1997年6月の日曜特別例会の報告の続きです。今回報告するのは、問題提起をしてくれた佐藤さんと伊藤の話だけでなく、参加者がいろいろと発言しています。それぞれの仕事やライフスタイルの中で体験してきた吃音受容に対する考え方が様々なのは、興味深いことです。

佐藤 具体的な方法論としては、例えば、どういうものがありますか。僕もやっぱり吃音受容をしたいと思うんですけど、具体的に何をやったらいいのか。今までやったことといったら、どもっててもやるべきことから逃げない、ぐらいで、他にどう積極的に何かをやったらいいかなというのが、今いち分かりません。

参加者 今、佐藤さんが喋っているそのこと自体が受容だと思う。どうしたら受容ができるかというより、今は十分か不十分か、佐藤さんの思う度合いは知らないけれど、十分自分の中で受容している面があるから、受容について喋れるのであって、全くゼロやったら、多分一切喋らないと思う。
 さきほどから気になっているのは、「流暢に話すことと吃音受容が両極端」と、佐藤さんはなんべんか表現していたけれど、『スタタリング・ナウ』などを読んで、両極端と思っているのは、佐藤さん自身の考えなのではないか。受容の概念は一人一人違う。受容と流暢に話す治療の概念をなぜ両極端にもってくるのか? 両極端に持ってきてしまうと、しんどいかなという気がする。今、喋っていること自体、自分を受容しているからできるんやというのが僕の考えです。

佐藤:確かに両極端にやってしまうのが自分の悪い癖だなあと思っています。

参加者 「自己受容が前提になくて、話す技術にとらわれると、隠すための技術がうまくなるだけだ」とさっき伊藤さんが言ってたでしょう。本当にそうだと思う。僕は、吃音を治そう治そうとしてるときには、上手に隠す、ごまかすことばかりを考えていたように思う。最初、吃音を受け入れようと僕が思ったときは、やっぱりどんな場面でも、どんなときでも、どもっても自分の言いたいことを話し切るというか、最終的にはどもっても恥ずかしくない自分を目指すということを考えていた。しかし、実際はそうではなくて、やっぱりどもったら恥ずかしいし、どもらずに話したいなあという気持ちはなかなか消えない。しかし、自分に与えられたこと、しないといけないことはやっていかないかん。やっていく中では、時には逃げたり引いてしまったりすることはある。それも自分で認めながら吃音受容の道を進んでいくわけで、決して平坦な道ではない。
 吃音受容の道を歩こうと思ったときに、そう思って進んでいくそのプロセスの中で、自分で工夫しながら楽に喋れるということが身についてきたわけです。
 それを逆の道でやっぱり吃音は治すべきやと、治療技術の道をとったときには、それなりに話す訓練はやっていたと思うんだけど、さっき言ったように隠すための技術は身につけることはできたかもしれないけれど、吃音のこだわりというのは、完治しない限りは抜けなかったんだなと考えています。

参加者 4、5年前に小学校のPTA会長になったときは、話す技術ばっかり練習しました。○月○日は総会があるとか、皆の前で壇の上で話さないといけないときは、絶えず大体1週間から前もって準備をして原稿を作って読んで、まだ先生たちが会場にきていないときだったら、壇の上に上がって原稿を読んで、というふうに流暢にどもらずに話す技術ばかり練習していた。
 でも、なんとかやってこれたし、その卒業のときの祝辞も「どうやった」と聞いたら、みんな緊張するからあんなもんやったということで、こちらが必死になって思うようには、みんな関心がない。
 ライオンズクラブの月2回の例会で進行役としてスピーチを1年間しなければならなくなった。流暢にどもらずに話すことを考えると、練習ばかりにつきっきりになってしまう。これまでがずっとそうだったから、疲れてしまいます。今は、何も練習していません。練習することさえが怖くなってきたんです。練習していないので多分どもるでしょう。だから、最初のライオンズクラブ例会で、「私はどもります」とみんなの前で言わないことには多分、今回の進行は無理だろうなという気がしています。どもらずに話そうという練習がしんどくなっただけで、勇気があって吃音受容まで追い込んだとは思っていませんが、とにかく「私はどもります」と言うつもりです。今までは「私はどもります」と言ってこなかったけど、今度は言わないと、自分がつぶれてしまうなという気がしています。

伊藤 今の話を聞いているとスキャットマン・ジョンのことを思い出しました。レコードがヒットすると、インタビューを受けなきゃならん。どもりたくないために、ヒットしないでほしいとさえ思う。そのあたりのことはすごくよく分かる。それで、一人では耐え切れなくなって妻に話したら「あなた、もうどもりを隠すのはやめて、公表したら」と言われて、新しく発売する「スキャットマン・ワールド」のCDジャケットに、これまで悩んできた吃音が今は音楽として財産になった」などと、彼は公表していく。自分のどもりを公表してから、スキャットマン・ジョンは目に見えて変わっていくんですね。

参加者 CDを出して、ヒットしたらインタビューなどが待っていると、追い込まれたのですね。どうしようもない状況になれば、それしかないと思う。

伊藤 吃音を受容したいと思う、そのことだけでいいんじゃないかなあ。治療だけでなく、受容の道もあるんだなと認識するだけでいい。受容の道を歩んでもいいかなと思うまでが一番難しい。そろそろ受容しなければならないかと考えるようになったら、後は、もうその人それぞれの人生があるわけですから、自分の生活の中で探っていくでしょう。
 一般的には、治療技術は効果がなくても、何か形があるよね。具体的な取り組みがある。佐藤さんが「吃音受容について具体的な取り組みがないか」と言ったけれど、これはないんだよね。その人それぞれに自分のどもりを受け入れる道はさまざまだから。スポーツ、芸術、宗教、何でも構わないわけで、まあどもっていてもいいかと思えるときがあればそれでいい。

参加者 私も50歳になって、自分の吃音が周りに分かっても別に構わないですが、厳粛な式典の司会をする時、相手の名前が言えないなどでその式典を乱したくない。粛々と進めたいという気持ちが強い。だから司会をしてくれと言われたら、「どもりますから」とはっきり言って断るだろうと思います。自分の子どもの結婚で、親族紹介をするという、絶対自分がしなければならない場合は、どもりながらでも、どもりですと公表してでも、するでしょうけど、他の人に代わってもらえるところは自分は引くと思うんです。だから、さっき受容は山あり谷ありとおっしゃったけど、ほんまにそうやなと思う。決して平坦ではないと思う。

伊藤 挨拶を避ける場合でも、用事があるからと、別の理由をつけていたのが、どもるからだと言えるというのはそれだけでも大きな前進ですよね。自分はどもるからできませんとはっきり言うのは勇気がいります。これも、ひとつの受容のあり方だと思います。

参加者 最近、やっと言えるようになったんです。でも、吃音じゃなかったら、すんなりと司会の役を受けれるのになあという思いはあって、ちょっと引っ掛かるところはある。

伊藤 ちょっとした引っ掛かりならいいけれど、かなり引っ掛かるのなら挑戦してみる価値があるかもしれませんね。

参加者 だから挑戦したくなったらすると思うんです。どもっても司会をして、それに対して何も思わないようになれるような気も、最近し始めています。

伊藤 それでいいんで、そのときがチャンスですね。挑戦するかしないかは、本人のことで、他人から挑戦しろと言われてするものじゃない。僕らは自己受容が大事だ、得だよとは言っているけれども、そうするかどうかは、本人の責任なんだから。押し付けるわけにはいかないし、押し付けたくもない。
 ただ、情報としては吃音受容について知らせていきたい。

参加者 吃音を受容をしてなくても、仕事でどうしても必要な電話やしゃべらないといけないことはある。その時はどもろうがどもろまいが、喋ります。そういう日常生活の積み重ねが、受容につながると思う。最初からどもりを受け入れるとか、受容があるのではなくて、後からついてくるものだと思う。かつては恥ずかしい、みっともないと思っていたが、するしかない。どもっても仕方ない。しゃべっていることが受容だ。

参加者 どもりに苦しんでいるとき、意識が自分の方にあった。竹内敏晴さんが言われるように、大事なことは、自分の気持ちを相手に伝えること、そう考えると多少どもってもいいじゃないかと思えるようになった。自分で自分を好きになるというか、自分のいいところをみつけていくことだと思う。どもりが全人格を覆っているのではない。自分のいいところをみつけていって発展させていくと、どもりへの意識も小さくなる。

参加者 自分のいいところをみつけてと言うと、まるでどもっていることが悪いような、どもりを否定している気持ちがまだ残っていると思う。だから、どもりを含めた自分を好きになることが大事だと思う。どもっているところが自分の唯一と言ったら自信過剰やけど、どもっているところだけが絶対許せんところだと思っていたけど、それがそうではなくて、それも含めて許せるというか、諦めるというか。だから、どもっててもええやないかとおっしゃったけど、まさにそうやと思う。

参加者 大阪吃音教室に来るまでは、私は人を受け入れる幅が狭かったように思う。否定的な面がたくさんあったから。そういう中で完全に受容できたとは言えないんだけど、自分の中でどもっても恥ずかしいことではない、どもりながらしゃべってどこが悪いんやというところまでは変わってこれたと思います。私は教師をしていますが、同僚には吃音について話したことはありません。でも、周りの人と会話しながらどもっていることはあるんだけど、それを恥ずかしいとは思わなくなってきました。前は、他人の欠点がもっとものすごく目についたけど、そういうのもなくなってきた。人間にはいろんな癖があるし、いろんな性質があるし、そういうのが合わさって一人の人間やし、人間の個牲みたいなもんやと思えるようになってきた。見方を変えられるようになったのは、大阪吃音教室に参加してからのことで、それはよかったなあと思う。
 しかし、そうは言っても、仕事が教師だからかも知れませんが、人前でしゃべってことばが出てこないとき、ものすごく落ち込むことがある。自分はどもりなんだから、こんな場面があって当然やないかと思いながら、ショックでショックで。でも立ち直りも早くなりました。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/8/29