伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2012年01月

宮本亜門の金閣寺・森田剛の見事な身体表現

金閣寺

 森田剛はすごい。

 1月21日、「金閣寺」を観てきました。
 初演の時はすでに切符が売り切れで観ることができなかった「金閣寺」。残念ながら、もう機会がないと思っていましたが、ニューヨーク公演の成功を祝っての凱旋公演。なんとか切符が手に入りました。

 私たちの吃音ワークショップにお忙しい中来て下さり、対談したことのある、大好きな鴻上尚史さんの舞台も、何度か観ているのですが、「第三舞台」のさよなら公演は切符が手に入りませんでした。鴻上さんに特別にお願いしてなんとか手に入れたいとも思ったのですが、そんな人はたくさんいるだろうと諦めただけに、今回はとてもうれしくて、大きな期待をもって観に行きました。

 金閣寺は、どもる私たちにとってはとても大きなテーマです。吃音の若い僧の金閣寺放火事件がテーマだからです。市川雷蔵主演の「炎上」、篠田三郎主演の「金閣寺」は何度も見ていますし、もちろん、三島由紀夫の小説も読んでいます。映画と違って、ひとつの場面の舞台でどのように表現できるのか。歌舞伎のような回り舞台や、舞台装置ができるわけではない。宮本演出のこの部分にも関心がありました。

 見事な舞台でした。吃音に悩み、人間関係が結べない溝口。足に障害のある柏木のそれを逆手にとったしたたかな生き方。裕福でかっこよく、優等生のような鶴川。3人の青年の、三人三様の内面の葛藤。それぞれがその葛藤にどう向き合っていくのか、舞台での対話やナレーションの中で表現されていきます。一番の親友だと思っていた鶴川が、実は本当は好きではない柏木に本心を明かしていたと知るシーンは胸をつきました。その鶴川が最後に自殺をする。青春期や思春期の不確かな心の揺れを見事に表現していきます。

主演の森田剛は、吃音の悩み故の人への恐れ、疑い、自分への自信のなさを、身体で見事に表現していると私には見えました。パンフレットを買って読んでも、森田本人の談話、演出家の宮本の話にも、評論家も誰もそのことを書いていません。とても不思議です。

 吃音の溝口を演じる森田剛の身体ばかりを私は見ていました。
 舞台に立っている森田は常に肘を曲げ、手を伸ばすことはまったくありません。猫背のような姿勢と、肘が固まっていて、決して伸ばすことがない。そのことで、溝口の吃音の苦悩を表現していると私には思えたからです。しかし、本人も、宮本もそのことに一切ふれていない。とすると、無意識な身体表現だったのかもしれません。
 三島の小説を何度も読み、脚本をよく読み、スタッフとディスカッションする中で、森田の中に、吃音で苦悩する溝口が降りてきたのかもしれません。意識しないで、その姿勢をとり続けたとしたら、森田が、溝口になりきっていたと私には思えたのです。人を恐れ、身構える。誰も自分の中に入ってくれるなと、肘を堅く曲げ、目の前の相手を拒否するかのように、身体は語っているのです。
 森田のこの身体について、私と同じようなことを書いている人がいたら知りたいものです。

 宮本亜門の舞台構成、見事でした。舞台はひとつの平面です。それをマジックでもみるように、様々な場面を表現していきます。この舞台作りにとても興味が持てたのは、演出家・竹内敏晴さんのおかげです。
 20年以上竹内敏晴さんが舞台をつくるのを間近に見てきました。吃音親子サマーキャンプの芝居のシナリオを書き、演出をずっとして下さっていました。一つの平面が、立体的に様々な場面となるのです。あるホールで舞台をしたとき、その会場にある、机やテーブルなど、なんでもない物品が、見事に舞台装置に変わっていく。マジックをみるようにいつも驚いていました。
 それとよく似たことを、宮本亜門はしていました。このようにするだろうなあと、ある程度予想がついたのは、とても愉快なことでした。ナレーションを効果的に使っているのも、竹内演出で見慣れたことでした。

 竹内敏晴さんのおかげで、舞台を観る視点が広がったのはうれしいことでした。
 
 もうひとつ、なぜ溝口は金閣寺に放火したのか、三島由紀夫や水上勉の視点ではなく、吃音に深く悩んできた、私たちの視点から、金閣寺放火事件を検証したい。放火犯、溝口(林 養賢)の裁判の精神鑑定の資料などをもとに、当事者研究をしたくなりました。新しい仕事がみつかりました。

 日本吃音臨床研究会・会長 伊藤伸二 2012年1月28日

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 世界中に確実な吃音治療法が全くない中で、私たちは「吃音を治す」ではなく、「吃音を生きる」を目指します。吃音とうまくつきあうには、吃音の当事者研究、ナラティヴ・アプローチ、認知行動療法など学ぶべきことがたくさんあります。
 役に立つ月刊紙、年刊研究誌などの見本をお送りします。500円分の切手を同封の上、お申し込み下さい。
〒572−0850 大阪府寝屋川市打上高塚町1−2−1526
日本吃音臨床研究会 代表 伊藤伸二
TEL/FAX 072−820−8244日
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QU-E(くえ)のボーカルの父からの電話

 うれしい電話

 昨夜、「伊藤さん・・・」と聞いてすぐに分かる懐かしい声の電話がありました。舟屋で有名な京都府伊根町で、旅館を営む、倉野さんです。30年以上のつきあいになりますが、私の活動をよく理解し、励ましの電話をときどき下さる人です。

 吃音研究の第一人者、内須川洸・筑波大学名誉教授と私たちの仲間で、毎年、プライベートの2泊3日の旅行を、20年以上続けていました。7年ほど前の箱根旅行が最後で、その後は中断していますが、この旅行は本当に楽しいものでした。後日紹介できればと思いますが、その仲間15名ほどで、倉野さんの旅館「与謝荘」に泊まりに行ったことがあります。おいしい魚と楽しい話、珍しい舟屋を見学したのでした。

 その倉野さんからの懐かしい電話です。「また、伊根に行きます」と年賀状にいつも書きながら、その後は実現していません。お互いに、「会いたいなあ」の話から、私の活動に対するねぎらいやら、話がすすんでいきました。そして、倉野さんが、今度大阪に行くとの話になりました。
 大阪へは何をしに、という話から、倉野さんの娘さんが「QU−E」という名前のインディーズ音楽のユニットで活躍していることを知りました。

 音楽で生活をするというのは大変なことです。関西地方を中心に活躍されているそうで、さっそく、ホームページで調べました。公式ホームページで、彼女の歌を聴くことができました。倉野さんが大切にしていること、私たちが大切にしていることが歌に込められていました。特に、「ラストランナー」はそのまま、私たちへの応援歌です。

 1月29日、大阪で、300人規模のライブが開かれ、倉野さんご家族、そして、伊根の人たちも応援にこられるようです。私もパソコンで歌声を聞いて、是非参加したいと思いました。

 ところが、年末年始で仕上げるはずだった、私にとっては大きな論文の締め切りが今月末です。週末に完成させなくてはなりません。今から、がんばるつもりですが、なんとかメドがたったら、久しぶりに倉野さんとも会いたいし、ライブにも行きたいと思っています。が、今のところ行けるかどうか、五分五分です。

 「QU−E」の公式ホームページで彼女の歌声が聞くことができます。また、29日のライブの案内もあります。
 是非聞いてみて下さい。とてもいい曲ばかりです。

ウィキペディアの紹介記事です。
TOMY(トミー、8月7日生まれ)ボーカル担当
京都府伊根町出身。幼い頃から歌うことが好きでよく山で歌う。ずっと習っていたピアノで音楽大学を目指すが、途中で歌の道を選び、声楽で大阪芸大に入学。現在はFMラジオのDJでレギュラー番組を持ち、関西で商業施設やお祭り、その他音楽イベント、ワンマンライブなどを定期的に行い、精力的に活動中。オペラで培った圧倒される歌声が多くの支持を得ている。
SASAGU(ササグ、6月29日生まれ)キーボード・コーラス担当
大阪府出身。声楽を学ぶ為に大阪芸大に入学。在学中はオペラをしながら曲作りに励む。現在は若いアーティストへの楽曲提供やアレンジも手掛ける。歌詞を重視し、それを上手く表現する楽曲やキャッチーなメロディーが多くの支持を得ている。

日本吃音臨床研究会・会長 伊藤伸二 2012年1月25日

守口エンカウンターグループ

 1月21日、守口エンカウンターグループで久しぶりに、ファシリテーターをさせていただきました。過去3回行っています。1泊2日のグループもさせていただいたことがあります。エンカウンターグループが以前と比べれば、少なくなっている中で、大阪の守口市でずっと続いているグループです。世話人になる人が少なくなっている現在、森永さんや森本さんが、大切に育て、継続して開いていることにまず脱帽です。

 この日は私を含めて、女性が4人、男性が4人。ちょうどいい人数です。午後1時30分から、4時30分までの3時間のグループですが、私が九重や湯布院で経験している4泊5日のグループに変わらないほどの深まりのあるグループでした。短い時間という最初からの条件があるので、グループの中で話そうと心づもりをして参加されていたからでしょう。

 ふたりの女性から出されたテーマのうちのひとつは、ちょうど私の経験したことと、役割がちがっていますが、共通するものでした。私のファシリテーターとしての立ち位置は、発言者の問題を整理したり、相手の気づきを促すような、深い突っ込みや、アドバイス的なことはしません。似たような経験をした、私の体験を、「私の場合はこうだった」と話すだけです。これは、1965年にどもる人のセルフヘルプグループを創立して以来の私の変わらない姿勢です。

 うれしいことに、終わってからの一言の振り返りで、「伊藤さんの話を聞けてよかった」と言って下さいました。
 もう一人の方のテーマも、吃音に深く悩んでいた頃、喜怒哀楽の感情を押しつぶし、鉄の鎧の上着を着ていた頃の私を思い出しました。自分の感情を表現できず、表現できないくらいなら、感じるのをやめようと、自分の気持ちにずっとふたをしてきました。話された人は、これまで感じたことがなかったような「寂しい」という気持ちがすごく実感として、最近沸いてきたと話されました。もう少し話を続けていただきたかったのですが、終了の時間が来ましたので、私の体験は話せませんでしたが、「寂しい」という実感を大切にできればいいねえというあたりで、終わりました。「寂しい」という気持ちをしっかりと味わい、考えるところから、新しい一歩が始まるように私には思えました。

 お二人の話は、とても短時間で聞くような内容のものではないのですが、グループの中では、しっかりと受け止められたと私には思えました。3時間という、短い時間であっても、互いの信頼を感じ取ることができれば、このような話をし、聞くことができるのだと、この守口エンカウンターグループを継続して運営している人たちへの敬意が広がったのでした。

 例年ですと、この後お茶や食事を一緒にすることになっており、事前に誘われていたのですが、あいにくこの日は、宮本亜門演出の「金閣寺」のチケットがとれ、それを観にいくことになっていましたので、残念ながら、グループが終わってすぐにおいとまをしました。また、お誘いいただければ参加したい気持ちになりました。

 宮本亜門の「金閣寺」は素晴らしい舞台でした。それは後日。

 日本吃音臨床研究会・会長 伊藤伸二 2012年1月25日

土井敏邦監督 “私”を生きる

「卒業式や入学式で起立して君が代を歌うように」

 「日の丸、君が代」の問題は長く闘われてきました。この私のブログは、吃音についてのブログだから、そんな問題は関係ないと思われるでしょうが、私の子どもの頃からの、ある意味吃音以上に大きなテーマは、反戦平和です。また、吃音の臨床で、私が親や教師と子どもとは、人間としては対等あると、対等性を主張するとき、この問題を避けては通れません。
 君が代斉唱の時起立しない教師を処分することは、イデオロギーの問題ではなく、憲法に保障されている、基本的人権、表現の自由の尊重の問題であり、常に吃音の問題で、多くの人とは違う少数派の問題提起を続けるひとりの表現者として、他人事だとは私には思えません。自分の考え、意見を持てない、表現できない、尊重されない世の中は、 いかに経済的に豊かでも幸せな世の中ではありません。いろいろな考えがあって当然です。違う考えを互いに主張し会う権利が認められなかったら、本当に暗い世の中になってしまいます。

 国歌斉唱の時、不起立を続け、処分を受けた、根津公子さんや、「君が代」の伴奏を拒否し続ける音楽教師、佐藤美和子さんのことは、創刊時から愛読している『週刊金曜日』や新聞記事などでよく知っていました。何か応援したいと思いながら何もできずにいました。教育現場の言論統制に異議を唱え続けている土肥信雄・元三鷹高校校長のことは、1か月ほど前、週刊誌「アエラ」で詳しく紹介されていました。問題をよく承知しながら、これらの人々に尊敬と、心からの声援を送るしか私にはできませんでした。

 言論の自由を守ることがいかに大切なことか。言論統制された中国や北朝鮮の事情を垣間見て私たちは知っています。また、なぜあの戦争が起こり、止められなかったのか、私たちは十分に知っています。言論の自由が侵害されることに、今、私たちはあまりにも鈍感になりすぎているように思えます。とても生きづらい世の中に、どんどんなっていくような気がします。

 年末年始に滞在し、湯布院を去る間際に、中曽根さんが私にプレゼントしてくださったのが、「私」を貫くこの3人の闘いを丁寧に描いたドキュメンタリー映画のDVD『“私”を生きる』でした。
 私が、子どものころから大きなテーマにしていることが、身近なところで結びついた縁を不思議に思います。
 監督の土井敏邦さんと中曽根さん夫妻は親しい友人同士です。そして、湯布院でこのドキュメンタリーの上映会を企画、運営した世話人平野さんとも、今回、湯布院で親しく話ができました。

 「自分に嘘をつきたくない。生徒に嘘をつきたくない」と、根津公子さん。
「 今言わなければ後悔する。その後悔だけはしたくない」と、土肥信雄さん。
「炭鉱の危険を知らせるカナリヤの役割を担いたい」と、佐藤美和子さん。
 「これは教育問題や君が代、日の丸問題を論じるドキュメンタリーではない。日本社会の右傾化、戦前への回帰に抵抗し、自分が自分であり続けるために、凛として闘う、3人の教師たちの生き様の記録である」と、監督の土井敏邦さん。

 ビデオを見て、涙があふれました。何よりも、子どもたちの未来のために、時にくじけそうになる自分を奮い立たせて孤独な闘いを続ける勇気に、言葉がありません。
 DVDが発売されていますし、各地で上映会も開かれていくことと思います。
 みなさんも、このような問題に関心をもっていただければうれしいと心から思います。

 DVDのチラシと、2012年1月18日の朝日新聞社説を掲載します。

 日本吃音臨床研究会・会長 伊藤伸二 2012年1月20日

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2012年度 どもりカルタの読み札

 カルタの読み札を紹介します。

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グループで選ばれた読み札はホワイトボードに書き出して、声を出して読み上げます。みんなで、ひとり一人の体験を味わう、とてもいい時間です。ひとり5票の持ち点がある人気投票で今年の一番は、

す すーっと黙って消えるより どもってもあいさつして 帰ろうよ

次が同点で次のふたつでした。
え 駅の名を 言えずに歩いた 幾千里
み みるからに どもっているのに 隠すアホ

同じような体験をしている共感系
ユーモア系
メッセージ系
選ぶ人の好みですが、この人気投票も楽しいものでした。
一音でひとつなので、選ばれなかったものの中にも、おもしろいものはたくさんありました。

【読み札】
あ ありがとう そっと心で つぶやきます
い いつまでも どもっていたい 私の宝
う うそを言う 時に決まって どもらない
え 駅の名を 言えずに歩いた 幾千里
お おとなしそう だけどホントは 話したい

か 考える 振りして探る タイミング
き 今日もまた どもりつづけて 四苦八苦
く 苦痛だなあ 明日(あした)はイヤな 本読みだ
け 蹴り入れながら 電話する
こ 声出ぬ電話を 打ち切られ

さ さけられぬ 愛の告白で ひとどもり
し しーんとした場でも どもり恐れず どもろうよ
す すーっと黙って消えるより どもってもあいさつして 帰ろうよ
せ せんせいに あたらぬように 目をそらし
そ そっとかむ そんな訓練 アホらしい

た たからの山の体験談 みんなで語ろう吃音教室
ち 血ィでるわ! 一音出すため 足つねる
つ つよい音 弱い音 いろんな音で 声を出す
て ていねいに 母音を出して 一音一拍 話すコツ!
と とまらない 連発いつまで続くかなあ

な 難発が 灘波でナンパ 難破する (難波は大阪の繁華街)
に にくらしい 本読みスラスラ できるやつ
ぬ ぬけられぬ どもりの迷路 ゴールどこ?
ね ねこの鳴き声 ときどきどもっているような
の のどもと過ぎて やっと出た言葉

は はきはきと話すのも良いけれど ゆっくり話すもいいもんだ
ひ ひみつだよ どもりのことは 職場には
ふ ふろで発声練習していると 早く出ろとおこられた
へ 平気な顔をしていても 僕の心臓バクバクだ
ほ ほんきでほれたら 言えたぞ 僕のプロポーズ

ま まあええか! どもりが知れたら 後がらく
み みるからに どもっているのに 隠すアホ
む むだじゃない 就活に活かせた どもりの体験
め めっちゃめちゃ どもったけれど 通じたよ
も 「もう一度」 聞かれたときが チャンス到来

や やまびこは どもっていても かえってくる
ゆ ゆうきをもって みんなの前で ひとどもり
よ よっぱらい ますますどもる 楽しさよ

ら ラッキーだ 本読む前に チャイム鳴る
り 理解されたい この悩み
る 留守電に 話せずいつも 電話切る
れ 練習は あんなにスラスラ 言えたのに
ろ 朗読で どもり続けて 座らされ

わ わけありて たまごがいつも 鶏卵に

日本吃音臨床研究会・会長 伊藤伸二 2012年1月19日

どもりカルタで賑やかに大阪吃音教室始まる

絵札づくり


 新年のスタートは、どもりカルタ


 早いものでどもりカルタが始まって6年。毎年しているともうできないだろう、新鮮味が薄れるだろうと考えてしまいますが、それがどうして、いつも新鮮なんです。
 4時間の楽しい豊かなしゃべくり忘年会のあと、それぞれが新年を迎えて、1月13日、大阪吃音教室が始まりました。新しい年の初めは「どもりカルタ」です。
 最初に、これまで「どもりカルタ」に取り組んできて、その意義について思いついたことをまず出し合いました。
 ・読み札を作った人は、なぜそのような読み札を作ったのか自分の体験を話すきっかけになり、周りの人はその人を理解するのに役立つ。話を聞けば、読み札の意味が良く分かる。
 ・嫌だった体験も、カルタにすることで、振り返ることができ、見方を変えて楽しく笑えるようになる。人のそんな話を聞いて共感できる。
 ・体験を、短いことばで伝えるのに、カルタは便利。
 ・大阪吃音教室のスケジュールの中で、チームを作って協同制作する貴重な時間になっている。
 ・同じような体験をしていても、違う受け止め方をしている人がいると分かる。似た経験を今後する時に、どう受け止めればいいのかのヒントになる。
 ・元気をもらえる。カルタをお守りのように使っているどもる子どもがいる。
 ・どもりで遊ぶのが楽しい。アメリカも、「どもりで遊ぼう」というが、他人のどもり方を真似たり、どもったかどもらなかったかの当て合いなど、吃音の症状に焦点を当てた遊び方だが、僕たちは「生き方」に焦点を当てて遊ぶ。
 ・つらかった体験も、どうユーモアに包んで表現するか考えることで、意味づけが変わってくる。
 ・ユーモア感覚が身につく。

 いろいろと出てくるものです。これらのことを確認してから、グループに分かれて、
「読み札」を作りました。グループごとに「あ行」「か行」と割り振られ、考えますが、グループによって作り方が違います。ひとつひとつ話し合いでつくるグループ、ひとりひとりが担当する行の全部をつくり、その後出し合っていいものを選択するグループなど。
 「読み札」が確定してから画用紙に「絵札」を描いていきます。絵の上手な人も下手な人もそれぞれ、特徴ある絵札をつくります。子ども時代に帰る楽しい時間です。

カルタ絵札


 その間に、進行役が黒板に確定した読み札を書き上げます。大きな輪に戻って「読み札」をみんなで味わいます。6年間も続けているのに、新しいのが出てくるのがおもしろいです。「読み札」を鑑賞した後、ひとり5回まで手を挙げてもいいというルールで人気投票です。
 共感できる読み札、メッセージ性のある読み札は、人によって好みがあります。「えー」と思う読み札にも多くの手が挙がるなど、おもしろい時間です。人気のベストスリーが選ばれました。
 さあ、最後にカルタとりです。フロアーに44枚のカルタをまき、グループごとに順番に代表がひとりずつ出て、取り合います。グループごとの対抗戦です。毎年みんな必死になり、滑り込んだり、激突したり、大騒ぎです。みんなが必死に勝負するからおもしろいのでしょう。こうして、大阪吃音教室の2012年がスタートを切りました。
 読み札のひとつひとつにその人の人生がある。それをみんなで味わうことができる、楽しい、豊かな時間。私はこの「どもりカルタ」が大好きです。

カルタ取り


 
【参加者感想】
 :「あ」から「わ」まで全部の音に、カルタが作られ、それぞれに物語がある。
 :結構真剣に考えたが、ユーモアがあって笑えた。
 :今日はトップを取れた。読み札でも一番人気、カルタ取りでも一番たくさん絵札を取  れて、正月早々良い気分になれた。
 :初めは、「文字に当てはめて文を作るなんて」と、難しそうに思ったが、やって見る  と案外でき来ると分かった。
 :まず、44音全部出るのがすごい。自分も4つか5つ出すことができた。これまでサ  マーキャンプでカルタ取りを熱心にやる子どもたちを見て、馴染めなかったが、自分  でやって見ると真剣になるもんだと、納得した。
 :来年はスニーカーを履いて来る。
 :これだけ毎年やっているのに、新しい読み札が出て来て新鮮だった。
 :毎年これだけ出るのは見事だ。
 :普段から、良いことばに出会ったらメモを取ることがお奨めだ。
 :6回目の今回もいろいろ出来た。短いことばの中に入れていくのは大切だ。新しい価  値観に触れる機会になった。



湯布院最後の日に起こった3つの不思議。

 長かった湯布院も仕事に追われていたためか、あっという間に過ぎました。
 最後の日、不思議なことが3つ起こりました。

 ひとつ
 湯布院で気に入っている食事処で食事をし、湯布院ワイナリーに向かって歩きました。人の多い湯の壺街道とはちがって、湯布院のそのままの自然を感じとれる川に沿っての散歩です。お酒を飲めない私にとって、ワイナリーが目的ではないのですが、行ってみると閉鎖になっていました。好きなハム工房でコーヒーを飲み、しばらく歩くと、南由布駅です。後、5分もすれば列車が来るのですが、乗らずに歩きました。相当の距離を歩き、一休みしたいなあと思い始めたとき、ケイタイがなりました。湯布院在住の中曽根からさんです。
 「今、宿舎ですか?」
 「南由布駅から歩いて帰る途中です」
 「どのあたりですか」
 このやりとりをしながら、周囲を見渡すと、昨年、中曽根さんに連れて来てもらった、花合野(かごの)美術館の近くです。ふと、駐車場を見ると、中曽根さんが館長と一緒に立って電話をしているところでした。目と鼻の先で電話をしていたことになります。列車にのっていたらこの出会いはなかったことになります。不思議な縁です。
 花合野(かごの)美術館で展示されている作品を鑑賞した後、おいしいコーヒとりんごをいただき、館長の西野裕介館長ご夫妻と、中曽根さん、私たち夫婦の5人で、美術館を開くことになった経過や、大阪市長選挙などの政治の話など、楽しいひとときを過ごしました。中曽根さんは私に、前に話して下さった、DVD「“私”を生きる」を宿舎まで届けようとして下さる途中でのできごとでした。DVDについては後日。

 ふたつ
 15年以上で会っていない知人に、湯布院の町で会いました。相手は気づいていなかったのですが、顔と声は、間違いなく知人です。親しかったわけではないので、声はかけませんでしたが、一瞬どきっとしました。偶然というのは続くものですね。

 三つ
 これはもう奇跡としかいいようがありません。湯布院最後の日、ホームの夕食をパスし、町に出ました。6日に「おもうこぼす」で夕食をとるはずだったのですが、和田さんの体調がよくなくて、料理はつくれないからと、となりのレストランで食事をしました。食事の後、お茶を飲みに「おもうこぼす」に行ったのです。でも、やはり、湯布院最後の夕食に、和田さんの料理が食べたくなって、行くことにしました。突然行って、開いていたらラッキーだし、閉まっていたら別のところでと思って、店の前まで行きました。
 灯りはついていたのですが、閉店となっていました。挨拶だけでもと入ると、予約の一家族が食事をしていました。もし、可能なら食事をしたかったから来たと話すと、特別に作って下さいました。名物のだんご汁だけでなく、湯布院の野菜のおいしい料理をごちそうになり、予約の家族が帰った後、いろいろと話していたところに、和田さんのお連れ合いが店に来られました。お連れ合いとお会いするのは初めてです。挨拶をして、またしばし話していたところ、
 「伊藤さんの専門は、何なんですか」 
と問われ、言語障害の中で、特に吃音だと話すと、
 「言友会はご存知ですか」
と問われました。もうびっくりです。
 お連れ合いは言友会の人たちとつきあいがあり、特に、お仕事の関係で、私がとても親しくしていた人をよく知っているとおっしゃるのです。私が、言友会から離れることになって、やむなく別行動をとったひとですが、私がずいぶんお世話になった人です。もう、80歳くらいにはなっておられるでしょうか。その人と、お連れ合いは親しくて、先だっても会っているとおっしゃり、その人の話で盛り上がりました。

 湯布院最後の日に、「おもうこぼす」に行かなければ聞けない話です。親しくなった人のお連れ合いが、以前私がとても親しいつきあいがあった人と、親しい。不思議な、不思議な縁を思いました。

 「伊藤が会いたいと言っていたと伝えて下さい」とお願いして、幸せな気持ちに包まれて、「おもうこぼす」を後にしました。

 湯布院最後の日に起こった、奇跡のような思いがけない三つのできごとでした。
 湯布院エウンカウンターグループが始まってから行き始めて7年。グループが終わってからも行った湯布院は、10年行ったことになり、新しく大切な仲間のいる湯布院となりました。これからはたびたび行くことになるかもしれません。

日本吃音臨床研究会・会長 伊藤伸二 2012年1月14日
  
 
 
 

湯布院の日々

 この記事も湯布院で投稿したつもりのものです。
 結果として、一気に3本の更新となりました。
 12月23日から1月9日まで長い九州での滞在となりました。

 湯布院の日々

 昨年の湯布院の日々は大変でした。昨秋出版した、金子書房の「ストレス、苦手とつきあうための、認知療法・認知行動療法 吃音とのつきあいを通して」の本の執筆の最終段階に入っていました。出版社に締め切りを延ばしてもらって、執筆に取り組んでいました。せっかくの湯布院なのに、毎日、パソコンに向かう日々でした。
 今回は、前回よりは少しゆっくりしたものの、相変わらずパソコンに向かい、日本吃音臨床研究会の2011年度の年報の作成のためのテープ起こしなどに追われる日々でした。もうひとつ、2012年が、大変忙しい日々になるために、英気を養い、体力をつける意味合いがありました。昨年の湯布院の後、血糖値がかなり上昇し、その後高い状態が続いていたので、今年の湯布院は、血糖値のコントロールの意味合いもありました。保養ホームの食事は、ホテルや旅館と違って、質素そのもの、1日3食で、1600キロカロリーが守られる健康食です。それに、2万歩近く、ウォーキングとスロージョギングで、湯布院の町を歩き回りました。体調は好調です。

 1月2日、グループでは一度も一緒にはなりませんでしたが、湯布院在住の中曽根さんが、ドライブで鶴見岳から別府に連れていって下さいました。鶴見岳では残念ながら由布岳は見ることができませんでしたが、氷点下5度で、きれいな樹氷を見ることができました。

 1月6日には、竹田市の古びた温泉、長湯温泉に連れて行って下さり、日本一の炭酸泉に入ってきました。雪がまだらに残っている山道なので、ゆったりとしたドライブを楽しみました。山里のいい温泉町でした。
 この日の夕食は、保養ホームではとらずに、中曽根さんの湯布院の大切な仲間と夕食をとることになっていました。
 
 一人は、湯布院で湯布院映画祭などを計画して、地域で多彩な活動をしている人です。 『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』(講談社)で知られる、ベトナム戦争の戦士であった、アレン・ネルソンさんや乳がんとの闘病の中で、命の授業をしてきた、養護教諭、山田泉さんの日記を自費出版の編集をするなど支援をしてこられた話など、私たちにとって、とても刺激的でした。
 自費出版の『山ちゃんの保健室日記』は、私はいただきましたが、買うことができません。山田泉『いのちの恩返し』(高文研)は書店で買うことができますので、お読みいただくとうれしいです。
 もう一人は、福岡で小学校の学童保育の指導員を長年つとめ、湯布院で、子どもたちのたまり場になればと、「おもうこぼす」という、カフェを開いている人です。学童保育では、不登校気味の子や自閉症の子、いろんな悩みを抱えている子が、学童保育で、思いを語っていった経験から、このような店の名前になったのでしょう。湯布院に行かれたら、金隣湖の近くにあるこの店を訪れてみて下さい。おはぎがとてもおいしいです。血糖値が気になりながら、これで最後だと言い聞かせて、ふたつも食べてしまいました。
 中曽根さんも、美術館の管理人のかたわら、ドキュメンタリー映画の上演会をしたり、カウンセリング関係の世話人をしている人です。

 反原発や、反戦の活動、教育や、子どもたちとのかかわりを、湯布院という地域で静かに続けているこれらの人たち、価値観の共通する人、大切にしているものが共通する人との語らいほど、うれしく、楽しいものはありません。私の吃音の取り組みにも関心をもって下さり、いろいろと質問をして下さり、「吃音は治すのではなく、どう生きるかが大切」だとして、「どもる人が、この人間社会にいてもいい。吃音を治そうとしない」とする私の考えに共感して下さいました。

 夕方の6時前に集まったのに、あっという間に10時になっていました。
 地域で、すばらしい活動をしている人々に出会い、「お互い少数派だけど、がんばろう」と励まし合える仲間に、また出会うことができました。湯布院は、今後もたびたび訪れることになるでしょう。私たちの、第二の故郷のようになりそうです。

 そうこうするうちに、明日はもう、湯布院を去る日です。また、大阪での慌ただしい日常生活に戻ります。大阪に戻ったら、エンジン全開で吃音に取り組みます。

 日本吃音臨床研究会・会長 伊藤伸二           2012年1月8日 

最後の九重エンカウンターグループ 2


 これも湯布院から投稿したつもりのものです。
 再投稿です。


  40年以上続いた九重エンカウンターグループの最後のグループです。
 博多から豊後中村に到着しましたが、下車した人はほとんどグループ参加者です。昨年参加しているので、一年ぶりの懐かしい顔に出会い、もうそれだけでうれしくなりました。特に、昨年グループが同じだった、同年代の2人との再会は本当にうれしいことでした。抱き合うように再会を喜び合いました。
 タクシーに分乗して、九州大学の山の家に向かいます。
 受付では懐かしい人たちがすでに集まっています。ところどころで挨拶の輪ができる、何か同窓会のような雰囲気でした。そして、いよいよ、長く続いた九重エンカウンターグループの最後のグループがスタートしました。

 グループ内で話されたことはグループ内だけのことなので、紹介はできませんが、一人一人の人生に耳を傾け、大切な思いに耳を傾けた4泊5日。
 長い時間のはずなのに、あっという間に終わった感じがします。最終日の村山ご夫妻の、ちょっとした講演のような挨拶は、私もこの九重のグループや湯布院のグループに20年以上関わり、たくさん思い出があるだけに、胸にしみました。 
 「私は、自分の弱さや欠点、苦手なことを受け入れ、認めて生きてきたから、今があります。40年以上も、たくさんの人たちに支えられて、このようなグループを続けることができたのはみなさんのおかげです。私の周りで、私を支えて下さった方々に感謝します」。
 「自己実現と言いますが、他人との競争で、ナンバーワンになるのではなく、オンリーワン、ただひとりの、かけがえのない自分を大切にしていきたい」
 パーティーの最後でもあり、メモをとっていたわけではないので、記憶はあいまいで、正確ではないですが、私にはこのような内容だったと受け取れました。

 村山正治先生の、いろんな意味で、「自分を受け入れてきたから今がある」には、とても共感しました。吃音を自分を否定して生きてきたつらさ。自分を認め、受け入れるようになってから、今の自分を取り戻した経験が私にはあるだけに、一言一言が温かく私の胸に広がっていきました。このような発言は、たくさんの大学教員、臨床心理士を育ててこられた、偉大な存在であるだけに、村山先生をあまり知らない人にとっては、意外に思う人もいるでしょうが、長年その人柄に触れてきた者にとっては、私たちへの応援歌とも受け取れるものでもあります。この誠実さと謙虚さが、人を惹きつけ、たくさんの人が周りに集まってきたのでしょう。私もその中のひとりです。そして、共に歩んでこられた、尚子さん。このお二人の、絶妙の名コンビが、長年続いた九重エンカウンターのすべてを物語っているように私には思えました。

 大いに笑い、大いに泣き、ゆっくりとした時間の中で、たくさんの人の人生に出会え、人と出会えた。自分の人生を振り返ることができた。私にとっての、福岡人間関係研究会の九重エンカウンターグループはこうして幕を下ろしました。

 番外でうれしかったのは、21年前の2回目参加の時、同じグループにいて、その後、結婚した二人と再会したことです。若かった二人を、似合いのカップルになるだろうと、同じグループだった私たちが結びつけようとしたようです。その二人が実際に結婚し、二人の子どもを育て、ユニークな自分の人生を切り開き、夫婦で参加していました。
 この夫婦とは年賀状のやりとりはあったものの、まさか今回夫婦二人で参加しているとは思いませんでした。彼とはその後、湯布院のグループで会ったことがあるのですが、彼女とは21年ぶりの再会でした。そして、今回、彼女とは同じグループでした。一気に21年が縮まり、グループの中での彼女の発言も、当時素敵だなあと思った感性そのままでした。
 彼女も私のことをよく覚えていて、グループでの私の発言さえも覚えていて下さったのは、本当にびっくりしました。「私たちが結婚できたのは、伊藤さんたちのおかげです」と、いつまでも、あのころのことを覚えていて下さったのもうれしいことでした。
 そして、何よりもうれしかったのは、すばらしい映画の自主上映会や、農業や命につながるネットワークをつくり、社会貢献の様々な活動を夫婦で続けていることでした。
 おもしろいことに、21年前の私たちのグループのファシリテーターが参加していました。12名ほどのグループのうち4人が、21年ぶりに再会したことになります。人と人とが出会う不思議さを思いました。

 その後私は、湯布院の厚生年金保養ホームに向かうのですが、湯布院に住んでおられる中曽根さんの車に、湯布院経由で帰る二人と乗せていただきました。4人で、途中のレストランで食事をし、湯布院に入ってからすてきな喫茶店でゆっくりと、最後の九重エンカウンターグループを振り返りました。グループで話された内容は話さないものの、雰囲気を振り返ることができました。ぜいたくな楽しいひとときでした。そして、宿舎まで送っていただき、湯布院での生活が始まりました。

 日本吃音臨床研究会会長 伊藤伸二 2012年1月7日

最後の九重エンカウンターグループ


この投稿湯布院の厚生年金保養ホームからしたつもりでしたが、
大阪にもどってから見ると、投稿されていませんでした。私としては再投稿です。


最後の九重エンカウンターグループ

 40年以上続いた九重エンカウンターグループの最後のグループに参加しました。
 私の、心の故郷でもある、グループの最後の場に同席できたのは、幸せでした。その報告の前に、これまでのことを振り返ります。

 1989年12月、大阪教育大学(言語障害児教育)を退職して、大阪大学病院前で10年間経営したカレー専門店を、病院の移転に伴って閉店することにしました。
 さあ、これからどう生きていくか、これまでの人生をじっくりと振り返りたくて、すでに締め切られていた、福岡人間関係研究会(代表・村山正治九州大学教授)の九重エンカウンターグループに無理をいって参加させていただきました。
 それまで、カウンセリングワークショップと呼ばれていたころのグループに何度も参加し、メンバーが傷つけられているところに居合わせていて私自身も傷ついたり、嫌な体験をしてきたので、長い年月エンカウンターグループには参加しませんでした。しかし、これまでの人生を振り返りたくて、ふと参加してみたくなりました。村山先生のグループはこれまでのグループとは違うだろうという、安心感、期待があっての参加でした。
 ふたつあったグループの中で、私は、村山正治・尚子グループに入れていただき、カルチャーショックともいえる体験をしました。グループが始まってすぐから、笑いにあふれ出したのです。次から次へと起こる笑いに、最初はとまどいながら、その心地よさにすっと入っていきました。ある意味深刻なテーマが話されることが多いグループで、こんなに笑ってもいいのかと思うほど、私は声をあげて笑っていました。もちろん、笑っているだけではなく、真剣に人の話に耳を傾ける時間が圧倒的に多いのですが、印象としては笑いのグループでした。深刻な話題に静かに集中し、ほっと気がゆるんでは、ちょっとした話に大笑いする。カウンセリングのこのようなグループで、「笑ってもいいんだ」は、私には、驚きとともに、居心地のよいありがたい体験でした。 

 笑いと言えば、私が吃音の悩みから解放されていく大きな要因の一つに、「笑い」がありました。21歳の時、吃音矯正所・東京正生学院で、これまで誰にも話さなかった、吃音の悩みや苦しさを話しました。同じような悩みを経験している人たちは、真剣に私の話に耳を傾けてくれました。なんともいえない心地よさと安心感に包まれているうちに、私が吃音の悩みを話していると誰かが笑いました。これまでどもる時に笑われていた笑いとはまったく違う、共感の、応援の笑いのように感じ、私もつい笑っていました。
 ・彼女の家にどもって電話したら、父親が出て、いたずら電話に間違えられた。
 ・電話で、「おまえじゃ分からん、誰かに代われ」と言われたが、代わらなかった。
 ・「息を止めて、そのまま」の後の「はい、自由に息をして」が言えなかったレントゲン技師がいた。
 話そのものは深刻なのですが、似たような経験をしているから分かる話ばかりです。
 思わず笑ったのが、大きな笑いの渦へと広がっていきます。
 小学2年生の秋からどもることでからかわれ、笑われ続けてきた私が、話すのも嫌だった「どもり」の話題で、笑っている。21歳まで悩んできて、人前で笑うことのほとんどなかった私の、初めての腹の底からの笑いだったのかもしれません。

 次の年の九重のグループは、現在、日本人間性心理学学会の理事長で、九州大学教授の野島一彦先生のグループでした。こちらは、静かで、涙があり、じっくりと深まっていくグループでした。野島先生のからだからにじみ出る優しさが、グループ全体を包んでいました。だから、早いうちから悩みが話されたのでしょう。他のグループは知らないので、ペースが早いか遅いかは私は分かりませんが、ある地方都市でずっとファシリテーターなど世話人をしているカウンセリングのベテランが参加していました。その人が、「グループの深まりはこのようなものではなく、段階を経ていくもので、このグループは一気に深まって、あまりにもペースが早すぎる」と発言しました。私たちが批判されているように感じました。
 私は、素人ながら、この発言はおかしいと思いました。グループは生き物で、どのように進展するかは、その都度違うはずです。「このように進むはずだ、進むべきだ」はないだろうと思いました。
 私は、「私はこの場で、あなたのグループ論、ファシリテーター論を聞きたくない」と、思わず発言していました。
 そのセッションの後、私の発言に共感して下さったのでしょう。「伊藤さん、素敵」と声をかけて下さったのが、当時、石川県教育センターの教育相談課長の関丕(ひろ)さんでした。定年退職前に、石川県教育センターの教員研修に、私を講師として是非呼びたいと言って下さいました。そして、その年、石川県下の全新任教員を対象にした教員研修に私を呼んで下さいました。
 その後10年ほど、歴代、教育相談課長が私を呼んで下さり、新任教員の研修会だけでなく、不登校の子どもの相談研修など、いろんな教員研修会で講師をさせていただきました。現在も、「金沢いのちの電話」など、石川県のカウンセリング関係の人たちとのつきあいは続いています。そのような後日談があったので、2回目のこの九重のグループもとても記憶に残るグループでした。

 次の年、予定していた一人のファシリテーターが出産で参加できなくなり、急遽私にその役割を村山先生が与えて下さいました。大学で臨床心理学を専門的に学んだことのない、エンカウンターグループ参加もまだ2回しか経験していない私に、その役割が務まるのか、少しの不安がありましたが、お引き受けしました。グループが始まってのまもなくの休憩時間、偶然トイレで村山先生と鉢合わせしました。
 「経験のない私で、本当にいいんでしょうか?」
 「伊藤さんは、セルフヘルプグループでずっとグループの経験があるじゃないか。伊藤さんは、伊藤さんのそのままでいいんだよ」
 私は、私のそのままでいいんだ。背伸びする必要もないと、とても気が楽になりました。
 トイレでの一言二言のこの会話が、どれだけ私を勇気づけてくれたか分かりません。今も私の中に生き続けています。
 九重エンカウンターグループのファシリテーターは、必ずふたりで組みます。私のファシリテーター初体験の相手が、現在、九州大学留学センターの高松里准教授でした。
相手が高松さんだったことが、私にはとてもありがたいことでした。高松さん自身がグループをつくり、セルフヘルプグループを研究テーマにしている人だったからです。グループが始まると、最初はしばらく緊張が続くことが多いのですが、無駄な緊張は必要ないということでしょうか、経験のない私への気遣いだったのでしょうか。高松さんは、「まず、ファシリテーターが自己紹介します」とご自分を語り、次に私にバトンタッチして下さいました。ファシリテーター初体験の私にとって、これはとても助かりました。
 このように楽にスタートを切れたおかげで、メンバーとして参加した時とまったく変わらない姿勢で居続けることができました。その時のグループもとてもいいグループでした。そのときメンバーとして参加した何人かの人とは、今でもつきあいがあります。
 その後、ファシリテーターとして、メンバーとして、九重のグループにずっと参加していましたが、3月の春休みに、湯布院で村山ご夫妻を中心に、九重とは違う新しいファシリテーター・スタッフが形成され、私もそのメンバーに入れていただきました。湯布院のグループが始まったために、私は九重には参加しなくなりました。
 湯布院のグループではとてもいい経験をさせていただきましたが、残念ながら7年ほどで、村山先生の事情で終わりになりました。その後、グループには参加していなかったのですが、2010年で、九重のグループが終わりになると風のたよりに聞き、最後はどうしても参加したいと思い、参加しました。ところが、最後だというのは間違いで、もう一年あることを参加してから知りました。もう一回経験できることになり、喜んでその場で最後のグループの申し込みをしました。もうすでに、予約でいっぱいでした。
 そのような経過で参加した最後の九重エンカウンターグループが、2011年12月23日から始まったのでした。それは次回に報告します。

 日本吃音臨床研究会・会長 伊藤伸二 2012年1月5日
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