶお浜に育てられます。我が子以上にかわいがられて育った次郎は、本田家に戻そうとしても、すぐにお浜のもとに帰ろうとして、実の母親になかなかなれません。やがて実家にいやいやながら強引に実家に戻されますが、士族としての誇りに生きる本田家と、ばあやに自由に育てられた環境とはまったく違います。父親、母親はなんとか本田家に馴染んでほしいと愛情を注ぎますが、慣れない環境や祖母のえこひいきにあい、なかなか馴染むことができません。
 
 祖父が死に、母親は結核に侵され、父親も連帯保証人になった相手が破産したため、次郎は母の療養を兼ねて母方の実家で生活することになります。献身的な介護を続けるうち次郎と母親お民との間の親子のわだかまりは解け、次郎は母へ、お民は次郎への思慕が募るようになります。お民の臨終の際、兄弟三人揃って死に水をとり、臨終の宣告の後お浜に肩を抱かれ次郎は号泣します

 小津安二郎が今、再び注目を浴びていますが、同じ頃の監督で、小津が「映画の天才」と一目おいていた清水宏が再び注目されています。1か月も特集が組まれて、たくさんの作品が上映された中の「次郎物語」に再び出会えたのはうれしいことでした。

 偶然にも、僕たちの毎月発行するニュースレター「スタタリング・ナウ」の2月号に、「内観法」の特集の巻頭言にこの中学2年のときの出来事を書きました。小津安二郎の映画も再び見始めていた時期だけに、清水宏の映画特集は、あまりにもタイムリーでした。

 次回は、僕が一段とどもりに悩むようになった中学2年生の夏の出来事を紹介します。

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/03/01




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