『なってみる学び−演劇的手法で変わる授業と学校』(渡辺貴裕・東京学芸大学大学院准教授、藤原由香里・八幡市立美濃山小学校教諭著・時事通信社)

 新型コロナウイルスに翻弄され、1年半になりました。政府、自治体のコロナ対策のひどさは絶望的です。それは、「他者への共感、想像力」のあまりにもなさ過ぎることによる施策だからです。緊急事態宣言下の飲食業界や、芸術関係のイベントへの休業要請などの説明不足と対応など、挙げればきりがないので挙げませんが、直近のこととしては、「ワクチン接種」の混乱です。高齢者のネット予約の混乱など、ほんの少しの想像力と共感力があれば、パソコンをもたない人も少なくない高齢者に、ネットやスマホ予約など、どうしたらデザインできるのでしょう。自分が「高齢者でパソコンが使えない」高齢者に「なってみる」ことを厚労省の役員や自民党議員、政府がしていれば、こんなことにはならなかったはずです。今、起こっている様々な事象はこの「他者への共感、想像力」のなさからくるものだと私は思います。
 また、この状況下でも、オリンピックを開催し、さらに観客を入れて開催することを決定しました。また、スポンサーのことを考え、アルコールの販売も検討していました。アルコールの販売を禁止され、倒産した居酒屋もあるというのに、オリンピック会場では酒類の販売を検討している。飲食業の窮状に対する想像力はありません。さすがに厳しい反対で販売は中止になったものの、検討したこと自体あきれるばかりです。
 オリンピック開催が、どのような状況を招く可能性があるか、想像しようとする姿勢がありません。想像したら、開催などあり得ないと僕は思うのです。この人たちはもう無理ですが、このような大人にならないようにするためには、子どもの頃の教育が必要です。未来ある子どもには、「他者への共感、想像力」が育ってほしいと強く思います。

 渡辺さんと藤原さんの「なってみる学び」の本には、子どもの頃から、この人間としてもっとも大事なもののひとつ、「他者への共感、想像力」を育てるのに役立つ演劇的手法が紹介されています。読むと、きっと取り組んでみたくなるだろうと思います。そして、実際にやってみれば楽しさと、大きな驚きと、そして喜びが待っています。この本は、「みんなでやってみましょうよ」とまず実践することを勧めています。そのために、丁寧に、なぜ演劇的手法なのか、実際の実践報告、演劇的技法の紹介、取り組みの試行錯誤の歴史が正直に報告されています。教育現場で広くこの本が読まれ、実践する人が増えることを願っています。
 
 「なってみる」こと、「他人を演じる」ことで得た、気づき
 僕は、今、小学校で国語教育がどう展開しているかは全く知りません。見当違いになるかもしれませんが、作品に出てくる主人公や、登場するものの「気持ち」を想像し、理解し、「気持ちを込めて読む」「役になりきって読む」の指導がなされているだろうと、想像します。「役になりきって読む」のと、「なってみる」ことの大きな違いを、僕は竹内敏晴さんの演出する舞台に立って、強烈に体験しました。
 宮沢賢治の「鹿踊りのはじまり」で、僕は一頭の鹿になりました。ススキがいっぱいに広がっている舞台の中で、4頭ほどいる鹿の一頭になり、歌い、踊るうちに、本当の鹿になったかのような不思議な体験をしました。また、「セロ弾きのゴーシュ」では、何度も行う稽古の中で、ゴーシュになったり、猫、かっこう、たぬきの子、野ねずみの親子などになったり、実際に「なってみる」経験をしました。「セロ弾きのゴーシュ」は何度も読んだはずなのに、実際に「なってみる」と、黙読や音読とは全く違って、楽しくて楽しくて、宮沢賢治の豊かな世界に引き込まれていく体験をしました。
 また、竹内さんが、僕が吃音に悩み始めるきっかけになった小学2年生の学芸会でセリフのある役を外された悔しさ、悲しさをくみ取り、秋浜悟史の作の「ほらんばか」の主役をさせて下さいました。
 「ほらんばか」は、東北地方の寒村が舞台で、春になるとほらんばか(ほら事語り)になってしまう工藤充年(くどうじゅうねん)が主人公です。工藤充年は、仲間と集団農場を経営していて、自分がいない間に、牛をすべて伝染病で死なせたことで、ほらんばかになってしまいます。そして、狂気の中で恋人を殺してしまうという物語です。主役候補は2人いて、僕に脚本を読ませたとき「ほぼ絶望した」と竹内さんはメモに残していました。 当時、僕は、講義や講演など人前で話す時は、ほとんどどもらなくなっていました。スラスラと大きな声で、明瞭にセリフを読んだことが、「この説明、説得的ないいまわし」では、情念の世界を演じる演劇では通用しないと、僕を主役からおろすことも考えたようです。しかし、「演劇へのこだわり」を知っている竹内さんが、徹底的に稽古をすることを条件に主役をさせて下さいました。
 はげしい稽古でした。また僕も日常生活の中でも、よく練習しました。そして、東京公演、名古屋公演と大成功で、竹内さんも褒めて下さいました。ところが、不思議なことに、3か月くらいして、僕の「説明、説得的ないいまわし」は見事壊れました。「ほらんばか」を必死に演じた結果かどうかはわかりません。ただ、講義や講演、人前で話すときには知らず知らずのうちに「説明、説得的ないいまわし」が身についていたのでしょう。それが壊れて、自然な僕のことばが立ち現れたのかもしれません。すると、以前よりはよくどもるようになり、講義や講演でもどもるようになりました。「竹内さんに壊された僕のことば」という文章を書いたことがあります。
 まさに、「演劇恐るべし」です。再び、よくどもるようになりましたが、今の自然にどもる僕はいいなあと思います。どもりたくないと、コントロールしていたわけではないのですが、自然に「どもらない体」になっていたのかもしれません。それを、竹内敏晴さんが「どもる体」に戻してくれたのかもしれません。もし、竹内さんの舞台に立たなかったら、どうなっていたのだろうと思います。僕が再びどもるようになったことを、周りの人は喜んでくれています。 (つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/23