昨日の、石隈利紀さんと僕の対談のつづきです。対談は、打てば響く、そんな感じで進んでいきました。とても気持ちよく、その場にいたことを覚えています。

伊藤 スキャットマン・ジョンというミュージシャンが、どもる人のためにスキャットマン基金を作ろうとして、僕ら国際吃音連盟の役員に使い道について意見を求めてきました。ドイツ、アメリカ、そして日本の私が役員でしたが、インターネット上でのやりとりで、吃音治療の実践研究のためにお金を使おうと話が進んでいる。そこへ僕が強く反対したんです。
 「あなたは、50才まで吃音を隠し続けてきたが、吃音を受け入れ、そのままの自分を認めて、CDのジャケットで自分の吃音を公表した。そうして楽になった経験をしているあなたの基金が、吃音を治すためにお金を使うのは残念だ。吃音と共に生きる、自分を受け入れて生きるという方向にこそお金を使って欲しい」
 この主張に、スキャットマン・ジョンは、とても喜んでくれました。
 「大賛成だ。シンジの言う通りだ。私もそういう意見が欲しかったんだ」と。そして、いろんなイベントや、本を出そうと、二人で盛り上がったんですが、あとの二人の役員が反対で、オブザーバーのカナダ人も大反対なんです。「吃音受容も大事だけど、治療をないがしろにしてはいけない。今自分があるのは専門的な治療を受け、喋れるようになったからだ。教師の生活ができているのは、治療のおかげだ」とカナダ人は言いました。少しでも普通に近づこうという発想なんです。

石隈 アメリカで治療という背景に、一人一人違うというすごい強烈な社会の思想があるけれど、同時に、健常に近づくという発想があります。アメリカでも最近は変わりつつあるんです。障害児教育の領域で、昔は知的障害のある方、精神疾患の方は、一般社会と離れて病院や治療するところで暮らしていた。これが最初です。それじゃおかしいと次に出てきたのが統合教育で、少しでもその子の能力に応じて、普通の子どもと一緒か、近いところでやろうと、一番障害の軽い子は普通学級、それから少し障害のある子どもは一日のうち何時間か行く通級指導の学級、もうちょっとしんどい子は一日中障害児学級にいる。もっと援助が必要な子は日本でいえば養護学校にいる。
 この発想が、ここ10年来、ちょっとおかしいんではないか、結局はどのくらい健常児に近いかと、言葉は悪いですけど段階分けをしている。もちろんその子の大変さに応じて、たくさんのケアがいる子と少しのケアがいる子と違うからそれ自体悪いことじゃなく、アメリカも一生懸命やってきているんです。だけど、どれくらい健常児に近いかというところに、今伊藤さんの言われた少しでも健常者、あるいは普通に近づくという発想がアメリカにもあったのかもしれないですね。それは今変わりつつあって、統合教育じゃなくて、融合教育というか、インクルージョンというのですけど、どうやったらみんながいっしょに生きていけるかを模索をしているところです。治療へのこだわりを、そういう文脈から私は感じましたね。

伊藤 なるほどね。吃音の特徴的なこととして、どの程度まで症状が軽くなれば積極的に社会に出て行けるか、これまでの生き辛さから開放されていくのか、その線引きがものすごく難しいのです。これはほかの障害とは全然違うところです。
 たとえば視力障害で何等級の障害であればこの位のハンディがあり、身体障害でもこれぐらいの障害ならこれぐらいのハンディがあるという、障害の程度によって一つの線引きがあるでしょう。ところが吃音の場合はない。ものすごくどもっているのに全然悩んでない平気でハンディを感じない人がいる。僕らが聞いてほとんどどもっていない人が20年生活している伴侶にも自分のどもりを隠して、人前で話すことを避けている。症状としては軽くても、その悩みは深い。ここに論理療法が入る余地があるんです。

石隈 なるほど。どうすれば自分の悩みが軽くなるか、あるいは自分の吃音とつきあっていけるかが、吃音という症状が少し軽くなるかどうかよりももっと先に来るというか、大事なことなんでしょうね。アメリカと日本と比べてそれぞれいいところがあるし、アメリカはやっぱり個人主義で、一人一人違うことのよさと、それを主張しなければならないしんどさと、それとさっき言ったやっぱり健常者への憧れというのが逆に強く出てくる。でも、本当は、健常者って一体何なのかというと何か分からないですよ。
 健常者とそうでない人がいるんじゃなくて、それぞれ人がいるんですね。だから日本では皆さんがやっている、まず吃音とつきあうことから始めて、実際は話し方の練習は自分でやりたい人がその人なりの方法でやる、その方が私にはぴったりくる。こんなやり方があるというのを、昨日伊藤さんがあいさつで言われたように、海外に輸出できればいいですね。スキャットマン基金の問題でも最初は反対していても、だんだん分かってくれるんじゃないですかね。文化の問題だから、時間がかかるかもしれませんが。

伊藤 私たちの、吃音と上手につきあうという提案も、スキルというか、技術的なことが伴うと、アメリカなども取り組んでくれるかも知れない。そういう意味では論理療法を一つの武器として、論理療法の取り組みを翻訳して提案ができればと思うんです。

石隈 論理療法は共通の言語になりますね。論理療法はアメリカではかなりメジャーで、よく使われている。カウンセリングを勉強する大学院の1年生の教科書に載っているぐらい。私も出会いはアメリカでカウンセリングのトレーニングを受けた1年目で、精神分析や行動療法と同じように、交流分析や論理療法が載っていました。
 吃音とつきあうというのはこれから日本が発信していくことができますね。ただアメリカは違う人種とつきあうというのは慣れているんですよ。これは白人と黒人とで苦しんできたから。自分の吃音とつきあうのは日本の方が上手かもしれないけど。お互いちょっと慣れている領域と考えれば、そんなに違わないかもしれません。

伊藤 日本の僕たちが吃音を受け入れる取り組みをまずやってみて、禅問答のように分かりにくいものでなく、論理療法という共通の言語を通して提案していけば世界に貢献できますね。

石隈 そう思います。だから一つの生き方というか、アメリカと日本とは全然違うけれどお互い学べる所がたくさんあります。今よく「共に生きる」とか言われますけどまだ私たちは苦手ですよね。だから吃音とつきあって生きるという生き方を論理療法という枠組みで訴えていけると、アメリカ人にも分かってもらえるし、アメリカ人も楽になるんじゃないですかね。
「スタタリング・ナウ」2000年3月 NO.67)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/02/20