「スタタリング・ナウ」2000年4月 NO.68の巻頭言を紹介しました。津市に住む僕の同級生がみつけてくれた、教育評論家・芹沢俊介さんによる『新・吃音者宣言』の書評を紹介します。
 毎日新聞社発行の雑誌『エコノミスト』(2000.2.29)に掲載されたものです。少数者の誇り、というものは確かに僕の中にあります。それを、このように第三者から言っていただき、うれしい気持ちでいっぱいでした。記事と、文字起こしをしたものとを紹介します。

  
新・吃音者宣言
  伊藤伸二著  芳賀書店  1600円
吃る言語を話す少数者という自覚は実に新鮮である
                          評者・芹沢俊介(評論家)


芹沢さんの書評  長い吃音へのアプローチの歴史は吃音と吃音者を分離し、吃音症状にのみ焦点をあてた歴史だった。症状の消失、改善に一喜一憂するその陰に吃る主体である人間が置いてきぼりにされていたと著者は述べる。
 著者は三歳ごろから吃りはじめた。しかし吃るということが、悪いこと、劣ったことだという意識をもった(もたされた)のは小学校二年生の秋の学芸会のときからであったと書いている。成績優秀だった著者は、ひそかに学芸会の劇でせりふの多い役がつくのではないかと期待していた。だがまわってきたのはその他大勢の役でしかなかった。
 落胆した著者は、友だちに、伊藤は吃りだからせりふの多い役をふられなかったのだと言われ、言いようのない屈辱感を味わう。そして教師への不信とあいまって稽古期間中に、明るく元気な自分から暗くいじけた自分に変わっていってしまった。いじめの標的になり、自信を喪失し、自分が嫌いになっていった。吃ることを自己存在を否定する核に据えてしまったのである。人前で話すこと、人前に立つことを避けるようになった。自己をも喪失した状態になっていったのである。
 著者はすべての不幸の原因は吃音にあると考え、必死に吃りを治そうと試みる。だが治そうとすればするほど、逆に自分の居場所を失うことにやがて気がつくのだ。
 この本はそこから吃ることの全面肯定にたどりつくまでの、著者の涙と笑い、苦しみと喜びの軌跡が綴られている。吃ることを症状として自己の外に置いてしまったことの内省のうえに立った、吃音の自分への取り戻し宣言である。
 吃る自己の全面的受け入れにはじまり、吃る言語を話す少数者としての誇りをもって、吃りそのものを磨き、吃りの文化を創ろうという地点まで突き進むのである。負の価値としての吃りの解体が目指されているのである。
 吃る言語を話す少数者という自覚は実に新鮮である。こうした自覚にいたるにはどうしたらいいか。
 まず吃音症状に取り組むという姿勢から離れること、吃音症状と闘わないこと、矯正の対象にしないことである。吃ることをオープンにしていくことも大切だ。いまでは幼稚園段階で吃音を意識する子どもたちが出てきている。親は子どもと吃音について話しあうために、自己の内部にある境界線を壊しておく必要があるだろう。
 さらには「吃ってもいい」を大前提に吃音を磨いていくには、吃音者は自分の声に向き合うという課題も生まれてくる。言葉とは何かを考えることも大切になってくる。長い間、虐げてきた自分の吃り言葉に無条件でOKを出すと、このように様々な喜びに満ちた未知が開けてくる。
 この本は意図された自分史ではない。そのときどきに発表されたエッセイの集積が、自分史を構成するまでに熟したものだ。子育て論、自分育て論に通底する爽快感あふれる一冊。
  本の著者  伊藤伸二(いとうしんじ)
    伊藤伸二ことばの相談室主宰。
    日本吃音臨床研究会会長
                  (2000.2.29 エコノミスト〈毎日新聞社発行〉)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/02/26