今日、ほんの数分前に、今月号の「スタタリング・ナウ」の原稿をプリントパックに入稿しました。ぎりぎりまで推敲し、何度も読み直し、声に出して読んで確かめ、そうしてできあがった原稿です。今月号もなんとかしあがったと、ほっとしているところです。毎月、月初めは、こんな思いをしています。
 今日、紹介するのは、「スタタリング・ナウ」NO.63(1999年11月)です。「書くことの喜びと苦しみ」とのタイトルは、まさに、僕の今の心境です。これを書いたのは、1999年で、「スタタリング・ナウ」は63号でした。それから24年、今月号は、342号になりました。

  
書くことの喜びと苦しみ
                日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 さて、巻頭のこの文章。この号は何を書こうか。これまでどれだけ苦しんできたことか。ワープロを自分で打つようになってからは、随分と楽になったが、以前は私が書きなぐったものを、周りの人が清書をしてくれる。そのままでは、とても推敲出来ないからだ。それにまた、手を入れる。また清書する。と、何度も繰り返してやっと出来たことが幾度もあった。周りの何人かの人に感謝したい。今、自分でワープロを打って推敲できる分、周りの人の手を煩わせることはなくなったが、書く苦しみは相変わらずだ。
 吃音をテーマにしたこの一面。いつ書くネタが切れるか、書けなくなるか、いつも不安だ。やっと書き上げ、印刷に廻すときは、ほっとした気持ちになれるが、すぐに1か月は回ってくる。
 1か月に一度、この程度の文章を書くことでもこれだけ七転八倒するのだ。1週間に一度のコラム、毎日連載の記事などを書く人々の頭は一体どうなっているのだろう。
 締め切りギリギリになっても、書くテーマが見つからず、今回はもうだめだ、とても書けないと何度口にしたことか。「そんなにしんどいなら、何もあんたが書くことはないではないか」、そう思われても仕方がないのだが、やっぱり書いている。なぜか。それは、幸運としかいいようがないのだが、幅広い日本吃音臨床研究会の活動があり、多くの人との出会いがあるから書くことが思い浮かぶ。また、この間のあの文章がよかった、励まされたなどと言って下さる人がひとりでもいると、ついうれしくなって「やっぱり僕が書こう」となってしまう。
 この書く苦しみを人に押しつけたくはないし、また、この喜びを手放したくもないのだ。
 こんなわけで、10年以上もひいひい言いながらも、ほとんど欠かさずに毎月一本はエッセイのようなものを書いてきた。その数は150編以上になる。
新・吃音者宣言 表紙 今回、それらを集めて、出版することになった。どれもがいとおしいが、全て載せるわけにはいかない。それぞれに思い入れがあり、そのひとつひとつの文章が、僕は落とすなよと迫ってくる。悩んだ揚げ句、79編を選んだ。
 毎月毎月のノルマは確かに厳しい。何を書いてもいいということでもない。テーマは吃音と決まっている。そして、その月の特集らしきものもある。できればその特集にあった文章としたい。
 このように苦しみながら書いてきたことだが、書き続けることで得をしてきたことは随分多い。新聞や本を読むスピードは速くなった。新聞の隅から隅まで読むのにというより、目を通すにもそれほど時間はかからない。オーバーかもしれないが、必要な記事が向こうから飛び込んでくると言ってもいい。講演などを聞いても、すぐに、自分の書きたい文章に結びついていく。アンテナが常に研ぎ澄まされた状態になっているのだ。意識をしているわけではないが、日常感じたり、起こったりしている事柄は、常に『スタタリング・ナウ』の一面をフィルターにして私の中に入っているのだといえるのかもしれない。そういうと、とても窮屈のように思われるか知れないが、これはこれで結構楽しいのだ。かくして、今日も私の頭の中には、何かがインプットされていく。

 こう独白めいたことを書いてきて、気持ちが楽になった。こんなに、楽な気持ちでワープロに向かうのは初めての経験のように思える。書けない自分をさらけ出す。まとまりのない文でも、今回は許してと甘えているような、そんな気持ちさえしてくる。
 乱筆乱文お許し下さい。(『スタタリング・ナウ』NO.63 1999年11月)


 この巻頭言で書いているエッセイは、『新・吃音者宣言』(芳賀書店)として、出版されました。残念ながら、絶版になっています。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/02/06