「治す努力否定」足元から

 僕が職業に就いたのは、28歳のとき、大阪教育大学の教員としてでした。回り道をして、話すことの多い、というか、話すことが仕事だともいえる大学の教員になりました。自分がなりたくてなったというのではなく、風に吹かれてのようなものでした。
 そして、大学を辞めた僕が、次に選んだのがカレー専門店でした。僕がカレー専門店をしていたことを知らない人がいるかもしれません。10年続けました。大学教員からカレー専門店のオーナーシェフと、仕事が変わっても、変わらないのは、吃音に関わる活動でした。吃音は、僕のライフワークなのです。カレー専門店を経営しているときに、第一回吃音問題研究国際大会を京都で開催しました。世界のどもる人に会いたい、話したいとの長年の夢が叶いました。京都国際会議場でのフィナーレ、参加者みんなで肩を組み、「今日の日はさようなら」の旋律は、忘れることができません。
 
吃音者宣言6  世界大会の夢実現 

読売新聞連載 写真_0006 吃音当事者のセルフヘルプ・グループ「言友会」が打ち出した基本理念「治す努力の否定」。副会長だった伊藤伸二(53)(日本吃音臨床研究会代表)が草案を練り、みんなで検討し、文章にした。1976年5月、東京で開いた会の創立十周年記念大会で採択された。
 〈私たちはどもりを隠し続けてきた。私たちは知っている。どもりを治すことに執着するあまり悩みを深めている吃音者がいることを。一方、どもりながらも明るく生きている吃音者がいる事実も。どもりだからと自分をさげすむことはやめよう。どもりだからと自分の可能性を閉ざしている固い殻を打ち破ろう〉
 全国の仲間に対して呼びかけた「吃音者宣言」。会場で事務局長が文章を高らかに読み上げている間、伊藤は逃げ続けてきた自分の人生を重ね合わせながら、感慨にふけっていた。大会後、共感する全国の吃音者から大きな反響が寄せられた。
 「かっこよすぎる」という声もあった。大阪教育大学の講師として、言語障害児教育を受け持っていた伊藤は「宣言はそのように生きたいという願いであり、目標。100逃げてきたのなら、それを一つでも二つでも減らそうやないか」と答えていた。が、「安定した土台があるからきれい事が言える」との指摘には、さすがにショックを受けた。
 「宣言」の翌年、大学を辞した。「自分も当事者。研究者ではなく、当事者の側にいるべき」と考えたからだ。
 大学を辞めた伊藤が次に選んだ仕事は、カレー専門店。1980年4月、大阪市福島区の大阪大学病院前に「タゴール」を開いた。店を吃音者の働く場やたまり場にしたく、3人の従業員も吃音者だった。凝った手作りのカレーが評判を呼び、繁盛した。
 店は病院の移転が決まったこともあって10年で閉めたが、この間は思惑通り、吃音者のたまり場となった。また、遠くから相談に訪れたり、電話がかかったりで、全国組織の事務局にもなった。
 こうした中で、伊藤は「世界の吃音者と思いを分かち合いたい」という世界大会開催の夢を膨らませてきた。1984年4月、京都市で開いた全国のリーダー研修会で提案したが、20人のリーダーたちは沈黙するばかり。言友会の年間予算がわずか30万円のことを思えば無理はなかった。一人の「やってもいいかな」という発言を機にムードが変わった。「失敗してもボーナスを出し合えばいい」と覚悟を決めた。
 開催への機運が盛り上がり、大会は2年後、海外からの研究者も多数参加する音声言語医学会が日本で開かれる1986年8月と設定、準備に走り出した。全国各地の言友会も活発に資金集めに奔走、その額は1200万円にも達した。大会には11か国約400人が参集、世界で初めての大会は大成功に終わった。
国際大会会場写真 大会では「宣言」とともに「治す努力の否定」の理念は好意的に受け入れられたが、具体的な実践例についての質問が相次いだ。確かに弱点だった。
 「治す努力の否定といっても、何もしないことではない。どもったままコミュニケーション能力を高めるなど、することはいっぱいある」。頭では分かっていたが、十分に答えられず、伊藤は忸怩たる思いがした。足元を見つめ直す必要に迫られた。(敬称略)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/27