いつの間にか3月も半ばを過ぎました。あわただしく時間が過ぎていくのを感じます。
 3月11日は、僕にとって大切な日です。あの東日本大震災から12年が経ちました。テレビなどでは特集を組んでいて、今なお故郷に戻ることのできない人たちの声を紹介していました。同じころ、長編ドキュメンタリー「水俣曼荼羅」を見て、水俣病で苦しんでいる人たちの声を聞いていました。まっとうな声がなぜ届かないのか、怒りの感情が湧いてきます。11日は、ちょうど、千葉にいて、今年の夏の吃音講習会に向けての学習をしていました。
 2日間、吃音のことばかり話していて、ブログの更新もできませんでした。阿部莉菜さんのことを思いながら、僕は合宿に参加していました。
 今日は、「スタタリング・ナウ」2000.7.15 NO.71の巻頭言を紹介します。吃音の苦しみとは、何か。苦労して、書いた記憶があります。

  
吃音の苦しみ
                    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「どもる人はどういうことに悩み、つらい思いをしているのか、まとめて下さいませんか」
柿沼アナウンサーの問いかけに、これも言いたいあれも言いたいと、いろんな思いがあふれた。
『にんげんゆうゆう』の放送時間は30分に満たない。その制限の中で、言い切れただろうかと不安があったが、放送の後、「吃音の苦しみを、私のことを言ってくれているようでうれしかった」「テレビを見た親が今まであまり理解してあげられなくてごめんねと電話をかけてきてくれた」などの感想を聞くと、ほっとする。
 3年前、世界的ミュージシャン、スキャットマン・ジョンさんが、ドイツのテレビ番組に出演するので、吃音について理解を深めたいから、何を話せばいいか提案してほしいと、国際吃音連盟の役員に問いかけてきた。収録後、思いどおりに話せなかったとしょげていたのを思い出す。テレビで吃音について話す機会はそうあるものではない。ジョンさん同様私も、吃音への理解が少しでもすすむように話したいとの気負いがあった。
 言いたいことが言えない。電話ができない。自分の名前が言えない。吃音に悩む人は声を揃える。しかし、そう言われても、どもる人の悩みはそう簡単に理解されるものではない。どう表現すれば理解が得られるか。その表現の仕方で悩んだ。
 「吃音は、何も難しいことではなく、誰でもが言えるようなこと、言わなければならないこと、言えて当然のことが言えない苦しみなのだ」
 緊張したら誰でもどもる。あわてたらどもる。確かにそうだろう。だからどもる人を前にして多くの人は、「さあ、もっと落ち着いて、あわてずに、ゆっくり話しなさい」と言う。「そんなんではないのだ、どもりは」と言いたかった。
 難しいことを話そうとして「うーん」などと口ごもる。感極まっての愛の告白、「ああああ、あなたが、すすすすすすすすすす好きだ!」
 そんな時は、どんなにどもろうとかまわない。どもりたくない気持ちをすでに突破している。
例えば、名前が言えない―商品の説明もうまくでき、営業の話が順調にすすんでいる。もう商談は成立したようなものだ。急に、「ところで、まだ貴方のお名前お聞きしていませんでしたね。お名前は?」こう聞かれてぐっと詰まって「ううううう・・」顔を歪めて名前を言おうとするが言えない。長い時間がたったように思う。やっと出た名前が「いいいいいいいとうしんじ」。相手はまずびっくりし、気まずい雰囲気が流れる。恥ずかしさがからだ全体に広がり、その場から消えてしまいたくなる―
 この5月、インターネットを通して悩みを聞いていた人が「会社の名前が言えない。もうこの苦しみは味わいたくない。不況で転職は難しいだろうが、どもらずに言える名前の会社に変わりたい」と退職した。自分の会社の名前が言えずにその会社をやめる人は後を断たない。
 例えば、切符が買えない―どもりを治したいと通った吃音矯正所が山手線の「高田の馬場」にあった。自動販売機がまだなかった時代。「たたたたたた…」出てこない。後ろには人がずらっと並び、「何してんだ。早くしろ」と怒鳴る。駅員は迷惑顔で見つめる。何度立ち往生したことか。人の並んでいない窓口を探すが、すぐに人は並ぶ。ただ切符を買うだけのことだけで、何故僕だけがこんなに苦しまなければならないのか―
 小さな子どもでも、自分の名前は言えるだろう。切符だって教えてもらえば買うことができる。だれもが苦労なく、なんなくしていることだ。ことばそのものが出ないのではなく、普段は普通に話せることが多いのだから、相手は、当然のこととしてことばを要求するし、期待もする。そのなんでもないことばが言えない。
 こう説明して、吃音体験のない人にどもる人の悩みを理解していただけるだろうか。
 このように苦しんできた人にとって、どもりを治したい、少しでも軽くしたいは、悲痛な願いなのだ。その悲痛な願いに、「恐らく治らないだろう。吃音と上手につきあうことが現実的だ」と私たちは言う。たかが少しことばが出ないだけで、君は喋れるではないかと、そのままでいいと言うのと、この辛さを熟知しながらも、「どもってもいい」と言い切るのとには相当の開きがある。(「スタタリング・ナウ」2000.7.15 NO.71)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/03/18