「吃音と論理療法」、これで最後です。論理療法に出会ったとき、吃音にぴったりだと思いました。それまで考えてきたことが、きれいに説明がつくことに驚き、そしてうれしくなりました。論理療法は、吃音だけではなく、どもる人の日常生活でいろいろ役立っているようです。
具体的な例は、また後で紹介します。

ラショナル・ビリーフと人生哲学
 では何をもってラショナル・ビリーフというのか。原理的には次のことである。
  1)事実に基づくビリーフ
  2)論理的必然性のあるビリーフ
 実際には日常生活で我々に幸福感(C)をもたらしてくれるビリーフのことである。たとえ「かっこよい」「立派な」考えであっても日常生活が楽しくなければ、それは多分、ビリーフのどこかにイラショナルな要素があるのである。
 言い換えれば、論理療法には歯をくいしばって禁欲的に生きるのではなく、今その時を楽しめという発想がある。目標達成主義(結果主義、完全主義)ではなく、プロセス主義である。しかし、だからと言って、論理療法は刹那主義ではない。目先の快楽追究の結果将来苦痛を招くと思われるときには、その目先の快楽を断念するほうが結局は快楽を得ることができると考える。つまり、きわめて実用主義的な発想がある。
 論理療法のもつ人生哲学の第二の特徴は、この世の中で絶対善とか絶対悪はないという考えである。「ねばならない」「すべきである」「すべきでない」に縛られない人生哲学である。したがって「罪障感」も「恥ずかしさ」も「不安」も「落ち込み」も論理療法にはない。特定の「ねばならぬ」を金科玉条のように頑なに持ち続けるから「罪障感」「恥」「不安」「落ち込み」に悩むというのである。どうすれば、とらわれのない状態が得られるのか。それは各自がもっているイラショナル・ビリーフに気づき、それを粉砕することである。

イラショナル・ビリーフの粉砕
 吃音についてのひとつの例を論理療法的に考えてみよう。新入社員が、1週間後に職場の朝会で3分間スピーチをしなければならなくなった。彼の不安、恐怖は次のようなものであった。

 「どもってしまうかもしれない。もしどもったら、それはとても醜い、ひどいことだ。また、同僚全てに自分のどもりがばれてしまう。ああ、なんて恐ろしいことだろう。こんなことはあってはならないことだ。絶対にどもってはならない」
 「どもっている自分の姿を見て、みんなはどう思うだろう。びっくりし、目をそむけ私に憐れみと同情を感じるだろう」
 「その日から、腫れ物に触るかのように私に接するだろう。そして心の中でに『あんなひどくどもってどんなにか苦しんでいるんだろう。かわいそうに』、また別の人は『まともな仕事はとてもできないだろう』と考えて、私を無能な人間のようにみなすだろう。課長などは、私をダメ社員ときめつけ昇進など、もはや望むべくもないだろう」

 こう考えれば、眠れなくなり、やがて食事も満足にのどを通らなくなるだろう。
 論理療法は、上のような文章記述を変えるよう自己に迫れという。不安や憂鬱や絶望感や恥の意識ではなくて、単なる不快や失望だけを感じる状態に変えるよう自分を説得しようという。そしてこのことは、可能だというのである。
 では、上の例で、彼はどういう具合に考え方を変えていくことができるか。

 「私は朝会でどもるかもしれないが、私はどもりなんだ。しかし、どもることはそんなに大変なことだろうか。私がどもることで、誰かが傷ついたり、不利益を被ったりするだろうか。みんなちょっと驚いて、私も少しイヤな気になるだけだ。ましてや、その日一日の仕事に何らさしさわりが生ずるはずもない。朝会のスピーチは儀式にすぎないし、しいて意味をみつけるとすれば、我々社員の自己主張訓練だ。私にとって絶好の自己主張訓練の場ということだ。完壁にやれなくても、これで少しでも度胸がつくなら私にとっては大変なプラスになる。自分のどもりがばれるが、とっくに知られているかもしれない。それにこの際ばれてしまった方が、いつばれるかとビクビクしているより、気が楽ではないのか」
 「どもることをどう思うかは私の態度によって変わるだろう。私自身が『大変な姿を見られてしまった』と恥辱にまみれていれば、周囲も私自身が評価したように評価して憐れみや同情を感じるだけだろう。しかし、『これが私だ。どもるけど仕事はちゃんとこなしている。誰にも迷惑はかけていない』と、平然としていれば、周囲も『なんだ、あの人はどもるのか』とあっさり受け入れるだろう。そもそも他人は、人のことを深刻に受けとめるほど他人に関心を持たないものだろう。むしろ私の欠点(どもり)を知って安心感、親近感を覚える人もいるかもしれない。もしそうなら、私の吃音は人間関係をよりよいものにするために一役買っていることになる」
 「私がどもることは悪いことだろうか。どもりになったのは私の責任ではないし、誰の責任でもない。どもるからといって自分という人間そのものの価値が低いなどとは断じて言えない。むしろ弱い立場の人に対するやさしさは人一倍持っている。これはすばらしいことではないのか」
 「当日は堂々とどもってやろう。どもって落ち込んでいれば、これからどもるたびに落ち込んでしまうことになる。いつも落ち込んでばかりいられない」

 このように、まず、自分が考えた最悪の自分、つまりひどくどもっている状態を想像し、そのような状態になったとしても大丈夫だと考える。思い浮かんだ一つ一つのイラショナルな考え方(文章記述)に反撃を加えていくと、やがて実体のない不安感や絶望感は消えていき、ずっと落ち着いた気分でその日を迎えることができるだろう。
 反撃を加えていく過程をよく観察してみると、自分の信念体系(ナンセンスな考え―Bの段階)を変化させて、その結果として感情が変化した(Cの段階)ことが分かるはずである。間近に迫った不快なできごと(A)に関して、新たな悪くない感情が生じる(C)原因となったのは新たな考え方(B)に他ならないことが理解できるだろう。
 論理療法を学ぶとは、考えることを学ぶ、あるいは習慣が身につくということである。
(吃音と上手につきあう吃音講座テキストより)

文献(川島書店発刊)
『論理療法』 A.エリス他著 國分康孝他訳
『論理療法に学ぶ』 日本学生相談学会編
『どんなことがあっても自分をみじめにしないために 論理療法のすすめ』國分康孝、石隈利紀、國分久子訳


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/12/30