日本吃音臨床研究会と共に歩んでいる大阪吃音教室。コロナ禍で、この2年間、何度も休講しています。いつもの時間、いつもの場所で会い続ける=ミーティングが、セルフヘルプグループにとって一番大事なことなのですが、それができないことは本当に寂しいことです。早い時期の再開を待ち望んでいます。
 第一回吃音ショートコースでのゲストの講演2つと、僕が進行をつとめたことばの教室担当者が多く参加した分科会の様子を報告してきましたが、この吃音ショートコースの場で、大阪吃音教室の活動について発表していました。「スタタリング・ナウ」1996.5.18 NO.21に掲載された、東野晃之会長による発表の紹介をします。まずは、この号の巻頭言です。

 
吃音と上手につきあう大阪吃音教室
                 日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 吃音に対しては、いろいろな観点から、アプローチが続けられている。《吃音を治す》アプローチは古くからあり、現在でも根強く続けられているが、《吃音とつきあう》アプローチはまだ始まったばかりだと言ってよい。
 言語治療が発達しているアメリカにおいても、大ざっぱに言って、《吃音を治す》派と、《吃音と共に生きる》派が対立し、互いに批判し合っている。日本でも同じような状態だといっていい。《吃音を治す》派は、いかにその方法が陳腐であっても、具体的に訓練法を提示することができ、《吃音と共に生きる》派を、主張が抽象的すぎて、具体的方法にに欠けると批判をする。
 私たちは、同じ悩みを持つ者同士が出会い、悩みを出し合い、どもりを隠さず、どもりながらも自分の人生を大切にして生きる中から自らの吃音問題に対処してきた。そして、『吃音者宣言』を出し、吃音はどう治すかではなく、いかに生きるかの問題だと主張してきた。しかし、「病気や障害と共に生きる」は、私たちに限らず、ほとんどのセルフヘルプグループが辿る道であり、様々な試行錯誤の活動の結果だ。私たちも、『吃音者宣言』に沿ったプログラムをつくり、その活動の中から得たものではなかった。
 1986年、私たちが開いた、第一回吃音問題研究国際大会で、吃音者宣言は理解できるが、どのような具体的な取り組みがあるのかという質問を世界各国の臨床家や、どもる人から多く受けた。この質問は、これまでも、具体的にどもる子どもをどう指導すればよいかを模索する、ことばの教室の先生方からはよく出されていたものだった。
 この国際大会をきっかけに、改めて具体的なプログラムを作る必要性を感じた。
 当時、私は、全国的な活動が中心で、地元というべき、大阪吃音教室の例会活動には全く関わっていなかった。足元の大阪吃音教室の例会活動を改めて見た時、例会は、吃音を治すでもなく、真剣に吃音について向き合うというものでもなく、ただ漫然と集まる、親睦的な要素が強いように私には感じられた。参加者も少なく、活発ではなかった。
 足元のグループにきちんと関われないで、何が全国的、世界的な活動かと、私自身、大いに反省させられたのだった。そこで、『吃音と上手につきあう』プログラムを一緒に作っていかないかと、大阪のメンバーに呼びかけた。最初の1年間は、大阪吃音教室を全て私に担当をさせてもらえないかと提案した。こうして、第一回吃音問題国際大会の翌年、1987年春、大阪吃音教室は従来とは全く違うスタイルで開講することになる。
 例会日もこれまでの土・日曜日から、金曜日に移した。週一度、一年間の大阪吃音教室は40回を越える。自ら求めたものではあったが、私の悪戦苦闘がここから始まった。
 吃音についての学習の講座、コミュニケーションに関する講座、人間関係に関する講座の3本の柱を立てた。毎週毎週必ず、B4版5〜10枚ほどの講座のテキストを作った。これは予想外に大変な作業だった。これまで学んできたことを再度整理し直し、これまで読んだ本に全てもう一度目を通す。週に一度はすぐに来る。毎週金曜日の前日までに原稿を仕上げ印刷をする。綱渡りで、締め切り日に追われる流行作家のような状態だった。これほど集中して吃音と取り組んだ一年はない。大成功だった第一回吃音問題研究国際大会の興奮とその余韻が私をそこまで駆り立てたのだろう。当時作った資料は膨大なものになっている。
 これまでとは全く違うスタイルの例会に、参加者は当初はとまどいつつも、新しいことを学ぼうとする熱意と活気にあふれた。最初の一年は私が全てを担当したが、次の年からは、世話人がたくさん育ち、入れ替わり立ち替わり講座を担当した。セルフヘルプグループのメンバーが、皆で作り上げていくという、セルフヘルプグループの本来の姿に一年で戻ることができたのである。
 その大阪吃音教室は今年で10年目に入った。( 1996.5.18記)

       

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/01/26