昨日に続いて、感想の紹介です。今日は、安藤百枝さんの感想です。安藤さんとのお付き合いは長く、本当に、いろいろな場でたくさんのことを話しました。今、紹介している冊子『吃音と上手につきあうための吃音相談室』の前身の『どもりの相談』制作のときは、何度も合宿をしましたが、いつも一緒でした。どもる子どもの保護者としての視点と、その後言語障害を学び、言語聴覚士として臨床に携わってこられた経験を活かした、的確な指摘は、僕にとって、とてもいい刺激でした。今回の文章も、穏やかで、にこやかな安藤さんの顔や声が浮かんでくるようです。

試される臨床家としての人間性と力量
  安藤百枝(小平市立障害者福祉センター・言語聴覚士)


 重いガイドブックである。100ページあまりの冊子なのに、読みごたえ十分で中身はずっしりと重い。導入として書かれている基本構想が、自分の体験をおりまぜながら全編の根っこに芯のように貫かれており、伊藤さんの吃音に対する思い入れと哲学が随所に感じられる。琴線にふれることばがあふれている。
 やさしい語り口調で書かれているのも読み易い。あえて難を言わせてもらえれば、語り口調のためか、伝えたい事が多いためか、少しダラダラと長いような気もする。特に「お母さんへ」の章を読んでいる時そう感じた。消化するのに時間がかかった。でも、全体を読み終えてみると、そんなことはどうでもいいような気になった。
 吃音にめげそうになっている人や、我が子の吃音に悩んでいるお母さんには、何よりの福音書だと思う。吃音でない人たちもいろいろなことにぶつかった時読み返してみると、心あたたかくなり、希望がもてるような気がする。読み返すたびに、それまで気づかなかった事が見えてきて目の前が開けるような気がする。
 「吃音と上手につきあうための」というより「自分らしく、心豊かに生きるためのガイドブック」とした方がよいかもしれない。
 ことばの教室の先生や学級担任、そしてスピーチセラピストは、どもる子どもを指導する以前に、「吃音」そのものをどのように受け止めて子どもたちを支えていったら良いのか、示唆に富んだことばがあふれている。それをどのように消化し、実践するか、臨床家としての我々の人間性と力量が試される。
 伊藤さんとのつき合いは25年以上になる。
 大阪教育大学ではじめて会った時、彼は「治らないどもりをどうするか」と、どもりながら楽しそうに話していた。あの当時の彼のエネルギーと目の輝きは、25歳でエリクソンの言う学童期を卒業して劣等感から抜け出した彼が、遅れてやってきた思春期の真っ只中で、アイデンティティを確立していた時期だったのだ。当時の彼を思い返してみると「なるほど、そうだったのか」とうなずける。
 それからの彼の活動が目をみはるものであったことは本に書いてある通り、いや、それ以上のものであったが、「吃音者宣言」を発表した頃の彼の活動に対しては、批判的な声もいくつか耳にした。確かにあの当時、熱心さのあまり吃音への考え方、取り組み方を同じボルテージで共有しなければ、別の仲間のように扱われるという印象を相手に(特に、治すことにこだわっている人たちに)与えていたこともあったと思う。
 しかし、その後の活動の中で、彼は今の考え方を確立し、吃音を治すことにこだわり続ける人も受け入れた上で、自分たちのような生き方も選択肢のひとつとして頭の隅において欲しい…と書いている。このことばも含めて、「吃音に悩んでいる十代の君たちへ」の章は、神経をゆさぶられる思いで読んだ。体の底から湧き出る声を聞いた思いがする。
 「吃音相談室」を読んだ内容についての感想以前に、自分の体験に基づいてこれだけのものを書き上げた伊藤さんの、吃音と共に歩み成長した生き方に思いを馳せ、胸を熱くしてしまった。読後、しばらく放心状態であった。  
 21歳まであれほど忌み嫌い、悩んだ吃音も、今や彼にとって生きる喜びであり、生きる姿勢なのだ。吃音に本気で悩み、そして惚れ込んで、はじめて深く吃音をつかみ得るのだ、ということを実感的に感じさせてくれた。
 彼は時々、「どもりでよかった」と言う。キザなセリフだと思った時期もあったが、それは彼の生の声だったのだと気づかされた。私もいま、素直にそのことばにうなずき、彼がどもりでよかったと、心からそう思う。
 『伊藤さん、どもりでいてくれてありがとう!!』(「スタタリング・ナウ」1999.7.17 NO.59)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/01/24