吃音親子サマーキャンプの参加者は、どもる子ども、その親、親に代わる大人、ことばの教室担当者や言語聴覚士などの臨床家、そして、どもる人たちです。どもる経験をもつ人なら誰でもいいというわけではなく、きちんと自分の吃音と向き合っている人、それなりに自分の問題を処理している人、僕が書いた本やニュースレターをよく読み、僕の考え方をよく理解している人、吃音を学び続けている人に限っています。多くは、大阪吃音教室の人たちです。
サマキャン 親の学習会 僕たちは、同じようにどもる仲間と出会い、自分ひとりではなかったとほっとし、仲間との対話を通して生きる力を得てきました。この経験をぜひ子どもたちも味わってほしいと願って、サマーキャンプを始めました。サマーキャンプに参加したどもる人は、よく、子どものときにこんなキャンプがあったらなあ、今参加している子どもたちがうらやましいと言います。
 吃音親子サーキャンプのように、どもる人と臨床家が対等な立場で取り組むキャンプは世界的にも珍しいものです。立場の異なる人が対等な立場で取り組むというところに、サマーキャンプのいい味が出ていると思います。
 今日は、初めてサマーキャンプに参加したどもる人の感想を紹介します。


 
親のグループでの話し合いで、親の様々な思いに触れた。私の親は、私の吃音のことをどのように考え、どのような思いであっただろうか。親の思いについて考えたことがなかった私に、新たな視点を与えてくれた出会いだった。
 子がどもっていると、親は子の将来を心配する。キャンプの参加歴の浅い親は心配だと言うが、参加歴の長い親は心配していないと言う。話し合いでは、参加歴の長い親御さんが、ご自身の経験を積極的に語っておられ、皆さん熱心に聞いておられた。子どもの成長以外にも、キャンプではこのようにして参加歴の長い親をモデルに皆さん様々なことを学ばれて、行く行くは、我が子の将来に心配はないと思うことができるのだろう。
 ある父親は、息子の吃音をどうにかしようということではなく、息子の元々持っている強みを生かして、彼自身の力で生きていけるよう願っておられるように、強く感じた。その親の疑問にお答えするかたちで、私は親友と出会い、あるとき私の話を後日、面白い話だったと彼に言ってもらい、伝わった実感を経験できたことから私が話をすることを楽しいと思えるようになったというお話をさせてもらった。その親は、今回そういうことを知りたかったんだ、と大変喜んでくださった。私は自分の経験を誰かに聞いてもらえるだけでもありがたいのに、私の話を聞けて良かったと言っていただけて、うれしかった。
 1度目の話し合いのあと、次の活動までの間のわずかの時間、その親が声をかけてくれた。私は話をするときに身振り手振りが大きい、よく動く、と言われることがある。その人は、マスクをしている今の世の中ではそれは強みだと言ってくれた。その人自身も、マスクをつけている時は身振り手振りを普段より多く用いているそうだ。これからの世の中、マスクの有無は関係なくそのような伝える力が重要になってくると思う。
 2日目午前、吃音親子サマーキャンプに初めて参加する新人スタッフのための研修で、私は「ひとりでぽつんとしている子に、話しかけた方がいいだろうと思う一方で、話しかけられたら、相手が迷惑に感じないだろうかとも思ってしまって、話しかけられない」と話した。その自分の課題を皆で共に考えてもらう機会がなかったら、あの場で相談できていなかったら、私にとって、その後のキャンプは全く違うものになってしまっていただろう。1人でいる子に声をかけることができず、モヤモヤしたものを抱えながら、人見知りをしない積極的な子たちと触れ合っていただけになってしまっていたかもしれない。そう考えると恐ろしい。新人スタッフ研修を初日に行うのではなく、2日目の朝というのも、限られた時間の中に上手く組み込まれたスケジュールだと思う。31年の歴史と文化に救われた。
 入浴は、大阪のベテランの皆さんと一緒になった。皆さん、湯船にかわるがわる浸かりながら、ずっと吃音の話が繰り広げられていた。身体を洗いながら話を聴いていた人も、そっと湯船に足を踏み入れながら自然に会話に入ってくる。自分もその輪に入れてもらった。楽しくて、うれしくて、のぼせるのを覚悟してしばらく湯に浸かっていた。障害者手帳の話、どもる人に就けない仕事はないという話など、みんな裸で吃音のことを話題に盛り上がる。そんな経験は今までしたことがない。「どもりの湯」に肩まで浸かり、癒されたひとときだった。
 初めて演劇というものに取り組んだ。小中高と演劇の機会がほとんどなかったこともあるが、演劇に取り組むチャンスがなかったわけではない。意図的に避けてきた。どもる自分にはできないと思っていた。セリフが言えなくて恥ずかしい思いをしたくなかった。大人の劇を作り上げていく過程を見学させてもらい、皆それぞれのイメージや気持ちを出し合いながら、共有し、一つの作品を作っていくことのおもしろさを感じた。しかしそれを自分たちの力で一からできるのか、大きな不安も感じていたが、皆それぞれの関わり方で、共に一つの作品を創り上げることが出来た。
 あの短い時間で、自分たちの力だけで達成できたことに驚いた。上演の際には、冒頭、自分も舞台に上がり、庭に咲く花を演じ、その後は舞台袖で皆の演じているのを見届けた。その舞台袖からの景色と、幸せな気持ちは忘れることが出来ないだろう。吃音親子サマーキャンプに参加することができたら、何らかのかたちで自分も演劇に取り組んでみたい、挑戦したい、と思っていた。しかし、コロナで今回は別の表現活動に取り組むとのことで、それはそれで楽しみであったが、土壇場で演劇が組み込まれた。今回、思いがけず演劇に取り組めたこと、それを自分達の力でやり切ったことは、私にとって非常に大きなことだった。
 親の皆さんの全力のパフォーマンスも楽しかった。話し合いの場では悩みや子の将来への不安などを切実に語っていた方々の楽しそうな姿。親が頑張っている姿を見せたいとの思いもあるのだろうが、何より、本人たちが楽しんでいるように見えて、観ている私も楽しいひとときだった。
 中学生のSさんとは、朝一緒に野球をした。一緒に野球をしたのでその後も話しかけやすく、その後も顔を見るたびに言葉を交わした。その時もよくどもっていたが、演劇での彼の姿を目の当たりにした時、私自身の最も声を出すことに苦労した頃のことを急に思い出した。同じ年頃のとき私も同じように難発が強かった。私は言いたい言葉が出ない時、強引に出そうとすると身体に力が入り、息もできず苦しかった。その姿をさらすのが嫌で話すのを諦めていた。しかし、S君は諦めない。セリフの語尾の「〜だぜ」まで言い切ることを諦めない。彼に自分の姿を重ねて見ながら、自分が言いたいことを言わずに諦めていたこと、恐ろしい演劇から逃げていたことを思った。自分には言えない、できないと諦めていたことのなんと多かったことかと愕然とした。しかし、今回初めて演劇に取り組むことができた。アイデアを出し合い、皆の力を合わせ、各々が表現し、また、皆で一つのものを表現する。この楽しさ、おもしろさを初めて体験できてよかった。そして、S君だけでなく、皆の、セリフを言い切る意志の強さに心を打たれ、その姿を静かに見守っている場の力に自分も包まれていることを感じ、どうしようもなく涙があふれた。

 3年以上参加して、高校三年生になったときに行われる、卒業式。卒業生のスピーチでは皆が自分の言葉で自分の思いを語る姿を目の当たりにした。自分にとっての卒業の課題に向き合い、今回挑戦できたことで、これでちゃんと卒業できる、と語っていた男の子もいた。自分の同じ歳の頃、私はあのように語ることはできなかっただろう。あのような言葉を私は持っていなかった。卒業生のあの力は、きっとキャンプを通して培われたのだろう。キャンプで仲間と出会い、思いを語り合い、皆で共に考え、演劇に取り組み表現を学び、それぞれの生活の場に戻っては、自分の頭で考え誠実に生きた来たのだろう。大人の社会でも、あのような場で、あれだけ自分の言葉で語れる人がどれだけいるだろうか。
 卒業生はもちろん、どもる子どもたち、どもる大人たちの声の豊かさに気付かされたのは、私が日常の生活の場に戻ってからだ。職場では私の隣で、どもらない同僚が新人に仕事を教えているのだが、やり取りしているその声が、2人とも全く聞こえてこない。キャンプではあちらこちらで声が飛び交っていたのに、これはどうしたことなのか。新人に声をかけて話をしてみても、仕事上防塵マスクをしているとはいえ、なんと言っているかわからない。防塵マスクの壁を越えて声を届けようという気がなさそうに見える。そもそもそんなことを思わないのか。どもる子どもたちの話す言葉には重みや力強さを感じる、と成人のどもる人は言っていた。私もそれは感じていたのだが、どもる人達の声、ことばは、激しくどもりながらでも一言ひと言よく届いて来ていたのだと、キャンプを離れて改めて実感できた。どもる人には、話す、伝える、声を出す、ということに向き合う機会が訪れる。その際、逃げずに向き合ってきた人たちの持っている声は、みなよく届き、人を捉える力があるように思う。

 仕事をしながら、2日目午前の新人スタッフ研修のことを振り返っていたとき、ハッとした。吃音親子サマーキャンプで大事にしている、3つのことば、「あなたはあなたのままでいい あなたはひとりではない あなたには力がある」。ひとりでいる子に声をかけることができなかった、どうすればいいかわからなかった、という自分自身の課題を、対等に、共に考えてもらい、課題を明確にすることができ、自分の課題に向き合い、チャレンジする覚悟ができた。それからは、見える景色が変わった。声をかけていいのか、彼に自分が関わっていいのか等という、結局は自分が失敗したくないという自分本位な考えを捨てられた。自分本位な考えを捨てることができたことで、不全感を抱えることなくキャンプを終えることができた。私は、私として、残りの2日間を生きることができた。
 この経験は3つのことばそのものではないか。今まで何度も何度もふれては考えて来たことばであったが、初めて、「わかった!」と思えた。この3つのことばは、ただのことばではない。あの場に間違いなく「ある」ことばなのだ。サマーキャンプの場には、この3つのことばが様々なかたちで満たされている。参加者は、子も兄弟も親もスタッフも、皆それぞれの経験の仕方、捉え方で感じているに違いない。

 日本吃音臨床研究会のニュースレター「スタタリング・ナウ」で、吃音親子サマーキャンプ報告やエピソードを読むたび胸が熱くなる経験をして来た。吃音の体験文集や、ことば文学賞の作品にふれる時もそうなのだが、ハッピーエンドの物語だから感動するわけではない。悩みの中にいる時、苦しい時、何かきっかけを得て一歩を踏み出す時、様々な状況のなかで皆、吃音と共に一所懸命に生きている。その姿にいつも心を打たれるのだ。吃音親子サマーキャンプは、実際にその場に行ってみたい、私にとって憧れの場だった。参加できることを夢見て、キャンプが行われるであろう日の予定はずっと空けていた。参加することができて、子どもたちが活動に取り組む姿、兄弟を思いやる姿、親の子に対する思い、スタッフのキャンプに対する思いなどに直にふれることができた。そして、それぞれが生活の場で懸命に生きているということを改めて思い知らされた。自分も今ある力で、自分と向き合い、周りと関わり、生活を大切に、誠実に生きていきたいと、力をもらった。
 何か困難なことがあった時、吃音親子サマーキャンプの出会いや経験が活かされ乗り越えることができるんではないか。今、そう思えるほど、私にとって大きな3日間だった。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/09/02