1997年9月13〜15日、奈良県・桜井市で第3回吃音ショートコースが開かれました。テーマは《吃音と自己表現》でした。特別講師に平木典子さん(日本女子大学教授)を迎え、日本吃音臨床研究会顧問の内須川洸さん(昭和女子大学教授)を交えて、実習を取り入れながら、語り合いました。
 そして、最終日。僕が進行をし、前半は3人で話を進め、後半は参加者の声を拾いながらディスカッションとなりました。3時間の完全採録は、1997年度の年報『吃音と自己表現』に掲載されています。1998年1月17日の「スタタリング・ナウ」(NO.41)では、紙面の都合上、そのほんのさわりだけを紹介しています。
話すことが苦手な人のアサーション 表紙 年報『吃音と自己表現』は、在庫はありませんが、金子書房から『話すことが苦手な人のアサーション〜どもる人とのワークショップの記録〜』(定価 1800円+税)として発行しています。ご希望の方は、郵便局に備え付けの郵便振替用紙をご利用の上、ご送金下さい。お送りします。
  加入者名  日本吃音臨床研究会
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  代金    1冊、1800円(送料当方負担)

吃音と自己表現

伊藤 今ここに湧き出てくる表現を大切にしたいと思いますので、どう話を進めるか計画を立てていません。どんな話になるか分かりませんが、ご一緒しましょう。しばらくの間、3人で話をさせていただいて、その後皆さんと話し合っていきます。
 昨夜、成人のどもる人、ことばの教室担当者とグループに別れて、どもる人の、どもる子どもの自己表現について、それぞれどのような問題があるかを話し合っていただきました。それが、KJ法図解として目の前にあります。
 平木先生、どうでしょう。先ほど見ていただきましたが、どもる人が、自分が何故自己表現ができないか考えていることがらや自己表現の実態について、どもらない人との差というものがありますか。

平木 さっき伊藤さんと話していたんですが、この図を見て、私が自己表現のトレーニングをしている人たちが、自己表現を妨げるものとして挙げていることと、どもる人と差があるという気はほとんどしませんね。
 自分は「どもるからこうなってる」と思ってるのを、「どもるから」というのを取ると、ほとんど他の人と変わらない。他の人は「どもるから」のところに違う理由があるんです。
 例えば「私は気が小さいから」とか、「小さいときからほとんどお母さんと話をしないで育ったから」とか、「から」のところに違う理由があるという事です。
 皆さんたちには「どもるから」っていうことが結構あるという、そんな感じがしましたけど。もしかして、それが原因だというふうに思いこまなければ、違うかなあという感じがしてます。

伊藤 アサーティブ・トレーニングは、「どもるから自己表現できない」という思いこみを取れば、本当にどもる人を含めて、全ての人が共通してできる取り組みだと考えられますね。

平木 考えることができると思いますね。それぞれの人がこだわっている理由は多分いろいろおありになるわけで、どもる人たちの中でも、どもるからって思っている人もいるだろうし、そうじゃない人もいる可能性があります。私が他のところでやるアサーションのトレーニングでは、どもるということがないから「から」の部分が多分他の理由になってると思うんです。
 しかし、どもるということは、それ自体とても大きなことは確かだと思うんです。どもることは、自分自身の自己表現に直接関わっていることですから。だけれども、そうじゃない理由まで、どもりのせいにしちゃってるとすると、ちょっと、それ取り除いた方がいいかも知れないと思ってますね。

伊藤 僕たちであれば「どもりだから」という、どもりをちょっと取ってみれば、他に理由があるかも知れない。同じ意味合いで、他の人達が抱えている、気が小さいとか、何かの影響を受けたからという、個々の一人一人の理由に、どうアプローチがなされるのでしょうか。

原因を追求しない
平木 私が家族療法をしていて家族療法の中で学んだことですが、人間がしていることに何か問題が起こったとして、機械の故障と同じようにはその原因が特定されるわけはないということです。機械の場合は、この時計も、これで仕組みが全部終わりです。これ自身で成り立ってますので、故障した時原因が突き止められるわけです。電池がなくなった、歯が壊れたなど、針が動かなくなった原因をきちんと突き止められます。人間がしていることは直線的に原因をたどることが出来ないというように言われています。
 例えば、学校に行かなくなった子、不登校の子がいるとするでしょう。多分、世の中の人達は、学校に行けなくなった原因はその子にあると考える。学校にあると考える。お母さんのしつけが悪いと考えるなど、原因をいろいろ言うでしょう。
 ところが、私達カウンセリングをしていますと、分からないんですよ。本人が悪いのか、お母さんが悪いのか、学校が悪いのか。原因捜しをしていると助けはできなくなる。お母さんが悪いとして、お母さんの話をいろいろ聞いていると、夫が悪いと言いたくなる。夫が悪いから夫を変えようと夫を呼ぶと、会社が悪いってなるわけです。会社が悪いって言いたくないようなとき、今度はお父さんとお母さんが悪いと言いたくなるんですよ。そうやって、原因を追究しようとすると限りなく広がっていく。限りなく広がっていくと、心理療法家たちは少なくとも会社まで出かけて行くことはできませんし、この社会を変える運動をするために心理療法家になってないから、結局もう一回個人に戻るんです。
 個人に戻ったときに、あなたが悪い、あなたが変わらなくてはという助け方をしても、その人は一生懸命生きている。周りの人達の関係のところでも問題が起こってるし、世の中でもいろんな事が起こってるから、結局原因というのは追究するとぐるぐる回っているということになるんですね。
 女の子が、幼稚園に初登園する日の朝、前の日の朝までとは全然違った家庭の様子が展開するでしょう。お母さんが忙しく子どもの準備をしている時、お父さんが起きてきて、「おい、俺の靴下、どこいったっけ」って言ったとします。いつもなら「はいはい」と言って持ってくるのに、その朝は「ちょっと自分で探して」となった。お父さんが「え、自分で探してとは何だ」と怒り出し、その日の朝の雰囲気がものすごく悪くなった。
 こうなった原因は何だと思いますか? お父さんが不機嫌になったのが悪いとも言えるし、お母さんが靴下を探してあげなかったのが悪いとも言えるし、最後にはこの子が幼稚園に行くようになったのが悪いとも言えるでしょう。
 人間がしていることは、いろんなつながりの中で生きているので、原因をこれと特定することは出来ないと考えるんです。原因を取り除けば問題が解決するとは考えない。原因が特定できないし、原因と思われることがなくなれば、問題が解決するかと言えばそんなことなくて、どこからでも今のようなことは起こり得るのです。
 違う家族で同じ事が起こって、「俺の靴下、どこだっけ」ってお父さんが言った時、お母さんが「自分で勝手に探して」と言ったら、「おお、そうか」といって探すお父さんもいるわけですよ。しかし、「おお、そうか」って探せば、丸く収まって、「何だって」といったら、丸く収まらなくなるというと、そんな単純な問題じゃない。
 だから、原因らしいことをなくせば問題は解決するとは考えにくいのです。原因捜しや犯人捜しは意味がないから止めようって考えるんです。
 私のパーソナリティーは母親の影響があると言っても、母が悪いと言っているのではなくて、母は私に影響を与えたが、私もその影響をもらったという半分ずつの責任があるわけです。半分ずつの責任で何かが起こってて、その責任はかかわり合いの中で起こるわけだから、どちらかの問題ととらえることはできない。
 心理療法の中では、何かが悪いからそれを取り除くのではなくて、どうしたらより良くなるかを考えるんです。原因捜しをしてその原因を取り除くという方法じゃなくって、とりあえず良く変える方法ってなあい?っていうふうに考える。
 これがあるから私は何々出来ないと思っていると、それがなくならなければだめという話になりますでしょ。どもりがあるから悪いって言ってたら、どもりがなくならないとダメなのかという話になります。そんなことないし、それだけでもないと思うんです。ひっかかってると、ダメなものがあると何でもダメになってしまいませんか。
           1997年9月13〜15日(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/05/30