昨日の続きです。
どんな人にも、挫折や喪失の体験はあると思いますが、それを自分なりに処理してきた人が、ことばの教室の担当者だと、どもる子どもの味方になってもらいやすいのかもしれません。どもっていたらかわいそうだから、治してあげたいという使命感に燃えている人だと、逆効果になりそうです。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/01/18
どんな人にも、挫折や喪失の体験はあると思いますが、それを自分なりに処理してきた人が、ことばの教室の担当者だと、どもる子どもの味方になってもらいやすいのかもしれません。どもっていたらかわいそうだから、治してあげたいという使命感に燃えている人だと、逆効果になりそうです。
《吃音ショートコース分科会》
早期自覚教育について
ことばの教室担当(山口) どもりときちんと向き合う時期は、子どもによって違うんだろうが、それを見極めるのは私たち教師に任されるのでしょうか。
伊藤 吃音と向き合う時期は、これまで一般的に言われてきた吃音の意識年齢と考えて、大きな間違いはありません。吃音を意識した時がチャンスです。
小学3年生以下の時は、言い方に注意しますが、少なくとも3年生なら、はっきり「どもり」、「吃音」ということばを使っても大丈夫です。今、小学4年生が成人を対象にした大阪吃音教室に時々参加しますが、話されている内容を理解しているかどうかは別にして、何らかの影響は受けているでしょう。小学6年生、中学1年生も参加し、真剣に大人の話を聞いています。
◇こんな先生がいい
伊藤 基本的に大切なことは、教師自身の「どもりは悪いものだ」「このまま子どもが大きくなっていったら可哀想だ」という気持ちの克服です。
心の中で本当は、このままいったらどうなるかなあと心配していて、口先では「悪いもんじゃないんだよ」と言っても、これはだめでしょう。人は誰でも、挫折や喪失の体験をもっています。自分の子どもの頃を振り返り、自分も辛い時があり、その時にこんなことを考えて行動したなあなどと、自分を振り返られる人が、理想的には、ことばの教室を担当すべきだと思うんです。
自分の人生を振り返って見た時に、どもりをもって生きるとはどういうことか、どもっても構へんやないかと思えるんじゃないでしょうか。
「どもりは可哀想だ、このままでは将来大変なことになるから、私はことばの教室の教師として、治療を仕事とする使命に燃えている」
このような先生は、「どもりは悪いもの、劣ったもの」というメッセージを、直接ことばで言わなくても子どもに強く送っていることになります。
教師や親が「治ればいいなあ」という意識をもっていると、たとえば本をどもらずに読んだりすると「わー、すごい。上手だね」と、ついほめてしまいます。これは、どもっている時はダメな人間、というメッセージを伝えていることと同じなんです。
治りたいとの意識を強くもって子どもの頃を育ち、治らずに生きた成人のどもる人は、どもりを持ったままの生き方が、なかなかできません。
◇意識することは悪いか
伊藤 「僕はしゃべりにくい、他の人と違うなあ」と、どもりを意識してはダメということでは決してないんです。それは意識していいし、いいというよりも、意識するのが自然のことです。
しかし、「どもっているとダメなんだなあ」という劣等意識は持たせたくない。「どもるのはダメなことだ、僕は何をしてもダメなんだ」という気持ちが育っていくのが怖い。それを越えるだけの、「僕はどもるけれど、こんなことができるぞ」というものをいかにして作っていくか、ということでしょう。
◇ことばの教室でできること
ことばの教室担当(長崎) 45分間のどもる子どもの指導をどうすればよいのか?
伊藤 その子どもが日常の学校生活にどう出ていくか、を一緒に考えることです。例えば、クラスでの役割をどもるのが嫌さに断るとか、○○さんとうまくいかないから困っているとか、などの問題を対話を通してキャッチし、どうしたらそれを解決できるかを、45分間のことばの教室で一緒に考え、一般学級で取り組むことを後押しする。これが、ことばの教室の役割だと思います。
スピーチについては、日常生活こそが、結果としてですが、言語訓練の場になると考えて下さい。その日常生活を避けている子どもに、どうすれば逃げないで出ていけるようになるかを援助するのが、ことばの教室の役割です。実際に行動するのは一般学級や家庭です。
「ことばの教室の指導のおかげでこうなったんだ」というのではなく、自分の力で自分なりのことができたという、その子にとっての有能感というか、達成感が芽生えたら、これは大きい。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/01/18