吃音親子サマーキャンプの仕組みと、各プログラムの持つ意味(3)

 昨日の続きです。サマーキャンプという名前から、キャンプファイヤーやレクレーションなど楽しいプログラムを想像する人もいるようですが、僕たちのサマーキャンプには、そういうものがありません。徹底的に吃音と向き合うキャンプです。そのためにプログラムが組まれています。話し合いでは吃音の体験の意味や、気持ち、考え方に向き合います。そして演劇では、自分のどもることばを中心にした、ことばや対人関係に向き合います。
 今日、紹介するのは、吃音をテーマにした作文です。どもる人の大阪吃音教室でも、書くことを大切にしています。自分の体験を言語化することで、客観的に見ることができるし、後に続く人たちに経験を残すことができると考えたからです。サマーキャンプの2日目の朝の90分間、参加している人が全員、原稿用紙に向かって書きます。この静寂の時間は、ひとりで自分の吃音に向き合う時間です。
 また、親子で参加することを原則としています。親も、主体的に参加します。その親の参加の意味も紹介します。親も一人の参加者として、対等にすべてのプログラムに参加します。

作文教室のもつ意味
 話し合いと話し合いの間に設けた作文の時間。話すという表現方法が苦手な子どもにとっては別な表現方法を用いて自分を振り返ることになる。書くことで自分を表現できる子どももいる。
 また、2回目の話し合いは、作文を書いたことで、別の展開ができることもある。中には、作文を書いたことで、深く自分をみつめて、しんどくなる子どももいるが、それは決してマイナスには働かない。今まで閉じていたものを開けてしまった戸惑いはあるが、それは、出発点となる。作文は子どもだけでなく、親もどもる大人も書く。ひとりで自分のどもりと向き合う時間となる。

親が参加することの意味
 子どもと同じように、親もひとりで悩んできた。誰にも相談できなかったという人がいるし、相談しても分かってもらえなかったという人もいる。私のせいで子どもがどもるようになったと、自分を責めている人もいる。2回ある親同士の話し合いは、ひとりで悩んできた親のセルフヘルプグループの場ともいえる。そこでは、家族の中や社会の中での役割を捨て、ひとりの人間として存在することになる。辛かった話をし、他人の辛かった話を聞く。子どもたちと同じように、親のグループの中でも、ひとりじゃなかったという安心感がみんなを包みこむ。公式のプログラムが終わった後、深夜まで話しこんでいる親たちがいた。リピーターの親たちが、初めて参加した人の話を聞いてくれている。泣いたり、笑ったり、話は尽きることがないようだ。
 キャンプには各年代の子どもたちが参加する。大人もいる。親にとっては自分の子どもの将来像を目の前で見ることができるいい機会である。どもってはいても、あんな中学生に、あんな高校生に、あんな大人になってほしいなあと、生きている見本がたくさんいる。
 また、過保護で育ててきたからと、キャンプ中ひとりで大丈夫かなあと心配していた親がいたが、子どもは一度も親のそばに来なかったとちょっと寂しげだった。こんなこともできるのか、と自分の子どもを見直したという親もいた。自分の子どもを客観的に見ることのできる場でもある。
 最終日に子どもたちが練習してきた芝居を上演するが、その前座として、親たちも表現活動をする。この親の表現活動は、今年で4回目となった。キャンプ中に偶然に生まれたプログラムだ。家庭でのコミュニケーションの一方の担い手である親も何か表現の方法を身につけて欲しい。親も一所懸命に何かに取り組む姿を子どもに見せて欲しいとの願いから、いつの間にか定番のプログラムになった。子どもの側からは、普段見ることのできない親の表現活動を楽しむ親の顔を見ることができるし、親の側からは、子どもたちの芝居のときのドキドキする気持ちを同じように味わうことができる。双方にとって意味があるようだ。
 この、親の表現活動を初めて見たことばの教室の担当者が、これがよかったと興奮気味に言った。工藤直子作の「のはらうた」をもとに「荒神山ののはらうた」として、グループで「かまきり」や「ブタ」や「いのしし」になって身体や歌で表現する。ここまで弾けて表現できることがすばらしいと。
 私たちのサマーキャンプでは、親は単なる付き添いではない。親も子どもと同じように、しっかり参加する。父親の参加が多いが、会社でも家庭でも見せないひとりの人間としての顔を見せている。
 4回目となった今回の親の表現活動もだんだんとレベルアップしてきて、練習にも熱が入ってきた。休憩なしに、汗を流しながら自主練習をしていた。どきどきしたり、緊張したり、子どもと同じ思いを持つことができる。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/9/19