久々に心の底から笑った

 僕の逃げの人生のはじまりは、高校で入部した大好きな卓球部を、合宿の前日に辞めたことでした。このことは、講演の中でよく話します。話しながら、なんとも言えない悔しさがこみ上げてきます。自己紹介ぐらいで、そんなに思い詰めないでもよかったのにと思います。合宿の日だけ休めばよかったし、どもらないで名前が言えたかもしれないのです。しかし、当時の僕は好きになった彼女の前では絶対にどもりたくない、吃音を隠したいの思いだけで、いっぱいだったのでしょう。「隠す」、「逃げる」は、僕にとって、ずっとキーワードでした。でも、このときの僕がいたから、今まで、吃音をライフワークとすることができたのだとも言えます。僕の人生の転換になる出来事でした。
 昨日のつづきを紹介します。

吃音者宣言3  矯正所の門をたたいた

読売新聞連載 写真_0003 津市内の県立高校へ入学した伊藤伸二(53)は、中学生時代、心の支えにしていた卓球部へためらわずに入部した。入学式でちらっと見かけた瞬間、胸をときめかせた女生徒も、卓球部に入っていた。とてもうれしかった。かわいくて、清楚で…。遠くから見ているだけでも気持ちが弾んだ。初恋だった。
 5月の最初に男女合同の新人歓迎合宿が計画された。彼女と親しくなれる絶好のチャンス。が、同時に頭に浮かんだのが「自己紹介」。
 「彼女にどもりであることを知られたくない。惨めな自分をさらしたくない」
 「どうしよう」「どうしたら」。思い悩んでいるうちに、とうとう合宿の前日。伊藤は追いつめられたように、先輩の部長に「卓球部を辞めます」と告げた。「何で」といぶかる先輩の声が聞こえないふりをして背を向け、すたすたと体育館を出た。
 支えだった卓球も失ってしまった。「最も大切にしているものからも逃げてしまった」。何事にも背を向ける自分が実に情けなかった。
 授業も当てられるのが苦痛で、さぼっては映画館に足を運んだ。2年生の秋、楽しいはずの九州方面への修学旅行も、独りでぽつんといた辛い思い出だけが残っている。学校でも家でも、だれとも言葉を交わさない日も多かった。
 「今は仮の人生。どもりが治った後に、本当の人生が始まる」。そんなことばかり考え、雑誌などで知っていた東京の矯正所に入る思いがぐんぐんと膨らんだ。「そこに行けばきっと治る」と。
 大学は東京と決めた。しかし、不勉強がたたって二浪の憂き目に。「将来への不安、絶望感を断ち切らなければだめになる。とにかく働きながら、進学を目指そう」とその春、家出同然で大阪に向かった。
 新聞広告で見つけた新聞販売店に住み込むことにした。「まず、東京の大学に行き、矯正所に入る資金を」。倍の配達を受け持ち、一年間、黙々と励み、勉強にも取り組んだ。孤独だったが、希望があった。「どもりなんか治らない」と言われ、ずっと恨んでいた母親を許せるようにもなった。3年目にようやく大学に合格した。
 東京での生活。「これまでの暗やみからやっと抜け出せる」。入学後、都内で経験のある新聞配達店に住み込んだ。資金もたまった1年生の夏、あこがれだった民間の吃音矯正所を訪ねた。ところが、入り口で立ち止まってしまった。どもりの自分と正面から向き合うのが怖かったのだ。
 とはいえ、もう逃げるわけにはいかない。思い切ってドアをくぐった。意外とたくさんの人がいてほっとした。伊藤は1か月間の泊まり込みコースを選んだ。3階建ての寮はいっぱい、泊まり込みだけで100人近くもいた。
 嫌で嫌でたまらなかった自己紹介だったが、だれもがどもっている。「あ、あ、あ、秋田から来ました」。たちまち、親しみを感じて打ち解けることができた。
 「最初の声が出ないので、電話が怖い」「からかわれて悔しかった」「友達ができずに寂しかった」。
 おそろしいほどみんなが同じ体験をし、悩んでいた。それが仲間内だと笑い飛ばせる。伊藤は何年かぶりに心の底から笑った。(敬称略)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/24