昨日の続きです。今日は、吃音親子サマーキャンプのメインである、吃音についての話し合いと、演劇について、その意味を整理している文章を紹介します。
 どもりながら生きる覚悟を決めることが大事だと言う僕たちは、同時に、ことばのレッスンも大切にしています。どもらないことばを求めているのではなく、相手に届くことば、豊かな声など、日本語のレッスンを大切にしているのです。

話し合いの持つ意味
 このキャンプの大きな柱のひとつは、吃音についての話し合いである。自分の吃音をどう考えているか。どもって笑われたりいじめられたりしたらどうするか。どもるためにしたいことでしなかったことがあるか。もし吃音が治らなかったらどうするか。将来の仕事をどう考えているかなどについて話し合う。今の辛さだけでなく、今後の展望も話される。
 年代ごとに分かれての話し合いは、今年は、幼稚園・小学校1年、2・3年、4・5年、6年、中学1・2年、高校生の6グループに分かれた。
 キャンプに参加する前には、特に低学年の場合、どもりについて話したこともなく話題にしてこなかった場合が多い。これは幼児吃音の指導法の中に、「吃音を意識させてはいけません」がかなり定着し、吃音を意識することが、吃音を悪化させる大きな要因になるという説を信じ過ぎているからだ。親も、これまでどもりについて説明も話もしてこなかったので、《どもり》ということばもキャンプで初めて知ることになるが、大丈夫だろうか?とまず不安になると言う。
 小学校中高学年になると、嫌なことを経験したり、将来への不安も出てくる。どもりとは何なのか?これからどうなっていくのか?吃音について知りたい、話したいことがいっぱい出てくる。関心があり、話したい吃音の話題について、普段の生活の中で子どもたちは話していない。そのため、この話し合いの時間をとても楽しみだ、もっと時間をとって欲しいという子がいる。ここではどれだけどもっても誰も笑わないし、からかわない。
 どもってこんな嫌なことがあった、こんなに悲しかった、悔しかった、そんな話にみんなうなずきながら聞いてくれる。初めて参加した子どもは、初めのうちはみんなの話を聞いているだけだが、ぽつりぽつりと自分も話し始める。今まで閉ざしていた心を開かせてくれるのだろう。
 どもるのは自分ひとりだと思いこんでいた子どもたちにとってほかのどもる子どもの話は大いに共感できることが多いようだ。ほかの子どもの話を聞きながら、それまで話さなかった子が、そういえばと言いながら思い出した話を始める。どもりながら話しても、ゆっくりと聞いてもらえるというこの体験のもつ意味は大きい。自分だけじゃない、ひとりだけじゃないということを実感できる時間でもある。
 話し合いの中には、ファシリテイターとして、どもる大人と、ことばの教室の教師か言語聴覚士がコンビを組んで入る。どもる大人を初めて見たという子どももいる。どもりながら自分を語る大人を間近に見て、大人になっても治らないのかとも思うようだが、治らなくても大丈夫だとも思える。高学年以上になると、大人たちへの質問もどんどん出てくる。高校生の年代になると、かなり深い話になり、人生論や生き方を語っている。それぞれが厳しい状況の中でもがんばっている話を聞くと、子どもたちは互いに元気をもらうし、勇気ももらう。

演劇のもつ意味
 どもることを否定的に考えていると、子どもの声は小さくなり、不明瞭で、相手に届かなくなってしまう。からだはこわばり、緊張が強くなる。その子どもたちのからだや声に向き合う。相手に向き合うからだを耕し、相手に届く声、生きる力となる声をともに探る。さらに、自己表現の喜び、楽しさを体験して欲しいと、キャンプでは演劇に取り組む。
 最終日に上演という目標はあるが、それはあくまでも結果である。練習を通しての、ことばのレッスンを大切にしている。劇を指導する中心的なスタッフは、どもる人のセルフヘルプグループである大阪吃音教室の人たちだ。10年以上も竹内敏晴さんの「からだとことばのレッスン」を受けてきていて、声を出す喜び、劇に皆で取り組む楽しさ、喜びを経験し知っている人たちである。どもって、なかなか声が出ない子どもに、自分の体験を踏まえながら関わる。休憩時間も、特訓を願い出る子どもがいるくらい、皆熱心に取り組んでいる。だから、劇の練習は、厳しかったが、楽しかったと言う子どもは多い。
 この演劇は実にぜいたくなものだと言える。演劇・演出のプロである竹内敏晴さんが、このキャンプのためにシナリオを書いて下さる。子どもの声のレッスンになるよう、楽しく取り組めるよう、大勢の子どもが出演できるよう、楽しく歌う歌も入るなど、いくつかの条件がある。今年は何をするか、いつも苦労をしながら作られたシナリオに、楽しい、弾む演出をしていく。舞台構成がなされる。参加できるスタッフが1泊2日の合宿で、竹内さんから演出・指導を受ける。この合宿がまた実に楽しい。文字に書かれたシナリオは、正直にいって、あまり楽しいとは思えない。それが実際に演出していただくと、実に楽しくおもしろい。今年は、ミヒャエル・エンデの『モモ』が選ばれたが、スタッフの大人が演じていてとても楽しい。子どもたちもきっと喜んでくれるだろうと確信を持つ。これまで、宮澤賢治の『セロ弾きのゴーシュ』『注文の多い料理店』や木下順二の民話に取り組んできたが、オリジナルのシナリオ集として価値あるものだろうと思う。歌あり踊りありの竹内敏晴さんの独特の世界に、今年はどんな劇をするのか、参加する子どもの一番の関心にもなっている。
 大勢の人前で劇を演じる、これほどどもる子どもにとってプレッシャーを感じる場面はないだろう。日常生活で話すことに苦労している子どもたちに、キャンプに来てまで、人前で劇をするような、プレッシャーを与えることはないだろう、とキャンプを始めた頃、反対の声もあった。あえて、キャンプに演劇を取り入れたのには大きな理由がある。
 一日目の夜、竹内敏晴さんに演出・指導を受けたスタッフがみんなの前で見本として演じてみせる。どもるどもらないに関わらず、真剣に、本当に楽しそうに大人が演じている。その姿を見て、子どもたちはおもしろそうだと思うのだろう。その年その年で人気の役がある。グループに分かれて、配役を決め、せりふの練習が始まる。
 《どもってもいい》は、このキャンプの大きな前提だ。その上で、自分で気持ちよく声を出そうとか、相手に声を届けようとか、大きな声を出そうとか、を目指している。どもる大人が竹内さんに指導を受けて感じた、声を出す喜びを子どもたちにも味わってもらいたい。芝居を取り入れた大きな理由のひとっである。
 それにしても舞台に立つということは、緊張感を伴う。後に引けないところに自分を立たせるということになる。その場で何をどう感じるか、だ。
 今年、長崎から参加した小学6年生の男子のひとりは、なかなかことばが出てこなかった。演劇は嫌だと、「演劇はしないからね」と明言してキャンプに参加した子どもだ。だから、練習の場にはいるが、最初は練習に加わらなかった。スタッフも無理強いはしない。無理強いはしないが、ぽんと後押しはすることがある。このタイミングが難しい。ケースバイケースだが、不登校の初期の子どもに、登校刺激を与えることが功を奏すこともあるという。それと同じように、無理強いはしないが、声はかけてみる。
 彼と同じグループに、同じようにせりふが言いにくく、でもその場から逃げていない高校生がいた。必死でせりふを言っているお兄ちゃんの姿を食い入るように見つめていた彼の姿が印象的だった。その高校生が練習する姿を、ほかのどの子どもより真剣にみつめていた。その時、彼はどんなことを考えていたのだろう。何かが動いていたのだろう。最終的に彼は、上演の場で、一言せりふを言った。結局は演劇に参加したのだ。
 みんなでみんなを支え、ひとつのものを作り上げる喜びを感じることができるのが演劇のもつ大きな意味だ。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/9/18