「吃音と向き合う」、「自分と向き合う」、今ではよく使われ、使い古された感じさえすることばですが、本当はとても難しいことを表していると思います。どもる子どもたちが、まずこの地点に立ってくれたらと思いますが、そのために、親やことばの教室担当者、言語聴覚士などの臨床家が、どもっていてはかわいそうと思わないことが第一条件です。このままでいい、どもっているそのままでいいと本気で本音で思える人であれば、どもる子どもの同行者としての条件をクリアしていると思います。
 「スタタリング・ナウ」2000年2月 NO.66の巻頭言「吃音と向き合う」を紹介します。

吃音と向き合う
             日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 劣等感をもっている事柄、自分を悩ませている事柄、否定したい事柄。これらのことに向き合うことは容易いことではない。心楽しいことでもない。できたら避けたいことでもある。
 吃音を否定してきた思春期の子どもが、自らの吃音と向き合うことの難しさを、私は吃音親子サマーキャンプの取り組みの中で、随分と体験してきた。キャンプに参加した子どもたちが、吃音と向き合うのが難しいのではない。キャンプに参加する思春期の子どもたちは、キャンプの参加を決めることで一番難しい第一歩を踏み出しているからだ。参加しようか、しないかの葛藤の中で、子どもたちは心の準備ができ、キャンプという装置の中で、同じように悩む仲間の支えで、子どもは実に吃音についてよく話し、吃音と直面していく。
 吃音と向き合うのが難しいのは、子どもの頃に、吃音について一切話題にしないできて、吃音について辛い経験をし、吃音を否定して、自己同一性の確立されていない思春期の子どもたちだ。吃音親子サマーキャンプのことを知った親や教師が、いくら参加を勧めても参加できない中学生や高校生は多い。
 自己同一性の確立とは、自分が何者であるか、自分は何ができて何ができないか、自分であることを確信することで、エリクソンは、これを思春期の社会心理的課題とした。思春期は嵐の時代だと言われ、病気や障害、あるいは深刻な劣等感をもっていなくても、揺れ動く、難しい時代である。その時代にさらに、自らを悩ませてきた吃音と直面するのは、極めて困難な課題だと言える。
 そこで、思春期の前段階である学童期は、まだ吃音と直面しやすい、取り組みやすいから、学童期に吃音をオープンに話題にし、吃音と直面することを提案してきた。また、さらに学童期の前段階である幼児期、吃音を意識したことをチャンスに吃音の早期自覚教育のすすめもしてきた。しかし、比較的、取り組みやすいと思われる学童期、吃音を直接的な話題にし、子どもが吃音に直面するのにどう立ち会うか、ことばの教室の担当者は悩んでいるという声を聞く。
 何故難しいのだろう。何故、親は、ことばの教室の担当者は、フランクに吃音について話せないのだろう。自覚しているにせよ、無自覚にせよ、吃音を全面的に肯定していないからではないか。「どもっていても大丈夫」だと、本音ではなかなか思えないからではないだろうか。子どもが「吃音と直面する」ことに立ち会う人は次のような人であって欲しいと思う。
◇自らが、自己肯定の人である。
◇吃音を悪いもの、劣ったもの、絶対に治さなければならないものだとは思っていない。
◇ユーモアのセンスがある。
◇自分自身、ことばの表現が豊か。
 吃音を否定的にとらえていない人がそれぞれのスタイルで、子どもが吃音と向き合うことに立ち会ってくださるのはうれしいことである。できれば治してあげたいの本音をもち、戦略的な吃音受容で、「どもってもいい」と言うのと、無条件に「どもってもいい」と言うのとは、実はものすごく大きな隔たりがあるのだと、吃音を否定することがいかに辛いことかがからだに染みている人間としては思ってしまう。
 子どもが吃音と直面する立ち会い人は、無条件の吃音肯定の人であって欲しいと、祈るような気持ちで願っている。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/02/16