《私の手元に、「吃音者宣言」という一冊の本がある。言友会という吃音者の組織があって、そこから送られてきた本である。私はいまはどもらないが、子どものころ吃音で苦しんだ時期があって、それでこういう本が送られてくるのである》

 藤沢周平さんは、このような書き出しで、『周平独言』の中で、吃音について書いておられます。僕たちは、《吃音を治す努力の否定》の問題提起をし、それが、《吃音者宣言》に結びついていく流れの中で、藤沢周平さんにお手紙を書きました。周平さんが、どもった経験があるということを知っていたからです。そして、丁寧なお返事をいただきました。周平さんが直木賞を受賞された3年後のことでした。
 その後、僕の著書『吃音者宣言』をお送りするなど、交流がありましたが、直接お会いする機会がありませんでした。藤沢さんはその後、時代小説を次から次と発表し、みるみる人気作家になっていかれました。
 いつか、お会いしたいと思っていましたが、その機会をみつけられないままに、時は過ぎ、藤沢周平さんは、1997年1月、お亡くなりになりました。お元気なうちにお会いしておきたかったと、悔やまれます。
 お亡くなりになった直後に、「スタタリング・ナウ」(1997年2月)で、藤沢周平さんの特集を組みました。その中から、紹介します。

 
藤沢周平さんへの哀悼の意を表しつつ、どもる体験をもつ藤沢周平さんの人となりを、新聞記事、著作エッセー『周平独言』(中公文庫)、自伝である『半生の記』(文藝春秋)などを通して、紹介したい。

何故作家になったか
 《私はいま物を書いて暮らしている。そうなった経緯というものはさまざまに入り組んでいて、ひとくちには言えないのだが、その最初のあたりに、子どものころのどもりがあったことは確かである『周平独言』》

 何故、時代小説を書くのかというのは、藤沢さんがよく聞かれる質問だ。
 「歴史の未知の領域に創造力が及ぶと、創作意欲が刺激される」と答えるのが常だったが、要するに、時代小説が好きだった。しかし、それはとりあえずそう答えるということで、すべてではなかったようだ。何故、時代小説なのかという問いには、明確に答えられなかったが、何故文章を読んだり、書いたりすることに興味をもったか?の問いには、明確に答えている。その時期は極めてはっきりしているという。小学校高等科5年、6年の時期だ。この時期、周平さんは吃音に悩んでいた。

周平さんのどもり
 《私のどもりは、どもりながらも話せるあのどもりではなかった。緊張すると声が出なくなる性質のものだった。ことに教室で指されたりするとき、まったく声が出なかった。本を読むように言われて、教科書を手に立つことは立つ。だがそのまま、一言も声を出せずに、座れと言われるまで立っているのである。
 むろんそういう状態は異様な感じをあたえるわけだから、同級生は変な顔をし、中にはくすくす笑う者もいた。その笑い声は私の背を刺した。私は顔面蒼白になり、口を開いたリ、しめたりして何とか本を読もうとするのだが、声は出て来なかった。私は屈辱感にまみれながら、先生が座れというまで立ち続けた『周平独言』》

 藤沢さんはこのどもりを奇妙なドモリだという。
 どもりといえば、一般的には、「どどど…」と音を重ねるいわゆる連発のどもりを想像する。音を重ねながらも喋れるどもりだ。藤沢さんのどもりは、いわゆる難発のどもりだった。喋ろうにも、声が出てこないのだ。どもりはじめのどもりは、「どどど・・」と音を繰り返したり、「どー」と引き伸ばしたりする。それが進展すると、ことばが詰まって出て来ない、いわる難発のどもりに移行する。成人のどもりの多くは、この難発のどもりだ。どもり始めてすぐに、この難発のどもりになったのだから、藤沢さん自身も、周りの人も、随分と驚いたことだろう。奇妙などもりだというのを藤沢さんはこう説明する。

 《教室の中でだけ、私は全く声を出せない子どもになったのである。授業が終わって廊下に出ると、私のこわばった舌はゆるやかに回復し、普通に喋ることができるようになる。
 だが教室の中は地獄だった。音楽と図画の時間は平気だった。図画は喋らなくとも描けるし、音楽のときはちゃんと声が出たのである。一番苦痛だったのは国語の時間だった。指名されて本を手にして立つ。だが舌は石のように動かず、口をパクパクやってみるだけで、額に冷や汗がでる。こういうことが重なると、しまいには私は座れという声がかかるのを待つために立っているだけになった》『周平独言』》(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/15