「スタタリング・ナウ」1998.10.17 NO.50の巻頭言を紹介したのは、9月29日でした。
1ヶ月が過ぎてしまったことになります。季節も、夏から、すっかり秋に変わりました。しばらく飛騨高山地方に旅行していました。いつもは、旅行する準備のひとつとしてブログに掲載する記事を用意して出かけるのですが、今回はうっかりと持たないで旅立ってしまいました。有名な観光地は、すでに行っているところばかりなので、今、僕たちの旅行は、自然にふれる旅です。今回も名もない公園から眺めた紅葉と、広がる里山の光景が心に残りました。
数年前から好きになった、北アルプスの白馬村にのんびり滞在するのが好きでしたが、そののんびりする滞在先に、飛騨高山周辺も加えたいと、今回の旅で思いました。ブログをしばらく休んでいると、「元気ですか?」と問い合わせてくださる人がいます。ブログは僕たちが元気でいることの証にもなるのだと、読んでくださる人の存在をとてもありがたいことだと思います。
今年は、吃音親子サマーキャンプも開催でき、新・吃音ショートコースも開催できました。高山から帰って、今日一日旅の後始末と準備をして、明日から島根に車で向かいます。2年間行けなかった、島根スタタリングフォーラムです。島根スタタリングフォーラムは、僕たちが主催する吃音親子サマーキャンプに次いで、長く続いている吃音親子キャンプです。第1回から参加していますが、今年で24回目です。事務局を担当する中心的な人が、代々途切れることなく続いている、島根の難聴・言語教育の担当者の「島根の底力」を思います。また、その様子は報告します。
今日は、1ヶ月前に紹介した「スタタリング・ナウ」1998.10.17 NO.50で特集していた〈映画に描かれた吃音〉を紹介します。この文章を書いたのは、高松市で、ユーテサークルというグループを運営されていた喜田清さんです。喜田さんはどもる人で、難聴もあります。高松空襲の記録を残す会に参加し、多くの人に出会い、体験を聞き、文章をまとめておられました。
まずは、喜田清さんの紹介からスタートです。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/10/27
1ヶ月が過ぎてしまったことになります。季節も、夏から、すっかり秋に変わりました。しばらく飛騨高山地方に旅行していました。いつもは、旅行する準備のひとつとしてブログに掲載する記事を用意して出かけるのですが、今回はうっかりと持たないで旅立ってしまいました。有名な観光地は、すでに行っているところばかりなので、今、僕たちの旅行は、自然にふれる旅です。今回も名もない公園から眺めた紅葉と、広がる里山の光景が心に残りました。
数年前から好きになった、北アルプスの白馬村にのんびり滞在するのが好きでしたが、そののんびりする滞在先に、飛騨高山周辺も加えたいと、今回の旅で思いました。ブログをしばらく休んでいると、「元気ですか?」と問い合わせてくださる人がいます。ブログは僕たちが元気でいることの証にもなるのだと、読んでくださる人の存在をとてもありがたいことだと思います。
今年は、吃音親子サマーキャンプも開催でき、新・吃音ショートコースも開催できました。高山から帰って、今日一日旅の後始末と準備をして、明日から島根に車で向かいます。2年間行けなかった、島根スタタリングフォーラムです。島根スタタリングフォーラムは、僕たちが主催する吃音親子サマーキャンプに次いで、長く続いている吃音親子キャンプです。第1回から参加していますが、今年で24回目です。事務局を担当する中心的な人が、代々途切れることなく続いている、島根の難聴・言語教育の担当者の「島根の底力」を思います。また、その様子は報告します。
今日は、1ヶ月前に紹介した「スタタリング・ナウ」1998.10.17 NO.50で特集していた〈映画に描かれた吃音〉を紹介します。この文章を書いたのは、高松市で、ユーテサークルというグループを運営されていた喜田清さんです。喜田さんはどもる人で、難聴もあります。高松空襲の記録を残す会に参加し、多くの人に出会い、体験を聞き、文章をまとめておられました。
まずは、喜田清さんの紹介からスタートです。
喜田清さんの紹介
喜田さんが発行している月刊『ユーテ』の、『映画に描かれた吃音』を使わせていただけないかと、久しぶりに喜田さんと電話で話した。穏やかな、優しい声で「お役に立てることでしたら喜んで」と言ってくださった。
喜田さんは小学校3年生のころ、吃音と難聴を自覚する。吃音に悩み、苦しみながらも、仕事のかたわら、聞き、話さなければならない高松空襲を記録する会の活動に加わる。
1977年に旋盤機に上半身を巻き込まれ、入院を余儀なくされたとき、吃音を克服しようと朗読練習の勉強会をきっかけに、ユーテ・サークルを始める。ユーテは、讃岐弁で「言いましょう」の意味で、当初はどもる人に呼びかけていた。その後、喜田さんの関心は、ハンセン病や、障害、在日韓国朝鮮人へと広がり、幅広いボランティアサークルとして発展していく。ユーテの現在は、吃音とは関係がなくなったが、喜田さん自身はいつまでも吃音に関心をもってくださる。『ユーテ』は1978年創刊され、現在242号を数える。
喜田さんは吃音を治そうと、自律訓練法などの習得のために一人部屋の中に閉じこもった練習で、さらに吃音が悪化した経験をもつ。ところが、空襲を記録したり、ハンセン病者の記録のため、多くの人に出会い、話を聞き、それを記録する中で、だんだんと話せるようになっていったという。
喜田さんの生き方から学ぶことは多い。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/10/27