1996年2月11日、「スタタリング・ナウ」18号の巻頭言を紹介します。
 幼児吃音に関しては、「どもりを意識させないように」というアドバイスが長い間、されてきました。でも、幼稚園に通う子どもでも、自分の話し方が人と違うことは分かっている場合は少なくありません。多くは話しにくさも感じています。意識させないようにということ自体がそもそも意味のないことなのです。
 しかし、そうアドバイスされた親は、忠実に守ろうとします。そうすれば、子どもの吃音が消えていくだろうと期待してしまうからです。子どもは、気になっている自分の話し方にふれないようにしている親と吃音について話すことができず、口に出してはいけないものになってしまいます。
 意識しているものを意識しないように、ではなく、マイナスなものとして意識しないようにすることが大切です。幼児吃音を考える上で、一番重要な観点だろうと思います。
「意識と自覚」とのタイトルの巻頭言を紹介します。

   
意識と自覚
       日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 『吃音をオープンに話題にしよう』
 アメリカなどでも、最近言われ始めている。
 言語病理学が発達し、スピーチセラピストが多いアメリカでも、吃音が従来言われたようには、簡単には治らないことがはっきりとしてきたからだろう。
 「小児科医院や児童相談所で、放っておけばそのうち治る。とにかく、どもりを意識させないことが大切だと言われ、どもりについて一切触れないできたが、どもりは一向に治りません」
 このようなどもる子どもをもつ親からの悩みや相談を最近よく受けるようになった。
 従来の主張のように、どもりを話題にしないで、どもりを意識させないままで、どもりが自然に消滅すれば、それにこしたことはない。
 しかし実際には、消滅せずにどもりが持続する場合も少なくない。
 子どもにどもりを意識させないことが果たしてできるだろうか。
 これまでは、小学校中学年が、吃音意識年齢だと言われたが、それは確実に下がっている。
 「僕、運動会の練習、行きたくない」
 「なぜなの。○○ちゃん、走るの得意じゃない」
 「だって、体操のとき、1、2、3、4と言わなければいけないけど、僕、言えないもん」
 子どもは、ことばがつまって話せないことを意識し、それが嫌で、幼稚園に行きたくないと訴える。この子どもに、親はどう対応すればよいか。多くの親は悩み、相談を受ける専門家も困る。
 どもる、どもり、吃音のことばを知っているかどうかは別にして、この子どもはその状態を確実に意識している。このような時、話題をそらさず、どもりをオープンに話題にしたい。そして、最終的には、吃音受容へと結びつけたい。その吃音受容に至る営みが私の言う吃音の自覚教育である。
 常識的なことばのレベルで、《意識》《自覚》がどう違うか。岩波書店の広辞苑でみてみよう。
 《意識》今していることを自分で分かっている状態。対象をそれとして気にかけること。
 《自覚》自分自身の置かれている一定の状態を媒介として、そこにおける自己の位置、能力、価値などを知ること。自分のあり方をわきまえること。

 今していることが自分で分かっている状態が、意識なら、子どもは早くから、どもりを意識している。一方、一定の状態(吃音)における自己の位置、能力、価値などを知ることが自覚なら、子どもにとって、自覚は容易いことではない。
 周りの大人が、それこそ意識して取り組まなければならないことだと言える。
 どもる人は、子どもの頃の、「どもるのは嫌だ、もう喋りたくない」と意識したきっかけを覚えている。このどもりを意識したその時が、自覚へのチャンスだ。
 この時、適切に対処できないと、「どもりは悪いもの、劣ったもの」という吃音へのマイナスの意識を持ってしまう。そして、どもりを隠し、話すことから逃げる。私たち成人のどもる人が辿ってきた吃音を否定した人生が始まるのだ。
 この、吃音をマイナスに意識させないのが、吃音の自覚教育だと言える。
 これを効果的にするには、より早期が望ましい。遅くとも学童期にはある程度を達成しておきたい。
 それができなければ、思春期に吃音に悩み、以降の人生に大きな影響を与えるからだ。

 「どもりを治す努力の否定」の問題提起は誤解を受けた。まだ練れていない「早期自覚教育」は尚のことだろう。誤解を恐れずに、しかし、前回の経験を生かしつつ、問題提起をしていきたい。
 「誤解されればされるほどその人は豊かなのだ」
 これは、画家の岡本太郎さんのことばだ。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/01/16